ヒロインになれませんが。

橘しづき

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私しか知らないこと

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 翌朝出勤してみると、蒼井さんは欠席らしい、ということを聞いた。昨日触った感じ、とても熱は高そうだったので休みは想定内ではあったが、彼のデスクが空なのを見て、なんだか酷く寂しく思った。

 蒼井さんはああ言ってたけど、一人で大丈夫なのかな。やっぱり強引にでも差し入れぐらいした方がよかったのかもしれない。

 一人で落ち込み、はあと深いため息をつく。そんな私に心配そうに声を掛けてきたのは、坂田さんだった。

「おはようございます、安西さん。蒼井さんお休みなんですね」

「あ、おはようございます。やっぱり熱高かったんですね。早くよくなるといいけど……」

「中々話すことも出来ませんね」

「タイミングが合いませんねえ……」

 項垂れていると、丁度吉瀬さんが出勤してきた。彼は軽く挨拶をした後、ミルクティーと思しきドリンクを飲みながら言う。

「蒼井は休みか」

「みたいですね」

「まああいつは普段から色々一人でやりすぎだから、たまにはゆっくり休んだ方がいいな」

 そう言う吉瀬さんの横顔を、坂田さんがどこか熱い視線で見ている……気がする。先入観かなあ、彼女の気持ちを知ってしまっているから。

 吉瀬さんも絶対坂田さんにはいいイメージを持ってると思うから、頑張ればいいのに! ちゃんと話して気持ちを伝えればいいのに! もどかしい~!

……ブーメランだな。私こそ蒼井さんに何も言えてないくせに、人の事に首を突っ込んでる場合ではない。

 一人でぶつぶつ反省しているところへ、鈴村さんがあいさつしながらこちらに向かってきたのが見え、つい体が強張ってしまった。なんだか、昨日凄く睨まれていた気がしてどうも気まずい。気のせいならいいのだが。

「吉瀬さん、おはようございまーす!」

 隣にいる私と坂田さんには声を掛けず、彼女はまっすぐ吉瀬さんの元へ駆け寄った。その手にはお茶にココア、水にオレンジジュースと豊富なラインナップのドリンクを抱えている。

 だがそれを見て、吉瀬さんはあからさまにめんどくさそうな顔をしたのを、私は見逃さなかった。

「おはようございます」

「あの、昨日はすみませんでした。コーヒーが苦手って知らなくて……他に色々買ってみました! リベンジさせてください、お一つどうぞ! 他の皆さんにも配る予定ですから」

 それを聞き、吉瀬さんは少し考えた後ココアを手にした。軽く頭を下げる。

「いただきます、ありがとうございます」

「いいえ! あ、あとラインを聞いてもいいですかあ? 今いろんな人に聞いてるんです! やっぱりみんなと仲良くなりたいから」

 可愛らしく笑って鈴村さんが言った。私はそっと隣の坂田さんを見ると、彼女もこちらを見て目が合ったのでお互い苦笑いをした。よかった、聞かれてないの、私だけじゃないみたい。

 吉瀬さんは一瞬停止したが、ポケットからスマホを取り出す。みんなに聞いてる、と同僚に言われては、教えるほかないだろう。

「ありがとうございます! 私読み取りますねえ! あの、吉瀬さんってランチとかいつもどうしてますか? 私来たばっかでよく分からないから……ご一緒させてもらえませんか?」

「あー外回りの最中にとることがほとんどだから。他の人もそれが多いと思うけど」

「タイミングが合うときは一緒に食べたいです! そしたらすっごく嬉しいなあ、って」

「でも俺は戻ってくることほとんどないし」

「もしあれば一緒に食べましょ! ね?」

「……まあ、そういうタイミングがあればね」

 折れるような形で吉瀬さんが答える。鈴村さんは跳ねながら喜び、また坂田さんをちらりと見た。なんで坂田さんをちらちら見てるんだろう、と私もつられて見てみれば、隣の坂田さんは誰が見ても分かるほどに暗い表情になっていて、落ち込んでいるのが分かる。これ、鈴村さんは坂田さんの気持ちを分かった上でやってるのか、と愕然とした。

 坂田さんから見れば、吉瀬さんに積極的にぐいぐい行く美少女がいればたまったもんじゃない。坂田さんは大人しめでちょっと自分に自信がないところがあるから、なおさらだろう。

 って、そもそも鈴村さんは何がしたいの? いつも蒼井さんにべったりじゃない。本当は吉瀬さんを狙っているのかな?

「とーまくんともランチしたいなーって思ってたんですけど、中々タイミング合わないし今日なんて休みだし。いつか三人でご飯とか行きませんか!? 楽しそう、わくわくしちゃう」

「……タイミングがあればね」

「やったあ! 約束ですよ。色々教えてくださいね?」

 吉瀬さんの顔を覗き込んでそう囁いた坂田さんは、嬉しそうに私たちの横を通り過ぎて自分の席へと戻っていった。あ、やっぱり私や坂田さんには連絡先聞かないんですか。

 恐る恐る坂田さんを見れば、彼女は悲しいぐらい無理やり笑顔を作っており、胸が苦しくなった。

「あ、あの、坂田さん……」

「ねえねえ、鈴村さんからドリンクもらった?」

 私が声を掛けようとしたところで、同僚の女性がこっそりと声を掛けてきた。私の残業を手伝ってくれた人で、それ以降雑談も少しずつ増えてきた人だ。

 私は首を振って正直に答える。

「いえ、私はまだ……」

「私もです」

「やっぱり!? なんか男にばっかりあげてない?」

「あれですかね、仕事を教えてもらった人にお礼に……とか」

「吉瀬さんは教えてるところ見たことないけど? それに私、初日に仕事について教えようと声を掛けたら凄くめんどくさそうな顔されて、あれ以降声かけてないよ。完全に女性社員からは浮いてるよ」

 眉を顰めて言うその人の話は決して大げさではないと、私も分かっていた。なぜなら、他の社員たち(特に女性社員)からピリピリした空気が出ている。ボブを筆頭に、鈴村さんへ苛立ちの視線が送られていた。おお、私も最初は結構嫌われることが多いけど、さすがにここまでの空気感は感じたことがないぞ。

 でも鈴村さんは何も気にせず、他の男性社員にドリンクを配っていたので、彼女のメンタルの強さを感じた。それとも気付いていないだけ? いや、坂田さんの表情の変化にすら気付く彼女が、この視線に気づかないわけがないと思う。

 なんだか、ぎすぎすしてきたなあ……私は肩をすくめてため息をつく。

 ドリンクを配られた一部の男性たちは、嬉しそうに笑いながら彼女の周りに群がっていた。そういえば、鈴村さんが来てからああいう図をよく見る気がする。するとそこへ、しびれを切らしたようなボブが割り込む! ヘイボブ、やはり君の気は強い! みんな待たせたな、ボブの登場だ!

「鈴村さん? 一部の男社員にだけ贈り物とかしなくていいから。それよりちゃんと仕事してる? 人に頼ってばかりいないでよ」

 明らかに強い敵意をぶつけながらボブが言うも、鈴村さんはきょとんとして首を傾げた。

「えーでも……仕事を教えてくださった方に渡したいだけです! お世話になった人にちょっとでも返したい……と思うのは当然じゃないですか?」

 ボブの片眉がぴくぴくと動く。周りの男性はやれやれと言った様子でボブに反論する。

「別に自動販売機の飲み物くれてるだけじゃん、こういう気遣い出来る子は必要だよ。分からないところは聞いて当然だし」

「まだ入ったばかりだから、そりゃ人に頼るよな」

「あのねえ! 私は、そんな事する暇あるならマニュアル読んで自分で仕事をしなさいって言いたいの。気遣いだけで仕事は覚えないんだから! 人に頼ってばかりはこの子のためにもならないでしょ!」

「まだ入ってすぐだし、頼って何が悪いんだよ」

「頼るって言っても、限度があるって言ってんの!」

 イライラで息を乱し始めたボブとは正反対に、自分を庇う男たちににこりと微笑みかけ、彼女は満足そうだ。その後すぐに、何か気が付いたようにしてぽん、と掌を合わせた。

「井ノ口さんはきっと、最初から凄くお仕事出来る人だったんですね! 私はほら、ちょっとどんくさいから……井ノ口さんみたいになれたらいんですけど。今は下っ端らしく頑張るしか出来ないので!」

 そう言う鈴村さんを、近くにいる男性が励ます。

「いやいや、鈴村さんはどんくさくないよ! 色々質問してくれるし頑張ってるって。ドリンクくれたり、気が利いて可愛いし! 最近は可愛いくていい子ばっかり入ってきて俺たちは嬉しいよー」

「可愛い子『ばっかり』?」

 その言葉に、鈴村さんの笑みが止まった。

 気がつかないのか、男性たちは会話を続けていく。

「安西さんが来た時も盛り上がったしなあ。笑顔でお菓子配ってくれたりして」

「でもほら、安西さんには蒼井がいるからね」

「蒼井じゃ勝ち目ねーわって」

「とーまくんがいる?」

 聞き捨てならない、とばかりに、先ほどよりやや低い声で鈴村さんが呟いた。そしてやや目を吊り上げて尋ねる。

「安西さんってどなたですか?」

「え? ほら、吉瀬の隣のあの子」

 私は鈴村さんが来た初日にあいさつしに行ってるし、昨日あんなことがあり、吉瀬さんも蒼井さんもさんざん私の名前を呼んでいたというのに、彼女の中に記録されていなかったらしい。まあ、それはいい。

 鈴村さんがこちらを見て目が合った瞬間、凄い怒りのオーラが伝わってきて、つい震えた。あの子は訓練すれば覇王色が使えるのかもしれない。
 
「……とーまくんがいる、ってどういう意味ですか?」

「え? だって蒼井が公開告白みたいなことしてたから。付き合ってるんじゃない?」

「はあ?」

 それを聞いた鈴村さんはつかつかと歩み寄ってきた。私の両隣にいる坂田さんや同僚もやや怯えるほどの気迫で、私も固まってしまった。

 鈴村さんは正面から私をじっと見る。

「……付き合ってるんですか?」

「えっ」

「とーまくんと付き合ってるんですか?」

「い、いえ、まだ付き合ってません……」

 正直にそう言うと、彼女の表情は一瞬で和らいだ。ぱあっと明るくなり、そして周りに響き渡るような声で言う。

「ですよねえ―! 彼女だったら、昨日とーまくんが体調悪いとき、看病断られたりしてないですよねえ!」

 それを聞いてグサッと胸に刺さった。

 正論だ。私が蒼井さんの彼女だったなら、昨日彼の看病が出来ただろう。せめて、住んでいる場所に差し入れを届けるぐらいのことが出来たのに、それすら出来なかった。

 あの公開告白みたいなものから、私たちはまだ何も関係が進んでいない。いや、話すきっかけがなかったんだけど、でもそれは言い訳だったのかもしれない。電話やラインでも連絡の取りようがあるのに、何もしていないのは自分だ。

 俯いた私に勝ち誇ったような顔をした鈴村さんはさらに、私に近づき耳打ちするようにこう言った。

「私は昨日とーまくんのお見舞いにちゃんと行きましたよ。差し入れあげたんです。とーまくん、すっごく喜んでくれてました」

「……え」

 セリフを聞いてさらに固まってしまった私に、彼女は追い打ちをかける。

「幼馴染だから、私しか知らないことたくさんあるんです。とーまくんの好物とか、苦手なものとか……彼もそこ、よく分かってるんじゃないですかね。こんな再会凄い確率だと思うし、家族も顔を知ってる仲だし……ほんと、私たちって凄いですよね? とーまくんもそう思ってるんじゃないかなあ」

 思考が停止したみたいだった。息をするのすら忘れ、私はただぼんやり床の一部を眺めていた。

 昨日、お見舞いに行ったんだ……つまり、鈴村さんは蒼井さんの住んでいる場所を知ってるっていうことか。そして、蒼井さんもそれを受け入れたんだ。まだ再会してほとんど時間は経っていないのに、家の場所まで教えていたなんて。

 私はもちろん知らない。それどころか、蒼井さんは紅茶が好き、ぐらいの事しか知らず、他は彼に関して何も分からない。

 それがあまりにショックだった。

「どうでもいいけど仕事始まるから。鈴村さん、ちゃんと席に戻れ」

 ずっと黙っていた吉瀬さんが苛立ちの声をあげた。鈴村さんは素直に返事をする。

「はーい」

 私からぷいっと顔を背けて、また自分の席へと戻っていった。その後姿を見送ることすら出来ず、隣で坂田さんが戸惑っているのだけ感じていた。


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