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1巻
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一 銀髪の妖狐と行方不明の友人
父の遺影は先月旅行に行った際、私が撮ったものだった。
旅館の中庭を背に、穏やかな顔でこちらに笑いかけている。『いいよ、父さんより璃央を撮ってやるよ』――そう言った父を無理やり写真に収めたのは、私だ。
「それにしても、急なことでびっくりしたわ」
「交通事故ですって。あれだけ元気だった人が、あっけないものね」
「娘を一人残して……まあ、もう大学も卒業した後だったのは幸いだけど」
「璃央ちゃん、いつも活発で明るいのに落ち込んじゃって、可哀想に」
背後から親戚のおばさんたちの声が聞こえたが、私は反応を示さず、畳の上で正座をしたままじっと写真の中の父を眺めていた。
今日の私は喪服に身を包み、長い黒髪は質素なゴムで一つに縛り、化粧は簡単にリップだけ塗っている。顔色が悪いのは分かっていたが、化粧をきちんと施す余力がなかったのだ。元々少し童顔で、化粧をしても変わらないとよく言われたが、毎日それなりにしっかりとするタイプだったのに。
少し前、休みなく働き続けた父が、『たまには息抜きをしたい』と言って、私を近場の温泉に誘った。母を幼い頃に病気で亡くして以来、父と二人でのんびり旅行なんて数えるぐらいしか行っていない。確か、小学生の頃が最後だったか。反抗期などがあったのも理由の一つだが、何より父はいつも仕事で忙しく、私用で家を長く空けたがらなかったからだ。
そんな父が珍しいことを言うな、と思いながらも私は誘いを受けた。
電車で一時間と少しで着いた、こぢんまりとした温泉宿。あまり人が多くなく、空いている温泉街を父と歩き、観光した。
美味しい料理を食べて、それぞれ温泉に浸かり体の疲れを取った。特別熱く語るわけでもなく、終始まったりした一泊二日旅行だったのだが、今思うと父はやけに楽しそうだった。
もしかすると、この先自分に何かが起こると感じ取っていたのかもしれない。
『璃央も、もう立派な大人だなあ』
『何を今更。大学も出たし、成人したのはもう五年も前じゃない』
豪華な会席料理を部屋で味わいながら、二人で話す。いつもはあまりアルコールを飲まない父だったが、その日はビールを手にしていた。私は美味しい刺身にうっとりしながら、父に笑いかける。
『まあその分、お父さんは年を取ったってことだね』
『はは、そうだな。でも璃央は、日に日にお母さんに似てくる気がする』
『顔はお父さんに似てるって言われるよ』
『性格はお母さんにそっくりだよ。明るくて負けん気が強い』
そう言って笑った父は、やけに嬉しそうに私の子供の頃の失敗談を語った。やめてよ、と嫌がる私を笑いながらも続ける彼の目元にはしっかり皺が刻まれており、年を感じさせた。でも、笑うと目が線になるところは、昔から変わっていない。
まあ、こんな旅も悪くない。
今までたくさん迷惑を掛けてきたのだから、これからは父親孝行をしよう。一年に一度ぐらい、こうやって温泉に浸かりに来ようか――と能天気に考えていた私は、これが最後の旅行になるとは夢にも思っていなかった。
父が事故に遭ったと警察から連絡を受けて家から駆け付けた時には、もう息をしていなかった。散歩中、居眠りをして信号無視したトラックにはねられ、即死だったらしい。
悲惨な事故だった割に、父の顔は思ったより綺麗だった。白くなったその顔を見ながら、ああ本当に一人ぼっちになってしまったんだ、とただひたすら涙した。母を亡くし、今度は父までいなくなってしまった。
私の家族は、もういない。
これからはたった一人で、あの家に住まなくてはならないのだ。
「璃央ちゃん」
声を掛けられようやく振り返ると、遠い親戚のおばさんだった。
「大丈夫?」
「……はい」
「お父さんの葬儀だから、きっと大勢の人が最期のお別れに来るわよ」
「はい」
「あなたもいろいろ大変だろうけど……今後のこととか、ね。でも今はとりあえずしっかりお別れしておきなさいね」
おばさんはそれだけ言うと、またどこかへ行ってしまった。
私は長いため息をついた後、これからのことを考えて、どんよりとした気分になった。いつの間にか乱れてしまった髪に気付き、気を引き締めるために縛り直して、再度父の写真を見上げる。
「きっと大勢の人が最期のお別れに来る、か」
ポツリと一人で呟いた。
神代家は、代々祓い屋として栄えてきた。
祓い屋というと、訝しむ人が大勢いる。一体何を祓うのか? 詐欺なんじゃないか? そう言われることは多々あった。だが、私たちからすれば祓い屋は、今も昔も必要とされてきた重要な仕事で、困っている人をたくさん救ってきた誇りがあるのだ。
神代家に生まれた者はみんな不思議な力を持っており、いろいろなものが見える。普通の人には感知できない、妖や幽霊だ。そこから修行を重ね、徐々に力をつけて祓う力を得る。
特に父は祓い屋としてとても強い力を持っており、この業界でも一目置かれた人だった。他の祓い屋では手に負えない相手でも、父は負けることがなかったらしい。父の名は口コミを中心に全国各地に広まり、ひっきりなしに相談が舞い込んできていた。困っている人を決して見捨てることなく、いつも親身になって相談に乗り続けた姿をよく覚えている。
そんな父と二人で暮らしていた私だが、残念なことに祓う力がない。妖の姿は生まれつき見えるものの、攻撃することが出来ないのだ。
祓うと一言で言ってもやり方はさまざまだろうが、うちの場合は自然の力を借りる方法を取っている。風、水、土、火のうちどれかを操り、悪しき者と戦う。それぞれの力には神がいて、祓い屋として才ある者に力を貸してくれるのだ。つまり、力は自分で選ぶわけではなく、こちらが選ばれる立場にある。
ちなみにどの力も当然ながら強いのだが、特に強い火の力を扱える人間はほとんどいないらしい。コントロールが難しく、暴走しやすいのだとか。うちの家系は代々水の力を授かり、父も祓う時にはその力を使っていた。私も水の神から力を借りられるはずなのに、一向に目覚めない。
父の仕事について回り修行も重ねていたのだが、身を守る防御の力は引き出せたものの、攻撃の力がだめだった。普通だと、十代の半ばぐらいでみんな祓う力を身に着けるという。私は二十歳をとっくに超えたので、随分遅い。
父曰く、『璃央は潜在能力が凄い。だから、開花すればきっと私以上の祓い師になれる』らしい。焦らずゆっくりやっていけばいいと、父はいつも笑顔で言っていた。私はその言葉を信じ、立派な祓い師になるべく日々研鑽を積んでいる。
ただ父は、無理に祓い屋を継ぐことはない、という考えだった。危険を伴う仕事なので、娘には普通の人生を歩んでほしかったそうで、その証拠に大学まで出させてもらっている。それに『璃央が好きなことをしたらいいんだ』が口癖でもあった。結局祓い屋の道を選んだが、父の勧めで通った大学ではいろいろなことを学べたので感謝している。
卒業後に就職もせず、父についていくことを決めたのは私だ。大勢の人に愛され、感謝される父を誇らしいと思っていたし、代々伝わる神代家の仕事を父の代で終わらせたくなかったからだ。
そんな風に過去を振り返っているうちに、想像していたより大勢の人が葬儀に来てくれていた。みんなどこからか父の事故のことを聞きつけたようで、仕事関係の人はもちろん、父に祓ってもらったことがある依頼人もたくさん訪れている。
ぞろぞろと列になり動く喪服の人たちは、遺影を見て悲しげに唇を震わせ、涙を堪えている。私はそんな人々にひたすら頭を下げていた。
「あなた……璃央ちゃん?」
そう私に話しかけてきたのは、見覚えのない高齢の女性だった。白髪を綺麗にまとめ黒い着物を着た、上品な佇まいの人だ。
「はい、そうですが……」
「お父様のことは本当に……残念だったわ。あんな凄い人が、こんなに早くに亡くなるなんて。私、あなたのお父様に昔お世話になったことがあってね。その時、一度あなたを見たことがあったけど、まだ小学生ぐらいだったから覚えてないわよね」
「そうだったんですか……」
「お父様に救われた人がどれほどいるか分からないわ。祓い師としての力はもちろん、人としても素晴らしい人だった。あなたはお父様の跡を継ぐのでしょう? きっと素敵な祓い師になるわ」
彼女は私の手をそっと握って、力強くそう言った。だがそれを聞いていたのか、少し離れた場所から親戚の声が聞こえてくる。さっきもひそひそと噂話をしていたおばさんたちだ。
「でも、娘は力がないんじゃなかった?」
「確か私が聞いた話だと、潜在能力はあるけど開花してないって」
「力が目覚めないんじゃ、ないのと同じよね。これからどうするのかしら」
その言葉に全身が強張った。私の手を握る女性にもおばさんたちの話が聞こえたのだろう、心配そうにこちらを見ている。
彼女は小さく頷き、手を握ったまま言う。
「大丈夫よ。あの人の娘さんなんだもの、大丈夫」
その声に私はしっかり顔を上げ、女性を正面から見つめて決意を込めた言葉を出した。
「はい、頑張って父の跡を継ぎます」
確かにまだ能力が開花していないので、半人前とも呼べない状態だ。ゆっくりでいい、と父は言っていたものの、彼がこの世を去ってしまった今、悠長なことは言っていられない。
「今、まだ私の力は開花していませんが、必ず父みたいになります。それが私の小さな頃からの夢でもあるんです!」
私がきっぱり言うと、女性は嬉しそうに何度も頷いた。
父を突然亡くして悲しみの気持ちを抱くと共に、父が守ってきた神代の名を継ぎたいと改めて強く思う。
優しくて強くて、とても好きだった。反抗期の頃は口数が減ったこともあったし、鬱陶しく思うこともあった。でもいつだって父は、私の味方でいてくれる最高のお父さんだった。母がいなくて寂しい時も、父はしっかりフォローしてくれたし、本当はもっとずっと一緒にいたかった。
憧れの父を、これだけの人が必要としている……だったら、私が父のようになろう。
そう、悲しみにとらわれている暇はない。
私には亡くなった父の遺志を継ぐ役目がある。私が一人前になって祓い屋を続けることで、父もきっと安心するはず。だから私は、ここで泣いて立ち止まっているわけにはいかないのだ。
待っていてほしい、お父さん。きっと私、一人前になるから!
心の中で呼びかけるも、父の返事は聞こえない。ああ、いっそ幽霊になって会いに来てくれればいいのに――なんて、祓い屋の娘として相応しくないことを思ってしまった。
*
決意の葬儀から二か月。私は打ちひしがれていた。
広々とした和室の畳に、ごろりと寝そべってぼんやりしていると、全開にした戸から涼しい風が入り、私の前髪を少し揺らす。その向こうにある庭には、父がよく手入れしていたガーベラの花が咲いているのが見えた。心を安らげるはずの美しい花が、今は私を苦しませる。
「静かだなあ……一人ってこんなに静かなんだ……」
葬儀の時はあれほどの人が集まった我が家も、現在はしんとしている。
祖父から譲り受けた古い家は、平屋の日本家屋で、木造の黒い瓦屋根をした昔ながらの家だ。六部屋もある上、それぞれの部屋が結構広い。この周辺では最も大きな家なのだが、金目の物は何もない見かけ倒しの家だ。父と二人で暮らしている時も手入れが大変だったのに、一人になった今は余計に持て余している。
そんな家で、私は風の音だけを聞きながらただぼうっとしていた。
「これからどうすればいいんだろう……」
父が亡くなって息つく間もなく、全国から来る相談に忙しく対応していた。恐らく、父が亡くなったことを知らない人たちが頼りにしてきたのだろう。父がもういないことを伝えると、みんな驚き不安そうな顔をしていた。
もちろんそのまま追い返すのは申し訳ないので、父の旧友である同業者を紹介した。その後、相談者は無事悩みが解決した、と喜んでいたが、私は情けない気持ちでいっぱいだった。せっかくうちに来てくれたのに、他の人に任せなくてはいけないなんて。
とにかく攻撃する能力をどうにか開花させたい。父に教わった方法で一人何度も練習し続けた。父から譲り受けた数珠の手入れを怠らず、集中力を高めるために窓がない修行部屋に一日中籠り、教わった呪文を声が嗄れるまで繰り返したけれど、私の体に変化はない。
「……水の力を操るってどんな感じなのかな」
父曰く、体の奥底で水の気配を感じるようになるという。抽象的すぎてよく分からない。
その力を習得すれば、妖たちを強い水の力で祓えるのだが……父の前ですら成功しなかったのに、一人で出来るわけがなかった。来る日も来る日も、不発で終わる。
相談者に知り合いを紹介する、練習する、紹介する、練習する、の繰り返し。そんな毎日にうんざりした私は、ある時こう考えた。
『いっそ、現場に出て危険な目に遭ってみれば、追い詰められて力が目覚めるかも!』
父が生きていたら目くじらを立てて怒りそうな無謀なやり方だが、他に何も思いつかなかったのだ。数ある相談の中から、なるべく危険度が低そうな依頼を引き受け、一度現場に出て妖と対峙してみた。
結果、手も足も出ず。
そりゃそうだ、防御の力はあるので何とか逃げ出せたものの、守っているだけでは敵は倒せない。あまり強くなさそうな相手だと思ったが、今の私にとってはどんな相手でも格上で敵わないのだ。ピンチになっても力は開花せず、結果またしても父の旧友に仕事を紹介して終わってしまった。
その失敗談が広まったのか、それとも、どうせ行っても他を紹介されるだけだという噂が流れたのか。毎日あった相談は次第に減っていき、ついには誰も来なくなった。口コミの恐ろしさをしみじみと感じている。
祓い屋として代々名を馳せてきた神代家は、父が亡くなってたった二か月で、こんな状態になってしまったのだ。
仕事がなくても多少の貯金はあるので、しばらく生活出来るが、お金は減っていく一方。力の問題だけでなく、そういった現実的な問題にも頭を悩ませている。
ゆっくり起き上がり、畳に座ると庭を眺めた。ふがいなくて泣いてしまいそうになる。
「もう無理なのかな……」
ポツリと呟く。自分の能力がいつ開花するのかまるで分からない。もしかしたら一生しないのかもしれない。
「私が甘かったんだな……お父さんと一緒にいても開花しなかった力が、そう簡単にどうこうなるわけがなかったのに。でも、いなくなった今だからこそ、自分を信じたかった……」
そっと振り返って箪笥の上にある写真を見ると、最後の旅行で一緒に撮った唯一の写真が飾ってあった。父が私を撮影してばかりで、並んで撮ったのはこれだけだったのだ。自分の写真なんていくらあってもしょうがない。もっとたくさん二人の写真を撮ればよかった。
一人ぼっちになった寂しさ。何もできない無力な自分へのいら立ち。
それが相まって、ついにじんわりと目に涙が浮かぶ。膝に顔を埋め、肩を震わせて泣き声を漏らす。
その時だった。ふと、嫌な気を感じたのだ。
顔を上げ、しんとした部屋の中をゆっくり見回す。白い壁、古い箪笥、襖――壁には、この家に似合わない白と黒のスタイリッシュな時計が掛かっている。小物ぐらいお洒落にしたい、と私が選んだものだ。それがわずかに震えていることに気が付く。
「……なに?」
私はすっくと立ち上がり、そばに置いてあった数珠を手に取った。父から譲り受けたこれは、祓う時には必ずいるものだ。しっかりとそれを握りしめ、気を張って辺りをまた見回す。
言葉では言い表せない、不思議な感覚が続く。体の奥底から湧き上がるぞわぞわした不快感と、逃げろと自分に命令する内なる声。だが同時に、これはそう簡単に逃げられるものではない、というのも分かっていた。
何かとんでもないモノが来る。
父に同行した仕事の中で時々出会うことがあった、力の強い妖に似ている。父も顔を歪めながら苦労して祓っていたそれらは、普通の祓い師では太刀打ちできないもので、私は遠くから見ているだけで足がすくんだ覚えがある。
どっと全身に汗をかきながら数珠を構え、狼狽える自分を必死に落ち着かせた。防御の力があるのだから、すぐにやられはしないだろう。でも攻撃も出来ないのでは対抗しようがない。隙を見て逃げ出す? そんなことが出来る相手なのだろうか……
ぐるぐるといろいろなことを考えていると、先ほどまで明るかった部屋が突如暗くなった。外は青空が見えていたはずなのに、まるで夜が訪れたようだ。
「一体何が――」
開いている戸から外に顔を出した瞬間、突風が吹いた。肌に痛みを覚えるほどの強さで、倒れそうになるのを必死に堪えながら、目を閉じて足に力を込める。古い家全体が風に煽られガタガタと揺れると、背後から父との写真が落ちる音がした。
どれくらいその風が続いただろうか。長く感じたが、実際は数秒だったのかもしれない。それが前触れもなくふっとやんだ。
やっと収まった風に安堵しつつ瞼を開けると、すっかり青空が戻った庭に一人の男が立っていた。
私は驚きのあまり息を止めた。周りの音が何も聞こえず静寂に包まれ、まるで男と私、二人きりの世界になったような感覚に陥る。
とても美しい人だった。白い肌に高い鼻、長いまつ毛。切れ長の目をしていて、一つ一つのパーツが綺麗でバランスが整っている。さらりとした髪は透き通るような銀色で背中まで伸びており、すらりと背が高くモデルのようだ。パッと見たところ、年齢は二十代後半に見えるが、醸し出される色気や貫禄はもっと上に思えた。
彼は、少し距離の離れた私からも上質と分かる白い着物を身にまとっていた。襟元は金糸で縁取られ、腰に締められた帯は深い紫色をしていて、広い袖から出る腕が少し動くだけで、布が滑らかに動く。どれもが彼の美しさを際立たせていた。
彼が人間でないことは一目見て分かった。尖った耳と、ふわふわとした大きな尻尾がついていたからだ。その尻尾は、私をあざ笑うかのようにゆっくり揺れている。
この世のものとは思えない儚さとおぞましいオーラを隠さず、彼は余裕のある微笑を浮かべていた。
「妖狐……!」
私は数珠を握り直し、男を正面から睨んだ。だが、手も足もがくがくと震え、背中には寒気が走る。恐怖心が抑えきれないのだ。
妖狐――その名の通り狐の妖で、遥か昔から人間にとってとても厄介な相手だと言われてきた。個別差はあるが基本的に強い力を持ち、さらに頭がいい。人間を騙すことに長けており、こちらの弱みなどを上手くついてくるのだ。
私の感覚が正しいならば、今目の前に立つ男はとてつもない強さを持つ妖狐だ。私の体の中で、警報がずっと鳴っている。
「うちに何か用……? 何が目的?」
怯えを必死に隠しながら、私は何とか質問した。だが相手は、ふっと小さく笑っただけで何も答えない。
彼の瞳から目を逸らさずにいると、次第に違和感を覚え始めた。しばらく考えるが、違和感の正体は掴めない。
「そう力まなくとも、お前を殺しに来たわけじゃない」
妖狐がようやく声を発した。
妖艶で、でも威圧感のある声にびくっと体が跳ねた。こめかみに汗が垂れ、不快感を覚える。
「じゃあ、何をしに来たの? ここは妖が遊びに来る場所じゃない」
「そう敵意をむき出しにするな。用があるのはお前みたいな小娘じゃなく、父親の方だ」
「父に? ……もしかして仕返し? 父に負けたことがあるとか」
「馬鹿言うな、私が負けるとでも? 敵ではない、ただの知り合いだ」
「知り合い?」
私が眉間に皺を寄せて聞き返すと、彼は一つ頷き、ゆっくりこちらに近づいてきた。一歩、また一歩、彼が近づくたびに私は少しずつ後退する。部屋の中央まで来た時に、足をもつれさせて尻もちをついてしまった。
妖狐は縁側に足を掛け家に上がり、私の顔を覗き込む。銀色の髪がさらりと垂れた。
「お前の父親に頼みがある」
「……頼み、って?」
「本人に言う。父親はどこだ?」
有無を言わさない圧力で尋ねる妖狐に、私は情けなくも圧倒されて動けずにいた。果たして、父の死のことを妖に話してもいいのだろうか。どうしようか迷ったが、隠していてもいずれバレるだろうと思い、正直に告げた。
「父は……いません」
「いない?」
「亡くなりました」
「なに?」
私の言葉に、妖狐が驚いたように目を丸くした。妖でもこんな風に驚くんだ……なんて、私はどうでもいいことを考える。
妖狐はすっと目を細めた。
「嘘ではないだろうな」
「こ、こんな悲しい嘘つきません!」
妖狐は少しの間私を見つめた後、何かに気付いたように部屋の奥を見た。畳には、先ほどの揺れで落ちてしまった私と父の写真がある。
彼は静かに近づき、無言でそれを手に取った。そしてじっと写真を見つめながら、納得するように小さく数回頷く。
「まあ確かに、そんな嘘をつく理由はないか……娘が一人で残っているわけだしな」
箪笥の上に写真を置いた妖狐は、考え込むように腕を組んだ。
「そうか……死んだのか……これは予想外だったな」
「あの……父に一体何の用があるんですか?」
「見て分からないか?」
どこか呆れたような言い方だったので、私は少しむっとした。
「そんなの分かるわけないです」
体に力を入れてようやく畳から立ち上がり、強めの口調で言い返した。恐怖心はまだあるが、見くびられたくない、と思ったのだ。
「祓い屋の娘のくせにか?」
「どういう意味ですか⁉」
「私をよく見て、何か疑問に思わないのか。洞察力のない人間だな」
妖狐は私の方を見て、ため息交じりにそう言った。洞察力がない、なんて言われたことにさらに不愉快になったが、とりあえず妖狐の姿を観察してみる。そういえば、初めに見た時、何か違和感を覚えた気がしたけれど……
つま先からゆっくり視線を上げ、彼の姿を見ていく。悔しいほど美しい造りをした顔に差し掛かった瞬間、あることに気が付いた。
「あなた、目が……」
彼の瞳は、ごく普通の黒色をしていた。
だがそれはおかしいのだ。妖狐の瞳は金色をしているはず。人間に化けている時などは色が違うこともあるが、今はどう見てもそんな様子はない。
「やっと気付いたのか、鈍い娘だ」
「いちいち悪口挟まなくても……でも、どうして?」
「私の力は今、封印されている」
「どういうこと⁉」
父の遺影は先月旅行に行った際、私が撮ったものだった。
旅館の中庭を背に、穏やかな顔でこちらに笑いかけている。『いいよ、父さんより璃央を撮ってやるよ』――そう言った父を無理やり写真に収めたのは、私だ。
「それにしても、急なことでびっくりしたわ」
「交通事故ですって。あれだけ元気だった人が、あっけないものね」
「娘を一人残して……まあ、もう大学も卒業した後だったのは幸いだけど」
「璃央ちゃん、いつも活発で明るいのに落ち込んじゃって、可哀想に」
背後から親戚のおばさんたちの声が聞こえたが、私は反応を示さず、畳の上で正座をしたままじっと写真の中の父を眺めていた。
今日の私は喪服に身を包み、長い黒髪は質素なゴムで一つに縛り、化粧は簡単にリップだけ塗っている。顔色が悪いのは分かっていたが、化粧をきちんと施す余力がなかったのだ。元々少し童顔で、化粧をしても変わらないとよく言われたが、毎日それなりにしっかりとするタイプだったのに。
少し前、休みなく働き続けた父が、『たまには息抜きをしたい』と言って、私を近場の温泉に誘った。母を幼い頃に病気で亡くして以来、父と二人でのんびり旅行なんて数えるぐらいしか行っていない。確か、小学生の頃が最後だったか。反抗期などがあったのも理由の一つだが、何より父はいつも仕事で忙しく、私用で家を長く空けたがらなかったからだ。
そんな父が珍しいことを言うな、と思いながらも私は誘いを受けた。
電車で一時間と少しで着いた、こぢんまりとした温泉宿。あまり人が多くなく、空いている温泉街を父と歩き、観光した。
美味しい料理を食べて、それぞれ温泉に浸かり体の疲れを取った。特別熱く語るわけでもなく、終始まったりした一泊二日旅行だったのだが、今思うと父はやけに楽しそうだった。
もしかすると、この先自分に何かが起こると感じ取っていたのかもしれない。
『璃央も、もう立派な大人だなあ』
『何を今更。大学も出たし、成人したのはもう五年も前じゃない』
豪華な会席料理を部屋で味わいながら、二人で話す。いつもはあまりアルコールを飲まない父だったが、その日はビールを手にしていた。私は美味しい刺身にうっとりしながら、父に笑いかける。
『まあその分、お父さんは年を取ったってことだね』
『はは、そうだな。でも璃央は、日に日にお母さんに似てくる気がする』
『顔はお父さんに似てるって言われるよ』
『性格はお母さんにそっくりだよ。明るくて負けん気が強い』
そう言って笑った父は、やけに嬉しそうに私の子供の頃の失敗談を語った。やめてよ、と嫌がる私を笑いながらも続ける彼の目元にはしっかり皺が刻まれており、年を感じさせた。でも、笑うと目が線になるところは、昔から変わっていない。
まあ、こんな旅も悪くない。
今までたくさん迷惑を掛けてきたのだから、これからは父親孝行をしよう。一年に一度ぐらい、こうやって温泉に浸かりに来ようか――と能天気に考えていた私は、これが最後の旅行になるとは夢にも思っていなかった。
父が事故に遭ったと警察から連絡を受けて家から駆け付けた時には、もう息をしていなかった。散歩中、居眠りをして信号無視したトラックにはねられ、即死だったらしい。
悲惨な事故だった割に、父の顔は思ったより綺麗だった。白くなったその顔を見ながら、ああ本当に一人ぼっちになってしまったんだ、とただひたすら涙した。母を亡くし、今度は父までいなくなってしまった。
私の家族は、もういない。
これからはたった一人で、あの家に住まなくてはならないのだ。
「璃央ちゃん」
声を掛けられようやく振り返ると、遠い親戚のおばさんだった。
「大丈夫?」
「……はい」
「お父さんの葬儀だから、きっと大勢の人が最期のお別れに来るわよ」
「はい」
「あなたもいろいろ大変だろうけど……今後のこととか、ね。でも今はとりあえずしっかりお別れしておきなさいね」
おばさんはそれだけ言うと、またどこかへ行ってしまった。
私は長いため息をついた後、これからのことを考えて、どんよりとした気分になった。いつの間にか乱れてしまった髪に気付き、気を引き締めるために縛り直して、再度父の写真を見上げる。
「きっと大勢の人が最期のお別れに来る、か」
ポツリと一人で呟いた。
神代家は、代々祓い屋として栄えてきた。
祓い屋というと、訝しむ人が大勢いる。一体何を祓うのか? 詐欺なんじゃないか? そう言われることは多々あった。だが、私たちからすれば祓い屋は、今も昔も必要とされてきた重要な仕事で、困っている人をたくさん救ってきた誇りがあるのだ。
神代家に生まれた者はみんな不思議な力を持っており、いろいろなものが見える。普通の人には感知できない、妖や幽霊だ。そこから修行を重ね、徐々に力をつけて祓う力を得る。
特に父は祓い屋としてとても強い力を持っており、この業界でも一目置かれた人だった。他の祓い屋では手に負えない相手でも、父は負けることがなかったらしい。父の名は口コミを中心に全国各地に広まり、ひっきりなしに相談が舞い込んできていた。困っている人を決して見捨てることなく、いつも親身になって相談に乗り続けた姿をよく覚えている。
そんな父と二人で暮らしていた私だが、残念なことに祓う力がない。妖の姿は生まれつき見えるものの、攻撃することが出来ないのだ。
祓うと一言で言ってもやり方はさまざまだろうが、うちの場合は自然の力を借りる方法を取っている。風、水、土、火のうちどれかを操り、悪しき者と戦う。それぞれの力には神がいて、祓い屋として才ある者に力を貸してくれるのだ。つまり、力は自分で選ぶわけではなく、こちらが選ばれる立場にある。
ちなみにどの力も当然ながら強いのだが、特に強い火の力を扱える人間はほとんどいないらしい。コントロールが難しく、暴走しやすいのだとか。うちの家系は代々水の力を授かり、父も祓う時にはその力を使っていた。私も水の神から力を借りられるはずなのに、一向に目覚めない。
父の仕事について回り修行も重ねていたのだが、身を守る防御の力は引き出せたものの、攻撃の力がだめだった。普通だと、十代の半ばぐらいでみんな祓う力を身に着けるという。私は二十歳をとっくに超えたので、随分遅い。
父曰く、『璃央は潜在能力が凄い。だから、開花すればきっと私以上の祓い師になれる』らしい。焦らずゆっくりやっていけばいいと、父はいつも笑顔で言っていた。私はその言葉を信じ、立派な祓い師になるべく日々研鑽を積んでいる。
ただ父は、無理に祓い屋を継ぐことはない、という考えだった。危険を伴う仕事なので、娘には普通の人生を歩んでほしかったそうで、その証拠に大学まで出させてもらっている。それに『璃央が好きなことをしたらいいんだ』が口癖でもあった。結局祓い屋の道を選んだが、父の勧めで通った大学ではいろいろなことを学べたので感謝している。
卒業後に就職もせず、父についていくことを決めたのは私だ。大勢の人に愛され、感謝される父を誇らしいと思っていたし、代々伝わる神代家の仕事を父の代で終わらせたくなかったからだ。
そんな風に過去を振り返っているうちに、想像していたより大勢の人が葬儀に来てくれていた。みんなどこからか父の事故のことを聞きつけたようで、仕事関係の人はもちろん、父に祓ってもらったことがある依頼人もたくさん訪れている。
ぞろぞろと列になり動く喪服の人たちは、遺影を見て悲しげに唇を震わせ、涙を堪えている。私はそんな人々にひたすら頭を下げていた。
「あなた……璃央ちゃん?」
そう私に話しかけてきたのは、見覚えのない高齢の女性だった。白髪を綺麗にまとめ黒い着物を着た、上品な佇まいの人だ。
「はい、そうですが……」
「お父様のことは本当に……残念だったわ。あんな凄い人が、こんなに早くに亡くなるなんて。私、あなたのお父様に昔お世話になったことがあってね。その時、一度あなたを見たことがあったけど、まだ小学生ぐらいだったから覚えてないわよね」
「そうだったんですか……」
「お父様に救われた人がどれほどいるか分からないわ。祓い師としての力はもちろん、人としても素晴らしい人だった。あなたはお父様の跡を継ぐのでしょう? きっと素敵な祓い師になるわ」
彼女は私の手をそっと握って、力強くそう言った。だがそれを聞いていたのか、少し離れた場所から親戚の声が聞こえてくる。さっきもひそひそと噂話をしていたおばさんたちだ。
「でも、娘は力がないんじゃなかった?」
「確か私が聞いた話だと、潜在能力はあるけど開花してないって」
「力が目覚めないんじゃ、ないのと同じよね。これからどうするのかしら」
その言葉に全身が強張った。私の手を握る女性にもおばさんたちの話が聞こえたのだろう、心配そうにこちらを見ている。
彼女は小さく頷き、手を握ったまま言う。
「大丈夫よ。あの人の娘さんなんだもの、大丈夫」
その声に私はしっかり顔を上げ、女性を正面から見つめて決意を込めた言葉を出した。
「はい、頑張って父の跡を継ぎます」
確かにまだ能力が開花していないので、半人前とも呼べない状態だ。ゆっくりでいい、と父は言っていたものの、彼がこの世を去ってしまった今、悠長なことは言っていられない。
「今、まだ私の力は開花していませんが、必ず父みたいになります。それが私の小さな頃からの夢でもあるんです!」
私がきっぱり言うと、女性は嬉しそうに何度も頷いた。
父を突然亡くして悲しみの気持ちを抱くと共に、父が守ってきた神代の名を継ぎたいと改めて強く思う。
優しくて強くて、とても好きだった。反抗期の頃は口数が減ったこともあったし、鬱陶しく思うこともあった。でもいつだって父は、私の味方でいてくれる最高のお父さんだった。母がいなくて寂しい時も、父はしっかりフォローしてくれたし、本当はもっとずっと一緒にいたかった。
憧れの父を、これだけの人が必要としている……だったら、私が父のようになろう。
そう、悲しみにとらわれている暇はない。
私には亡くなった父の遺志を継ぐ役目がある。私が一人前になって祓い屋を続けることで、父もきっと安心するはず。だから私は、ここで泣いて立ち止まっているわけにはいかないのだ。
待っていてほしい、お父さん。きっと私、一人前になるから!
心の中で呼びかけるも、父の返事は聞こえない。ああ、いっそ幽霊になって会いに来てくれればいいのに――なんて、祓い屋の娘として相応しくないことを思ってしまった。
*
決意の葬儀から二か月。私は打ちひしがれていた。
広々とした和室の畳に、ごろりと寝そべってぼんやりしていると、全開にした戸から涼しい風が入り、私の前髪を少し揺らす。その向こうにある庭には、父がよく手入れしていたガーベラの花が咲いているのが見えた。心を安らげるはずの美しい花が、今は私を苦しませる。
「静かだなあ……一人ってこんなに静かなんだ……」
葬儀の時はあれほどの人が集まった我が家も、現在はしんとしている。
祖父から譲り受けた古い家は、平屋の日本家屋で、木造の黒い瓦屋根をした昔ながらの家だ。六部屋もある上、それぞれの部屋が結構広い。この周辺では最も大きな家なのだが、金目の物は何もない見かけ倒しの家だ。父と二人で暮らしている時も手入れが大変だったのに、一人になった今は余計に持て余している。
そんな家で、私は風の音だけを聞きながらただぼうっとしていた。
「これからどうすればいいんだろう……」
父が亡くなって息つく間もなく、全国から来る相談に忙しく対応していた。恐らく、父が亡くなったことを知らない人たちが頼りにしてきたのだろう。父がもういないことを伝えると、みんな驚き不安そうな顔をしていた。
もちろんそのまま追い返すのは申し訳ないので、父の旧友である同業者を紹介した。その後、相談者は無事悩みが解決した、と喜んでいたが、私は情けない気持ちでいっぱいだった。せっかくうちに来てくれたのに、他の人に任せなくてはいけないなんて。
とにかく攻撃する能力をどうにか開花させたい。父に教わった方法で一人何度も練習し続けた。父から譲り受けた数珠の手入れを怠らず、集中力を高めるために窓がない修行部屋に一日中籠り、教わった呪文を声が嗄れるまで繰り返したけれど、私の体に変化はない。
「……水の力を操るってどんな感じなのかな」
父曰く、体の奥底で水の気配を感じるようになるという。抽象的すぎてよく分からない。
その力を習得すれば、妖たちを強い水の力で祓えるのだが……父の前ですら成功しなかったのに、一人で出来るわけがなかった。来る日も来る日も、不発で終わる。
相談者に知り合いを紹介する、練習する、紹介する、練習する、の繰り返し。そんな毎日にうんざりした私は、ある時こう考えた。
『いっそ、現場に出て危険な目に遭ってみれば、追い詰められて力が目覚めるかも!』
父が生きていたら目くじらを立てて怒りそうな無謀なやり方だが、他に何も思いつかなかったのだ。数ある相談の中から、なるべく危険度が低そうな依頼を引き受け、一度現場に出て妖と対峙してみた。
結果、手も足も出ず。
そりゃそうだ、防御の力はあるので何とか逃げ出せたものの、守っているだけでは敵は倒せない。あまり強くなさそうな相手だと思ったが、今の私にとってはどんな相手でも格上で敵わないのだ。ピンチになっても力は開花せず、結果またしても父の旧友に仕事を紹介して終わってしまった。
その失敗談が広まったのか、それとも、どうせ行っても他を紹介されるだけだという噂が流れたのか。毎日あった相談は次第に減っていき、ついには誰も来なくなった。口コミの恐ろしさをしみじみと感じている。
祓い屋として代々名を馳せてきた神代家は、父が亡くなってたった二か月で、こんな状態になってしまったのだ。
仕事がなくても多少の貯金はあるので、しばらく生活出来るが、お金は減っていく一方。力の問題だけでなく、そういった現実的な問題にも頭を悩ませている。
ゆっくり起き上がり、畳に座ると庭を眺めた。ふがいなくて泣いてしまいそうになる。
「もう無理なのかな……」
ポツリと呟く。自分の能力がいつ開花するのかまるで分からない。もしかしたら一生しないのかもしれない。
「私が甘かったんだな……お父さんと一緒にいても開花しなかった力が、そう簡単にどうこうなるわけがなかったのに。でも、いなくなった今だからこそ、自分を信じたかった……」
そっと振り返って箪笥の上にある写真を見ると、最後の旅行で一緒に撮った唯一の写真が飾ってあった。父が私を撮影してばかりで、並んで撮ったのはこれだけだったのだ。自分の写真なんていくらあってもしょうがない。もっとたくさん二人の写真を撮ればよかった。
一人ぼっちになった寂しさ。何もできない無力な自分へのいら立ち。
それが相まって、ついにじんわりと目に涙が浮かぶ。膝に顔を埋め、肩を震わせて泣き声を漏らす。
その時だった。ふと、嫌な気を感じたのだ。
顔を上げ、しんとした部屋の中をゆっくり見回す。白い壁、古い箪笥、襖――壁には、この家に似合わない白と黒のスタイリッシュな時計が掛かっている。小物ぐらいお洒落にしたい、と私が選んだものだ。それがわずかに震えていることに気が付く。
「……なに?」
私はすっくと立ち上がり、そばに置いてあった数珠を手に取った。父から譲り受けたこれは、祓う時には必ずいるものだ。しっかりとそれを握りしめ、気を張って辺りをまた見回す。
言葉では言い表せない、不思議な感覚が続く。体の奥底から湧き上がるぞわぞわした不快感と、逃げろと自分に命令する内なる声。だが同時に、これはそう簡単に逃げられるものではない、というのも分かっていた。
何かとんでもないモノが来る。
父に同行した仕事の中で時々出会うことがあった、力の強い妖に似ている。父も顔を歪めながら苦労して祓っていたそれらは、普通の祓い師では太刀打ちできないもので、私は遠くから見ているだけで足がすくんだ覚えがある。
どっと全身に汗をかきながら数珠を構え、狼狽える自分を必死に落ち着かせた。防御の力があるのだから、すぐにやられはしないだろう。でも攻撃も出来ないのでは対抗しようがない。隙を見て逃げ出す? そんなことが出来る相手なのだろうか……
ぐるぐるといろいろなことを考えていると、先ほどまで明るかった部屋が突如暗くなった。外は青空が見えていたはずなのに、まるで夜が訪れたようだ。
「一体何が――」
開いている戸から外に顔を出した瞬間、突風が吹いた。肌に痛みを覚えるほどの強さで、倒れそうになるのを必死に堪えながら、目を閉じて足に力を込める。古い家全体が風に煽られガタガタと揺れると、背後から父との写真が落ちる音がした。
どれくらいその風が続いただろうか。長く感じたが、実際は数秒だったのかもしれない。それが前触れもなくふっとやんだ。
やっと収まった風に安堵しつつ瞼を開けると、すっかり青空が戻った庭に一人の男が立っていた。
私は驚きのあまり息を止めた。周りの音が何も聞こえず静寂に包まれ、まるで男と私、二人きりの世界になったような感覚に陥る。
とても美しい人だった。白い肌に高い鼻、長いまつ毛。切れ長の目をしていて、一つ一つのパーツが綺麗でバランスが整っている。さらりとした髪は透き通るような銀色で背中まで伸びており、すらりと背が高くモデルのようだ。パッと見たところ、年齢は二十代後半に見えるが、醸し出される色気や貫禄はもっと上に思えた。
彼は、少し距離の離れた私からも上質と分かる白い着物を身にまとっていた。襟元は金糸で縁取られ、腰に締められた帯は深い紫色をしていて、広い袖から出る腕が少し動くだけで、布が滑らかに動く。どれもが彼の美しさを際立たせていた。
彼が人間でないことは一目見て分かった。尖った耳と、ふわふわとした大きな尻尾がついていたからだ。その尻尾は、私をあざ笑うかのようにゆっくり揺れている。
この世のものとは思えない儚さとおぞましいオーラを隠さず、彼は余裕のある微笑を浮かべていた。
「妖狐……!」
私は数珠を握り直し、男を正面から睨んだ。だが、手も足もがくがくと震え、背中には寒気が走る。恐怖心が抑えきれないのだ。
妖狐――その名の通り狐の妖で、遥か昔から人間にとってとても厄介な相手だと言われてきた。個別差はあるが基本的に強い力を持ち、さらに頭がいい。人間を騙すことに長けており、こちらの弱みなどを上手くついてくるのだ。
私の感覚が正しいならば、今目の前に立つ男はとてつもない強さを持つ妖狐だ。私の体の中で、警報がずっと鳴っている。
「うちに何か用……? 何が目的?」
怯えを必死に隠しながら、私は何とか質問した。だが相手は、ふっと小さく笑っただけで何も答えない。
彼の瞳から目を逸らさずにいると、次第に違和感を覚え始めた。しばらく考えるが、違和感の正体は掴めない。
「そう力まなくとも、お前を殺しに来たわけじゃない」
妖狐がようやく声を発した。
妖艶で、でも威圧感のある声にびくっと体が跳ねた。こめかみに汗が垂れ、不快感を覚える。
「じゃあ、何をしに来たの? ここは妖が遊びに来る場所じゃない」
「そう敵意をむき出しにするな。用があるのはお前みたいな小娘じゃなく、父親の方だ」
「父に? ……もしかして仕返し? 父に負けたことがあるとか」
「馬鹿言うな、私が負けるとでも? 敵ではない、ただの知り合いだ」
「知り合い?」
私が眉間に皺を寄せて聞き返すと、彼は一つ頷き、ゆっくりこちらに近づいてきた。一歩、また一歩、彼が近づくたびに私は少しずつ後退する。部屋の中央まで来た時に、足をもつれさせて尻もちをついてしまった。
妖狐は縁側に足を掛け家に上がり、私の顔を覗き込む。銀色の髪がさらりと垂れた。
「お前の父親に頼みがある」
「……頼み、って?」
「本人に言う。父親はどこだ?」
有無を言わさない圧力で尋ねる妖狐に、私は情けなくも圧倒されて動けずにいた。果たして、父の死のことを妖に話してもいいのだろうか。どうしようか迷ったが、隠していてもいずれバレるだろうと思い、正直に告げた。
「父は……いません」
「いない?」
「亡くなりました」
「なに?」
私の言葉に、妖狐が驚いたように目を丸くした。妖でもこんな風に驚くんだ……なんて、私はどうでもいいことを考える。
妖狐はすっと目を細めた。
「嘘ではないだろうな」
「こ、こんな悲しい嘘つきません!」
妖狐は少しの間私を見つめた後、何かに気付いたように部屋の奥を見た。畳には、先ほどの揺れで落ちてしまった私と父の写真がある。
彼は静かに近づき、無言でそれを手に取った。そしてじっと写真を見つめながら、納得するように小さく数回頷く。
「まあ確かに、そんな嘘をつく理由はないか……娘が一人で残っているわけだしな」
箪笥の上に写真を置いた妖狐は、考え込むように腕を組んだ。
「そうか……死んだのか……これは予想外だったな」
「あの……父に一体何の用があるんですか?」
「見て分からないか?」
どこか呆れたような言い方だったので、私は少しむっとした。
「そんなの分かるわけないです」
体に力を入れてようやく畳から立ち上がり、強めの口調で言い返した。恐怖心はまだあるが、見くびられたくない、と思ったのだ。
「祓い屋の娘のくせにか?」
「どういう意味ですか⁉」
「私をよく見て、何か疑問に思わないのか。洞察力のない人間だな」
妖狐は私の方を見て、ため息交じりにそう言った。洞察力がない、なんて言われたことにさらに不愉快になったが、とりあえず妖狐の姿を観察してみる。そういえば、初めに見た時、何か違和感を覚えた気がしたけれど……
つま先からゆっくり視線を上げ、彼の姿を見ていく。悔しいほど美しい造りをした顔に差し掛かった瞬間、あることに気が付いた。
「あなた、目が……」
彼の瞳は、ごく普通の黒色をしていた。
だがそれはおかしいのだ。妖狐の瞳は金色をしているはず。人間に化けている時などは色が違うこともあるが、今はどう見てもそんな様子はない。
「やっと気付いたのか、鈍い娘だ」
「いちいち悪口挟まなくても……でも、どうして?」
「私の力は今、封印されている」
「どういうこと⁉」
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