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ベータの飛躍
第85幕
神崎響は、大きな歩幅で颯爽と歩く。弟の腕を力強く掴み、振り返りもせずに、真っ直ぐに駐車場を目指していた。
響より頭一つ分背の低い薫は、兄に腕を引かれて、前のめりに小走りでついていくのがやっとであった。頭の中は、博己の言葉や仕草の意味を掴み取ろうと、ぐるぐると渦巻きながらも、何一つ、考えがまとまならない。
「あ、あの、兄さん、」
競技場から出たところで、薫は、ハッとして顔をあげる。
響は構わず、ぐっと腕を引く。
それでも薫の足は動こうとせず、響は怪訝そうに振り向いた。
「……隼人と、少し話をしてきたいんだけど、」
薫の言葉に、響はあからさまに眉を曇らせた。
その様子に、薫は不安げに兄を見上げる。自分の面倒な野暮用に、何の義理もない兄を付き合わせている自覚はあった。
「兄さんは、先に車に戻っててくれても、いいから、」
「……いや、俺も行くよ、」
薫の腕を掴んだ手に、ぎゅっと力を込める。
もう一瞬でも、薫から目を離すわけにはいかなかった。今、この手を離してしまえば、薫は直ぐにでも、どこか遠くに行ってしまうような、そんな焦燥感に駆られていた。
指定された控え室の扉をノックする。
ドアが開くと、ユニフォーム姿の河島選手が顔を覗かせた。隼人と薫が、離れていたのは、たったの三週間のことであったが、薫の瞳に映る「河島隼人」は、随分と逞しい大人の男であった。
「隼人、遅くなって悪かった、」
薫は、誤魔化すような苦笑いを浮かべて、待っていた隼人に謝った。隼人は、そんな薫に薄く笑って首を横に振った。
「……いや、俺の方こそ、急に呼んで悪かったよ、」
「それで、話って?」
「ああ、うん、……」
隼人は薫の横に立っている男に視線を流した。釣られるように、薫も兄を見上げる。二つの視線を浴びて、神崎響は、息を吐いた。
「廊下で待ってるな、」
弟の友人同士の話に、同席するような無粋な真似をするつもりはない。響は、控え室を見渡して、他の選手がいないことを確認すると、薫の頭をポンポンと撫でて、扉の外側にいることにした。
ドアが閉まると、隼人と薫の二人きりの空間になる。隼人は、久しい薫の姿を見つめながら、じっと、その場に立ち尽くした。
「隼人?」
どことなく漂う緊張感に、薫は息苦しくて、小首を傾げて見た。それでも、隼人は、口を開こうとしなかった。
「インターハイ出場、よかったな。おめでとう、」
薫は、思い出したように微笑んだ。そうだ、直接、隼人に「おめでとう」と言いたくて、ここまで足を運んだのだ。
「……ああ、でも、優勝は逃がしてしまったけどな、」
「でも、すごいよ! ベータでは一位だし、それに、」
隼人の顔はどこか暗い。
地区大会五位という成績は、誇らしいものである。薫は、謙遜している隼人に、嬉しそうに口を開く。
ドゴンッと鉄板の凹む音が反響した。
薫はビクッと肩を震わせた。見れば、隼人が横にあったロッカーを殴り付けている。
「……俺は、もう、性別を言い訳にしたくないんだ、」
隼人は苦しそうに言葉を吐き捨てた。奥歯を噛み締めて、肩を震わせている隼人に、薫は言葉を失った。
ベータ性の少年は、ベータの世界に住んでいる。ベータの世界では、自らをベータ性と意識することも稀であった。アルファやオメガの世界は、彼等の世界よりも、遥か遠く、小さな異国である。
けれど、今の河島隼人には「ベータ性」であることが、耐え難い苦痛となっていた。同室のオメガと出会ってから、隼人の世界はガラガラと崩れ始めた。神崎薫に惹かれれば惹かれる程に、隼人は否応にも「ベータ性」を意識させられ、謂れのない劣等感を味わわされている。
隼人は顔をあげると、目の前で身体を硬直させている薫の両肩を掴んだ。
「薫、好きだ、」
真っ直ぐな隼人の瞳に射貫かれて、薫は息を飲んだ。
「今更、そんなことを言える資格はないのはわかってる。でも、どうしようもなく、薫のことが好きなんだ……、」
「……や、やめてくれ、」
隼人の実直な言葉は、曖昧にしてきた二人の関係を白日の下に晒す。唐突に、突き付けられた現実に、薫は戦慄し、隼人の視線から目を逸らした。「知らなかった」などという誤魔化しは通用するはずもない。言葉などにしなくとも、隼人の仕草や触れ方から、優しくも熱い情愛が、薫の中に染み込んできていた。
「…………俺たちは、そういうんじゃ、」
そして神崎薫が、その熱い情愛を、受け入れることができないことも、隼人には痛いほどに伝わっていた。隼人は、薫の頬に手を添えて、俯いていた顔をあげさせた。
「薫、俺から目を逸らないでくれ、」
隼人と薫の始まりは、決して誉められたものではなかった。
河島隼人は思春期らしく「オメガの肢体」に興味を持ち、神崎薫はそんな「ベータの劣情」に付け入ることにした。等価交換であったはずの二人の関係は、一年以上の月日の中で、彼等の気づかない間に、「別の何か」を含んで、築き上げられてしまっていた。彼等は互いの想いから逃げ、三年間を曖昧にやり過ごし、苦味を帯びた甘い青春の過ちとして、「別の何か」を昇華していくことを暗黙的に約束していた。けれど、それは、結城博己の存在により、脆くも崩れ去ったのだ。
隼人の縋るような眼差しに、薫の涙腺は緩み、熱いものが込み上げてくる。
「…………ご、めん、」
絞り出した拒絶の言葉は、隼人の心臓に鋭く突き刺さる。けれど、隼人はどこか肩の荷が降りたように、息を吐いた。
「ごめんなさい、」
薫の瞳から涙が溢れて、頬を伝う。
泣きたいのは、隼人も同じはずであった。それでも、薫が涙すれば、隼人は込み上げるものを抑え込んで、薫の肩を抱き寄せて胸を貸してやった。
「……もう、触らないから、今だけ、こうしててもいいか?」
「……ごめ、……なさい、」
薫は、拒絶している隼人の腕の中で、ポロポロと涙を流した。仄かに甘い匂いに包まれながら、隼人は薫の背中を優しく撫でた。そうして、そっと薫の頭に唇を寄せて、手に入らない愛しい存在の体温を感じていた。
響より頭一つ分背の低い薫は、兄に腕を引かれて、前のめりに小走りでついていくのがやっとであった。頭の中は、博己の言葉や仕草の意味を掴み取ろうと、ぐるぐると渦巻きながらも、何一つ、考えがまとまならない。
「あ、あの、兄さん、」
競技場から出たところで、薫は、ハッとして顔をあげる。
響は構わず、ぐっと腕を引く。
それでも薫の足は動こうとせず、響は怪訝そうに振り向いた。
「……隼人と、少し話をしてきたいんだけど、」
薫の言葉に、響はあからさまに眉を曇らせた。
その様子に、薫は不安げに兄を見上げる。自分の面倒な野暮用に、何の義理もない兄を付き合わせている自覚はあった。
「兄さんは、先に車に戻っててくれても、いいから、」
「……いや、俺も行くよ、」
薫の腕を掴んだ手に、ぎゅっと力を込める。
もう一瞬でも、薫から目を離すわけにはいかなかった。今、この手を離してしまえば、薫は直ぐにでも、どこか遠くに行ってしまうような、そんな焦燥感に駆られていた。
指定された控え室の扉をノックする。
ドアが開くと、ユニフォーム姿の河島選手が顔を覗かせた。隼人と薫が、離れていたのは、たったの三週間のことであったが、薫の瞳に映る「河島隼人」は、随分と逞しい大人の男であった。
「隼人、遅くなって悪かった、」
薫は、誤魔化すような苦笑いを浮かべて、待っていた隼人に謝った。隼人は、そんな薫に薄く笑って首を横に振った。
「……いや、俺の方こそ、急に呼んで悪かったよ、」
「それで、話って?」
「ああ、うん、……」
隼人は薫の横に立っている男に視線を流した。釣られるように、薫も兄を見上げる。二つの視線を浴びて、神崎響は、息を吐いた。
「廊下で待ってるな、」
弟の友人同士の話に、同席するような無粋な真似をするつもりはない。響は、控え室を見渡して、他の選手がいないことを確認すると、薫の頭をポンポンと撫でて、扉の外側にいることにした。
ドアが閉まると、隼人と薫の二人きりの空間になる。隼人は、久しい薫の姿を見つめながら、じっと、その場に立ち尽くした。
「隼人?」
どことなく漂う緊張感に、薫は息苦しくて、小首を傾げて見た。それでも、隼人は、口を開こうとしなかった。
「インターハイ出場、よかったな。おめでとう、」
薫は、思い出したように微笑んだ。そうだ、直接、隼人に「おめでとう」と言いたくて、ここまで足を運んだのだ。
「……ああ、でも、優勝は逃がしてしまったけどな、」
「でも、すごいよ! ベータでは一位だし、それに、」
隼人の顔はどこか暗い。
地区大会五位という成績は、誇らしいものである。薫は、謙遜している隼人に、嬉しそうに口を開く。
ドゴンッと鉄板の凹む音が反響した。
薫はビクッと肩を震わせた。見れば、隼人が横にあったロッカーを殴り付けている。
「……俺は、もう、性別を言い訳にしたくないんだ、」
隼人は苦しそうに言葉を吐き捨てた。奥歯を噛み締めて、肩を震わせている隼人に、薫は言葉を失った。
ベータ性の少年は、ベータの世界に住んでいる。ベータの世界では、自らをベータ性と意識することも稀であった。アルファやオメガの世界は、彼等の世界よりも、遥か遠く、小さな異国である。
けれど、今の河島隼人には「ベータ性」であることが、耐え難い苦痛となっていた。同室のオメガと出会ってから、隼人の世界はガラガラと崩れ始めた。神崎薫に惹かれれば惹かれる程に、隼人は否応にも「ベータ性」を意識させられ、謂れのない劣等感を味わわされている。
隼人は顔をあげると、目の前で身体を硬直させている薫の両肩を掴んだ。
「薫、好きだ、」
真っ直ぐな隼人の瞳に射貫かれて、薫は息を飲んだ。
「今更、そんなことを言える資格はないのはわかってる。でも、どうしようもなく、薫のことが好きなんだ……、」
「……や、やめてくれ、」
隼人の実直な言葉は、曖昧にしてきた二人の関係を白日の下に晒す。唐突に、突き付けられた現実に、薫は戦慄し、隼人の視線から目を逸らした。「知らなかった」などという誤魔化しは通用するはずもない。言葉などにしなくとも、隼人の仕草や触れ方から、優しくも熱い情愛が、薫の中に染み込んできていた。
「…………俺たちは、そういうんじゃ、」
そして神崎薫が、その熱い情愛を、受け入れることができないことも、隼人には痛いほどに伝わっていた。隼人は、薫の頬に手を添えて、俯いていた顔をあげさせた。
「薫、俺から目を逸らないでくれ、」
隼人と薫の始まりは、決して誉められたものではなかった。
河島隼人は思春期らしく「オメガの肢体」に興味を持ち、神崎薫はそんな「ベータの劣情」に付け入ることにした。等価交換であったはずの二人の関係は、一年以上の月日の中で、彼等の気づかない間に、「別の何か」を含んで、築き上げられてしまっていた。彼等は互いの想いから逃げ、三年間を曖昧にやり過ごし、苦味を帯びた甘い青春の過ちとして、「別の何か」を昇華していくことを暗黙的に約束していた。けれど、それは、結城博己の存在により、脆くも崩れ去ったのだ。
隼人の縋るような眼差しに、薫の涙腺は緩み、熱いものが込み上げてくる。
「…………ご、めん、」
絞り出した拒絶の言葉は、隼人の心臓に鋭く突き刺さる。けれど、隼人はどこか肩の荷が降りたように、息を吐いた。
「ごめんなさい、」
薫の瞳から涙が溢れて、頬を伝う。
泣きたいのは、隼人も同じはずであった。それでも、薫が涙すれば、隼人は込み上げるものを抑え込んで、薫の肩を抱き寄せて胸を貸してやった。
「……もう、触らないから、今だけ、こうしててもいいか?」
「……ごめ、……なさい、」
薫は、拒絶している隼人の腕の中で、ポロポロと涙を流した。仄かに甘い匂いに包まれながら、隼人は薫の背中を優しく撫でた。そうして、そっと薫の頭に唇を寄せて、手に入らない愛しい存在の体温を感じていた。
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