【完結】ミクロとマクロの交殺点

睦良 信彦

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第四章 マクロ・シーン2 「殺意」 6 

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     6

 翌土曜日の朝、アリサは外来診療の予定がなかったので、血液内科医局の朝礼が終わった後、病棟に行ってみた。

 瑠奈の病室をノックすると、

「はい……」

 と男の声がした。

「おや」と思って入ってみると、多比良が向こうを向いたまま、ベッドに横たわる瑠奈の胸に聴診器を当てていた。

「なんだ。瑠奈を診に来るなら、朝礼の後でひとことそう言ってくれればいいのに」

 アリサは、多比良に対するその言葉を飲み込むと、ベッドの頭側半分を三十度くらい傾けて上半身を起こし、こちらに顔を向けている瑠奈に声を掛けた。

「おはよう。具合はどう」

 瑠奈はいつもの微笑みを返した。

「もう今日にでも退院して仕事に戻りたいんだけど、多比良先生が最後の検査結果を見てからだって」

 多比良はまだアリサの方に目を向けず、黙って瑠奈の胸に聴診器を当てている。なんとなく目のやり場に困りながら、アリサは多比良のそばに寄った。

 昨夜も、八王子のステーキハウスで一緒に食事をした後は、そのまままた病院にとんぼ返りだった。食事の間中も会話は少なく、それも話題は病院や研究の事ばかり。

 夕べアリサは疲れていたので、途中自分のマンションの近くで降ろしてもらったが、多比良は、容体が心配な入院患者がいるからといって、そのあと深夜にもかかわらず病院に戻った。今朝の多比良のアリサに対する態度も、妙によそよそしかった。

 アリサは多比良を無視するように、また瑠奈に話しかけた。

「来週月曜日からは、うんと働いてもらわなきゃならないわ。今のうちにここでみんなに甘えておいた方がいいよ」

 瑠奈は微笑むと、自分を診療している多比良の方に目をやった。

 ようやく入念な聴診を終えた多比良は、瑠奈に目を合わさず彼女のはだけたパジャマの胸を合わせた。

「胸部ラ音はきれいになった。肺のX線にも影がない。あとは血液検査結果を見て、医局長に退院の最終判断をしてもらおう」

 どこか思わせぶりな言い方をして、多比良はアリサにようやくちらと目をやると、そのままそそくさと病室を出て行った。

「多比良先生、良く来るの」

 多比良の姿が見えなくなると、アリサが瑠奈に訊ねた。

「そんなでもないわよ。どうして?」

「あ、いや別に……」

 どうして、と訊き返されても応えは無い。

 でもなんとなく気になった。女の感というか、軽い嫉妬というか……。

 だがアリサは、その感情をすぐに振り切って、話を転じた。

「来週の医局のカンファレンスだけど、この間も言った通り、プレゼンは私がやるわ。あなたから何かトピックは無い?」

 瑠奈は少考の後、逆に訊き返してきた。

「ハイブリッド抗原を投与した後、マウスに目立った変化は見られなかったの?」

「ああ、そのことね。先日も話したけど、その実験は岩清水さんがフォローしているわ。ハイブリッド抗原投与後は、最低二週間は追跡期間を設けなくてはならないから、その結果の公表は、今週のカンファレンスには間に合いそうにないわね」

 アリサが応じると、瑠奈はちょっとがっかりしたように小さなため息をついていた。

 が、瑠奈はすぐに気を取り直すと、一転、瞳を輝かせながら

「私今、ハイブリッド抗原の臨床研究のプロトコールを書いてるの。まだ完成までには至っていないけどね」

「臨床研究プロトコール?」

 アリサはやや驚いて尋ね返した。

 T細胞ウイルス感染症に対するワクチンとして、ハイブリッド抗原の研究が順調に進めば、いずれ実験動物レベルから人を対象とした臨床研究へとプロジェクトは進行する。

 臨床研究を開始するには、綿密なプロトコールの作成と治験に係る医療スタッフやコーディネーターの手配、さらには被験者の抽出と登録など、諸々の手続きや準備が必要である。それを知っていて瑠奈は、病床にありながら、臨床研究プロトコール作成に早くから手を付けようとしていたのだろう。

 だが臨床研究までの過程には、動物などを使った基礎研究がたとえ思い通りに進んだとしても最低数か月はかかると考えていたアリサは、本研究に対する瑠奈の意気込みにむしろ逡巡の念を抱いた。

「ずっとベッドの中で退屈していたでしょ。今のうちに何かできることは無いかと思って、臨床研究プロトコールを書き始めたというわけよ」

 瑠奈はさらりと言った。

「気持ちはわかるけど、動物実験レベルでダメ出しが出るかもしれないプロジェクトでしょ。臨床研究の計画を立案するのはまだ早すぎるんじゃ……」

「でも有効性と安全性がマウスで確かめられれば、ヒトでの研究は遠からず進んで行かなくてはならない道だわ」

「そうだけど……」

 瑠奈の前のめりの姿に身を引いている自分に気付くと、アリサには続く言葉が見つからなかった。

 その様子に瑠奈がさらに言葉を継ぎ足そうとした時、病室のドアがノックされた。

 ほとんど間をおかずに入って来たのは、病棟看護師の趙であった。

 趙は、まず医局長であるアリサに気付いて会釈すると、瑠奈の傍らに寄った。

「瑠奈先生。検温です」

 アリサと瑠奈の研究に関する話題はそこで終わった。アリサはとりあえずホッとした。

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