【完結】ミクロとマクロの交殺点

睦良 信彦

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第一章 ミクロ・シーン1「ヘルパーT細胞の冒険」 5

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     5

 次にチモシーは、肝臓の内部に留まってみた。

 肝臓は、体を流れる毒性物質を解毒したり、あるいは人体の活動や組織の再生に必須のタンパク質、脂質などを絶えず作り続けたりしている、いわば巨大な再生処理工場だ。

 人体内の臓器の中で肝臓は最も大きい。重さは千四百グラムある。

 この「大工場」内では、工員に相当する十種類の細胞が、それぞれの役割を担って昼夜休む間もなく働いている。

 肝臓内に張りめぐらされている毛細血管は、特別に類(るい)洞(どう)と呼ばれる。この組織は、血液を流すだけの単なる管ではなく、血中に混ざっているいろいろな有害物質の無毒化加工や古くなった血液細胞の処理再生も行っている。

 血流に乗って肝臓組織内に入ったチモシーは、類洞内皮細胞が整然と並んでいる壁にひょいと手を伸ばしてくっつき、そこにぶら下がった。

 ここは最も多種類の細胞が華やかな活動を営んでいるだけあって、内部はまるで臓器の芸術のような景観である。

 もし人間がチモシーのような小さな細胞になって肝臓内部に入り、そこでパッと電灯を点して周囲を照らすことができたら、まるでノートルダム大聖堂の内部から色とりどりのステンドグラスがはめ込まれた壁や天井や祭壇を眺めているような、そんな圧巻の眺めを味わうことであろう。

「肝臓工場の工員君たち、ごくろうごくろう」

 そこで血流にゆらゆら揺れながら、チモシーがしばらく肝臓組織の働く様子に高みの見物をしていると、無数の赤血球に交じってクッパー細胞がやって来た。

 クッパー細胞はファージの仲間で、アメーバのようにあちこちに触手を伸ばし、使い古した赤血球や腸管内のバクテリア(細菌)が出す有害な内毒素などをがばがば食べる、食細胞の一種だ。チモシーの二倍はある大きなそのクッパ―が、

「邪魔だ邪魔だ」

 とばかりにチモシーを押しのけて類洞内皮内を闊歩しているので、チモシーは

「ひょい」

 と後ろから手を伸ばしてそいつを捕まえた。

「何だよ、俺は忙しいんだ」

 と、クッパ―は突然触手でチモシーを払いのけようとした。

 チモシーはあわててその触手を握り返して質した。

「おいクッパー。君この辺で、バイロンを見なかったか」

「バイロン?」

「ああ。俺の上司のデンドロが最初に見つけた危険なウイルスだ」

「さあな。この辺じゃあ見かけんよ」

 クッパーは突き出した触手をすぐに引っ込め、アメーバのような体をダイナミックに動かしながら、忙しそうに去って行った。

「ふん。愛想のない奴だ。ファージの類は、みんなああだな」

 クッパーの後姿を見送りながら、チモシーは触手で相手を払いのける仕草をした。

 食細胞は、ファージを始めとして、肺胞内の清掃を行っている肺胞内マクロファージ、骨を分解する破骨細胞、それから類洞内皮を主な住処とするさっきのクッパー細胞など、みんなアメーバのように動き回る大食漢だ。

 だが、やつらに愛想がないのは仕方ない。ただ黙々と外敵や異物を見つけ回ってそれを喰いまくる事こそが、やつらに与えられたミッションなのだから。

 チモシーの身体には、先にも述べたように

「バイロンのウイルス粒子に由来する抗原を検知し、これを持つ細胞を直ちに殺せ」

 という上司デンドロからの使命が宿っている。

 バイロン由来の抗原を持つ細胞とは、すなわちバイロンに感染した細胞である。そしてそれは、バイロンにやられるまでチモシーたちの仲間だったヘルパーT細胞い他ならないだ。

 バイロンは、ヘルパーT細胞に好んで感染するという性質を有している。

 バイロンに取り付かれたヘルパーT細胞は、ちょっと見た目にはチモシーの仲間と少しも変わらない。だがそいつはもう「ゾンビ細胞」と化している。

 うっかり仲間と思って握手でもしようものなら、たちまちつかまってバイロンのウイルス粒子を浴びせられる。そうなったらもう逃れるすべはない。

 たくさんのバイロン粒子を浴びたら、チモシーとてひとたまりもない。

 バイロンは、細胞膜の脂質二重層からチモシーの体内に入り込み、やがてチモシーの細胞質内にある酵素や栄養分を勝手に使って、バイロン粒子を無限にコピーしていく。

 そうなれば、自分もバイロンに操られるゾンビ細胞と化し、次にバイロンを感染させる細胞を探しながら感染を拡大していく媒体になってしまう。

 吸血鬼に血を吸われると、その傷口から吸血鬼のウイルスが感染し、咬まれた被害者も吸血鬼になってしまうという。

 バイロンの感染経緯は、そんな吸血鬼の手口に似ていた。

 バイロンの存在は確かに恐ろしかった。

 だが、まだ遭ったこともないバイロンに対し、チモシーは恐怖を感じるどころか、武者震いのようなワクワク感すら抱いていた。

 バイロンに遭ったら、その場でキラーTや、B細胞のマローを呼び寄せ、共に戦う。そして必ず敵を撲滅してみせる。

 キラーTやマローはいわば戦闘機のような存在である。

 チモシー自身は敵を殺傷する決定的な武器を持たないが、戦闘機を自在に操って機銃掃射やミサイル攻撃を仕掛け、敵を壊滅に追い込む。そのパイロットに相当するのがチモシーで、一方戦闘機自体がキラーTやB細胞なのである。

 さらにチモシーは、本来免疫系細胞の働きに必要なサイトカインというタンパク質を多量に放出して相手を錯乱させるという、とっておきの手段も有していた。言い方は悪いが、それはイタチの最後っ屁のようなものだ。

 だが、こういった戦い方こそが、外敵に立ち向かう免疫系の巧妙な仕組みそのものであった。

 チモシーは、肝臓内の複雑な毛細血管群を、時間をかけて慎重に巡回した。しかしここにも敵を見出すことはなかった。

 敵を発見できなかった残念さと共に、まだバイロンがそれほど宿主体内に広がっている証拠は無かったという安心感もあって、チモシーは緊張を解きほぐすと再び血流に身を任せた。

 こうして彼は、肝静脈から下大静脈へと入って心臓に戻った。

 心臓内は、血流速度、血圧ともに半端ではない。途中で心臓の内壁につかまろうとしても、強い力ですぐにすっ飛ばされる。

 おまけに心臓内壁には、まるで鋼のように硬い筋肉細胞がびっしり並んでいるため、チモシーがいくら細胞触手を伸ばしてもとっかかりがつかめない。

 右心房、右心室から肺動脈を経て、チモシーはあっという間にまた左肺にまで運ばれた。

 右心室から出た肺動脈は、右肺と左肺にほぼ均等に分かれている。心臓から押し出されたチモシーが左右どちらに行くかは、時の運である。

 左肺に入ると、そこから先は血管が枝分かれし、肺胞周辺をめぐる細動脈、そして毛細血管へと続く。

 ぞろぞろと通り過ぎて行く赤血球のやつらに小突かれながら、チモシーは毛細血管内皮細胞の隙間を縫って進み、ようやく血管の外に横たわる球形の肺胞の上に帰って来た。

 またここでしばらく一休みだ……。
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