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命の火が尽きるその日まで
しおりを挟む竜の姿に戻ったあの日から、気がつけば二十年の時が過ぎていた。
私は初めて殿下とお会いしたあの山に人気のない洞窟を見つけ、その中で過ごしていた。
時々、山を抜けていく人々の声が風の音と共に私の耳に届く。
ルクレイア帝国第十八代皇帝としてバレリオ殿下は無事即位されたらしく、治世も安心しているらしい。
私はこうして洞窟の奥で時々流れてくる噂に耳を傾けるだけしか出来ないけれど、普段は傲慢な面が目立ち勇猛果敢な皇帝として有名だが、人の話によく耳を傾けて家臣達の気持ちにも寄り添う賢帝として評判らしい。
私があのまま城に居続けたらきっとこうはならなかった。
あの時の選択は間違いじゃなかったんだ。
噂が届くたびに私の心は安心と、言葉にしてはならない寂しさで一杯になる。
することのない私は、暗くて寒い洞窟の中で目を閉じた。
明日は、誰かがこの山を訪れてくれるだろうか。なにかバレリオ殿下の話が聞けるだろうか。そんなことを考えながら、毎日を消費している。
いつものように目を閉じていたら、洞窟の中に踏み込む足音が響いた。
山奥で山道からも外れた洞窟の中だ。人が迷い混むことなんて十年に一人あるかどうかといったところだった。
珍しい。しかも、一人ではなく複数だ。
今まで通り追い払うため、喉を鳴らして低い唸り声を上げる。今まではそれだけで迷い混んできた人間は引き返していった。
たぶん、あの日に城から竜が飛び立つ姿は人々に見られてしまっているから、どこかに竜が潜んでいるという噂が流れているのではないかと思う。だから、少し脅すだけで人間はすぐに引き返す。
でも、今回ばかりは違った。
集団で入ってきたのに、一人だけが引き返すことなく奥まで進もうとしている。他の人間は入り口まで引き返したというのに、だ。
どうしてだろうか。
もう一度、今度は長く唸り声を上げてみたが、足音は止まらない。
どうしよう、どうしたらいい。
今まではちょっと脅かせば引き返してくれたから良かったけれど、姿を見られてしまったら場所を変えないといけない。
出来れば、思い出のあるこの場所から離れたくない。でも、だからといって目撃者の人間を殺して口封じもしたくない。
どうしようかと考えていると、足音は目の前で止まった。良い解決方法が思い付かないまま、私は重い瞼を持ち上げて勇敢にも洞窟の中まで進んできた人間の姿をこの目に映す。
瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……その顔は、俺のことを覚えている顔だな」
言葉が、出ない。
そもそも、人に語れる言葉はこの姿になって失ってしまったけれど。
目の前で、その人は昔と同じように歯を見せて子供のように笑って見せた。
「久しぶりだな、シュイ。お前は変わっていないようで嬉しいぞ」
開いた口から溢れ落ちた彼の名は、迷いの浮かんだ呻き声となって溢れ落ちた。
それでも言葉は届いたようで、彼ははにかむように笑ってみせた。
ずっと、焦がれていた微笑み。二度とこの目に映すことは叶わないと思っていたものがここにある。
どうして。
問いかけたいけど、言葉にはならない。
二つの翡翠が私を見上げる。彼はわかったような顔で頷いてみせると、蹲っていた私の元へとゆっくりと歩み寄ってくる。
「お前が消えたあの日から、ずっと探していた。まさかこんな近くにいたとはな……」
思い出の中よりも年を重ねたバレリオ殿下は、落ち着きの中にも変わらぬあどけなさを含ませて親しみのある眼差しのまま私の体にそっと触れた。
固い鱗に覆われた私の皮膚を、存在を確かめるように撫でていく。
手のひらの熱なんて伝わるわけがないのに、触れられた場所から燃えるように脈を打ち始めた。
「すまなかったな、シュイ。俺はお前を愛していると言いながらも、お前の事情なんて何も知ろうとしなかった」
殿下が謝ることなんて、何もない。私は弱々しく首を振った。
「……お前は悪くない。もしあの時にシュイが竜であると知っていたなら、もっとやり方があったはずだ。お前と一緒にいたいと思ったのは本当だし、后として一生を共にしたいとも思っていた。なのに俺は……」
それでも私は首を振る。側にいたいと願ったのは私も同じだし、何も言わずに側に居続けた私だって非はある。
殿下がそう仰るのなら、殿下を信じて正体を告げなかった私にも責任はある。一緒にいたいと思うのなら、離れてしまったのはどちらかだけのせいではない。
「……雨が降らない日が続いて国に飢饉が訪れそうになると、不思議と気配のなかった雨雲が国を覆って恵みの雨を降らせていた。侵略のために他国が帝国の地に踏み入れると、どこかの川が反乱して軍隊ごと押し流したり地揺れが起きたりしたな。……あれはすべて、お前の力だろう?」
私は頷かなかった。
正しくは、動くことが出来なかった。
離れてしまっても、どうしても殿下のお力になりたくてやっていたことを、気付いてもらえていただなんて思わなかったから、胸の中が温かな喜びで満たされていく。
「シュイを失ったお陰で、と言うのは良くないかもしれないが、あれからは他人の事情にも気を払うようになった。そのためかな。弟のうち一人との関係が良好なものになってな。あいつは俺ほどではないが、他の兄弟よりも抜きん出た魔術の際を持っていた」
バレリオ殿下はそう言って私を見上げる。
穏やかに細められた眼差しには、あの頃と変わらない熱が宿る。
「皇帝として即位したのは俺だが、弟を俺の相談役として地位を与えた。そして、子を成す役目は弟に任せた」
驚くべき殿下の言葉に、私は思わず目を丸くした。
皇帝となったと聞いた日から、考えないようにはしていたけれど、きっと殿下も誰かとの間に子を成したのだと思っていた。
私のことを愛しいと言ってくれた。私だけだと言ってくれた。
それでも、彼はこの国のために生きる人だから。いつまでも私だけを想ってくれるなんてあり得ない話だ。
そう思っていたのに。
「驚いたか?」
驚かないわけがない。
「お前のこと、愛していると言っただろう?」
言った。けれど。けれど私は、殿下よりも大きく固い鱗に覆われた竜の姿をしているというのに。
意地の悪い笑顔を浮かべて、殿下は昔のように私の体に背中を預けて寄りかかった。
「弟の子がな、今年で十六となる。俺と弟の二人で鍛え上げたから政治も魔術も他の者には引けはとらない。それに、弟は引き続き皇帝補佐として城に残る。つまり俺は、もう皇帝の任に縛られる必要はないと言うわけだ」
殿下が触れている部分から私の冷たい体は人と同じようにどくどくと息を吹き返していく。
もう人の体にはなれないけれど。
殿下に伝えられる言葉を失ってしまったけれど。
「シュイ」
それでも、殿下が私を見つけ出してくれたのなら。
あのときと変わらぬ瞳で、見上げてくれるのなら。
「もしもお前の気持ちが変わらないなら、そして、これだけ待たせてしまった俺を許してくれるというのなら、俺の残された時間を共に過ごしてはくれないだろうか」
はい、と答えた声はやはりただの唸り声にしかならなかった。
それでもバレリオ殿下は嬉しそうに目を細めて、私の体にそっと口づけを落とした。
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