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第二章 酔漢 2
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翌月の月末の土曜日にも、篠崎賢はバー「エルンスト」にやって来た。
その晩はもう十時を過ぎていたが、店はほぼ満席だった。だが店の一番奥にある篠崎のいつもの席は、予約されたように丁度そこだけ空けられていた。
篠崎は、今夜も長い髪を無造作に肩のあたりにまで垂らし、薄暗い店内にあってもサングラスを外さない。いつものように店に入った時から少し酔っている様子で、足元がややおぼつかない。
だが今夜の篠崎には普段と違うところがあった。目的があるような素振りで店に入って来るなり、真っ先にルノを指名したのだ。
その時ルノは他のボックス席で接客に当たっていた。だがママから、
「払いのいい篠崎さんからご指名なので、そちらに回って」
と指示が来た。
ルノは人気者の様で、今までルノがいたボックス席に彼女の代わりにさよりが入ると、ボックスの中年客たちが不満そうな顔をしていた。そこへママが着くと、ボックス席の客たちはいくらか機嫌を直したように賑わいを取り戻していた。さよりが面白くなさそうな顔をして一人でふくれていた。
「ご指名ありがとうございます」
断ってから、ルノは篠崎の前の円柱型ソファーに浅くかけた。指名料は一時間三千円だ。
「ひと月ぶりですね」
ルノが会話を促すように訊いた。今日は黒いドレスに真珠のイヤリングをつけている。
「うん……」
ややあって篠崎はうなずいたが、意識的にかサングラスの奥に潜む目はルノを真っ向から見てはいない。
ルノはいつもの様に中身が半分無くなった篠崎のタンブラーにキープボトルのウイスキーを注ぎ、それにロックとミネラルウォーターを加えてかき混ぜた。二杯目は一杯目よりウイスキーをやや濃いめにして。
タンブラーの中でマドラーが回ると、からころと氷のいい音がした。水割りを差し出してから、ルノは伏し目勝ちに首をかしげるようにして篠崎を見た。
「ホステスの間で評判なんです。あまりお話をされない方だって」
篠崎はそれに応えず、黙っておもむろに上着のポケットから煙草を取り出した。一本取って口にくわえると、ルノがすかさず持っていたライターで火をつけた。
肺の奥まで吸ってから天井に向かって煙を吐き出す。
ルノも篠崎のそんな所作を微笑みながら黙って見守っていた。が、やがて白く長い両手の指をテーブルの端っこに揃えて乗せると、ルノは畏まって言った。
「ねえ篠崎さん。余計なお世話かも知れませんが、何か人には言えない悩み事がおありなのではないでしょうか。間違っていたらごめんなさい。
でももしそうだとしたら、私におっしゃってみませんか? もちろん秘密は守りますわ。話してしまうと気分が楽になる、ということもあるかと思います」
唐突とも言えるその言葉に、篠崎は今日初めて真っ向からルノの顔を見た。
見たところ二十歳そこそこの娘が、まだろくに話をしたことのない相手にそのようなずけずけとした大人びたものの言い方で迫るとは、さすがに篠崎も怒りより先にはっとさせられたのだ。
一方のルノからすれば、サングラスの奥の目が何を物語っているのかは分からなかったが、少なくともその雰囲気から相手の狼狽に近い感情を静かに感じ取ることができた。もしかしたら何か語り始めてくれるのではないか。そんな期待があった。
だが篠崎はすぐについとルノから目を逸らすと、灰皿にタバコの先を押し付けて火をもみ消し、続いて水割りを一気にあおった。
「別に話すことなんてないよ」
言い捨てて、水割りのお代わりを要求するようにタンブラーをこちらに滑らせる。ルノは目を伏せ相手に聞こえないような小さなため息をつくと、空のタンブラーを手に取った。
不意に二人の横で声がした。
「お邪魔してもよろしいかしら」
ママだった。
もう四十を過ぎているはずだが、地味ともいえる花柄の紫色の着物がかえって若さを引き立てている。身のこなしや声の調子などはさすがに落ち着いているが、結った黒髪が若い細面によく似合った。
ママは返事も待たず篠崎の横に円柱ソファーを引き寄せると、着物の裾を払ってからそれに掛けた。
「篠崎さん。いつもごひいきにしていただいて、ありがとうございます。この娘(こ)とは何をお話ししていたのかしら」
さすが店を一軒預かっているママだけあって、さりげない言動にも常連客への配慮がなされている、とルノは思った。
「お訊きしても、私のような新米にはなかなかお心を開いてはくださらないようです」
ルノがあてつけがましく言うと、ママはやや目を丸くして
「まあ。こんなかわいい娘をご指名しておいて、だんまりもないものですわよ」
だが篠崎は相変わらず仏頂面のまま何も答えず、また煙草をくわえると壁の方に目をやった。ルノがライターを差し出すより早く、ママが篠崎のくわえた煙草の先に火をつけた。
「この娘はね」
ママは続ける。
「インテリなんですよ。あらっ、インテリなんて言葉、古すぎるかしら。いやだわ、歳が分かっちゃいますね」
ママは自分で言って笑うと、勝手に話を継いだ。
「昼間は医療系の大学の薬学部に通って勉強を続けながら、夜はこのお店で働いているんですよ」
ルノはちょっと迷惑そうな顔をしてママのおしゃべりを止めようとしたが、ママはそんなルノの様子にもお構いなしの様子だ。不愛想な篠崎も、ママの話にちょっと興味を示したようだった。
篠崎は火がついているタバコを吸うのも忘れたかのように、じっとルノに視線を向けていた。
「薬学部というと、薬剤師を養成する学部?」
篠崎がまともに言葉を発したのは、それが初めてだったのではないか、とルノは思う。だが彼女がその問いに答えようとすると、ママの方が先に応じた。
「そうなんです。だから将来は薬剤師さん」
そこでようやくルノが口を挟んだ。
「卒業したら薬剤師の免許は取るつもりです。でも薬剤師になるかどうかはまだ決めていません」
「ふうん……」
篠崎が興味なさそうな声を出す。だが吸いかけの煙草が右手の指の間で留まっているところを見ると、多少の関心はあるらしい。
間もなくママに別の客からお呼びがかかった。やはりママは人気者らしい。
「篠崎さん、ごめんなさい。でも私みたいな年増より、若い子がお相手の方がよろしいですわね」
篠崎に対してはそう笑顔で挨拶し、ルノの耳元では
「それじゃ、ここはお願いね」
と囁いて、ママは呼ばれた客の方に移って行った。
篠崎とルノはまた二人きりになった。
ルノの背側にあるボックス席からは、会社の重役らしき初老の男とその部下と思しき中年の男の笑い声が聞こえてくる。脇に寄り添っているホステス達も上品に笑っていた。
だがこちらの一角から笑い声が発せられることはなかった。
篠崎賢はいつものように看板近くまでいてから、酔ったのかふらふらとおぼつかない歩調でバー・エルンストを出て行った。その足はいつものように駅とは反対側の方向を向いていた。
ルノはママと一緒に店の外で篠崎の後姿を見送った。通りを曲がって篠崎の姿が見えなくなると、ママはため息をつきながら
「相変わらず愛相がないわねえ、あの人」
と言い残して、先に店に戻って行った。
ルノはその場に立ったまま、篠崎が去った通りの方角を長い間じっと見つめていた。
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