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みえるという苦しみ
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「せ……!」
「歩きスマホは感心しない」
私が右手に持っているスマホをちらりとだけ見ると、そう短く言った。私はすぐに弁解する。
「ち、違います、スマホは見てませんでした! ただちょっと考え事をしていて。てゆうか先生はここで何を」
「あっち、駐車場」
「あ、ああ……」
スタッフ用の駐車場はいくつか点在しているが、結構病院から遠い場所にある。しばらく歩かいないとたどり着かないのだ。先生の駐車場も少し向こうにあるらしい。
まさか考えていた相手と急に会うことになるなんて、予想外のことすぎて心の準備ができていない。私は一人モタモタと困っていると、それを気にせず彼は歩き出してしまう。慌ててそれを呼び止めた。
「せ、先生!」
ぴたりと足を止め、ゆっくり振り返る。やはり笑顔のないその顔をもう怖いと思うことはなかった。むしろ、少し心臓が速まっている。
「何」
「あの、聞いてましたよね、森さんの……」
一応周りに人がいないか見渡しながら小声で尋ねた。大丈夫、人はいない。先生もゆっくり周囲を見ながら答えた。
「ああ……それが考え事の内容?」
「あ、あの、あんな風にあの人が考えているなんて思わなくて」
「君はまだ入って間もなかったね。そりゃ驚くか」
「それに、先生もあんな近くで怒鳴られて……何も悪くないのに」
つい声に力が入ってしまう。向こうの気持ちもわかるのだが、やはりそれは聞きたくなかったというのが本音だ。霊なんか視えなければよかったのに。
少し沈黙が流れた。先生は何も言わず、なぜか視線をそらしてぼうっとしている。両手をポケットにしまい込み、口を開く。
「心配してくれたのか」
「……あ、す、すみません。こんなペーペー看護師に……」
「いや。
ああいうパターンは少ない。だが、死んだ後の人間に罵倒されることは何度かあった。それはもう慣れたから」
「慣れたんですか……」
「本来は聞かなくてもいいことを聞く羽目になるから、損はしてると思う。でも気にしてもしょうがない、向こうも悪気があるわけじゃない」
サラリとそう言える先生が凄いな、と素直に思った。同時に、あんな状況にも慣れるなんて、とても酷で恐ろしいとも思う。
視えるのに病院で働いている――これはやはり、想像以上に残酷だ。
「先生が気にしてないのなら、いいんです」
「君にはまだまだキツイ場面だろうが、そのうち慣れるよ。慣れなきゃやっていけない、自分が壊れるだけだ」
きっぱり言い切ったその言葉に、どこか含みを感じた。私は何か尋ねようとしたが、先生はくるりと向こうを向いてしまう。
「じゃ。心配どうもありがとう。お疲れ」
早口にそういうと、さっさと歩いて行ってしまった。愛想がないし口数も多くない。でもやっぱり、ちゃんとお礼だけは言うんだなあ。
ぼんやりとその後ろ姿を見送り、先生にちゃんと話が出来たことを心の中で喜んだ。そして同時に、やるせない思いも心の中に広がっていく。
慣れるしかないのか。慣れるしか……向こうも悪気はない、むしろ一番辛いのはあっちなんだもんなあ。
頭を小さく掻いた。そして手に持っていたスマホをポケットにしまうと、帰宅するために道を歩き出した。
休みを挟んで仕事へ向かう。いつも通りの動きで働き汗水垂らしている午後二時、廊下を足早に歩いていると、一つの病室から誰かが出てきた。ちょうど目の前に見えたその顔は、横顔からでも疲労感がたっぷり感じられた。
あっ、と思う。久保さんの奥さんだった。
右手に子供を抱え、パンパンに膨れたリュックと紙袋も持っている。子供と移動するための荷物と、夫である久保さんへの差し入れだろう、と安易に想像できた。
奥さんは小柄で、細くて可愛らしい人だ。華奢なその腕で、あまりに多くの荷物を抱えており、その姿だけで泣きそうになった。そして目には見えない重圧を、心でさらに抱えているのだ。
余命わずかと聞かされている夫。日々痛みで苦しむ夫。
一番手がかかる時期の息子。今後夫が亡くなった後、二人きりで生きていかねばならない。
「大丈夫ですか?」
私はつい、声を掛けてしまった。ハッとした顔で奥さんが顔を上げる。目の下にあるクマは、コンシーラーで隠しきれていなかった。私は表情を柔らかく保ち、再度言った。
「久保さん、大丈夫ですか?」
私の言葉を聞き、彼女はどこかホッとしたような顔になった。張りつめていた気が抜けたのかもしれない。私はそばに寄り、まずは彼女が抱いている子の顔を覗き込んだ。
久保さん夫妻によく似ている男の子だった。きょとん、とした顔でこちらを見ている。可愛らしくてつい微笑んだ。
「似てますね」
「よく言われます」
「可愛い。こんにちは」
私が挨拶をすると、てっきり恥ずかしがるかと思いきや、彼はにっこり笑った。天使とも呼べるほどのそれに、私は反射的に高い声を漏らしてしまった。楽しそうに笑う彼は、小さな手を私に伸ばしてくる。
「わ、わ、可愛い!」
「あ、こら健人」
「え? 抱っこくるの?」
健人くんは私の方に身を乗り出してくる。私は慌てて両手を消毒し、彼をすぐに抱きかかえた。思ったより重い、小さくてもこんなに体重があるんだなと唸った。この子を抱っこして病院まで来ている奥さん、本当に大変だろうな。
「歩きスマホは感心しない」
私が右手に持っているスマホをちらりとだけ見ると、そう短く言った。私はすぐに弁解する。
「ち、違います、スマホは見てませんでした! ただちょっと考え事をしていて。てゆうか先生はここで何を」
「あっち、駐車場」
「あ、ああ……」
スタッフ用の駐車場はいくつか点在しているが、結構病院から遠い場所にある。しばらく歩かいないとたどり着かないのだ。先生の駐車場も少し向こうにあるらしい。
まさか考えていた相手と急に会うことになるなんて、予想外のことすぎて心の準備ができていない。私は一人モタモタと困っていると、それを気にせず彼は歩き出してしまう。慌ててそれを呼び止めた。
「せ、先生!」
ぴたりと足を止め、ゆっくり振り返る。やはり笑顔のないその顔をもう怖いと思うことはなかった。むしろ、少し心臓が速まっている。
「何」
「あの、聞いてましたよね、森さんの……」
一応周りに人がいないか見渡しながら小声で尋ねた。大丈夫、人はいない。先生もゆっくり周囲を見ながら答えた。
「ああ……それが考え事の内容?」
「あ、あの、あんな風にあの人が考えているなんて思わなくて」
「君はまだ入って間もなかったね。そりゃ驚くか」
「それに、先生もあんな近くで怒鳴られて……何も悪くないのに」
つい声に力が入ってしまう。向こうの気持ちもわかるのだが、やはりそれは聞きたくなかったというのが本音だ。霊なんか視えなければよかったのに。
少し沈黙が流れた。先生は何も言わず、なぜか視線をそらしてぼうっとしている。両手をポケットにしまい込み、口を開く。
「心配してくれたのか」
「……あ、す、すみません。こんなペーペー看護師に……」
「いや。
ああいうパターンは少ない。だが、死んだ後の人間に罵倒されることは何度かあった。それはもう慣れたから」
「慣れたんですか……」
「本来は聞かなくてもいいことを聞く羽目になるから、損はしてると思う。でも気にしてもしょうがない、向こうも悪気があるわけじゃない」
サラリとそう言える先生が凄いな、と素直に思った。同時に、あんな状況にも慣れるなんて、とても酷で恐ろしいとも思う。
視えるのに病院で働いている――これはやはり、想像以上に残酷だ。
「先生が気にしてないのなら、いいんです」
「君にはまだまだキツイ場面だろうが、そのうち慣れるよ。慣れなきゃやっていけない、自分が壊れるだけだ」
きっぱり言い切ったその言葉に、どこか含みを感じた。私は何か尋ねようとしたが、先生はくるりと向こうを向いてしまう。
「じゃ。心配どうもありがとう。お疲れ」
早口にそういうと、さっさと歩いて行ってしまった。愛想がないし口数も多くない。でもやっぱり、ちゃんとお礼だけは言うんだなあ。
ぼんやりとその後ろ姿を見送り、先生にちゃんと話が出来たことを心の中で喜んだ。そして同時に、やるせない思いも心の中に広がっていく。
慣れるしかないのか。慣れるしか……向こうも悪気はない、むしろ一番辛いのはあっちなんだもんなあ。
頭を小さく掻いた。そして手に持っていたスマホをポケットにしまうと、帰宅するために道を歩き出した。
休みを挟んで仕事へ向かう。いつも通りの動きで働き汗水垂らしている午後二時、廊下を足早に歩いていると、一つの病室から誰かが出てきた。ちょうど目の前に見えたその顔は、横顔からでも疲労感がたっぷり感じられた。
あっ、と思う。久保さんの奥さんだった。
右手に子供を抱え、パンパンに膨れたリュックと紙袋も持っている。子供と移動するための荷物と、夫である久保さんへの差し入れだろう、と安易に想像できた。
奥さんは小柄で、細くて可愛らしい人だ。華奢なその腕で、あまりに多くの荷物を抱えており、その姿だけで泣きそうになった。そして目には見えない重圧を、心でさらに抱えているのだ。
余命わずかと聞かされている夫。日々痛みで苦しむ夫。
一番手がかかる時期の息子。今後夫が亡くなった後、二人きりで生きていかねばならない。
「大丈夫ですか?」
私はつい、声を掛けてしまった。ハッとした顔で奥さんが顔を上げる。目の下にあるクマは、コンシーラーで隠しきれていなかった。私は表情を柔らかく保ち、再度言った。
「久保さん、大丈夫ですか?」
私の言葉を聞き、彼女はどこかホッとしたような顔になった。張りつめていた気が抜けたのかもしれない。私はそばに寄り、まずは彼女が抱いている子の顔を覗き込んだ。
久保さん夫妻によく似ている男の子だった。きょとん、とした顔でこちらを見ている。可愛らしくてつい微笑んだ。
「似てますね」
「よく言われます」
「可愛い。こんにちは」
私が挨拶をすると、てっきり恥ずかしがるかと思いきや、彼はにっこり笑った。天使とも呼べるほどのそれに、私は反射的に高い声を漏らしてしまった。楽しそうに笑う彼は、小さな手を私に伸ばしてくる。
「わ、わ、可愛い!」
「あ、こら健人」
「え? 抱っこくるの?」
健人くんは私の方に身を乗り出してくる。私は慌てて両手を消毒し、彼をすぐに抱きかかえた。思ったより重い、小さくてもこんなに体重があるんだなと唸った。この子を抱っこして病院まで来ている奥さん、本当に大変だろうな。
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