36 / 81
第25話
しおりを挟む机の上の目覚まし時計が騒ぎ出したのは、午前七時五分前。
きぃん、という時計のアラームとは思えない金属音が室内の空気を叩いた。
突如、音だけの殺陣がはじまる。
刀身がぶつかり合い、小気味のいい音を響かせる。ざしゅざしゅ、と、ひとりまたひとりと斬られ役たちが地面に倒れる音が続く。
伊月進が昨日、カナと行った動物園の帰りに買った目覚まし時計は、店内で聴いたとき以上に騒々しい。
目覚ましが鳴りはじめてから十三秒。そこで音は止んだ。
進は、不機嫌そうな顔を浮かべ、二刀流の武士をぼんやりと見つめる。それから秒針と時針を凝視する。すこぶる寝覚めが悪かった。
アラームを止めるために半身を起こしていた身体をまたベッドに沈める。
手探りでカーテンを開け、窓を開け、朝の陽射しと澄んだ空気を部屋に招き入れた。
天井に僅かに残る補修の跡を見つめながら、その天井を突き抜けて降って来た、機械の身体を持つ少女のことを考える。
人は死ぬ。
ハカナのときがそうだったように。根拠のない期待は、更なる愁嘆をもたらす。
進は夕焼け色に染まったカナの横顔を思い出す。
手術をることをカナが選んだことは、可能性を得る反面、別れを早める危険性を新たに生み落とす。あの横顔がこの世界から失われるかもしれない、そのことは、進の心に重くのしかかっていた。
全身の力を抜いて、目を閉じる。
どういうわけか、二院麻子のことが思い浮かんだ。宇佐美エレナの昼休みの放送をきっかけに、一緒に昼食をとるようになった、C組の女の子のことだ。
麻子は放送を通じて、自分の弱さを告白した。
強くなりたいです、どうしたらいいのでしょうか。
二院は強くなれたのだろうか、進は考える。
本人は何も言わないけれど、クラスではうまくやっていけてるのだろうか。まだ嫌がらせは続いているのだろうか。
人はどこかしら欠けてるものだと、エレナは言った。
俺の欠けている部分は?
進は考えを巡らせる。記憶がおぼろげなイメージを明瞭なものへと──玄関先で父親がハカナの頭を撫でている場面が見える、別れの日の──進は、その記憶を振り払うようにベッドから降りた。
寝巻きのまま廊下に出る。
隣の部屋のドアがほんの少し開いていた。
──なにやってんだ……?
進は、音を立てないように、部屋に入る。
カナが、右手にキリンのぬいぐるみ、左手に進が昨日まで使っていた目覚まし時計を持って、何やら考え込んでいた。
意を決したようにキリンのぬいぐるみをタンスの上に置く、カナ。
進は、すり足でさらに近寄り、真後ろに立つ。
一メートルも離れていない場所まで近づいたのに、まだ気づかない。カナは、今度はキリンの右隣に刀の折れた戦国武将の目覚まし時計を置いた。
何の脈略もなく、可愛らしいキリンのぬいぐるみと、厳しい表情をした家康公が並んでいる。とても奇妙な組み合わせだった。
『とても華やかになりました』
「どこがだ」
『す、進さんっ! いつからそこにっ!』
長い髪を跳ねさせて振り返り、
『酷いです! 女の子の部屋に勝手に入ってくるなんて!』
顔を真っ赤にさせて、進を非難する。
「ドアが開けっ放しだったからだ。それより、なにやってんだ。そのぬいぐるみと目覚ましは、先生んとこに持って行くんじゃないのか?」
『わたしがいないと、進さんが寂しがると思いましたので、このぬいぐるみは置いて行きます』
いつもであれば「いや、寂しくねーし」そんな風に否定する進だったが、
「早く帰って来いよ」
『はいっ。それまでは、わたしだと思って、大切にしてくださいね』
「おう。毎朝、挨拶しておく」
『安心しました』
「学校にもちゃんと行くからな、もっと安心しろ」
『さらに安心しました』
口元をほころばせる、カナ。
「帰ってきたら、またどこかに行こうな。今度は、水族館なんかどうだ」
『楽しみです』
「絶対に行こうな」
『はい』
「……」
『進さん、』
「ん?」
『絵本の続き──伝えて下さって、ありがとうございました』
進は頷く。
『間に合い……ますよね』
「……なにがだ?」
その言葉に、進は疑問を持つ。
間に合う?
手術に、だろうか。
しかしそれをカナに確認することはできなかった。その摯実な瞳を前に、どういう意味なのか聞き返したり、その言葉を否定することは躊躇われた。
「ああ。大丈夫だ」
進はやや違和感を感じながらも、肯定する。
『わたしは……いっぱい、痛いのに我慢しました。苦しいことに、つらいことに、我慢しました。神さまは、わたしに、チャンスをくれますよね』
「当たり前だ」
カナの勇気になればと、強く断言する。
「お前のようなやつが報われねー世の中なんて、間違ってる」
『はいっ』
間違っている、けれど……伊月進は、続く言葉を抑え込む。人の都合通りに物事が運ぶことは、稀である。それは一度、身をもって知った。
現実は、人の思いとは、同列に存在しない。しかし、どんなに無駄であろうとも、願わずにはいられなかった。
穏やかな朝に漂う、味噌汁と葱の匂い。
進の母が皿に料理を盛りつけ、カナは茶碗に炊き立てのご飯をよそる。進にとっては見慣れた光景も、カナが加わるだけで、また違った印象を受ける。
台所という舞台で微笑み合う二人。
いつもの、朝食。こういった時間こそが、カナにとってなにより大切なのかもしれない、進は二人を見ながら思う。
「……実に微笑ましい光景ではないか。なあ進、カナさんは、本当に行ってしまうのか。父として寂しいぞ」
「お前の娘じゃねえ」
「もはや家族同然だ。たとえあの子が違うって言ってもなッ!」
「つくづく迷惑なオヤジだな……」
箸入れを持ってやってきたカナは、嬉しそうに、
『迷惑ではありません。嬉しいです。わたしには、両親の記憶がありませんから。お二人のことを、勝手に、両親のように思わせて頂いていましたし』
進の父である進也は、その温かい言葉を聞いて、感動に打ち震えていた。
「カナさんは、いつ出発なのかしら」
ニンジンの絵柄がプリントされたエプロンを取りつつ、伊月浅子は尋ねる。
『進さんと一緒の時間に、家を出ます』
カナは、どこからか取り出したブロックタイプのカロリー〇メイトのような、灰色の固形燃料を食べはじめる。
「俺にもくれ」
『……え』
進は、カナの手から固形燃料を奪い、半分に折って、残りを返す。
「私もいいかしら」
浅子は、進が返そうとした半分をさらに2等分して、残りを夫である進也に手渡した。
「なんとも言えねー味だな」
「うまいではないか」
あっと言う間に、家族全員がカナの食事を口にしていた。
『……皆さん』
時計の針は、万物に対して、平等に進む。
カナが伊月家にやってきてから幾度か繰り返された、いつもの朝は、いつものように終わった。
玄関まで見送りに来た伊月夫妻に頭を下げ、カナは、最後にもう一度、感謝の言葉と挨拶を述べる。
靴を履いて振り返ったカナは、正面の壁にあるものを見つける。
『素敵な絵です』
「……母さん、」
「この絵には、ここが相応しいと思ったの。外さないでね」
額縁に収められた、クレヨンで描かれた絵だった。見ればすぐに子どもが描いたものと判る、稚拙な、それでいて温かみのある、家族の絵──
『ハカナさんの……絵でしょうか』
そう言ったカナに、三人の視線が集まる。
「どうして……?」
『昔、ニュース番組で見ました。ハカナさんの情報を求めて訴えかける、進さんのことを……』
進が目を見開く。
「だから、ここに来たのか」
頷くカナを見て、進は、
「そうかよ。知ってたのかよ……それでか」
『はい。たぶん、進さんが考えている通りです』
「ハカナは、ハカナはな、お前みたいに打算してうちに来たんじゃねーんだよ!」
「進、やめなさい」
『いいんです。わたしは、ここなら……ここであれば、わたしのことを受け入れてくれるかもしれないと、ハカナさんのことを通じて思ったのですから』
「……なんで最後になって……そんなこと」
『最後、だからです』
カナは、左腕に爪を立てて、皮膚をはがす。
内側が薄いゴムの膜のような皮膚の、その下から機械の、くすんだ鉛色の表面が露呈する。
『わたしは、皆さんを、偽ってきました』
カナは三人を見つめる。
『人間ではないのに、人間のフリをして。わたしは、どんなに隠そうとしても、やっぱり、皆さんとは違うんです』
「カナさん……」
『たくさんの優しさを踏みにじってしまいました。申し訳ありません』
三人から遠ざかるように一歩下がるカナ。
瞬間──
進は、何かを感じ取る。
カナは、微笑んでいた。
まるで、すべてのことを言い終えたように、満足そうに。
「やめろ! カナ!!」
──間に合いますよね。
カナの部屋で聞いた、その言葉の意味を悟る。
──わたしは……いっぱい、痛いのに我慢しました。苦しいことに、つらいことに、我慢しました。
──神さまは、わたしに、チャンスをくれますよね。
チャンスとは。
アルビノという絵本に残された、希望の言葉、それを聞いて思ったことは。明日への希望なんかじゃなくて。
次の生への、祈り──
どこから取り出したのか、カナはマイナスドライバーを強く握っていた。その先を、喉もとに突き当てる。
『ごめんなさい、進さん。皆さんが本当の家族だったら、よかったです』
目を閉じる、カナ。
たった数歩の距離が、進には、とても遠い距離に感じられた。
身体が前に動かない。
カナの喉が貫かれる瞬間が、届かない自分の手が、閉じた瞳から流れる涙が──
「ひょっとして、間一髪だった?」
かつん、という音を響かせ、マイナスドライバーが床に落ちる。カナの後ろから宇佐美エレナが、ドライバーを握っていた手首を掴んでいた。
「先生……」
泣き出しそうな顔をして、進は、その場にへたり込む。
「なんか劇的な瞬間に立ち会っちゃったみたいだけど。いいのよね? これで」
ぐすぐすと泣き出すカナのもとに、進の両親が駆け寄る。
宇佐美エレナは、伊月進の首根っこを掴んで、ずるずると家の中に引きずっていく。客間まで連れて行くと、思いきり頭突きをかます。
「なに状況を悪化させてんのよ、あなたは」
「んなこと言われても、」
「原因は何?」
「……」
「心当たりはないの?」
「……絵本」
「絵本? 私が返しに来た、あのアルビノとかいう本?」
「はい、たぶん。後輩から聞いた、あの絵本の続きを話してから、カナの様子がおかしかったような……」
「どんな内容なのかしら」
進は、口づてに聞いた物語の続きを話す。
「ふぅん」
再び、進の額目掛けて、頭突きをお見舞いする。
「そんな話されたら、ああなることくらい予測できなかったの?」
「勇気が……出ると思って……」
「免罪符でしょ、それ。手術が失敗したときのための。ここまで信用されないと、ムカついてくるわね。誰も私のこと信じてないじゃない」
「でも、」
「それ以上喋ると殴るわよ。せっかく出番をあげたのに、ぜんっぜん役に立ってないじゃない」
「……」
「まーいいわ。あとは私が全部やるから」
「……先生の家に行ったとき、俺に言いましたよね。生きるってことは、長く生きれればいいってものじゃないって。もしそうなら、先生のやることに、意味はあるのかよ」
「おおアリよ」
「カナの意思を無視して、延命させて何になるんだ」
「ミラクルを起こすのよ」
「……」
バカを見る目で、エレナを見つめる進。
「そんな顔をして私をバカにしたこと、覚えてなさい。開いた口が塞がらなくなるほど驚かせてあげるから」
「……」
すごいバカを見る目で、エレナを見つめる進。
「まー凡人にはどう言っても無駄でしょうから、指を咥えて待ってなさい」
「めちゃめちゃ心配なんですけど」
「杞憂に終わるだけよ。そんなことより、再来週からはじまるテストの心配でもしてなさい。古典が赤点だったら、退学させるから」
「そんなテストあるか!」
「なぜかしら、私なら出来ちゃうのよねー」
不敵に笑うのを見て、宇佐美エレナであれば本当にやりかねないと、進は不安に思う。
二人が玄関に戻ると、カナは落ち着きを取り戻していた。
「さあ、行きましょう」
『行きたく……ありません』
宇佐美エレナは、拒絶するカナに耳打ちする。
すると、カナの表情が一変した。
半信半疑な気持ちと、期待が同居したような顔でエレナを見上げ、
「行くわよ、カナちゃん」
その呼びかけに、今度は、小さく頷いた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
キャバ嬢(ハイスペック)との同棲が、僕の高校生活を色々と変えていく。
たかなしポン太
青春
僕のアパートの前で、巨乳美人のお姉さんが倒れていた。
助けたそのお姉さんは一流大卒だが内定取り消しとなり、就職浪人中のキャバ嬢だった。
でもまさかそのお姉さんと、同棲することになるとは…。
「今日のパンツってどんなんだっけ? ああ、これか。」
「ちょっと、確認しなくていいですから!」
「これ、可愛いでしょ? 色違いでピンクもあるんだけどね。綿なんだけど生地がサラサラで、この上の部分のリボンが」
「もういいです! いいですから、パンツの説明は!」
天然高学歴キャバ嬢と、心優しいDT高校生。
異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー!
※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる