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始まりの記憶
しおりを挟む「バレリオ殿下……」
これ以上、貴方の側にいてはならない。
私は殿下を見上げ、初めて下界に落ちてしまったあの日のことを思い出す。
瞬きをするような些細な時間でしかなかったけれど、それは紛れもなく幸せな時間で、私にとっては宝物だった。
『お前、怪我をしているのか』
獅子のような風格のある金髪と獰猛な翡翠の瞳。まだあどけない顔立ちでその少年は言葉の通じぬ私に声を掛けた。
深い森に包まれた山の中、死んだようにじっと身を丸くしていた私の前に彼は現れた。
答えようとして口を開いたけれど、ぱっくりと開いた大きな口から見える生え揃った鋭利な牙に少年が怯えたように目を見張ったので慌てて口を閉じた。
それに、何かを伝えようとしても口から出るのは地を震わす咆哮だけ。下界に落ちて足を怪我した私の居場所を、みすみす人間に知らせるだけでしかない。
少年はまだ目を丸くしていたけれど、ゆっくりと自分よりも遥かに大きな私の体に近づいた。白い鱗に覆われた私の背にそっと手のひらを当てる。少年の意図が掴めずに、私はじっと息を殺して彼の動作を見守った。
『……見たことの無い獣だな。まるで伝承に出てくるの竜だ』
人間の伝承が何かはわからなかったけれど、竜と言われて私は頷いた。少年はそれに気付いて、瞬きを繰り返した。
『俺の言っていることがわかるのか。いや、そもそも本当に竜か? ……まぁ、なんでもいいけれど』
少年は一人ため息を吐くと、身を縮めて丸くなっていた私の体に寄り掛かるようにして背中を預けてきた。
彼の行動の意図が全く理解できない。人間は竜に対して、好意的な感情を抱いていないと昔から強く言い聞かされてきたので敵意の無い少年の行動には驚くばかりであった。
『俺はバレリオ。この帝国の王子の一人だ』
とは言ってもわからないか、と呟き少年は独り言を続けた。
帝国には他にも多くの王子王女がいて、皇位を得るために日々騙し合い貶め合いが繰り広げられていること。
今日も公務の一貫として辺境の領地に出向いた帰りの馬車を何者かに襲われ、一人逃げ延びてきたこと。
自分を生かすために犠牲となった者達には申し訳ないことをしてしまったと悔やみきれない思いを抱えていること。
今も自分を殺すため、誰かの手の者が捜索をしているだろうことを少年は口にした。
私にはほとんど何を言っているのかわからなかった。言葉としては理解していたけれど、何故彼がそのような状況にいるのかが根本的に理解できていない。
『誰かに見つかってはならないのはお前も同じか。竜と言えば人間に災厄をもたらすと言われているから、お前が本当に竜だとしたら俺と同じで殺されるのだろうな』
少年の言葉に私は僅かに目を細めた。昔のことは私にはわからなかったけれど、確かに共存していた時代のある竜と人とがいがみ合うのは悲しい。
それからの間、少年は私の側にいた。時々どこかへふらりと消えては、獣や果実を持って帰ってくる。腹は空かしていないかと私を気遣い、互いに身を寄せあっていた。
そんな日々が終わったのは、突然だった。
いつものようにふらりと消えてしまった少年は、慌てた様子で私の元へと戻ってくると適当な木々の枝を折り、落ちていた葉を拾い集めて私の体に無造作に投げ放った。
『絶対にここを動くなよ、いいな』
そう言って再び森の中に戻ってしまった少年は、しばらく経っても帰ってこなかった。
人間に見つかれば、殺されるのはお互いに同じだ。少年の言葉が甦る。
体に被せられた木の葉や枝を振り払って私は体を起こした。正直なところ、とっくに下界に落ちた際に痛めていた足は治っていた。
少年が何故戻ってこないのか。考えてみれば簡単なことだった。
私はすぐに風の声を聞き、人の気配を探った。離れた場所で人間が三人、息を切らしながら走っている。その先にはもう一人の人間が。腕から血を流し、逃げていた。
あの少年だ。
風の声に従い、私は彼の元へ急いだ。彼は私を人間から見つからないように、自分が囮になろうとしたんだ。
どうして。私が貴方に何をしてあげられたというの。疑問は尽きない。
大地を揺らし、木々を薙ぎ倒し、私は駆ける。暴力的なまでの力を持つ竜の体は、生い茂る木々も高い崖も軽々と越えて私を目的地まで運んでくれた。
『お前、何故……!』
体を覆うほどの両翼を広げ崖を飛び上がれば、崖を背に男達に囲まれていた少年のもとへと辿り着いた。
私を見上げる翡翠が驚きに見開かれる。少年を追い詰めていた男たちも同様に、驚愕の眼差しで私を見上げた。
少年の前に立ちはだかるように降り立ち、肺の中へと多くの息を流し込んだ。
吐き出したとき吐息は炎に変わり、森を、木々を、土を、人を、焼き尽くした。
音を立てて燃え盛る炎の中、私は少年を振り返った。まだ驚きを隠しきれない様子で立ち尽くしていた少年の体を、壊さないよう片腕で掴むと、そのままこの場から飛翔する。ここにいては彼まで炎に燃やし尽くされてしまう。
なるべく離れた場所に少年を下ろすと同時に、目の前の巨木の幹がぐにゃりと歪んだ。
身を屈めながら姿を現したのはカラナさんだった。
『カラナさん!』
『やっと見つけた。力を使ってくれないとこちらからは観測しにくいんだ』
重そうな衣服を引きずりながら、カラナさんは気だるそうに肩を落とした。そして、少年の方へ視線を向けると、今度は私を見て責めるような瞳で笑う。
『人間にまで見つかって。面倒なことをしてくれたね』
『ごめんなさい……』
『まあいい。どうせ記憶を消すだけだからな』
私たちの会話は理解できていないだろう少年は、突然現れたカラナさんと私を見比べながら呆然と立ち尽くしていた。
『カラナさん、待って! その子にお礼を言いたいの!』
『お礼?』
『私のこと、庇おうとしてくれたの』
『どうせ忘れるのにか?』
私は頷いた。忘れたとしても、今、この瞬間だけだとしてもこの気持ちは伝えたい。
カラナさんはため息を吐くと、少年の方へと向き直った。
『伝言だ。助けてくれてありがとう、と』
『助けて貰ったのは俺の方だ。あいつが来なければ、俺は殺されていた』
声を掛けられ、少年は我に返ってそう答えた。
そもそも、私を助けようとしなければ彼が殺されかけることもなかったはずなのに。
カラナさんは不思議そうに首を傾げ、さらに少年へと問い掛けた。
『お前はあの子が怖くないのか?』
すると少年もまた、不思議そうに首を傾げる。
『独りぼっちで寂しそうな顔をしていたんだ。寂しいという感情がある奴が、恐ろしい奴なわけがない』
当然のように言い放ち、少年は私の方へと顔を向けて彼の方こそ寂しそうに微笑みを浮かべた。
『迎えが来たんだろう? 良かったな、これで独りじゃない』
彼の言葉に応える術のない私は、口を開いてすぐに俯いた。カラナさんのような人の形を持つわけでもなく、人間の温かな肌とは正反対の冷たい鱗に覆われた表皮と両手足には強固な爪の私では、人間である彼に応える言葉が一つも出てこない。
『……お前の記憶を消すついでに、城まで送ってやる。あの子を助けてくれた例だ』
『え?』
『私はこれでも人間のことは好きなんだ。だから、こうして人間が竜を庇ってくれたことは純粋に嬉しい』
カラナさんは珍しく口元に弧を描くと、少年の額に指先で触れた。
金色の光がカラナさんの指先から溢れだし、少年の額から全身を包み込む。あまりの眩しさに私は目を閉じてしまい、開いたときにはもう彼の姿は森の中から消えていた。
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