【完結】ミクロとマクロの交殺点

睦良 信彦

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第一章 ミクロ・シーン1「ヘルパーT細胞の冒険」 3

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     3

 樹状細胞のデンドロは、チモシーの上司のような存在だ。

 血中はもちろん、デンドロはどんな組織の中へも、接着している細胞と細胞の隙間をかき分けて自由に入って行く。樹木の枝のような触手を張り巡らしていることから、この名が付けられた。

 その細長い手を伸ばして、外から入って来る病原微生物や人体に有害な抗原の類をキャッチする。

 デンドロは、こうした病原微生物などの外敵を一旦自身の細胞内に取り込み、その情報を良く解析してチモシーに伝える。基本的な役割はファージと変わらないのだが、仕事がスマートなのだ。

 その優雅な姿はファージとは比べ物にならない。

 第一デンドロは、ファージのようにべたべた抱き着いて来たりはしない。そっと相手に手を差し延べ、そしてしっかりと両手でチモシーの手を握り、解析した敵の情報を、その手を介してじっくりとかつ優しく伝えて来る。

 デンドロから一つのプロジェクトを与えられたチモシー達ヘルパーT細胞は、そのミッションを遂行するためにのみ働く。

 例えば、肺炎球菌を倒すミッションを与えられたヘルパーT細胞は、体内に侵入した肺炎球菌の絶滅に生涯尽力するが、もし自分の近くに病原性を有する緑膿菌がいても、そっちには見向きもしない。緑膿菌を攻撃するミッションを持つヘルパーT細胞は、他にいるのだ。

 チモシーがデンドロから与えられたミッションは、きわめて特別なプロジェクトであった。

 その使命とは、新種のウイルスを探し出して壊滅させることである。

 このウイルスはその存在をあまり知られていないが、チモシーをはじめとするヘルパーT細胞に好んで取り付き、細胞内に入り込んで増殖する厄介なやつだ。1個のヘルパーT細胞内で、およそ1万個のウイルスがコピーされてしまう。

 こうして細胞内で増えたウイルスがはじけて細胞外に放出されると、それぞれのウイルスコピーがまた別のヘルパーT細胞に取りついて、増殖を繰り返す。

 ウイルスに感染したヘルパーT細胞は、細胞内の栄養素や酵素をウイルスのために使い果たし、ゾンビのように変化(へんげ)して行く。そして最後には、ウイルスの抜け殻となってアポトーシスで消滅する。

 このヘルパーT細胞ウイルスはレトロウイルスの一種で、エイズを引き起こす後天性ヒト免疫不全ウイルスに似ている。だがゲノム自体これとは全く異なり、新種ウイルスとしてその感染が最近問題になっていた。

 レトロウイルスとは、DNAを持たずゲノム情報をRNAの中に組み込んでいるウイルスの一群を言う。

 生物の遺伝情報は通常、DNAからRNAへと転写され、さらにRNAからタンパク質へと翻訳されて行く。しかしレトロウイルスは、この流れとは逆にRNAからDNAを合成する逆転写酵素という酵素を持っていて、人の細胞の中でこの逆転写酵素を使って自分のDNAを合成させる。

 出来上がったウイルスDNAは、人の細胞のDNA鎖内に潜り込む。このような状態となった人の細胞は、遺伝情報をDNAからRNAに転写しさらにタンパク質へと翻訳する生産ラインを無限に稼働させる。その結果、ウイルス由来のタンパク質がとめどもなく合成されていくのだ。

 こうしてウイルスのタンパク質がプラモデルの部品のように幾つもできて、最後にはそれらがつながってウイルス粒子が複製される。

 宿主がこのヘルパーT細胞ウイルスに感染すると、ウイルスは長期間体内でくすぶり続け、ついにはヘルパーT細胞を全て消滅させて宿主を死に至らしめる。

 このウイルス(virus)を、この物語では「バイロン」と呼ぶ。

 チモシーたちの住処である宿主の身体は、過去にどこかでバイロンに感染した可能性が高い。母子感染、性感染、あるいは滅菌をしていなかった血液の輸血などがその原因として考えられるが、チモシーがそれを知る由もない。

 チモシーの直接の上司であるデンドロは、循環血中か臓器組織内のどこかでバイロンと出会った経験があるはずだ。

 その時デンドロは、バイロンのゲノム情報もしくはバイロン由来のタンパク質抗原の情報を自分の体の中に取り込んで解析し、編集した。その中で特に秀でた情報を、チモシー達ヘルパー細胞に対して

「このゲノム情報もしくはタンパク質抗原と同じ情報を持つウイルスを壊滅せよ」

 と命令した。

「胸腺免疫学校」を卒業後、ナイーブT細胞としてまだミッションも持たぬまま末梢へ働きに出たチモシーが最初に出会ったデンドロが、このバイロン撲滅の指令を孕んでいたというわけである。

 バイロンは、日本の西域に住む人たちに比較的多くみられる成人T細胞白血病を引き起こすウイルスに類似していた。しかしチモシーが探しているバイロンが、白血病を誘発することはない。

 一方バイロンの恐ろしいのは、ヘルパーT細胞に感染してこれらを次々に消滅させていくところだ。この病態は、あたかも後天性免疫不全症候群(エイズ)を誘発するヒト免疫不全ウイルスすなわちHIVによる感染症に似てい
る。

 一方バイロンがHIVと違うところは、HIVが生体外では瞬時に死滅するのに対しバイロンは人の体外に出ても数日間生きていたという報告もあるほど強い点である。

 日本人全体から見れば、バイロンの感染率は低い。万一感染していても、感染者は多くの場合無症候で一生を終える。
 
 しかし感染者の約十パーセントは免疫不全を発症すると考えられており、いざ発症すると治療は厄介だ。現在のところ有効な治療薬がなく、発症した患者の死亡率も高い。

 バイロンは、チモシーが住処としているこの宿主の身体のどこかに潜伏し、仲間を増やしていく機会を虎視眈々と狙っているに違いなかった。

 だがチモシーは、生まれてこの方まだバイロンに出会ったことがなかった。

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