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エピローグ
しおりを挟む東御兼瑠奈は、佐伯アリサを殺そうと未必の殺人を試みていた。
僕がそのことに疑いの目を向けたのは、いつか佐伯アリサと二人で八王子のステーキハウスに食事に行く際、車中でアリサが呟いた何気ない一言だった。
あの時彼女は、僕に対してこんなことを言った。
「インフルエンザワクチンの接種でも、自己免疫のような体調の変化が起こることはあるかしら」
佐伯アリサに毎年インフルエンザのワクチンを接種していたのは、東御兼瑠奈だ。
インフルエンザワクチンの副作用はまれにあっても、自己免疫を誘導するようなことは報告にない。だからあの時僕は、彼女の言葉に大きな疑惑を持った。
アリサ
君はあの時、自分の体調の変化に気付いていたのだね。
確かにインフルエンザワクチン接種後は、まれにだが倦怠感や軽い発熱など、自己免疫に似た症状を示すことがある。
だがあの時、既に君の身体に起こっていた小さな異変は、東御兼瑠奈によって接種されたハイブリッド抗原が君の自己免疫を刺激し、ヘルパーT細胞を破壊して易感染性(感染症にかかりやすくなること)となっていたことで引き起こされたのだ。
アリサ
君には本当に申し訳ないことをした。あの時君の体調の変化に僕が気づいていたら、君を死なせることは無かったかもしれない。
信じてくれ、アリサ。僕が心から愛していたのは君一人だった。
……だが、東御兼瑠奈は、なぜか僕に近づいてきた。
彼女は僕がアリサと付き合っていることを知っていて、僕を誘惑して来たんだ。
アリサが先に血液内科の講師になり、医局長になったことも、彼女の妬みの的となった。だから瑠奈は、嫉妬の思いを晴らすためだけの目的で、僕を君から引きはがそうと僕に接近して来たのだ。
アリサ
君との関係を早く医局のみんなにオープンにし、僕たちが結婚を前提とした付き合いをしていることを公言すればよかったのだ。
煮え切らぬ態度を取っていた僕が悪かった。
許してくれ、アリサ……
ずっとアリサへの嫉妬心を持ち続けていた東御兼瑠奈は、アリサを殺す計画を練っていた。
しかし、あからさまにアリサを殺そうとするような馬鹿な真似を狡猾な彼女がするわけはない。
そこで東御兼瑠奈は、ハイブリッド抗原を密かにアリサに注射するという未必の殺人を企てた。
結果的にそれは成功したわけだが、彼女の犯行を示す絶対的な証拠はない。またもしこの未必の殺人が失敗したとしても、瑠奈は別の誰にもわからないような医学的方法を考え出して、再びアリサを殺そうとしたであろう。
だが天罰からか、東御兼瑠奈は肺炎球菌が原因となる肺炎で入院し、逆にアリサからの治療を受けることになった。
アリサの渾身的な治療は、重篤な病状に陥った東御兼瑠奈をやがて回復へと導いた。僕も、瑠奈に対するアリサの診断と治療方針を一度は突っぱねたが、結局アリサの言うことは正しく瑠奈は一命を取り止めた。
一方、東御兼瑠奈はここ何年か続けて、アリサに対してハイブリッド抗原を混ぜたインフルエンザワクチンを接種していたのだ。もちろん彼女には黙って……。
そうして、無事退院した東御兼瑠奈に変わって、今度はアリサが突然医局長室で倒れた。
ハイブリッド抗原の副作用が、より急激かつ重篤な状態で、彼女を襲ったのだ。
彼女の免疫系は、ヘルパーT細胞の破壊へと自己免疫を進行させ、ついには免疫不全となって、数種の病原微生物の侵入を許した。病状はあっという間に悪化し、アリサは敗血症性ショックで亡くなった。
東御兼瑠奈は親友の死を悲しむそぶりを見せていたが、やがて彼女はアリサに変わって医局長の座を得、同時に血液内科講師への昇進を果たしたのだ。
こうして東御兼瑠奈の殺人計画は成功裏に終わった。
僕は東御兼瑠奈の犯行を指摘し、直接彼女を糾弾した。しかし彼女は僕の推理を認めなかった。
否、心の中では認めていたのかもしれない。
友人を死に追いやってまで掴んだ現在の地位に、彼女は本当に満足したのだろうか。
僕の心も彼女からは遠く離れたところにあった。それは瑠奈自身も気づいていたに違いない。
彼女に最後に残ったのは、ただむなしさだけだったのではないだろうか。
東御兼瑠奈。それなら君はなぜアリサを殺したのだ。
アリサに変わって血液内科の医局長になることが君の目的だったのか。君の殺人の動機はそんな薄っぺらなものだったのか。
アリサに詫びたまえ、東御兼瑠奈……。
アリサは無垢のまま、何一つ君を疑うことなく、君が打ったハイブリッド抗原の副作用で死んでいったのだ……。
僕が瑠奈を殺人犯として糾弾した日から数えてちょうど一週間後、瑠奈は死んだ。
東御兼瑠奈にはもともと持病があった。
T細胞ウイルス感染症だ。
恐らく母子感染などによって、子供のころから潜在的に体内に保有していたウイルスだったのだろう。
最近になって彼女が良く熱を出したり風邪の症状を発現したりしていたのは、そのウイルスによる免疫機能の低下が原因だった。
佐伯アリサが亡くなる前、瑠奈は肺炎球菌感染が原因と思われる肺炎で入院したが、その時に行った血液検査の結果も、長い期間を経たT細胞ウイルス感染によるヘルパーT細胞の減少を支持していた。
その時採取した瑠奈の血液は、現在まで冷凍保存されていた。そしてその血液を精査した所、例のハイブリッド抗原は一切検出されなかった。
このように、瑠奈が自分自身でハイブリッド抗原を注射したり、あるいは誰かにハイブリッド抗原を注射されたりしたことは全くなかった。つまり瑠奈のヘルパーT細胞が減った原因は、T細胞ウイルス感染によることが証明されたのだ。
瑠奈の持病が急激に悪化したのが三日前だった。
まるで佐伯アリサの病態をそっくりそのまま踏襲するかのように、瑠奈は血中のヘルパーT細胞が消え、そのせいで日和見感染症にかかり、そして敗血症性ショックで亡くなった。
倒れてから亡くなるまで、とうとう彼女の意識が戻ることは無かった。
親友であった佐伯アリサを、ハイブリッド抗原注射によって葬ったことに対して、瑠奈はどんな悔恨の念を抱いていたことだろうか。
あるいはそんなことは一切なかったのか。
今となっては、僕にもわからない……。
(了)
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