ヒロインになれませんが。

橘しづき

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揉め事はごめん

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 あれ以降、怒涛の日々を送っている。

 慣れない仕事内容に毎日クタクタで死にそうだ。吉瀬さんは言葉通り私をしっかりしごいてくれている。ちょっと厳しいと思うこともあるけど、時折見せる優しさが染みるのでやっていけている。飴と鞭ってやつだろうか? 吉瀬さんそのバランス凄すぎ。

 それを見て蒼井さんは色々フォローをいれてくれるし、坂田さんはさらに仲良くなって時間が合えばお昼を食べたり、雑談したりと楽しくやっている。

……のを、あまりよく思っていない人たちの視線をひしひしと感じている。

 ボブは井ノ口さんと言うらしい。口では井ノ口さんと呼んでいるが、心の中ではボブと呼んでいる。今でも人がいないときにチクチクと嫌味っぽいことを言ってくるのだが、ボブ呼ばりしていると、心の中でムキムキ外人の男性が『Hi!』って顔を出してきて面白いので、嫌味に集中しなくて済む。これで毎回乗り越えているのだ。

 まあボブやその周りの人たちは敵意むき出しなのだが、他の人たちは基本優しいのでそこまで苦になっていない。そのうち静かになっていくだろう……と思っているのだが……。

「ねー安西さん? この資料、私訂正してから印刷してって言ったよね? 間違えてるんだけど」

 ボブが目を吊り上げて私を見下ろしていた。私はパソコンを入力する手を止め、立ち上がり彼女が持っている資料を手に取り確認する。

 確かに頼まれて私がやった仕事だ。今は学びながら、いろんな人のフォローや雑務をするのが主な仕事なので、井ノ口さんに仕事を任されることもある。

 でも……訂正するなんて、聞いてないと思うんだけど……。

 必死に記憶を呼び起こすも、そんな会話を交わした覚えがない。私が聞いていたなかったんだろうか? 井ノ口さんとの会話は特に気が張るので、そんなことはないと思うのだが。

「すみません、どこの訂正でしょうか?」

 私が恐る恐る尋ねると、井ノ口さんはわざとらしくため息をついた。

「えーっ。あんなに繰り返し強調してたのに忘れたの!? そもそも聞いてなかったんじゃない? しっかりしてよ」

「すみません、確かに聞いた記憶がなくて。そんなに繰り返しおっしゃってましたか?」

「私に責任を押し付けるつもり? 仕事しにきてるんでしょ? こんな簡単なことぐらい出来なくてどうするの」

 ぐっと言葉に詰まる。

 そんなに協調して何度も言ってたはずなら忘れないと思うのだが、相手がこれだけきっぱりと『言った』と断言しているなら、もうこれ以上何も言わないのが一番だ。どっちが悪いかなんて口論しても不毛だし、相手は先輩だ。

 私は静かに頭を下げる。

「すみませんでした」

「えーっなんか泣きそう? やだなあ、泣かれると私が悪役みたいじゃん……厳しいかもしれないけど、安西さんを思って言ってるんだよ? 自分が悪いのに泣いて許されようとするのはよくないよー?」

 全く泣きそうじゃないんだが。ヘイボブ、悪意を感じるぞ!

 仕事でミスして、注意されたら泣いて許されようとする……なんてやわいキャラじゃないのだ。いい加減分かってほしい。

「いえ、全然泣きそうじゃないです、大丈夫です! ご指導ありがとうございます!」

 私が頭を上げてにっこりと笑って見せると、相手は頬を引きつらせる。あ、また対応を間違えてしまっただろうか?
 
 案の定、苛立ったように腕を組んでボブは言う。

「あのさ、反省してないでしょ?」

「いえそんなことは」

「また繰り返すよ? そんなんでやっていけるの?」

 笑顔は笑顔でだめなんかい! 難しい。

 というか多分、私に不満をぶつけたいだけだろう。それがひしひしと伝わってくるので、仕方なく黙って静かに言葉を聞き入れる。気がすむまで言わせておけばいいんだろうか……。頭の中で昨日見たドラマの続きを想像して過ごそう。

 私は心の中で嘆き、時間が経つのを待つことを決意したときだ。

「あれー? その資料を安西さんに頼むとき、僕近くにいたから聞こえてたけど、訂正箇所とか言ってなかったよ?」

 背後から声が聞こえてきたので二人で振り向くと、今会社に戻ってきたらしい蒼井さんが立っていた。彼の登場と発言に、井ノ口さんは分かりやすく狼狽える。

「あ、確か吉瀬も隣の席だから聞いてたと思うよ。あいつにも聞いてみようか? 印刷の事しか言ってなかったと思うけど」

 涼し気に微笑みながらそう言う姿が、なんだか怖い。この前も思ったけど、普段にニコニ穏やかキャラが少し黒いオーラを見せると迫力がある。

 蒼井さんが参戦したところで、周りの注目も集まり始める。ボブはまずいと思ったのか、すぐに猫なで声に変わった。

「えーそうだったっけえ? 私の記憶違いだったのかも……安西さんごっめーん!」

「あ、いえ大丈夫です……」

「ごめんだけど、訂正箇所教えるからやり直してもらえるかなあ? 本当ごめんね!」

 手を合わせて謝ってくるが、どこか目の奥から怒りを感じる気がするのは気のせいだろうか。とりあえず笑顔でかわしておくしかない。これからもボブからの声掛けには気を付けよう。

 その後、やけに優しい声で訂正箇所を教えてもらい、ボブは戻っていった。嵐が過ぎ去ったようだ、どっと疲れが出る。だが業務に戻る前に、蒼井さんに一言言っておかねばならない。

 私は静かに彼の席に行き、小声で言う。

「ありがとうございました……」

 彼は顔を上げ、ニコッと笑った。また目じりに小さな皺が出来て、子犬のようだ。

「何もしてないよ。頑張ってね」

 いい人すぎる……ボブで削られたHPを彼の癒しで回復させる。いつもお世話になってるし、今度ちゃんとお礼がしたいなあ。

 そう思いながら一旦自分の席に戻ったところで、トイレに行きたくなったので廊下へと出る。女子トイレに向かっていると、背後から声を掛けられた。

「安西さん」

 振り返った時、つい心の中で『げっ』と呟いた。立っていたのは浅田さんだった。

 課長である浅田さんは、にこやかで優しいオーラのある上司で、周りの人たちから親しまれている。話しやすいし、好かれる理由は分かる。

 私が入ってからも色々と気にかけてくれているらしく、時々声を掛けてきたりするのだが……。

「さっきは大丈夫だった? あの人、ちょっときついとこあるけど、悪い人じゃないからさ」

 そう言って自然な装いで背中をさすられた。ぞぞっと寒気が走る。

 下着のホック周辺ばかりを狙っているかのように触られ、私は反射的に振り返る。

「大丈夫です! ご心配ありがとうございます」

「あーうん、落ち込んでなかったならよかった。安西さんには期待してるからね。そうだ、今夜時間があったら夕飯をご馳走しよう」

「あ、ありがとうございます。でも予定がありまして……それに、浅田さんと食事に行きたい人は他にもたくさんいると思うので、どうぞ他の方を誘ってください!」

「いやいや、入ってきたばかりの安西さんを元気づけようとしてやってるんだからさあ」

 笑いながら一歩こちらに近づいたので、私も一歩引く。引きつった顔で早口で答える。

「ありがとうございます、でもほんとお気になさらず! 今は仕事に集中したいですし、楽しくやれているので。では!」

 一気にそう吐き出すと、そのまま女子トイレに駆け込んだ。中に入り、深いため息をついて脱力する。

 ここ最近、安田さんがやたら触ってきて、食事に誘ってくることに困っていた。

 この時代、男性もセクハラだのなんだのに敏感で、女性に触れてくる人なんて少ない。でも彼はお構いなしにああやって背中を撫でたり、頭をポンポンしたり、肩に手を置いたりと距離が近い。

 しかも、今みたいに私が一人でいるときばかりにそうやってくる。それとなく坂田さんに彼の印象を聞いたが、優しい上司という評価で、特に距離感が近いだとかそういう話は一切聞かなかった。誰にでもああしてるわけではないのかもしれない。

「困ったなあ……」

 頭を掻いてしかめっ面になる。

 これだ、これなんだよ。今までも近づいてくる男はどうもああいう輩が多かった。下心が丸出しというか、紳士的じゃないというか。どうしてああいうのを引き寄せてしまうんだろう。

 誰かに相談したい気持ちもあるが、さすがに異性である吉瀬さんや蒼井さんにはしづらいし、坂田さんもこんなこと言われても困るだろう。なにより、異動してきたばかりでまだ馴染み切れていない職場で、もめ事を起こしたくない。

 とりあえず一人になるのを避けて、拒否しまくばいつか諦めてくれるに違いない。

 私は項垂れながら個室へと入った。


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