【完結】ミクロとマクロの交殺点

睦良 信彦

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第四章 マクロ・シーン2 「殺意」 2

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「で、先生。今日はどのようなご用で」

 しばし言葉が途切れた後、先に開口したのは岩清水であった。

 その催促に、アリサは相手に視線を戻し、少し逡巡する様子を見せた。がやがて思い切ったように、アリサは言った。

「この研究室で、最近試料とかデータの盗難があったみたいね」

 断定的な言い方で迫ると、岩清水はその話題を持ち出されることを予期していたのか、二、三度瞬きをしてからすぐに応じた。

「医局長のお耳にも入っていましたか。その噂を持ち出したのは私です。といいますか、それは噂ではありません。事実です」

 はっきりとした岩清水の返答に、むしろ面食らったのはアリサの方であった。

「あなたはなぜそう言い切れるの」

 驚いて尋ねると、岩清水は相変わらず少しも動揺することなく応えた。

「無くなっていたのは、私のELISAキットの試薬や細胞染色用の抗体などのこまごまとしたものでしたから。
それに……」

「他にも何か?」

「データ処理・保存用のPCに入っている、私のデータの一部に改ざんの後が」

「まあ。データまで……」

「ええ。もちろん、患者さんの検体に関する個人情報などは、スタンドアロン(インターネットなどと接続していない)PCに、IDとパスワードで保護して保存していますので、幸いこちらには被害がありませんでしたけど」

 岩清水はそこまで言ってから、ちょっと言葉を切ってアリサを見た。

「それから……」

「まだあるの」

 そこに来て岩清水は、続きを話すのを初めてためらう様子を見せた。

「何よ。早く言いなさいよ」

「ええ……」

 アリサにやや強い口調で催促されると、岩清水は吹っ切れたように続けた。

「私が作成したハイブリッド抗原が、一部紛失していました」

 アリサは眉をひそめて相手を睨んだ。

 アリサたちの研究班の研究テーマは、

 「血液系ウイルス感染症に対する生体防御系の抗原特異的活性化に関する研究」

 というもので、血液細胞に感染するウイルスによる感染症の予防のため、ワクチンを開発するのが目的である。

 ワクチンに用いる抗原は、もちろん当該感染症ウイルスの成分に由来する抗原なのだが、その抗原と人のヘルパーT細胞に由来する抗原を融合させた、いわゆるハイブリッド抗原を人工的に合成してワクチンを作成する。

 これを人に接種することにより、ウイルス抗原単独のワクチンに比べて、抗ウイルス免疫をより強力に目覚めさせるというのが、アリサたちの研究テーマの独創的な点である。

 そしてそのハイブリッド抗原を人工的に合成し、ワクチンとしてのその有用性を実験動物で確かめるというのが、岩清水が分担している研究のサブテーマであった。

 免疫系は通常、自分の身体の成分を破壊することはない。宿主にとっての外来抗原のみを駆除するのが、免疫系の習いだ

 しかし、外から侵入してきた抗原を自分の成分とは異なるものと認識できるのは、免疫細胞が逆に自分の身体の成分のことを熟知しているからである。つまり、免疫系の「いろは」とは、まず自己と非自己をはっきり区別できることなのである。

 この点を逆手にとって、自己と非自己を同じ分子の中でくっつけてしまったのが、ハイブリッド抗原である。

 免疫細胞がこの変な抗原に出会ったとき、今まで以上にそれに興味を持って、強い免疫反応を引き出せるのではないか、という点が瑠奈の発想のブレークスルーであった。

 そのハイブリッド抗原の一部が無くなっているというのだ。

「確かなの?」

 しばらく言葉を出せずにいたアリサは、訝しい表情でようやく岩清水に訊ねた。

「はい。合成したハイブリッド抗原は、ちゃんと幾つかのロットに分けて、他の試薬と一緒にマイナス八十度のフリーザー内で保管していました。そのロットの数本が見当たらないんです」

 岩清水は怯まず返す。

 アリサも、そこまで具体的に被害が及んでいるとは思っていなかったので、咄嗟には、岩清水の視線を黙って見返すのが精いっぱいであった。

 大学病院といえども、一般的に薬剤師が医局の研究室で実験研究を行うことは少ない。

 だが、感染制御専門薬剤師の資格を持つ岩清水は、薬剤部内での仕事にとどまらず、血液内科の医局にて病棟業務や研究も積極的に実施していた。

 血液内科学講座の研究室には、前述したように暗証ナンバーで管理されたデジタルキー付きのドアが立ちはだかっている。そのためそこには、医局の医師や医局員の他、岩清水や看護師の趙水鈴など、限られた研究員しか入室できない。

 したがって、そこで物品の盗難が起きたとすれば、犯人はドアキーの暗証ナンバーを知っていて、研究室に自由に出入りできる上記の者たちに限られて来るのだ。

 アリサにとってみれば、誰もかれもみな一緒に仕事をしてきた仲間たちである。その中に犯罪まがいのことをしている者がいるなどと、にわかに信じたくはなかった。

 だが医局長としてそれを放っておくことはできない。

 まさか警察に通報するまでの事ではない、とは思いながら、いやな予感がアリサの頭の中をかけ抜けた。

「その件は、まだあなたの胸の内に置いておいて。医局長として、私が責任を持って引き続き調査に当たるわ」

 アリサが申し渡すと、岩清水は

「わかりました。とりあえず先生にお預けします」

 と言って小さく頷いた。

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