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別れの時
しおりを挟むあの日から、私はずっと殿下を見つめていた。彼が覚えていないとしても、ずっと。
側にいる彼だけに聞こえる声で、私はそっと囁く。
「今日まで、お側にいることを許してくださってありがとうございました」
ぴったりと寄り添っていた殿下の体を思い切り突き飛ばすと、私は今日まで溢れ続けていた自分の力を解き放つ。
殿下の身を守るため、下界に降りて初めて力を使った日から、穴の空いた木桶のように漏れ続けていた私の力。人の力を保っていたそれは、私の周囲に空気の渦を作り出し誰も近寄れぬ空間を作り出した。
突然突き飛ばされ、尻餅を付いたまま私を見上げる殿下と目があった。将軍達が殿下を抱え起こし私から引き剥がすように後ろへと引き摺る。
悲しそうな翡翠が遠ざかっていく。
吹き荒れる強風には誰も近づくことが出来ない。
王座の間は風圧に耐えきれず、豪奢なシャンデリアごと天井が吹き飛ばされた。重い曇天がその様子を見下ろしている。降り注ぐ瓦礫から逃れようと、周囲の兵士たちは風の魔術で人々の頭上に風の防壁を作り出していた。
遠巻きに様子を伺う人々に囲まれる。将軍達が私目掛けて炎の玉を放ったけれど、暴風に掻き消され私には届かない。
「シュイ!」
帝国一と評される将軍の魔術攻撃が私を傷付けることは出来なかったけれど、殿下の声には胸が痛んだ。
私を包む暴風が掻き消えると同時に、人の形をしていた私は本来の姿で人々の前に降り立った。
大の男よりもさらに大きな巨体。広げれば自分の体以上の大きさとなる固い両翼。手足には帝国軍が使う金属製の剣が生肉と変わらぬ柔らかさに思える強度を誇る爪を備えている。口の端からは鋭利な牙が覗き、少しでも息を吐けば空気中で燃え上がり煙を上げて霧散する。
隠し続けた竜の姿で、私は空に向かって大きく吼えた。
空気が震え上がり、曇っていた空からは逃げるように私の真上だけぽっかりと青空が姿を現している。
足元では、人々が耳を塞いでその場に蹲っていた。見上げる瞳は恐怖に彩られ、ただただ私に恐れを抱いていた。
そう、それでいい。
私は殿下を唆した人外の異物。恐怖し、恨んでくれれば良い。
きっと、どんな言葉でも殿下のお心を引っくり返すことは出来ないから。殿下の未来を願うのなら、私は喜んで人間にとっての悪に回る。
人の心を惑わした竜。殿下はただの被害者。そういう話で纏まってくれれば、きっと私と出会う前の殿下に戻れるはずだから。
「ようやく化けの皮を剥がしたのね!」
エレニア様のよく響く声と共に、熾烈な火炎の一撃が真横から私の顔へとぶつけられた。
けれど、光を反射する真白な鱗の前では人間の魔力など塵に等しい。火炎の塊は私の前で弾け、少し息を吹き掛けてやれば簡単に蒸発した。
青ざめた顔で私を見上げるエレニア様。
彼女にも辛い思いをさせてしまった。私は当たらないように細心の注意を払い、長い尾をエレニア様の方へと鞭のようにしならせた。
目の前で深紅の絨毯を跳ね上げさせながら振り下ろされた私の尾が産み出した風圧に、エレニア様は耐えきれずに後ろへと転がってしまった。体を打ち付けてはいるけれど、大きな外傷はなかったらしい。
この姿を見せてしまえば、いつまでもこの場にとどまる理由もない。両翼を広げ、重い体を持ち上げるために一度羽ばたいた。
その風圧だけで、私に攻撃を仕掛けようとしていた人々は動きを止め、その場に踏み留まることしか出来なくなっていた。
私を止める者がいないというのは好都合だった。再び羽ばたき、ゆっくりと重い体を持ち上げる。
天井が抜けてしまったため、空に飛び出すのは苦ではない。
「待て! シュイ!」
吹き荒れる風を切り裂くバレリオ殿下の声。羽ばたきを繰り返す翼の動きが鈍る。
私の名を、呼ばないで。
その愛しい声は何よりの枷となる。ひと度耳に届けば、それだけで覚悟は音を立てて崩れ落ちてしまいそう。
もっと一緒にいたかった。命が許す限りは、貴方の姿を見つめ続けたかった。
でも、私のそんな我が儘がきっと貴方を不幸にしてしまうから。
「シュイ! 俺はお前が何者でも構わない! 戻ってきてくれ!」
人とは変わってしまった私の姿を見ても、殿下はまだ夢のような言葉を私なんかに与えてくれる。
柔らかな肌も、滑らかな髪も、手も、足も、瞳も、口も、全てが知らない姿になってしまったというのにそれでも殿下は、私で良いのだと言ってくださる。
その言葉だけで、十分。
貴方がそう言ってくれた事実があれば、独りでもきっと生きていける。
ありがとう、と伝えようとした声は咆哮となり大気を震わせた。人間にとっては恐怖の象徴。それでも、殿下は怯まずに離れていく私を見上げていた。
じわりと視界が滲んでいく。瞬きのたびに、溜まっていた涙は瞳から溢れ落ちていく。
曇天の合間から覗く晴天の空から降ってくる私の涙は、人々にとっては不可解な雨のように思えたかもしれない。
それでも、殿下だけでも、それが私の涙だと気付いてくれたならいいのにと願ってしまう私は本当に人間らしくなってしまった。
カラナさんはもう戻れないと私に言った。その言葉の意味がよくわかる。
殿下と過ごした日々が胸に火を灯し、私の心を人間と同じ感受性豊かなものに変えてしまった。
殿下のいない世界に生きていくことが虚しいことだと感じる心が育ってしまった。
目の前には空、そして城下町とどこまでも広がる地平線。眼下には、小さくなった人々が見える。それぞれの顔の判別はもう難しいけれど、それでもバレリオ殿下がどこにいるのかはすぐにわかった。
もう二度とお会いすることはないだろう。私に出来ることは、これからの殿下の治世が人々にとって素晴らしいと評されるものになるよう祈ることくらい。
小さくなっていく王城を何度も振り返りながら、私はそれだけを祈り続けた。
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