ミクロとマクロの交殺点

睦良 信彦

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第一章 ミクロ・シーン1 「ヘルパーT細胞の冒険」 2

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 血管の中は赤血球の赤い色で埋め尽くされていたが、肺胞側に出てみると、そこはまるで真珠のように煌びやかな白色の玉が、どこまでも連なっていた。

 もちろんチモシーに視覚は無く、また体内には光源もないので、実際は何も見えない。だがもしそこに細胞一個ほどの大きさの人間が入り込んで、サーチライトを照らすことができたら、そんな風に見えたことであろう。

 口や鼻から入った空気は、気道を通って肺胞内にまで送り込まれる。肺において呼吸を担う肺胞の一つ一つは球形で、その内側は空洞になっている。

 肺胞は、空気中の酸素を血液側に取り入れ、一方血液側からは二酸化炭素を引き込んで呼気により体外へと排出する役割を担っている。

 肺胞は束となって、外見がブドウの房のような形の組織を成し、これが無数に集まって肺葉が形成される。右肺は上葉、中葉、下葉の三つの葉から、一方左肺は上葉と下葉の二つの葉から成っている。左肺は心臓の容積分だけ右肺より小さいのだ。

 肺胞内の空気と接する部分の表面積を、右肺と左肺の肺胞分すべて足すと、およそテニスコート一面分となる。肺は、これだけ広い肺胞内の表面積を使って空気と接し、酸素と二酸化炭素のガス交換を行うので、その効率はすこぶる良い。

 チモシーは、右肺の上葉入り口あたりにある一個の肺胞の中に入り込んだ。

 そこは直接外気に触れるところで、免疫細胞にとっては戦いの最前線である。というのは、人体組織の中にあって、吸気と共に外界から入って来る病原微生物と最初に出くわす場所が肺胞の内部だからだ。

 人は呼吸のために空気を吸う。だがその吸った空気の中には、酸素以外にも目に見えないいろいろな物質が含まれている。

 外気中には、病原微生物をはじめとする様々な微小有害粒子が浮遊している。細菌、真菌の胞子や菌糸、各種ウイルス、アレルギーの原因となる花粉やダニの死骸の破片、煙草の煙、PM2・5などありとあらゆる空気中の浮遊物が、呼吸によって体内に取り込まれる。

 病原微生物は、呼吸と共に鼻腔、上気道、気管、気管支と順に呼吸器系の器官を通り、最後には気管支から肺胞にまで落ちて来る。そこで十分な湿気、栄養、温度を与えられるため、肺胞内で増殖しながらさらに奥の肺組織へと侵入して行く。

 好気性菌と呼ばれる酸素が豊富な条件下で増える細菌などは、肺胞内ではより好んで分裂増殖する。例えば結核菌や炭疽菌などがそのたぐいだ。

 肺は酸素が豊富なので、これらの病原性細菌が肺胞内で良く増えるのである。

「もしゃもしゃもしゃ……」

 チモシーのすぐ横で、増えつつある細菌の小さな細胞集団をものすごいスピードで喰らっている奴がいた。

 肺胞内マクロファージ(macrophage)だ。ここでは略して「ファージ」と呼ぶ。

 ファージなどの免疫系細胞は、肺胞内で外敵と出会い、そこで初戦を交えることになる。

 こいつはチモシーより数倍でかい。

 アメーバのように触手を柔軟にあちらこちらへ伸ばし、絶えず形を変えながら、そこら中に散らばっている棒状の細菌を飽くなく体内に取り込んでいる。

 おのれより数倍大きい原虫の類でさえも、ファージにかかればひとたまりもない。まさに頼もしい大食漢、といったところだ。

「ぐわーっ」

 とばかりに開けた口が、チモシーのすぐ横をさらって行く。チモシーは思わず身を引いた。

「危ない危ない。こいつ、俺を喰う気か」

 ついこの間も、肝臓の中にある細網内皮系組織の入り口で、チモシーがうっかり伸ばそうとした触手に、間違ってこいつが食いついて来たことがあった。

 ファージがヘルパーT細胞を食うことは普通ない。

 だが、もしチモシーが死んで体が崩れ、ばらばらのアポトーシス小体になると、ファージに跡形もなく食われてしまうだろう。

 ファージは低能な奴だ。とにかく食って食って、目障りなものを消し去る。

 荒っぽいが、それが奴らの仕事なのだ。チモシーはそう思っていた。

 だがもちろん、ファージは免疫系の一端を成す重要な細胞だ。このようなファージたちが担う免疫を、自然免疫という。

 宿主にとって全く初めての相手であっても、自然免疫はすぐさま対応でき、食作用という手段で敵の排除に取り掛かれるのだ。

 一方チモシーらヘルパーT細胞が担う免疫は、獲得免疫と呼ばれる。

 一度外敵の侵入は許すが、その相手を樹状細胞のデンドロやファージが細胞内に取り込む。そうして取り込んだ外敵を細胞内で分解・解析して得た情報によって、敵をとことんよく知る。そしてその情報を基に、チモシーらヘルパーT細胞が宿主体内に存在する敵を確実に見つけ出し、特注されたいろいろな武器を使って殺していく。これが獲得免疫だ。

 このようにチモシーらヘルパーT細胞は、細菌を食いまくったファージから、多くの情報を「聞き取っている」。

 病原性を持っているかもしれない細菌などの怪しい輩が、肺から体の中に侵入して来て身体組織のどこかで秘密結社みたいなものを作り、知らず知らずのうちに仲間を増やし出したら厄介だ。

 ファージはそんな「秘密結社」の中にも土足で入り込んで行って、中にいる悪者たちを洗いざらい容赦なく食ってしまう。病原微生物にとってみればそれは何とも恐ろしく、いわば初動捜査を行う鬼機動捜査隊のようなものだ。

 そうして外敵を細胞内にため込むと、ファージは体内の分解酵素で敵の細胞や粒子を消化して、そのタンパク質や遺伝子を一旦バラバラにする。その中からこれはと思う情報を、小さなタンパク質やDNA鎖などのわかりやすい形に変えて、チモシーたちに伝えるのだ。

 ファージの情報伝達方法は、チモシーたちと抱き合う事である。そこで細胞同士の表面分子結合が起こり、ファージ体内の情報が口移しのような形で伝わっていく。

 チモシーは、このファージとの濃密なスキンシップが気持ち悪くて仕方ない。

 だがそれは胸腺の「免疫学校」でたたき込まれたチモシーの大事な仕事の一つなので、避けて通るわけにはいかない。

 一方、チモシーと抱き合って情報交換するファージにも種類がある。チモシーが何でもかんでもそこら中にいるファージとハグしなければならないわけではない。言ってみればお互い相手を選ぶのだ。

 チモシーが抱き合わなくてはならないファージは、あるウイルスに感染した細胞を食ったファージのみである。このウイルスについては、後に詳しく述べる。

 一方、外敵の情報をヘルパーT細胞に伝える細胞は、ファージだけではない。

 チモシーに最初に外敵の情報を伝達し、彼にミッションを与えたのは「デンドロ」という名の、樹状細胞(dendrocyte)に分類される細胞種であった。

 デンドロはファージと同じ食細胞の機能を有しているが、何でもかんでも喰いまくるファージとは格や品が違う。デンドロに対してチモシーは、一種畏敬の念を持って接している。

 目の前のファージの豪快な食いっぷりを横目に、チモシーはゆっくりと肺胞内の巡回に入った。

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