【完結】ミクロとマクロの交殺点

睦良 信彦

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第一章 ミクロ・シーン1 「ヘルパーT細胞の冒険」 1

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     1

 ヘルパーT細胞の「チモシー」は、もそもそと器用に体をくねらせながら、脾臓周辺のリンパ管から毛細静脈血管の管腔側にもぐり込んだ。

 それまでのんびりと漂いながら身を任せていたリンパ液の心地良い流れから、まるでジェットコースターに乗り換えたような血流にさらわれ、チモシーはあっと言う間に脾臓を後にした。
 
 リンパ管は、心臓のようなポンプの役割を果たす臓器と直結していないため、管内を流れるリンパ液の流速は、一分間に二十四センチメートルと、極めてゆっくりである。

 一方、強力な筋肉ポンプとしての心臓が絶えず回し続けている血流は、左心室から大動脈を通って押し出されたあと、全身を回り、大静脈からまた右心房へとわずか三十秒足らずで一周する。

 これは、時速にすると二百キロ以上で、新幹線並みだ。

 胃の斜め左後ろにある脾臓から出た脾静脈は、門脈を経て肝臓を通り、やがて下大静脈から心臓に返る。この流れに乗って

「ひゃー」

 とばかりに吹っ飛ばされたチモシーは、目を回しながら全身循環を終え、また心臓に返ってきた。

 と思いきや、今度は右心房から右心室を通って、たちまち右の肺の中を走る肺動脈に流された。

 血流に乗っていると、心臓からどこへ吹っ飛ばされるか分からない。まるで流路がいくつも枝分かれしているウォータースライダーといったところだ。

 気が付くと、もう肺胞の周りの毛細血管内を滑っている。二、三百個ほどの赤血球の集団が、矢のようにチモシーを追い抜いて行った。
 
 血流に乗った時のチモシーの動きはあなた任せだ。動脈内では、いくら抗っても血の流れには逆らえない。

 この時は、たまたま肺動脈から肺の毛細血管に入ったので、チモシーはようやく緩やかな流れに体を伸ばすことができた。

 毛細血管の中の血流速度は、マラソン選手の走りといったところ。決して早くはないが、一定の速度でリズムよく進む。

 狭くなっている血管の壁に向かって、

「よっコラショ」

 と細胞表面の触手を伸ばしたチモシーは、それでしっかりと血管内壁の細胞から出ている突起の一つを捕まえた。 それをぐっと引き寄せ、そちら側に体をへばり付かせる。

「ああこれでしばらく休める……」

 チモシーは、末梢白血球の一種で、免疫ネットワークの要となるヘルパーT細胞群に属する一個の細胞である。

 骨髄から生まれ、胸の真ん中上部に位置する胸腺という小さな臓器組織の中で、免疫に関わる長く厳しい教育を受けた。

 そしてつい最近、末梢血液循環中に飛び出て大人の免疫細胞としてのデビューを果たしたのであった。

 T細胞のTは、胸腺(thymus)の頭文字が由来だ。そこでこの物語の中では、この一個のヘルパーT細胞のことを、チモシー(thymocy)と呼ぶことにする。

 ヘルパーT細胞は、血管内はもちろん、リンパ管内やいろいろな臓器組織中にも入って行って、宿主の敵となる病原菌やウイルスが潜伏していないか探し回る。

 そしてもしこれらの外敵を見つけると、自分自身、サイトカインという細胞間情報伝達機能のあるタンパク質を放出して戦うと共に、同じ免疫細胞の仲間であるキラーT細胞やB細胞をけしかけて敵を殺す。

 ヘルパーT細胞であるチモシーの役割は、こうした生体防御系細胞集団と一致協力して、自分の住処である宿主の人体を、外敵から防衛することである。
 
 チモシーの大きさは大体二十ミクロン(1ミクロンはミリメーターの千分の一)で、赤血球と同じくらいだ。

 赤血球が、上から見ると丸くても横から見ると扁平なのに対し、チモシーたちヘルパーT細胞は普段は殆ど球形をしている。

 しかし有事の際は、細胞表面に糖タンパク質でできたいろいろな種類の突起を突き立て、これを触手として味方の細胞や敵の細胞とコンタクトを取る。

 接触した細胞が、宿主由来の他の免疫細胞や臓器組織の細胞であればこれらを味方とみなし、彼らと共に一致協力して敵を抹殺する算段を巡らせる。

 一方接した相手が、病原微生物などの外敵であれば、これに対して直ちに攻撃を仕掛ける。

 血管の中は赤血球で一杯だ。何といっても、血液細胞の中では他の細胞と比べて桁違いに赤血球の数が多い。

 ちなみに、血液1マイクロリットル当たりの赤血球の数は五百万個にも及ぶが、一方で白血球の数は同じ血液1マイクロリットルあたりわずか五、六千個である。

 チモシーが血流に乗っている時は、まるで満員電車の中にいるようだ。

 右から左から、上から下から、丸いおぼんのような形をした無数の赤血球にごつごつと押されたり小突かれたりする。

 赤血球は、末梢の隅々の組織まで酸素を運ぶ運搬車の役割を担っているが、核がないので生命活動を行ってはいない。つまり、細胞というより命のないモノなのだ。

 だがこれがないと、酸素が体の奥にまで運ばれず、臓器組織の細胞はたちまち窒息して死んでしまう。

 周囲を飛び回るいくつかの赤血球から酸素を取り込んだチモシーは、しばらくは用のない赤血球を

「邪魔だ邪魔だ」

 とばかりに蹴散らした。

 相手がもし意思のある生き物だったら、もう二度とチモシーには酸素を渡してくれないだろう。彼らを乱暴に押し戻した後でそう反省したチモシーは、何を言ってもわからない赤血球たちに

「ごめん。押されてつい気が立っていたものだから」

 と謝った。

 そうして、続々と押し寄せる赤血球の集団をすり抜けるように、自分の体を細めたり引っ込めたりして、チモシーは毛細血管内を進んだ。

 やがて毛細血管壁の細胞と細胞の間に入り込んだチモシーは、細胞間隙を潜り抜けて、蜘蛛の巣のように張り巡らされた右肺葉内肺胞壁の毛細血管から、血管の外、つまり肺胞側に移動した。
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