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第二章

第73話 本当は分かってた……

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店内を逃げるようにして飛び出し、人混みの中をなにふり構わず駆け抜ける。その様は周囲の人々の注目を集め、それを避けるように私は店の裏手へ続くであろう脇道へ逃げ込んだ。

 店の裏側は薄暗く閑散としていて、賑わう大通りの喧騒が遠巻きに聞こえる。
 そんな通り一つ違うだけの暗がりの世界に私は安堵した。

 これで、心置きなく泣ける……と、

 そう思ってすぐ近くにあった店の外壁に背を預けながら地べたに座り込むと、膝を抱き締め顔を埋めた。



 もしかしたら、そうなんじゃないかって事は薄々気付いていた……。

 『君を本気で愛したいと思っている』

 結婚初夜の時に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。

 あの時、本当に嬉しかった。――手に入ったと。そう思ってしまった。

 ヴィルドレット様の心が、愛が――、手に入ったと……

 一生愛されないかもしれないという懸念に駆られていたあの時の私の喜びはもはや例えようがないほどだった。

 孤独で寂しかった前世の頃のあの思い――『幸せになりたい』という思いが報われたと思った瞬間だった。

 でも、今思えばその時だったのだろうと思う。私の中で新たな懸念が芽生えたのは。

 もの凄く嬉しかったから。幸せだと感じたから。ヴィルドレット様の事が好きで好きで堪らなくなった瞬間だったから。
 だから、『一生愛されないかもしれない』という心配事が一つ無くなっても、また新たに心配事が芽生えてしまった。

 ヴィルドレット様の心の中には誰かが存在していて、本当の想い人はその人なのかもしれない、と。
 そんな事を考えるようになったのはその時からだ。

 絶対に手放したくないと思うが故の過剰な憂心だと、そう自分に言い聞かせても考えれば考えるほどに合点がいった。

 頑なに結婚を拒んでいた事も、私を妻として愛する事への葛藤が窺えたりした事も、本当に好きな人が別に存在するのならば納得ができる。

 私以外の誰かに、私以上の親愛を寄せているなんて……そんな事……

 そんな事を考えないよう幾ら抗っても、幾ら逃げても、ヴィルドレット様が私のもとからいなくなる恐怖が後から追いかけて来た。

 そして、さっきのヴィルドレット様とのやり取り。

 『天真爛漫で無邪気なところが君とよく似ている』

 私とその人とは似ているらしい。
 おそらく私をその人の代わり、代替え品のように見ているのだろうと思う。

 自然と怒りが込み上げ、いっそこのままヴィルドレット様の事を嫌いになってしまいたい。……それができたならばどんなに楽だろうか。でも、

 そんな事は当然、出来ない。……辛い。

 人を好きになる事がこんなにも辛く苦しいものだなんて思いもしなかった。

 初日の夜にヴィルドレット様から『愛さない』と告げられた時よりも、疎まれ魔女として生きた日々よりも、クロが死んだ時よりも――これまでに私が経験したどんな辛い出来事よりも今が一番辛い。

 『君を愛し……愛し……愛し……愛し……』

 幸せの虚像に酔いしれていただけ。

 ――本当、私って馬鹿みたい。

 ボロボロと大粒の涙が地面へ落ちていく。
 人目につかない事をいいことに私は思い切り泣いた。声を出して子供みたいに泣きじゃくった。

「一体、どんな……」

 私の中で嫉妬心が芽生える。

「……私に似てるって、一体どんな女なのよ……」

 ヴィルドレット様の心は間違いなくその人の下にある。
 
 その人が羨ましい。その人になりたいと――、そう思ったその時だった。

「――悔しい?」

 ふと、慣れ親しんだ懐かしい声音が鼓膜を震わせ、私は顔を上げるとそこに立っていたのは――
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