27 / 40
第四章 マクロ・シーン2 「殺意」 6
しおりを挟む6
翌土曜日の朝、アリサは外来診療の予定がなかったので、血液内科医局の朝礼が終わった後、病棟に行ってみた。
瑠奈の病室をノックすると、
「はい……」
と男の声がした。
「おや」と思って入ってみると、多比良が向こうを向いたまま、ベッドに横たわる瑠奈の胸に聴診器を当てていた。
「なんだ。瑠奈を診に来るなら、朝礼の後でひとことそう言ってくれればいいのに」
アリサは、多比良に対するその言葉を飲み込むと、ベッドの頭側半分を三十度くらい傾けて上半身を起こし、こちらに顔を向けている瑠奈に声を掛けた。
「おはよう。具合はどう」
瑠奈はいつもの微笑みを返した。
「もう今日にでも退院して仕事に戻りたいんだけど、多比良先生が最後の検査結果を見てからだって」
多比良はまだアリサの方に目を向けず、黙って瑠奈の胸に聴診器を当てている。なんとなく目のやり場に困りながら、アリサは多比良のそばに寄った。
昨夜も、八王子のステーキハウスで一緒に食事をした後は、そのまままた病院にとんぼ返りだった。食事の間中も会話は少なく、それも話題は病院や研究の事ばかり。
夕べアリサは疲れていたので、途中自分のマンションの近くで降ろしてもらったが、多比良は、容体が心配な入院患者がいるからといって、そのあと深夜にもかかわらず病院に戻った。今朝の多比良のアリサに対する態度も、妙によそよそしかった。
アリサは多比良を無視するように、また瑠奈に話しかけた。
「来週月曜日からは、うんと働いてもらわなきゃならないわ。今のうちにここでみんなに甘えておいた方がいいよ」
瑠奈は微笑むと、自分を診療している多比良の方に目をやった。
ようやく入念な聴診を終えた多比良は、瑠奈に目を合わさず彼女のはだけたパジャマの胸を合わせた。
「胸部ラ音はきれいになった。肺のX線にも影がない。あとは血液検査結果を見て、医局長に退院の最終判断をしてもらおう」
どこか思わせぶりな言い方をして、多比良はアリサにようやくちらと目をやると、そのままそそくさと病室を出て行った。
「多比良先生、良く来るの」
多比良の姿が見えなくなると、アリサが瑠奈に訊ねた。
「そんなでもないわよ。どうして?」
「あ、いや別に……」
どうして、と訊き返されても応えは無い。
でもなんとなく気になった。女の感というか、軽い嫉妬というか……。
だがアリサは、その感情をすぐに振り切って、話を転じた。
「来週の医局のカンファレンスだけど、この間も言った通り、プレゼンは私がやるわ。あなたから何かトピックは無い?」
瑠奈は少考の後、逆に訊き返してきた。
「ハイブリッド抗原を投与した後、マウスに目立った変化は見られなかったの?」
「ああ、そのことね。先日も話したけど、その実験は岩清水さんがフォローしているわ。ハイブリッド抗原投与後は、最低二週間は追跡期間を設けなくてはならないから、その結果の公表は、今週のカンファレンスには間に合いそうにないわね」
アリサが応じると、瑠奈はちょっとがっかりしたように小さなため息をついていた。
が、瑠奈はすぐに気を取り直すと、一転、瞳を輝かせながら
「私今、ハイブリッド抗原の臨床研究のプロトコールを書いてるの。まだ完成までには至っていないけどね」
「臨床研究プロトコール?」
アリサはやや驚いて尋ね返した。
T細胞ウイルス感染症に対するワクチンとして、ハイブリッド抗原の研究が順調に進めば、いずれ実験動物レベルから人を対象とした臨床研究へとプロジェクトは進行する。
臨床研究を開始するには、綿密なプロトコールの作成と治験に係る医療スタッフやコーディネーターの手配、さらには被験者の抽出と登録など、諸々の手続きや準備が必要である。それを知っていて瑠奈は、病床にありながら、臨床研究プロトコール作成に早くから手を付けようとしていたのだろう。
だが臨床研究までの過程には、動物などを使った基礎研究がたとえ思い通りに進んだとしても最低数か月はかかると考えていたアリサは、本研究に対する瑠奈の意気込みにむしろ逡巡の念を抱いた。
「ずっとベッドの中で退屈していたでしょ。今のうちに何かできることは無いかと思って、臨床研究プロトコールを書き始めたというわけよ」
瑠奈はさらりと言った。
「気持ちはわかるけど、動物実験レベルでダメ出しが出るかもしれないプロジェクトでしょ。臨床研究の計画を立案するのはまだ早すぎるんじゃ……」
「でも有効性と安全性がマウスで確かめられれば、ヒトでの研究は遠からず進んで行かなくてはならない道だわ」
「そうだけど……」
瑠奈の前のめりの姿に身を引いている自分に気付くと、アリサには続く言葉が見つからなかった。
その様子に瑠奈がさらに言葉を継ぎ足そうとした時、病室のドアがノックされた。
ほとんど間をおかずに入って来たのは、病棟看護師の趙であった。
趙は、まず医局長であるアリサに気付いて会釈すると、瑠奈の傍らに寄った。
「瑠奈先生。検温です」
アリサと瑠奈の研究に関する話題はそこで終わった。アリサはとりあえずホッとした。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写と他もすべて架空です。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる