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永遠は続かない
しおりを挟むそれからの毎日は、ただただ幸せだった。
ずっと想っていた相手の側に仕え、彼のためだけに生きる日々。
ただの下働きの娘が次期皇帝に最も近いと言われているバレリオ殿下のお付きとなったのだから、妬みの視線や侮蔑の言葉も少なくはなかった。
けれど、そのようなものは私にとっては周りに飛んでいる小蝿のようなものだった。鬱陶しくも、迷惑だとも思ったけれど、私にとっては些細なことでしかなかったから。
「シュイ、お前は俺のことを好いているのか?」
殿下の私室で二人きり。
私にはどれ程の価値があるのか見当も付かない豪奢なソファに身を沈めたバレリオ殿下は、いつものように自信に満ちた眼差しを私に向けて微笑んでいた。
答えなんて知っているはずなのに、あえて私の口から言わせようとする。それは意地悪な、甘い毒。
だけど、言えない。だって、私は人ではない。人の姿をしているけれど、殿下と同じように歳を取っていくことなどできはしない。
彼の側にいるようになってから、あと一日だけ、あと一日だけと願いながら、気がつけばもう三年の月日が経っていた。
いつか彼の前から去らなければならないことはわかっている。
彼が歳を取り、私との時間が離れていく前に、私が人ではないと気づかれる前に、早く。
そう思っているけれど、私の心は毎日毎日あと一日だけと願い続ける。
「毎日毎日そうも熱い視線を送られれば、流石に気が付く。俺が好きなんだろう?」
堂々たる振る舞いで伸ばされた手を、取ってしまえばもう戻ることは出来ない。底無しの崖が殿下の背後に広がっているようだ。
真っ直ぐに伸びた指先は、満開の花を咲かせ私を待つ。甘い密がそこにあると知っていて、舞い降りぬ虫がいるだろうか。
私を見上げる二つの翡翠。私の眼差しはきっと、その翡翠ですら溶かしてしまう熱を持っていた。
心の内を気付かれてしまった不甲斐なさに私はその場で俯いた。側にいるだけで幸せだなんて、大嘘つきにも程がある。
「いけません……。殿下にはエレニア様がいらっしゃるのですよ」
まだ下界で暮らして五年しか経っていないのに、私は随分と人らしくなってしまったものだと思う。
殿下の婚約者、エレニア様の存在を気にして身を引こうとする。身分の低い人間の娘らしい言葉を私は、無意識のうちに口にしていた。
驚いて口元を両手で覆った私を見上げて、バレリオ殿下は僅かに眉を持ち上げた。興味深そうに笑みを深めると、殿下は立ち上がり伸ばしていた手で私の肘を掴む。
「お前だって知っているだろう? 帝国にとって大切なのは強き皇帝を産み続けることだ。俺の気持ちなど関係はない。エレニアの気持ちもだ。だから彼女を婚約者と決めていながら、彼女の父親は後宮の存在も積極的に認めている。まぁ、正妃と後宮の娘では大きな差はあるがな」
「ですが、エレニア様は本当に殿下のことをお慕いしているのです……。そのような、気持ちのない婚姻などでは……」
「ならば聞くが、お前はどうなんだ?」
肘を掴む殿下の力が強められ、私は思わず声を漏らした。
触れられるだけで抉られるように強く熱を持つ皮膚。熱くて、私の体は溶けてしまいそう。
「エレニアが俺を慕っているのかは、俺にはわからん。エレニアに限った話ではない。貴族の娘たちはいつもそうだ。俺がただの十三番目の王子でしかなかった頃には見向きもしなかったのに、魔力があると知った途端に媚を売り出す。そのくせ、プライドばかりは高いから自分の方が惚れているような素振りは見せもしない。お前はエレニアが俺を慕っていると言うが、俺は一切そんなことは感じたことがない」
殿下の眼差しは一度たりとも逸らされることなく私へと向けられていた。
見上げる彼の瞳には、私しか映っていない。けれど、それよりもずっと昔から、貴方だけを見つめていたのは私の方。
ずっと下界を見下ろして、交わることなど一生無いと思っていた視線が絡み合っている。触れあうことの無いと夢見ることすらしなかった肌が、触れている。
「お前は、そうじゃない。シュイ、お前は、俺のことを好いている」
今度は問いかけではなく、はっきりとそう言い放った。
底冷えのする冷たい声で、陽だまりのように笑う殿下を見上げ、私は答えることができなかった。
口を開けば、好きだという心が溢れだしそうで。でも、竜が人に恋をして側にいることは許されるはずがない。かつて竜と人との間に交わりがあったから、二つの種族は同じ世界で生きることが出来なくなってしまったのだから。
だけどそれは言い訳でしかないことを私自身がよくわかっている。
だって、本当に人の側にいることが悪いことだとわかっているのなら、殿下のお側から離れる機会はいままでに何度だってあった。そもそも、下界になんて降りてこなければいいだけの話だった。
それでも、間違っているとわかっていても側にいたかった。
「シュイ、俯くな。俺を見ろ。俺の目を、見ろ」
溢れ出しそうになった涙を隠すことさえ、バレリオ殿下は許してくださらない。
私は懸命に目を開き、涙が溢れるのを堪えながら顔を上げた。
嬉しそうに目を細める殿下は、私と同じように微笑みを浮かべる。私を見つめながら、私が殿下を見つめているときとそっくりに笑ってみせる。その意味がわからないほど、私も鈍くはなかった。
顔に出てしまったのだろう。殿下は堪えきれずに笑みを溢すと、私の肘を掴んだまま空いていた手を膝裏に回してそのまま私の体を持ち上げる。
雲ひとつ無い大空を羽ばたくよりも高揚する狭い空から、私は殿下を見下ろし涙を溢した。
「わかるだろう? 俺もお前と同じ顔をしている。シュイを見つめるこの瞳が、愛しいと叫んでいるのが聞こえないか?」
もう否定など出来ない。私は止めきれぬ涙で殿下の頬を濡らしながら頷いた。
「殿下……。でも、それでもやはり私は……」
「身分のことは気にするな。先程も言っただろう? この国にとって大切なことは力のある子を次代に残すこと。後宮を作り多くの女を集め、その中で次期皇帝に相応しい子が生まれれば正妃などたかが記号でしかない」
この気持ちに正直になったとしても、私たちの大きな違いは埋まらない。身分もそうだが、何よりも私たちは種族が違う。
殿下の言う次代を継ぐ子供を、私が産むわけにはいかないのだ。人の世の統治に、人以上に生きる竜の血が混ざって良いはずがない。
宙へと持ち上げた私の体を抱き締め、殿下は幼子をあやすようにそっと背中を撫でた。
「言葉にしなければわからぬというのなら、はっきりと言ってやる。シュイ、俺はお前を愛しいと思っている。他のどんな女よりも、お前だけが、心より想う相手だと誓う」
ゆっくりと下ろされていく体。背中から、全身を雲に抱かれるような柔らかさで殿下のベッドの上に私の体が横たえられる。
見上げた先には、私の太陽。バレリオ殿下が、微かに眉をしかめて不安そうな眼差しを私に向けていた。
いつでも堂々と自信に満ち足りた瞳が、今は風に揺れる灯火と同じくらいに頼りなく揺れている。
その事実が、私の胸を急速に満たしていった。
「殿下っ……!」
獣に近い本能だけで、私は両腕を伸ばして殿下の首の後ろに回した。そのまま離れることの無いように、強く強く体を押し付ける。
理性なんて、本当は下界に降りると決めたあの日に失っていた。今の私は、神話の世界に生きる竜ではなくて、殿下を慕う一人の娘に成り下がっている。
いつかこの身は竜へと戻り、下界の空気に冒された翼では元の世界まで飛ぶことも出来ず、私は途方もない時間を孤独に過ごすことになる。
それでも、今は、愛する男の腕の中で先の見えない甘い砂に足を捕らわれていたい。
後宮に暮らす多くの娘の一人となって、バレリオ殿下の寵愛を受けて暮らせるのならこれ以上の幸せはない。
そしていつか、きっと殿下も新たな女性に心を移すことだろう。その時が来たら、この老いぬ体を怪しまれぬ前に私は黙ってこの城を去る。殿下に愛された想い出を胸に抱いて、孤独を生きていこう。
「私は、ずっとあなたをお慕いしておりました……。あなたに助けていただいたあの日から、ずっと……!」
人は変わる。竜と違って短い命を燃やすように生きる人は、常に変化と隣り合わせで生きている。
それは肉体の変化だけではなく、心をも変えていく。想いさえも過去のものとする。
停滞しかなかった私の命は、あの日、下界に落ちてバレリオ殿下にお会いしたときから変わってしまった。
変化の無い日々をただ生きていたあの頃にはもう戻れない。
エレニア様のお優しい微笑みが脳裏を掠めた。殿下のお側にお仕えしていた私に対して、嫌な顔一つせずいつも温かな言葉を掛けてくれた彼女を裏切る行為でもある。
それでも、私はこの御方の側で生きていたい。いつか、その願いが叶わなくなる日まで。
バレリオ殿下の手のひらは太陽のように温かい。その温もりに抱かれた私の体は、春の野花の喜びを知る。
「どうか、殿下のお側で……」
最期の日まで、と続けようとした唇はバレリオ殿下によって塞がれていた。
手のひらよりも灼熱の唇に、私は心ごと蕩けてしまった。
そして、また変わらぬ明日が続いていく。
殿下のお心が変わるその日まで。
そう、思っていたのに。
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