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第四章 マクロ・シーン2 「殺意」 1
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首都医科大学血液内科学講座の講師であり、同内科の医局長でもある佐伯アリサの日常は誠に多忙であった。
大学附属病院血液内科病棟の入院患者や、同科の外来患者の診断と治療を行いながら、十数人いる医局員を統率するのが医局長としての彼女の大きな仕事である。
むろん血液内科学講座とその医局の主宰者は、同講座の主任教授である呉地達三だが、呉地が社長とすればアリサはいわば現場監督といったところ。
臨床現場で起こる細かな問題の責任が、全て彼女に直接のしかかって来る。それと同時に、大学医学部の講師でもある彼女は、医学生への講義を年間十四コマ分担当している。さらには、医学研究を行ってその成果を学会で発表し、また年に数報~十数報の論文を報ずるという責務も担っている。
だが、こうした現在の自分の地位と立場に、アリサは満足していた。
何といっても、彼女は医局の長であり、講座の教育研究と診療を現場で実施して統括する責任者であるのだ。多忙さと重責に押しつぶされるより、彼女はそこにむしろやりがいさえ感じていた。
そんな彼女にも、最近の病院業務の中でいろいろと腑に落ちないことがあった。
一つは、アリサの親友であり同医局員助教の東御兼瑠奈が、原因不明の肺炎で血液内科病棟に入院したことに関係する。
瑠奈は、抗生物質の投与で何とか回復し、現在その病状は安定している。
だが検査の結果、免疫細胞系に異常があるとの疑いが、瑠奈の主治医の多比良准教授から持ち上がった。またこのことは、その後血液内科の医局内でも問題となっていた。
講座の医師たちを集めた次回の症例検討会においては、瑠奈の診断や今後の治療方針について、医局長としての一定の方針を打ち出さなければならない。
多比良准教授は、瑠奈の病因を多角的方面から検討しているが、いかに主治医といえど彼だけに多くを任せておくわけにはいかない。医局長は自分だし、何といっても瑠奈はアリサの同期の友人だ。
もう一つの懸案事項は、血液内科学講座所属の研究室内で、実験研究に関する試料、試薬、あるいは情報の一部が盗難に遭ったという噂が講座内に流れている件である。
こちらは今のところ事実確認に至っていないが、医局内で起きた 問題は、アリサの責任でもある。ぼやが大火にならぬよう、噂の真偽をもう少し深く調査しておく必要があった。
その日の外来診療を終え、遅い昼食を摂った後、アリサは血液内科病棟で岩清水満里耶を探した。
岩清水は、病棟で入院患者の投薬と服薬指導を担当する病棟薬剤師である。
先日、多比良と一緒にイタリアンレストランに行った際、多比良はアリサに言った。
「岩清水さんから聞いたのだが、研究室内で幾つか物が無くなっているという噂だ」
だがその話は多比良からのまた聞きだったので、岩清水から直接事情を聴いてみる必要があると、アリサは思っていた。
岩清水はその日の病棟薬剤業務を終え、一階の薬剤部に戻っていた。アリサが医局から薬剤部に内線電話を入れると、すぐに岩清水が出た。
「佐伯先生。どうかされましたか」
医局長からの直々のコールに、病棟薬剤師の岩清水はやや緊張気味の声で返してきた。アリサは電話口で軽く笑った。
「あ、いやそんなに大したことじゃないのよ。ただ、血液内科の研究室のことで、あなたにちょっと訊きたいことがあったものだから」
「血液内科の研究室のこと……」
訝しそうな口調で、岩清水は訊ね返した。
「ええ。岩清水さん。今少し手が空く?」
「今ですか? あ、はい、大丈夫です」
「それじゃあ、悪いけどちょっと研究室まで来てくれる」
「わかりました」
電話を切ると、アリサは医局長室を出て血液内科の研究室に向かった。
研究室は、医局と同じ病院の八階フロアの一角にあった。
向かう途中、アリサはちょっとナースセンターに寄って、入院患者のことで看護師たちと二言三言、言葉を交わした。
その後すぐに彼女は廊下に出て、突き当りにある研究室の方に歩を進めた。
ところがふと見ると、研究室の入り口ドアの前で、白衣の女性が待っている。
「早いわね」
アリサが微笑みかけると、岩清水は軽く会釈を返した。
研究室のドアにはデジタルキーが設置されている。そこに四桁の暗証ナンバーを入力すると、ドアのロックは解錠される。
血液内科病棟薬剤師の岩清水も暗証ナンバーを知っていて、研究室には自由に出入りできる。だがナンバーを知らない者は、もちろん研究室には入れない。
研究室のドアのデジタルキーナンバーを知らされているのは、血液内科の医局員、病棟薬剤師の岩清水、そして看護師の趙だけであった。
「中で待っていればいいのに」
岩清水はデジタルキーの暗証ナンバーを知っている。それなのに彼女がドアの外で待っていたので、アリサは怪訝そうに岩清水を見た。
「先生と一緒に入った方がいいと思いまして」
岩清水はちょっと微笑んでから、何か意味ありげにそう答えた。
東御兼瑠奈が入院して以来、研究室は人の出入りが滞りがちである。医局員はみな診療に忙しくて、なかなか研究のための時間を割けない。
週に一度、外来診療の無い日を研究日と定め、その日に集中して研究を実施する医局員がほとんどだ。従って、研究室に入るのはみな週に一度程度となっている。
アリサはドアキーの暗証ナンバーを入力してドアを開け、中に入って部屋のライトを点けた。
岩清水もアリサに続いて室内に入った。
新しい器材が整然と並ぶ実験プラッテ、カバーを掛けたままの遠心機やPCR用サーマルサイクラー、遮蔽ガラスを磨き上げたクリーンベンチなどが視界に広がる。
「そこへ掛けて」
アリサは、実験プラッテの脇に置かれた丸椅子を岩清水に勧めた。
言われるままそれにちょこんと掛けると、岩清水は丸い瞳をアリサに向けた。アリサも岩清水の隣の丸椅子に掛け、相手を見やる。
「忙しいのにわざわざ呼び出しちゃってごめんね」
「いいえ。ちょうど入院患者さんの調剤を終えて、ワゴンに詰め込んだところでしたから」
岩清水は、そう言いながら勝手知ったる研究室内をゆっくりと見渡した。つられてアリサもその視線を追う。
「みんな、あまり研究は進んでないみたいね。ここがこんなにきれいなんだもの」
ぼやくように呟いた医局長に、岩清水は苦笑する。
「仕方ないですよ。皆さんお忙しいから」
「どうしても研究は診療の次、ということになるわよね」
アリサがまた諦めたように言った。
彼らの間には、しばし沈黙が漂った。そうして二人は、めいめいの方向に視線を遊ばせていた。
首都医科大学血液内科学講座の講師であり、同内科の医局長でもある佐伯アリサの日常は誠に多忙であった。
大学附属病院血液内科病棟の入院患者や、同科の外来患者の診断と治療を行いながら、十数人いる医局員を統率するのが医局長としての彼女の大きな仕事である。
むろん血液内科学講座とその医局の主宰者は、同講座の主任教授である呉地達三だが、呉地が社長とすればアリサはいわば現場監督といったところ。
臨床現場で起こる細かな問題の責任が、全て彼女に直接のしかかって来る。それと同時に、大学医学部の講師でもある彼女は、医学生への講義を年間十四コマ分担当している。さらには、医学研究を行ってその成果を学会で発表し、また年に数報~十数報の論文を報ずるという責務も担っている。
だが、こうした現在の自分の地位と立場に、アリサは満足していた。
何といっても、彼女は医局の長であり、講座の教育研究と診療を現場で実施して統括する責任者であるのだ。多忙さと重責に押しつぶされるより、彼女はそこにむしろやりがいさえ感じていた。
そんな彼女にも、最近の病院業務の中でいろいろと腑に落ちないことがあった。
一つは、アリサの親友であり同医局員助教の東御兼瑠奈が、原因不明の肺炎で血液内科病棟に入院したことに関係する。
瑠奈は、抗生物質の投与で何とか回復し、現在その病状は安定している。
だが検査の結果、免疫細胞系に異常があるとの疑いが、瑠奈の主治医の多比良准教授から持ち上がった。またこのことは、その後血液内科の医局内でも問題となっていた。
講座の医師たちを集めた次回の症例検討会においては、瑠奈の診断や今後の治療方針について、医局長としての一定の方針を打ち出さなければならない。
多比良准教授は、瑠奈の病因を多角的方面から検討しているが、いかに主治医といえど彼だけに多くを任せておくわけにはいかない。医局長は自分だし、何といっても瑠奈はアリサの同期の友人だ。
もう一つの懸案事項は、血液内科学講座所属の研究室内で、実験研究に関する試料、試薬、あるいは情報の一部が盗難に遭ったという噂が講座内に流れている件である。
こちらは今のところ事実確認に至っていないが、医局内で起きた 問題は、アリサの責任でもある。ぼやが大火にならぬよう、噂の真偽をもう少し深く調査しておく必要があった。
その日の外来診療を終え、遅い昼食を摂った後、アリサは血液内科病棟で岩清水満里耶を探した。
岩清水は、病棟で入院患者の投薬と服薬指導を担当する病棟薬剤師である。
先日、多比良と一緒にイタリアンレストランに行った際、多比良はアリサに言った。
「岩清水さんから聞いたのだが、研究室内で幾つか物が無くなっているという噂だ」
だがその話は多比良からのまた聞きだったので、岩清水から直接事情を聴いてみる必要があると、アリサは思っていた。
岩清水はその日の病棟薬剤業務を終え、一階の薬剤部に戻っていた。アリサが医局から薬剤部に内線電話を入れると、すぐに岩清水が出た。
「佐伯先生。どうかされましたか」
医局長からの直々のコールに、病棟薬剤師の岩清水はやや緊張気味の声で返してきた。アリサは電話口で軽く笑った。
「あ、いやそんなに大したことじゃないのよ。ただ、血液内科の研究室のことで、あなたにちょっと訊きたいことがあったものだから」
「血液内科の研究室のこと……」
訝しそうな口調で、岩清水は訊ね返した。
「ええ。岩清水さん。今少し手が空く?」
「今ですか? あ、はい、大丈夫です」
「それじゃあ、悪いけどちょっと研究室まで来てくれる」
「わかりました」
電話を切ると、アリサは医局長室を出て血液内科の研究室に向かった。
研究室は、医局と同じ病院の八階フロアの一角にあった。
向かう途中、アリサはちょっとナースセンターに寄って、入院患者のことで看護師たちと二言三言、言葉を交わした。
その後すぐに彼女は廊下に出て、突き当りにある研究室の方に歩を進めた。
ところがふと見ると、研究室の入り口ドアの前で、白衣の女性が待っている。
「早いわね」
アリサが微笑みかけると、岩清水は軽く会釈を返した。
研究室のドアにはデジタルキーが設置されている。そこに四桁の暗証ナンバーを入力すると、ドアのロックは解錠される。
血液内科病棟薬剤師の岩清水も暗証ナンバーを知っていて、研究室には自由に出入りできる。だがナンバーを知らない者は、もちろん研究室には入れない。
研究室のドアのデジタルキーナンバーを知らされているのは、血液内科の医局員、病棟薬剤師の岩清水、そして看護師の趙だけであった。
「中で待っていればいいのに」
岩清水はデジタルキーの暗証ナンバーを知っている。それなのに彼女がドアの外で待っていたので、アリサは怪訝そうに岩清水を見た。
「先生と一緒に入った方がいいと思いまして」
岩清水はちょっと微笑んでから、何か意味ありげにそう答えた。
東御兼瑠奈が入院して以来、研究室は人の出入りが滞りがちである。医局員はみな診療に忙しくて、なかなか研究のための時間を割けない。
週に一度、外来診療の無い日を研究日と定め、その日に集中して研究を実施する医局員がほとんどだ。従って、研究室に入るのはみな週に一度程度となっている。
アリサはドアキーの暗証ナンバーを入力してドアを開け、中に入って部屋のライトを点けた。
岩清水もアリサに続いて室内に入った。
新しい器材が整然と並ぶ実験プラッテ、カバーを掛けたままの遠心機やPCR用サーマルサイクラー、遮蔽ガラスを磨き上げたクリーンベンチなどが視界に広がる。
「そこへ掛けて」
アリサは、実験プラッテの脇に置かれた丸椅子を岩清水に勧めた。
言われるままそれにちょこんと掛けると、岩清水は丸い瞳をアリサに向けた。アリサも岩清水の隣の丸椅子に掛け、相手を見やる。
「忙しいのにわざわざ呼び出しちゃってごめんね」
「いいえ。ちょうど入院患者さんの調剤を終えて、ワゴンに詰め込んだところでしたから」
岩清水は、そう言いながら勝手知ったる研究室内をゆっくりと見渡した。つられてアリサもその視線を追う。
「みんな、あまり研究は進んでないみたいね。ここがこんなにきれいなんだもの」
ぼやくように呟いた医局長に、岩清水は苦笑する。
「仕方ないですよ。皆さんお忙しいから」
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