竜の娘は恋に墜ち

河合青

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この愛は罪

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「シュイ、お前の力を見せてみよ」
 片腕に私を抱き、反対の手を大きく振り上げながらバレリオ殿下は子供のように無邪気に微笑んでみせた。
 その微笑みを前に、私は息を詰まらせる。
 この方は純粋に私のことを望んでくださっている。だから私は、喜んで自分の力を周囲へ見せつけて殿下の婚約者を奪い取るに相応しい力を持っているのだと見せつけねばならないのに。
 自分が竜でなかったのなら、迷うことなくそうしていただろうに。
 私は自分の両腕を胸に抱き、周囲を見渡す。
 興味深そうな眼差しを向ける方は本当に強いお子さえ産まれれば良いとお考えの方なのだろう。怪訝そうな表情を隠さない方は、どこの馬の骨とも知らない私を何があっても認めたくはないのだろう。
 そして何より、爆発寸前の火山と同じ熱量の瞳を逸らすことなく私に向けているエレニア様が、誰よりも私の目を引いた。穏やかに微笑む姿しか知らないから、その暴力的な眼差しの前に喉が押し潰されそうになる。
「どうした、シュイ。何を躊躇うことがある?」
 その柔らかく落ちる甘い声を、恐る恐る見上げた。
 息を呑む程に真っ直ぐな、愛しいものを見つめる殿下の瞳。この眼差しに応えることの出来ない自分が、人間ではない自分が、殺したいほどに憎らしくなる。
「殿下……、私は……」
「いい加減に我慢の限界です! 殿下はその娘に騙されているのでしょう! 証拠になにも出来ないではありませんか!」
 海を裂く雷鳴が響く。憤怒の炎に燃え上がった瞳を煌めかせ、エレニア様は殿下の元へと詰め寄った。
 そしてそのまま、苛烈の瞳で私をきつく睨み付けた。
 バレリオ殿下のお付きとして召し抱えられ、時には護衛としても任を全うしていた私に、微笑んでくれたのはエレニア様だけであった。
 誰もが私を蔑み、不相応な地位を得た賎しい娘だと影口を叩いた。それでもエレニア様だけは、「いつも殿下をお守りしてくれてありがとう」と温かな言葉を掛けてくれたものであった。
 私はただ殿下のお側にいられれば十分だった。エレニア様の婚約者という地位を奪うつもりはなく、避けられない別れの日までを過ごせれば良かった。
「エレニア……。騙されているというが、お前も十分周りを騙しているではないか」
「何を仰いますの……?」
「気付かれていないと思ったか。周囲に根回しし、シュイがこの城の中で孤立するよう仕向けたのはお前だろう?」
 エレニア様の水を浴びせられたように勢いを失った瞳が大きく見開かれた。
 殿下の言葉に、私も言葉を失ってしまう。
 肩を抱く殿下の力が強まった。
「シュイも可哀想にな。唯一自分に優しくしてくれると思っていた相手が、まさか誰よりも自分を憎んでいたとは思ってもいなかっただろう。彼女の口からエレニアの話を聞くたびに俺も心が痛んだ」
「お待ちください、バレリオ殿下。何を証拠にそのようなことを……」
「お前の侍女が口を割った。レレイナといったか」
 レレイナという名には私も心当たりがある。
 常にエレニア様のお側に控え、身の回りの世話を全て仕切る侍女達の中でもリーダーである方だった。
 当然エレニア様からの信頼も厚く、エレニア様が不利になるような行動を取るような方には思えなかった。だからこそ驚いたのは私なんかよりもエレニア様の方で、呆然としてバレリオ殿下を見上げている。
「別に婚約者として正妃の座に固執することを悪いとは言わないさ。だが、この国では当たり前のように多くの側室を取り多くの子の中から次期皇帝を選び取る。そんな中でお前のようにプライドが高く嫉妬深い女を正妃の座に付ければ、お前は他の側室や子を殺す正妃となるだろう」
 殿下の言い分には納得のいく部分もあった。殿下自身が多くの兄弟を持ち、熾烈な皇位争いを生き残った御方だ。
 途中、何人もの兄弟が殺されていく姿を目にしている。殿下自身が命の危機に晒されたことも数えきれないし、私だって何度もその場面に遭遇している。
 少しでも皇位争いの芽を摘みたいというのは、その不毛さを知っているからだろう。
 だけど、それでも私が正妃を望んで良い理由にはならない。
「シュイ」
 甘く響くその声に、私ははっと顔を上げた。
「お前ならばその心配もない。どう考えてもあれだけの力を持つシュイの子であれば、他のどの娘よりも強い子を産むだろう。そうすれば後宮も必要はない。シュイだけが俺の妻となるんだ」
 甘いのは声だけではない。その言葉も、まるで身体の底にどろどろと落ちていく蜂蜜のように私に絡まり、心を溶かしていく。
 頷き、その胸の中で永遠に甘い夢を見ていたい。
 いつでも獣のように攻撃的な翡翠の瞳が、今は愛を誓う指輪を彩る宝石のように煌めいている。殿下の眼差しに、私はただ泣きたくなった。
 口を開けずにいる私のことを責めることなく、殿下は周りの人々を見渡すと普段よりも幾分か穏やかな声で口を開いた。
「色々と理由付けはしたが、シュイを后としたいのは俺が彼女を愛してしまったからだ。この気持ちはもう止めることは出来ない」
 誰に何を言われようと自分の意思を曲げるつもりはない。
 殿下の目を見れば、それは明らかであった。
 集まった人々はそれぞれ顔を見合わせ、そして視線を陛下へと向けた。
 バレリオ様の御父上で、この帝国で頂点に立つ御方。
 皆、それぞれに思うところはあるだろうが最終的に決定を下すのは陛下だ。
 初めてお会いした日よりも腰の曲がってしまった陛下は、重たい瞼を微かに持ち上げるとほの暗い瞳で私を捉えた。
「シュイ、と言ったな」
「は、はい」
「お前のことは話に聞いている。バレリオの召し使いとして、護衛も果たしているそうだな」
 普通に話しているだけでも他人を責めるような響きがある陛下の前では、意識しなくとも体は萎縮してしまう。
 辛うじて頷いてみせると、陛下は重いため息を吐く。
「バレリオは強引なところがあるからな。お前の意思も確認したい。バレリオはお前を愛しているから后としたいというが、お前はどうだ? バレリオを愛しているのか?」
 愛している。勿論、断言できる。
 けれど私は頷くことが出来なかった。
 頷いたとしても、私と殿下では生きていく時間が違う。もしも本当に私が正妃になるようなことがあれば、同じように時を重ねながらも姿の変わらぬ私を恐れる者が現れるはずだ。
 そして、そのような者を正妃とする殿下にもきっと悪評が立つ。そして、その子供も。
 私がこの国の正妃を望んで良いはずがなかった。殿下の未来を思えばなおのこと。
 本当は、初めから殿下のお側にいることを望んではいけなかったのだ。
 殿下を惑わせ、エレニア様を苦しめ、帝国に破滅をもたらそうとしているのは他でもないこの私だった。
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