【完結】ミクロとマクロの交殺点

睦良 信彦

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第四章 マクロ・シーン2 「殺意」 5 

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 メタル仕様のBMWアクティブツアラーのハンドルを握る多比良の横の助手席に身をゆだね、アリサは吸い込まれて行くような感覚に幻惑されながら、眼前の闇を漫然と見つめていた。

 甲州街道を府中からさらに西へと離れて行くと、街の灯りは徐々に心もとなくなって、ただ車のヘッドライトが映し出す空間のみが視界に広がっている。車中を支配しているのは、静かで単調なエンジンの響きと、時々すれ違う対向車の音のみだ。

 沈黙に波紋を投じるように、前を見つめたまま運転席の多比良がつぶやいた。

「東御兼君は今週末に退院だ」

 アリサはすぐには応えなかった。別のことを考えていたからだ。

 多比良が助手席のアリサをちらりと見た。それにようやく気が付き、

 「ええ」

 とアリサが返す。

 多比良は表情を曇らせた。

「大丈夫か。最近君はぼんやりすることが多くなった」

「ごめんなさい。些細なことかもしれないけれど、いろいろと……」

「医局長は大変だからな」

「瑠奈にも言われたわ。あまり考え過ぎるなって」

「医者が患者に慰められたか」

「ほんと、情けないわ。どちらが医者だか患者だか……」

 アリサは小さくため息をつくと、眼前のヘッドライトに照らし出される路面に再び目をやった。

 多比良の運転するBMWは、甲州街道から多摩川沿いの道に入った。付近の灯りは益々減り、視界は闇へと吸い込まれていく。

 多比良とこうして二人きりで食事に行くのも、もう何回目であろう。

 同じ血液内科の医局にいながら、大学や病院内ではあまり会うことの無い二人だが、付き合い出してから最初のころは、毎週のように一緒に遅い夕飯を食べに行った。

 だが最近は二人とも多忙のせいか、先日一緒に食事をしてからもう二週間が経っていた。杳として進展しない二人の関係にも、アリサはだんだんとイライラを募らせていた。

 助手席にいるアリサの心中は、なんとなく多比良にも伝わっているようであった。

 アリサが話題転じて再び開口しようとした時、多比良がそれに先んじた。

「我々の研究プロジェクトの事だけれど、君はどう思う」

 自分たちの今後のことを話し出そうと思っていたアリサは、虚を突かれ思わず多比良の横顔を見た。

「どうって…… 」

 言葉が浮かばずに尋ね返す。

 多比良はしばし前を見たまま考えていたようであったが、おもむろに続けた。

「……ハイブリッド抗原のことさ。T細胞ウイルスに由来する抗原と、人のT細胞表面抗原の一部を合成化学的につなぎ合わせ、ハイブリッド抗原を作成する。それをワクチンとして接種し、ウイルスに対する宿主の免疫応答をより強力に引き出す。確かに東御兼君のこのアイデアは、前人も考え及ばぬ秀逸なものだが、しかし実際にそううまくいくだろうか」

 多比良の視線はアリサにあらず、ずっと前方にある。

「そううまくいくだろうか」

 と言われれば、反発したくなる。悪い性格だなと思いながら、アリサは瑠奈に味方する気持ちもあって反論した。

「今、検証実験を進めているわ。まだ動物実験段階だけれど、プレリミナリー(予備的)な実験では、マウスの抗T細胞ウイルス抗体の産生を強力に誘導したということよ。きっとうまくいくわよ」

「ふむ……」

 多比良は、一瞬何か言いかけてから黙った。

 が、やがて彼は、新たな方向に話を展開した。

「先日イギリスの医学雑誌に出ていたんだが、比較的若い女性関節リウマチ患者の関節組織から、自己抗原とウイルス抗原をハイブリッドにしたような抗原が検出されたというのだ」

 その話に興味を示したアリサは、黙って多比良の端正な横顔を見つめた。

「その論文によれば……」

 多比良は話を継ぐ。

 「ある種のウイルスがその女性患者の細胞に感染し、感染細胞の中でウイルスのコピーを量産し出した。その際何らかのはずみで、ウイルス自身の抗原と宿主の細胞成分のタンパク質とをごちゃまぜにしたハイブリッドタンパク質の生合成が行われたらしいのだ」

「そんなことが、本当に患者の身体の中で起こるの?」

 アリサは訝しそうに眉をひそめた。

「もちろん、どうしてそのようなハイブリッド抗原ができてしまったのかの詳細なメカニズムは不明だ。だがその論文の著者らは、そうして出来たハイブリッド抗原が生体防御反応を呼び起こす過程で、ウイルスに対する免疫を活性化するとともに宿主由来の抗原に対する自己免疫も呼び起こしてしまった、と考察している」

「そうして始まった自己免疫反応が、関節リウマチを引き起こしたという訳ね」

 多比良は黙ってうなずく。

 関節リウマチの原因は今もって明らかではないが、関節組織等に対する自己免疫が患者の身体の成分を攻撃し、その異常な免疫反応が、主に関節の滑膜やその周辺の関節組織に慢性炎症を引き起こす病態と考えられている。

 ウイルス感染とその結果もたらされるハイブリッド抗原の出現は、関節リウマチの発症機序を説明するうえで、一つの有力な仮説となり得る。

「その論文、私にも見せてください」

「ああ。論文のPDFファイルを、君宛に添付メールで送ろう」

 アリサたちの研究グループは今、T細胞に感染してアポトーシスを発症させる危険性のあるウイルスに対して強力に免疫反応を誘発させるワクチンを開発しようとしている。

 そのためのブレークスルーな研究として、ウイルス抗原と人のT細胞由来タンパク質をくっ付けたハイブリッド抗原を人工的に作成し、そのワクチン化を目指している。

 この発想は、前述のように東御兼瑠奈によるものだ。

 アリサらの研究グループは、研究を開始した当初、T細胞ウイルス由来の抗原のみをワクチンとして実験動物に接種してみた。だが残念ながら、それでは思うように免疫反応が誘導されなかったのだ。

 そこで発想を転換させたのが瑠奈だった。

 彼女は、ウイルス抗原と宿主の自己抗原のハイブリッド抗原をワクチンとして接種したらどうだろう、と言い出した。もちろん自己免疫を誘発する副作用を念頭に入れての事である。

 最初は、研究グループの誰もが瑠奈の考えに反対した。しかしその後ウイルス抗原だけを動物に投与する実験を何度繰り返しても、結果はうまくいかなかった。

 そこで主任研究員の立場にあったアリサが、瑠奈のアイデアを強力に後押しし、ともかくそれをやってみようということになったのである。

 だがこのハイブリッド抗原によって、ウイルスに対する免疫が協力に誘導される反面、前述の様に自己のT細胞に対する免疫まで誘発されたらどうなってしまうのか。

 恐らくは、多くのヘルパーT細胞が自己免疫によって破壊され、その結果免疫不全の状態が起きて患者が生命にかかわる事態となるであろう。

 これは言ってみればワクチンの有害事象であるが、それはきわめて重篤な副作用であることに間違いない。

「ハイブリッド抗原ワクチンの有害事象を示唆する論文の話題を出して、我々の研究に水を差してしまったようだな」

 唐突に、横から多比良の声がした。彼は続けた。

「まあ、そんなに怖い顔をするなよ。東御兼君のアイデアは確かに優れている。この研究プロジェクトには、僕も大いに期待しているさ。だが今言ったような、自己免疫といういわばハイブリッド抗原の重篤な副作用が起きないかどうか、しっかり検証しておく必要がありそうだな」

 多比良の提言に、アリサはふと我に返ると視線をフロントに戻した。その時の彼女の思考は、また別の方向へ向きかかっていたのだ。

「私、そんなに怖い顔をしていたかな」

 心の中でアリサは呟く。

「ねえ」

 ふいにアリサはあることを思い出し、疑問を口にした。

「インフルエンザワクチンの接種でも、そんな風に体調の変化が起こることはあるかしら」

「そんな風に、とは……自己免疫を誘発するという意味か」

「ええ」

「インフルエンザワクチンで?」

 多比良は助手席のアリサをちらと見やった。

「なぜ? 君は何か心当たりでもあるのか」

「いいえ、ただ……」

 そこまで言ってから、アリサは急に口を噤んだ。その不自然さに気付き、多比良は繰り返し訊ねた。

「どうかしたのか?」

「……何でもないわ」

 アリサは素っ気なく言って、その話題を唐突に打ち切った。

 医局員たちは、瑠奈も含めてみな毎年インフルエンザワクチンの予防接種を行っている。最近瑠奈が体調を崩しがちな原因は明らかではないが、もしかしたらインフルエンザワクチンの希な副作用なのではないかと、アリサはふと思ったのだ。

 だが、そのことを尋ねても多比良から期待していたような返答がなかったので、アリサはそれ以上その話題を続けることも無意味な気がした。

 日本人のインフルエンザ予防接種率は、ほぼ五十パーセントで毎年推移している。先進諸外国に比べてこれは決して高い方ではないが、それでも毎年五千万人以上の日本人が接種を受けている計算になる。

 これだけ広く、しかも長年にわたって行われている予防接種であるが故、安全性はほぼ確立されている。そう気づいてみれば、アリサの懸念は自ずと払しょくされるはずであった。

 アリサが黙り込んでしまったので、多比良は仕方なさそうにまたじっと前を見て、運転を続けた。


「私たちのデートの時って、いつもこんな話だわ。まったく、ムードも何もあったもんじゃない」

 言葉に出さず心の中で愚痴を言うと、アリサは前を見つめたまま自分の世界に戻って行った。

 そうして二人を乗せた車は、間もなく八王子インターチェンジを降りて、多比良が時々行くステーキハウスの駐車スペース内に乗り付けた。

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