【完結】ある売れない作家の奇妙な体験

睦良 信彦

文字の大きさ
10 / 45

第二章 酔漢 2

しおりを挟む

     2

 翌月の月末の土曜日にも、篠崎賢はバー「エルンスト」にやって来た。

 その晩はもう十時を過ぎていたが、店はほぼ満席だった。だが店の一番奥にある篠崎のいつもの席は、予約されたように丁度そこだけ空けられていた。
 
 篠崎は、今夜も長い髪を無造作に肩のあたりにまで垂らし、薄暗い店内にあってもサングラスを外さない。いつものように店に入った時から少し酔っている様子で、足元がややおぼつかない。

 だが今夜の篠崎には普段と違うところがあった。目的があるような素振りで店に入って来るなり、真っ先にルノを指名したのだ。

 その時ルノは他のボックス席で接客に当たっていた。だがママから、
「払いのいい篠崎さんからご指名なので、そちらに回って」
 と指示が来た。

 ルノは人気者の様で、今までルノがいたボックス席に彼女の代わりにさよりが入ると、ボックスの中年客たちが不満そうな顔をしていた。そこへママが着くと、ボックス席の客たちはいくらか機嫌を直したように賑わいを取り戻していた。さよりが面白くなさそうな顔をして一人でふくれていた。

「ご指名ありがとうございます」
 断ってから、ルノは篠崎の前の円柱型ソファーに浅くかけた。指名料は一時間三千円だ。
「ひと月ぶりですね」
 ルノが会話を促すように訊いた。今日は黒いドレスに真珠のイヤリングをつけている。
「うん……」
 ややあって篠崎はうなずいたが、意識的にかサングラスの奥に潜む目はルノを真っ向から見てはいない。

 ルノはいつもの様に中身が半分無くなった篠崎のタンブラーにキープボトルのウイスキーを注ぎ、それにロックとミネラルウォーターを加えてかき混ぜた。二杯目は一杯目よりウイスキーをやや濃いめにして。

 タンブラーの中でマドラーが回ると、からころと氷のいい音がした。水割りを差し出してから、ルノは伏し目勝ちに首をかしげるようにして篠崎を見た。

「ホステスの間で評判なんです。あまりお話をされない方だって」
 篠崎はそれに応えず、黙っておもむろに上着のポケットから煙草を取り出した。一本取って口にくわえると、ルノがすかさず持っていたライターで火をつけた。
 肺の奥まで吸ってから天井に向かって煙を吐き出す。

 ルノも篠崎のそんな所作を微笑みながら黙って見守っていた。が、やがて白く長い両手の指をテーブルの端っこに揃えて乗せると、ルノは畏まって言った。

「ねえ篠崎さん。余計なお世話かも知れませんが、何か人には言えない悩み事がおありなのではないでしょうか。間違っていたらごめんなさい。

 でももしそうだとしたら、私におっしゃってみませんか? もちろん秘密は守りますわ。話してしまうと気分が楽になる、ということもあるかと思います」

 唐突とも言えるその言葉に、篠崎は今日初めて真っ向からルノの顔を見た。

 見たところ二十歳そこそこの娘が、まだろくに話をしたことのない相手にそのようなずけずけとした大人びたものの言い方で迫るとは、さすがに篠崎も怒りより先にはっとさせられたのだ。

 一方のルノからすれば、サングラスの奥の目が何を物語っているのかは分からなかったが、少なくともその雰囲気から相手の狼狽に近い感情を静かに感じ取ることができた。もしかしたら何か語り始めてくれるのではないか。そんな期待があった。

 だが篠崎はすぐについとルノから目を逸らすと、灰皿にタバコの先を押し付けて火をもみ消し、続いて水割りを一気にあおった。

「別に話すことなんてないよ」 
 言い捨てて、水割りのお代わりを要求するようにタンブラーをこちらに滑らせる。ルノは目を伏せ相手に聞こえないような小さなため息をつくと、空のタンブラーを手に取った。

 不意に二人の横で声がした。
「お邪魔してもよろしいかしら」
 ママだった。

 もう四十を過ぎているはずだが、地味ともいえる花柄の紫色の着物がかえって若さを引き立てている。身のこなしや声の調子などはさすがに落ち着いているが、結った黒髪が若い細面によく似合った。

 ママは返事も待たず篠崎の横に円柱ソファーを引き寄せると、着物の裾を払ってからそれに掛けた。

「篠崎さん。いつもごひいきにしていただいて、ありがとうございます。この娘(こ)とは何をお話ししていたのかしら」
 さすが店を一軒預かっているママだけあって、さりげない言動にも常連客への配慮がなされている、とルノは思った。

「お訊きしても、私のような新米にはなかなかお心を開いてはくださらないようです」
 ルノがあてつけがましく言うと、ママはやや目を丸くして
「まあ。こんなかわいい娘をご指名しておいて、だんまりもないものですわよ」

 だが篠崎は相変わらず仏頂面のまま何も答えず、また煙草をくわえると壁の方に目をやった。ルノがライターを差し出すより早く、ママが篠崎のくわえた煙草の先に火をつけた。

「この娘はね」
 ママは続ける。
「インテリなんですよ。あらっ、インテリなんて言葉、古すぎるかしら。いやだわ、歳が分かっちゃいますね」
 ママは自分で言って笑うと、勝手に話を継いだ。
「昼間は医療系の大学の薬学部に通って勉強を続けながら、夜はこのお店で働いているんですよ」

 ルノはちょっと迷惑そうな顔をしてママのおしゃべりを止めようとしたが、ママはそんなルノの様子にもお構いなしの様子だ。不愛想な篠崎も、ママの話にちょっと興味を示したようだった。

 篠崎は火がついているタバコを吸うのも忘れたかのように、じっとルノに視線を向けていた。
「薬学部というと、薬剤師を養成する学部?」
 篠崎がまともに言葉を発したのは、それが初めてだったのではないか、とルノは思う。だが彼女がその問いに答えようとすると、ママの方が先に応じた。
「そうなんです。だから将来は薬剤師さん」
 そこでようやくルノが口を挟んだ。
「卒業したら薬剤師の免許は取るつもりです。でも薬剤師になるかどうかはまだ決めていません」
「ふうん……」
 篠崎が興味なさそうな声を出す。だが吸いかけの煙草が右手の指の間で留まっているところを見ると、多少の関心はあるらしい。

 間もなくママに別の客からお呼びがかかった。やはりママは人気者らしい。
「篠崎さん、ごめんなさい。でも私みたいな年増より、若い子がお相手の方がよろしいですわね」
 篠崎に対してはそう笑顔で挨拶し、ルノの耳元では
「それじゃ、ここはお願いね」
と囁いて、ママは呼ばれた客の方に移って行った。

 篠崎とルノはまた二人きりになった。

 ルノの背側にあるボックス席からは、会社の重役らしき初老の男とその部下と思しき中年の男の笑い声が聞こえてくる。脇に寄り添っているホステス達も上品に笑っていた。
 だがこちらの一角から笑い声が発せられることはなかった。

 篠崎賢はいつものように看板近くまでいてから、酔ったのかふらふらとおぼつかない歩調でバー・エルンストを出て行った。その足はいつものように駅とは反対側の方向を向いていた。

 ルノはママと一緒に店の外で篠崎の後姿を見送った。通りを曲がって篠崎の姿が見えなくなると、ママはため息をつきながら
「相変わらず愛相がないわねえ、あの人」
 と言い残して、先に店に戻って行った。

 ルノはその場に立ったまま、篠崎が去った通りの方角を長い間じっと見つめていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

その人事には理由がある

凪子
ミステリー
門倉(かどくら)千春(ちはる)は、この春大学を卒業したばかりの社会人一年生。新卒で入社した会社はインテリアを専門に扱う商社で、研修を終えて配属されたのは人事課だった。 そこには社長の私生児、日野(ひの)多々良(たたら)が所属していた。 社長の息子という気楽な立場のせいか、仕事をさぼりがちな多々良のお守りにうんざりする千春。 そんなある日、人事課長の朝木静から特命が与えられる。 その任務とは、『先輩女性社員にセクハラを受けたという男性社員に関する事実調査』で……!? しっかり女子×お気楽男子の織りなす、人事系ミステリー!

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

さようなら、お別れしましょう

椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。  妻に新しいも古いもありますか?  愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?  私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。  ――つまり、別居。 夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。  ――あなたにお礼を言いますわ。 【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる! ※他サイトにも掲載しております。 ※表紙はお借りしたものです。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

処理中です...