桜夜 ―桜雪の夜、少女は彼女の恋を見る―

白河マナ

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過去 - Saya Nagamine -

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 とても騒がしい町に住んでいた。
 私と両親は駅の近くにあるマンションの4階で暮らしていた。窓から外を眺めるといつも誰かが通りを歩き、せわしなく車が走っている、そんな場所。
 駅に行くのとは反対方向に小学校があり、私は引っ越してから間もなくそこに入学した。

 たった半年間だけだったけど、私は小学校に通っていた。
 入学したての私を、お母さんは仕事に行くついでよと言って毎日正門のところまで送ってくれた。

 学校にはたくさんの生徒がいた。
 幼稚園とは比べようのないくらい、たくさんの人。

 入学前は不安だったけど、私はすぐに学校が好きになった。
 友だちができて、一緒に遊んで、一緒に勉強をして、笑って──誰もが経験するごくありふれた学校生活だったと思う。

 そしてそれはこれからも続いていくのだろうと信じていた。

 その年の八月──
 私はお姉さんになることになった。

 お母さんに赤ちゃんができたのだ。あなたはお姉さんになるのよとお母さんは優しい声で教えてくれた。

 お父さんも本当に嬉しそうで、そんな両親を見ると私も嬉しくなった──けれど、それが終焉だった。

 違和感に気づいたのは、夏祭りの日。
 立ち並ぶ露店のひとつで玩具と同じように子犬が売られていた。

 瞳の大きな可愛らしいその子犬は、真夏だというのに体を震わせていた。
 犬は500円という値札を首から下げていて、自分がたった500円で売られていることなんかまるでわかっていない様子で、道ゆく人に弱々しく尻尾を振っていた。

 私が浴衣の袖を引っ張るとお父さんは微笑み、ずっとダメだって言っていた犬を飼うことを許してくれた。
 私たちが住んでいたマンションでは犬を飼うことが禁止されていたのに。

 何か──何かが変だと思った。
 でも犬を飼うことができる嬉しさで、そんな気持ちは一瞬で消えてしまった。

 あの時よりもずっと前から、決まっていたのかもしれない。
 始まったばかりの私の日常の終わり。
 それは、彩の誕生によって、私の知らないところで決定づけられていた。

 私の前に果てしなく広がっていた広大な世界、からの隔離。
 突然の引越し。学校でお別れ会をやってもらうこともなく、私たち家族は町を後にした。

 私に選択の自由はなかった。
 気がつくと、目に映る景色ががらりと変わっていた。

 四方に聳える山々。
 高い空。
 なにもない村。
 友だちもいない。
 信じられないくらいの無数の星々。
 古ぼけた、新居。

 悲しくなるほど静かで、変化のない──隔離された土地。
 それでも私は次第に村での生活に慣れていった。

 私には大好きなお父さんとお母さんがいたし、なにより彩が生まれるという明るい希望があったから。
 それにあの時はまだ町に帰ることができると信じていた。

 でも。
 彩が生まれ、彩がお母さんと同じように──だったために、私たち家族は村に住み続けることになった。

 お父さんは会社を辞めていた。
 毎日お父さんは村の畑の手伝いをして、野菜やお米や果物をもらって帰ってきた。日が暮れると仕事が終わるので、私は今までよりお父さんとたくさん遊ぶことができた。

 学校に通うことはできなくなったけれど、それなりに楽しい日々──
 生まれたばかりの彩を中心にして、私たちは平穏な生活を過ごしていた。

 しかし、そんなささやかな日々ですら長くは続かなかった。

 ある日──幼い彩と私、彩を産んでから体調を崩しがちになってしまったお母さんを残して、お父さんは突然いなくなってしまった。

 翌日もお父さんは帰ってこなかった。
 その次の日、次の次の日も……。

 村の人たちは、お父さんが村の生活に耐えられなくなって逃げ出したのだと噂していた。私には信じられなかった。
 いなくなってしまった前の日の夜も、いつもと変わらずお父さんは私と遊んでくれていたから。

 いつもと変わらない表情で、温かく大きな手のひらで、私の頭を撫でてくれた。
 お母さんは、村の人たちの声には耳を傾けず、落ち着いた口調で気にすることはないわと言った。

 私は心配だったけれど、お母さんの言うことを信じることにした。

 一週間後──

 御神木の近くの川岸で、お父さんは冷たくなった体で見つかった。村の人たちは、村を逃げ出した罰があたったのだと口々に話していた。

 空は灰色で。
 湿った肌寒い風が吹く日のことだった。

 帰ってきたお父さんを前にして、私たちは涙を流した。お父さんの手のひらは大きいままだったけれど、そこに温もりは存在しなかった。

 私はその時はじめてお母さんが泣くのを見た気がする。
 お母さんは、決して目覚めることのないお父さんの頬にそっと唇をつけた。幼すぎてまだ何も理解できないはずの彩が、私たちの悲しみを感じ取ったのか、大声で泣き出したことを覚えている。
 その大きな泣き声が、落ち着きはじめていた心を叩き、私の瞳から再び涙が流れはじめた。

 私はお母さんに──温もりにしがみつき、顔を押しつけて泣いた。

 お母さんは彩を泣き止ませると、私が泣き疲れて眠ってしまうまで、お父さんのように優しく頭を撫で続けてくれた。

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