【完結】ミクロとマクロの交殺点

睦良 信彦

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第四章 マクロ・シーン2 「殺意」 3

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     3

「ところで」

 研究室内の盗難事件の件はひとまずそこまでとし、アリサは話題を転じた。

「来週の医局セミナーでは、私たちの研究班が進捗状況を報告する番だったわね」

「そうでしたね」

 岩清水ははっとしたように両目を開いて、アリサを見やった。

 血液内科の講座内には、いくつかの研究グループが構成されていて、各グループがそれぞれのテーマに沿って研究を進めている。期待がかかる研究プロジェクトには、国からの高額な研究助成金も付いている。

 こうした研究が滞ってはいけないので、血液内科学講座では、毎週水曜日に医局内で行われるカンファレンスにおいて、各研究プロジェクトグループの代表が順番に研究の進捗状況を発表し、他のメンバーから意見や気が付いた点などを承る。それに基づいて研究の方向性を軌道修正し、より良い成果を上げていく。

 アリサを研究プロジェクトの主任研究員とする研究グループは、来週水曜日の医局カンファレンスにおいて研究成果の到達状況を発表する予定である。アリサたちはその準備もせねばならなかった。

「次回の発表は、誰が担当する予定だったの」

「瑠奈先生です」

「まあ……」

 アリサは顎に人差し指を持って行って少考する。

「彼女、今週末には退院できそうだけれど、カンファレンスでの発表はまだ無理ね」

 岩清水もアリサの考えにうなずく。

 アリサの研究グループは、医局長のアリサ自身と助教の東御兼瑠奈、病棟薬剤師の岩清水、それに准教授の多比良の四人で構成されていた。グループ長は多比良だが、研究を立案し、実験を遂行する実質上のとりまとめはアリサが担っている。

「来週のカンファレンスでは、私が発表するわ」

 仕方ないという顔をしてアリサが申し出ると、岩清水は安どの表情を見せた。

 前述の様に、アリサたちの研究グループの研究は、免疫細胞ウイルスによる感染症を予防するワクチンの開発が目的である。

 ワクチンに用いるハイブリッド抗原を人工的に合成し、いずれはこれを臨床研究で人に投与する予定である。

 しかし現段階では、岩清水を中心にマウスを使った動物実験が開始されていた。

「先週末に、マウスT細胞ウイルスの抗原をマウスヘルパーT細胞抗原と融合させたハイブリッド抗原を、実際にウイルス感染させたマウスへ投与し終えたばかりです」

「結果はいつ出るの?」

「ウイルス感染マウスの血中ヘルパーT細胞数に変化が起こるまで、最低二週間はかかると思います。ハイブリッド抗原ワクチンを接種したマウスと、接種していないマウスとの間で、産生される抗ウイルス抗体の量や感染マウスの死亡率などを比較できるのは、さらにその後かと……」

「結果は二週間後以降ということね」

 アリサは小さくため息をつき、岩清水から承ったことを白衣の胸ポケットに携帯しているメモ帳に記した。

「分かったわ。来週のカンファレンスでは、結果報告はまだ無理ね。私からは、研究プロトコールと現在の状況、それに今後の予定をプレゼンするわ」

「お願いします」

「それから、ハイブリッド抗原の作成法について、簡単に紹介しておこうかしら。抗原の合成方法の要約を、添付メールで私宛に送ってくれる?」

「わかりました」

 実際にマウスにハイブリッド抗原を投与したのは岩清水であったため、実験方法は彼女が一番よくわかっていた。

 返答してから、ほぼ用事が済んだものと岩清水が腰を上げようとすると、

「あ、それから」

 と、アリサが制した。

「研究室内の盗難事件のことなんだけど、あなたはそのことを呉地教授には何か話したことはあるの」

「いいえ、まだ何も」

 岩清水が首を横に振ると、アリサは表情を曇らせた。

「一応、教授の耳には入れておいた方がいいわね」

「はい……」

「わかったわ。それはいずれ私の方から」

「よろしくお願いします」

 岩清水はまた安どの笑みを浮かべた。

 研究室で岩清水と別れ、医局に戻ったアリサは、医局の横に併設されている医局長室に入った。

 血液内科の医局は六十平米ほどの広さで、室内奥には局員のデスクが片側五つずつ向かい合わせに合計十個並んでいる。

 一方部屋の入り口と医局員の机の間には、革張りの応接セットが置かれ、そこは来客や製薬会社のMRへの対応の他、医局員がくつろぐスペースにもなっていた。

 一方医局長は、特別に医局長室という個室を与えられている。広さは十五平米と大したことは無いが、個室持ちというだけでも他の医局員より地位が上にあることが瞭然だ。

 主任教授と准教授ももちろん自分たち専用の部屋があり、それらは医局長の部屋よりずっと広く豪勢だ。しかし個室を与えられているという意味で、医局長は主任教授と准教授に次ぐ血液内科学講座のナンバー3という存在であった。

 アリサは医局長室に入り、部屋のドアは締めずに細長い医局長室を奥に進んだ。

 いつも入り口ドアは開けっぱなしだ。

 他の局員がアリサに何か用事がある場合、その方が遠慮なく部屋に入って来やすい。また新型ウイルス感染症などの懸念から、入退室に際しては、できるだけドアノブに手を触れないようにするという配慮でもある。 

 加えてアリサは、個室のドアを閉めて中で一人仕事をしているのが嫌いだった。

 寂しがりやというわけではない。中で一人こそこそやっているように思われるのが嫌だったのだ。アリサの性格がそうだった。

 窓際のデスク脇の肘掛椅子に浅く掛けると、アリサはノート型パソコンの電源を入れた。

 メールが五十通ほど来ている。そのほとんどが、海外からの国際学会の誘いや、製薬企業からのコマーシャルだった。

 それらを機械的にPC画面上の「ゴミ箱」の中に放り込みながら、アリサはしばらく手を付けていなかった自分達グループの研究の方向性について思案した。

 まずは来週水曜日のカンファレンスでの発表内容をねん出しなければならない。しかしその先にある、彼女たちの研究グループのエンドポイントを、このあたりではっきりと見極めることが重要だ。

 エンドポイント、すなわちどこまでを明らかにし、どこを着地点とするのかをはっきり決めておくことは、立案にもまして研究プロジェクトに重要なことなのだ。

 アリサたちの研究グループのプロジェクトは、免疫系血液細胞のウイルス感染症予防のためにワクチンを開発するという、重大な責務を担っていた。それは国民の健康と福祉向上のために国からも期待され、科学研究費をはじめとする多額の研究補助金が割り当てられた研究課題でもあった。

 先ほどの岩清水との話しにも出たように、研究はまだ動物実験レベルだ。だがいずれ臨床試験にまで持って行って、国民に供することのできる医薬品に育て上げねばならない。

 そしてこのプロジェクトは、人とウイルスのハイブリッド抗原を使って抗ウイルス免疫をより強く引き出すという、今までにない発想のもとに立案された研究であるだけに、関連分野の多くの研究者や企業人から熱い注目を集めていた。

 大学附属病院には、連日千人以上病院を訪れる外来患者と、九百床のベッドを埋める入院患者がひしめく。

 これらの患者を相手の多忙な臨床にも手を抜くことはできず、あれやこれやとアリサが頭を悩ませているところに、医局長室の入り口ドアをノックする者がいた。

 血液内科病棟看護師の、趙水鈴だった。

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