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ベータの飛躍
第86幕
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競技場の一角にある壁に寄りかかっていた神崎響は、腕時計に視線を落とした。まだ十分ほど過ぎたところであったが、手持ち無沙汰で、シャツの襟を開いてパタパタと扇ぎながら、じんわりと汗ばむシャツの中に空気を通す。
基本的に空調の利いた屋内にいることが多い響は、真夏の暑さに堪えかねる。再び時計を確認しても、分針はなかなか動かない。響は息を吐くと、眼前の控え室のドアを軽くノックした。
「薫?」
ピタリと抱き合っていた隼人と薫は、身動いだ。薫はそっと隼人の胸を押して、隼人は薫の背中から腕を解いた。
「どうかしたのか?」
響がドアを開けば、汗臭い控え室の空気は、じっとりと重く沈んでいるようだった。
隼人は、ぼんやりと薫を見下ろし、薫は俯いて、片手で顔を拭っている。
「じゃあ、もう行くな」
薫は、隼人に力なく微笑みかけた。涙で濡れた目元はどこか痛々しい。
「薫、もう一つだけ、」
立ち去ろうとした薫の背中に、隼人は声をかけた。薫が振り向けば、思い詰めたような顔つきの隼人がいる。
「今、B棟で相部屋を一人で使っている奴が、俺の他にも一人いるんだ」
唐突な話に、薫は訝しげに首を傾げた。
「夏休みが終わる前には、俺はそいつの部屋に移るよ。薫は、退院したら一人であの部屋を使ってくれ、」
「……え、……でも、」
「もう、俺たちは同じ部屋じゃない方がいいだろ?」
隼人は、にこりと笑ってみせた。彼にとっては、精一杯の虚勢であった。薫が学生寮に戻ってきて、再び同じ部屋で過ごしていれば、また、オメガの肢体に触れたくなって、甘いフェロモンの誘惑に抗えなくなるだろう。
隼人は自分の意思の脆さも、理性の弱さも理解していた。それに、再び結城博己が訪ねてくれば、隼人の心は今度こそ、砕けてしまう。
「…………う、ん、」
薫は俯いて、隼人の申し出を受け入ざるを得なかった。隼人の告白を断った時点で、隼人から距離を取りたいと言われれば、薫からは言えることは何一つ、有りはしない。
徒ならぬ二人の空気に、響は息を吐いた。
「兄さん、待たせて、ごめん、」
薫は、兄に目を合わせることもなく、控え室から出て行く。響は、擦れ違い様に、弟の目元が赤く腫れ、濡れていることに気がついた。響の中で、言い様のない不信感が沸き上がり、弟の友人に視線を流した。
疚しいことを抱えている隼人は、薫の肉親である響に、咎めるように見つめられれば、堪えかねて視線を逸らす他ない。
薫は目深に帽子を被ったまま、早足で競技場の近くの駐車場に向かっていく。弟の傷ついている背中に、響はできるだけ優しく問いかけた。
「河島くんと、ケンカでもしたのか?」
薫は俯いたまま、首を横に振った。
「……俺が、全部、悪いんだ、」
基本的に空調の利いた屋内にいることが多い響は、真夏の暑さに堪えかねる。再び時計を確認しても、分針はなかなか動かない。響は息を吐くと、眼前の控え室のドアを軽くノックした。
「薫?」
ピタリと抱き合っていた隼人と薫は、身動いだ。薫はそっと隼人の胸を押して、隼人は薫の背中から腕を解いた。
「どうかしたのか?」
響がドアを開けば、汗臭い控え室の空気は、じっとりと重く沈んでいるようだった。
隼人は、ぼんやりと薫を見下ろし、薫は俯いて、片手で顔を拭っている。
「じゃあ、もう行くな」
薫は、隼人に力なく微笑みかけた。涙で濡れた目元はどこか痛々しい。
「薫、もう一つだけ、」
立ち去ろうとした薫の背中に、隼人は声をかけた。薫が振り向けば、思い詰めたような顔つきの隼人がいる。
「今、B棟で相部屋を一人で使っている奴が、俺の他にも一人いるんだ」
唐突な話に、薫は訝しげに首を傾げた。
「夏休みが終わる前には、俺はそいつの部屋に移るよ。薫は、退院したら一人であの部屋を使ってくれ、」
「……え、……でも、」
「もう、俺たちは同じ部屋じゃない方がいいだろ?」
隼人は、にこりと笑ってみせた。彼にとっては、精一杯の虚勢であった。薫が学生寮に戻ってきて、再び同じ部屋で過ごしていれば、また、オメガの肢体に触れたくなって、甘いフェロモンの誘惑に抗えなくなるだろう。
隼人は自分の意思の脆さも、理性の弱さも理解していた。それに、再び結城博己が訪ねてくれば、隼人の心は今度こそ、砕けてしまう。
「…………う、ん、」
薫は俯いて、隼人の申し出を受け入ざるを得なかった。隼人の告白を断った時点で、隼人から距離を取りたいと言われれば、薫からは言えることは何一つ、有りはしない。
徒ならぬ二人の空気に、響は息を吐いた。
「兄さん、待たせて、ごめん、」
薫は、兄に目を合わせることもなく、控え室から出て行く。響は、擦れ違い様に、弟の目元が赤く腫れ、濡れていることに気がついた。響の中で、言い様のない不信感が沸き上がり、弟の友人に視線を流した。
疚しいことを抱えている隼人は、薫の肉親である響に、咎めるように見つめられれば、堪えかねて視線を逸らす他ない。
薫は目深に帽子を被ったまま、早足で競技場の近くの駐車場に向かっていく。弟の傷ついている背中に、響はできるだけ優しく問いかけた。
「河島くんと、ケンカでもしたのか?」
薫は俯いたまま、首を横に振った。
「……俺が、全部、悪いんだ、」
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