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宮廷編
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まるで桂昭の使者にでもなったかのように彼の書簡に従って玲馨たちが実地の調査に出たのは、呂雄と小間物屋の親子を捕らえたあの一回きりで済んでいた。後は書簡の情報に従って必要なものを必要な場所へ届ければ、自ずと官吏は数を減らしていく事になる。
その用意周到ぶりは虎視眈々と官吏を蹴落とす機会をうかがっていたに違いないと思わせるものだった。とんとん拍子に事は進みほんの七日程度のうちに、桂昭の言う「柳」に属していたのであろう官吏たちはしめて九人が監獄の向こうの住人になっていた。
事が進むにつれて玲馨が何より恐ろしいと感じていたのは、一人捕まるごとに林隆宸の罪が一つ明るみになる事だった。
呂雄に養子を取らせて呂憲と名乗らせ、剣術の道場を開いている元禁軍の元武官に話を付けて呂憲を養子以前から道場の門徒だったという過去をでっちあげて、武科挙を受ける際に融通させた。呂憲の配属は当然の如く城の警護隊に回されて、それから二年。あの事件が、黄昌暗殺事件が起きる事になる。
他にも、無実の罪で獄死させられた戴という文官を脅していた事など、黄昌暗殺に林隆宸が関与していたという証言が次から次へと集まっていった。
極めつけは当時、黄昌付きの宦官だったという男の告白だ。
黄昌に毒を盛ったその下手人は呂憲、彼は武官である。しかし、彼は宦官の装いをして黄麟宮に忍び込んでいた。その宦官の衣を呂憲に貸したのが黄昌付きの宦官だった。
黄昌の死後宦官の宿舎に戻り元皇帝付きの宦官とは思えないような雑用をこなしていた彼は、まさか呂憲が皇帝を毒殺するなどとは露ほども考えなかったと泣いて許しを請うた。宦官の衣を呂憲に貸すよう言ってきたのは二年前当時宦官と恋仲だった宮女で、その宮女は既に年季が明けて故郷に戻っていたが、宮女と縁の深かった官吏については桂昭の采配によって案の定捕らえる事となった。
こうして、林隆宸を問い詰めるに足る証言を十分なほど得る事が出来たのだが。
「……信じがたいな」
この数日間で集めて来た数々の証言と証拠の記録を前にして戊陽が呟く。
汀彩城の玉座の間には戊陽と玲馨と今日は四郎も付き添い、それから護衛のために梅が呼ばれた。更に禁軍の兵士たちが玉座の脇を固めている。いつになく物々しい様相を呈す玉座の間にはそれ相応の理由があるのだが、主役不在では幕は上がらない。
階を降りたところには桂昭が立ち、劇の主役の登場を待ちわびている。その横顔にはうっすらと笑みこそ浮かんではいるが、とても楽し気には見えない。桂昭の放つ気配は、扉の向こうから餌の蛙が飛び出してくるのを構えて待つ蛇のそれだ。
桂昭は戊陽の呟きを聞き取って顔を上げる。
「やめられますかな? 今ならまだ、全ての証拠を陛下のお心に留めておく事が出来ますぞ」
「桂昭。お前の事も現在調べているところだ。お前に後ろ暗いところがあるなら、今のうちに申すが良い」
「どうぞよしなに、陛下。私に罪の痕跡があったなら、決して逃げずに贖う事を誓いますよ」
桂昭は自分に罪は無いとは言わなかった。常に演技めいた口調や言葉選びをする男だが、今日は特に酷い。桂昭ほどの男でも今日という日の訪れに興奮せずにはいられないのかも知れない。
林隆宸を断罪し、罷免する──。他の官吏ならいざ知らず、宮廷にて強大な力を持つ筆頭高級官吏を表舞台から退かせるという事は、紫沈の政において大きな意味を持つ。
林隆宸を罷免する事で宮廷内の勢力図は大きく変わる事になる。彼を中心にまとまっていた林氏勢力は瓦解し、林隆宸に寄生していた者たちは新たな宿主を探してさまよう事になる。中には有力な貴族、優秀な官吏も当然いるだろう事を思えばこれを機に皇帝側へとつけさせたいところだが、桂昭という男が居る限り、結局皇帝が宮廷を掌握する事は叶わないと思わせるものが桂昭にはあった。
桂昭がふと視線をずらした。距離があるせいで正確には分からないが、玲馨の方を見たような気がする。或いは、その隣に控えている四郎か。
──あの切れ者がこの機を逃すはずがない。何を企んでいるのか知らないが、野に放たれた林尚書令の勢力はきっと桂昭に吸収されるだろうな。
能ある鷹は何とやらとはよく言ったものだが、桂昭の場合隠し過ぎてどこまでが爪かも分からない。あの桂昭を戊陽に上手く制御して政をしろというのはあまりに酷だ。それが、この数日間で得た、桂昭への揺るぎない印象。あの男を御せるほどの支配者ならば、失墜した皇帝の権威を取り戻し、腐りきった沈という国を上手く立て直せるのだろう。
玉座の間に続く開け放した扉の前から兵士が離れていく。強い陽射しが差し込み、元の色が分からなくなるほど床を白く照らし出した。その真っ白な陽光の中を一人の老人が階を鷹揚な足取りで登ってくるのが見えた。
縄こそ掛けられていないが左右を兵士に挟まれてなお、小柄な体躯から放たれる自信と威圧的な空気は衰えない。皇帝を凌ぐ権力を手にした男は、この段に至っても焦燥や不安とは無縁のようだ。
「陛下に拝謁致します、林隆宸で御座います」
年輪を重ねた嗄れた声には余裕さえうかがえる。或いは拱手のやり方さえも忘れたのではないかと疑うほどだ。皇帝の玉座の前に立つ姿は堂に入っており、他の官吏との風格の違いは著しい。
「林隆宸。この日を、私がどれほど望んでいたか、お前に分かるか?」
「さて、これだけの兵士を集めて、今日は将軍の任命式でも執り行われますのやら。それならばこのような屋内ではなく、練兵場にて行うがよろしいかと存じますが」
顔の前で合わせていた手を下ろし林隆宸は悪びれもせず、それどころか玉座に座る皇帝を虚仮にする。兵士に連れてこられた以上は自分がどんな状況に立たされているかは承知しているはずだ。
「事前に教えておこう。言い逃れは無用である。数々の証文と証拠の記録は既に私自ら改め、刑部と大理寺からそれぞれ法に詳しい者にも審理させた」
桂昭の正面に控えていた二人の官吏は、恐る恐るといった様子で戊陽に向かって拱手する。彼らは桂昭の意見に従い連れて来た「柳」に属さない官吏。涅すれども緇まずにいられた者たちだ。
「恐れながら申し上げます。林尚書令の行いは、反逆の罪に相当致します。直接手を下してはいませんが、当時服毒して死んだ呂憲を刺客とし、亡き黄昌太上皇帝陛下の弑逆を命じました。これは呂憲よりも重大な罪であります。また様々な方法を用いて刺客を手引きし、実行の手助けをしております。これらの──」
「陛下、黄昌帝の事につきましては既に解決した昔事。今更蒸し返しては黄昌帝の御霊も安心して休まれますまい」
まるで子供を諭すような声音が大理寺の官吏の話を遮った。しん、と痛いほどの静寂に、成り行きを見守る者たちからの無言の視線が戊陽と林隆宸の双方を突き刺す。
話を遮られ戸惑うように戊陽を見上げる大理寺の官吏を手で制し、戊陽が代わりに口を開く。
「ああそうだな。兄上に安らかに眠って頂くためにも、諸悪の根源を裁かねばならぬ」
「裁く! 何を持ってして私を悪と申されるのか」
「では問おう。お前の何を持ってして皇帝弑逆の善なるかを」
ふ、ふ、と嗄れた声が低く笑う。
「善などどこにも御座いませんよ。私は、徳を失った皇帝を放伐したに過ぎないのですから」
「なれば!」
ドンッ、と玉座の肘掛けを戊陽の拳が殴りつける。
「何故お前が玉座につかぬ! 放伐とは仁義をもつ者が行う事にこそ意味がある。お前のやった事は単なる殺しだ! 誰が兄上を暴君だ暗君だと謗ったか申してみよ!!」
勢いのまま立ち上がり、戊陽は玉座から下りていく。
「陛下!」
完全に怒りに呑まれてしまっている戊陽を玲馨は咄嗟に呼んだが止まらない。玉座の次は階を下り、とうとう槍ならば一突きで胸に届く位置まで林隆宸に近付く。一瞬にして兵士たちが緊張状態に陥り、一触即発の空気に全員が固唾を飲んだ。
「陛下、まだまだお若いあなた様に、老耄が一つ教えて差し上げましょう」
林隆宸が一歩、前に進み出る。その表情は自信に満ち満ちて、罪人どころかさながら義の勇士のようだ。
この時にはもう無我夢中で玲馨は走り出していた。
「師資相承という言葉が御座います。桂昭は私のやり方をよく学んだ弟子でした。ですから私は桂昭の手管をよく知っているのですよ」
林隆宸が広げた右手を顔の横に持ち上げる。何かの合図だった。瞬間、ぶすりと鋭い槍の穂先が肉を貫く音が響く。
「ぐ、ふ……っ!?」
玲馨が戊陽を庇うようにして前に立つと半歩遅れて剣を構えた梅が更に玲馨の前に踊り出る。しかし玲馨を、正確には戊陽を狙うはずだった槍は、合図を出した林隆宸本人の横腹を突き破り、左から一本の槍が林隆宸の体を串刺しにしていた。
「なに、が……っ」
林隆宸が声を出すと、ボタボタと血液が腹からこぼれ落ちていく。
「弟子ってのは師を超えるものですよ、隆宸老師」
兵士たちが構える槍や剣の海の中を悠々と歩いて渡っていく桂昭は、笑っていた。素晴らしい戯曲でも見ているかのように、今にも手を打ち鳴らして賛美を送りそうな表情で、もはや貫かれた槍にぶら下がっているような林隆宸の傍に立つ。
「隣をご覧下さい隆宸老師。そこの禁軍兵の事を私も知っているんですよ」
数名の兵士が釣られて林隆宸を刺した男へと武器を向けた。
左に立つ兵士の、兜の下に隠れた顔を見た林隆宸の顔から血の気が引いていき、絶望が張り付く。
「りっ、……や」
痛みからか引き攣った声は上手く言葉にならないが、林隆宸は「林雅」と男を見て呼んだ。
林ということは、孫か或いは息子か。林隆宸に睨まれた林雅は何かを言いかけたが、終ぞ声には出さぬまま、その口を固く閉ざした。
そして──。
ぼたぼたと水っぽくて重さのある血液が玉座の間の床をしとどに濡らして血溜まりを作ってゆく。林隆宸の命運もまたここで閉じようとしていた。
「権力にばかり目を向けず息子の将来を考えてやっていれば、この事にも気付く事が出来たやも知れませんなぁ」
「ぐっ……桂昭……っ!」
「老師。あなたには大変世話になった。その恩義に報いる事は叶いませんでしたが、その代わり沈をより良くするために粉骨砕身尽力致すとお約束しましょう。あなたの役目は終わりです。ゆっくりと休んでください」
人を食ったような話し方をする桂昭の、紛れもない「人間」としての一面だった。踵を返した桂昭の顔に笑みはなく、それどころかあらゆる感情らしきものが全て抜け落ちていた。たった今語った言葉は彼の本心だったのだろう。
去る桂昭の背中を悔しげに見送った林隆宸は最期の時が近かった。顔面は蒼白になり、呼吸は今にも止まりそうだ。
戊陽が手振りで林隆宸を刺した兵士に離れろと指示する。槍が体から抜ける時にまた大量の血をこぼしながら林隆宸はがっくりと膝を折って床に崩れていく。尻をつき、支えきれない上体はぐにゃりと縦に潰れるように折れ曲がり、両手を横につく事でどうにか留まる。
床に頽れた老人に近付く皇帝に、或いは自らその喉に剣を突き立て兄の仇を取る姿を誰しもが想像したかも知れない。しかし、戊陽は林隆宸の正面に屈み込むと、武器を持たない両手を腹部の傷に押し当てた。
──癒やしの力。
戊陽は、林隆宸の傷をその異能で癒やそうとしている。
その事にいち早く気付いたのは玲馨ではなかった。
パシンと軽く乾いた弱々しい音がした。林隆宸が力なく戊陽の手を払った音だった。
「やめろ……。殺せ」
これまでの饒舌ぶりが嘘のように端的な言葉はあまりにも明快だった。
しかしそれを聞く戊陽ではない。問答無用で傷を塞ごうとする戊陽に対して、林隆宸は突如として笑い出す。
「ふふ、ははは、は、……、そうか……私の役目は終わり、か、はっ、ははっ。私を殺して、終わりと、思いなさるか……っ」
「いっとき黙れ。治ったらお前の世迷言も全て聞いてやる。それから正しく法のもとに罰を受けろ」
その一瞬、深手を負った老人と思って誰もが油断していた。
林隆宸は老人とは思えないような機敏な動きで右手を戊陽に向かって振り上げた。林隆宸の右手には暗器である匕首が握られており、戊陽の胸元を危うく傷付け後ろへ下がる。
「陛下!!」
玲馨の叫びが轟き林隆宸を取り押さえようと玲馨や梅、そして兵士たちが一斉に動いたが、林隆宸の鋭い一言が全員をその場に縫い止めた。
「寄るなああッ!!」
血混じりの怒号は玉座の間を震わせて、ぽっかりと出来た空洞に座った林隆宸は自分の首に匕首を沿わせて躊躇いなく手前に引いた。
プシュッと血飛沫が飛び散って、林隆宸の体はとうとう床の上に倒れる。最期、林隆宸が見ていたのは戊陽でも林雅でも桂昭が去った方向でもない。もっと別の何かを一心に見つめていた。しかし、彼のその視線の先を追えた者は、果たしてこの場には誰も居なかった。
戊陽は即座に立ち上がり林隆宸に近付こうとしたがそれを梅に羽交い締めにして止められて、代わりに林隆宸に近付いた玲馨が彼の体を確かめる。
林隆宸は既に事切れていた。怒りに染まった眼球は天井を凝視したまま固まり、最後の最後まで何かを強く恨む者の目をしていた。
戊陽を振り返り、首を左右に振る。
梅を振り解こうと暴れていた戊陽は動きを止めて、ただ一言「ふざけている」と悔しげに吐き捨てた。
*
玉座の間で血が流れるなど本来あってはならない事である。林隆宸は自身の養子である林雅に戊陽を殺すように命じていた。養子である事に加えてこれまでの暗躍に関与している可能性を踏まえて、三日経った今でも林雅は拘束中である。
また禁軍の兵士にも数名ほど林雅同様に協力するよう言われていた者が居たが、それらは全て事前に桂昭によって玉座の間に近づかないよう排除されていた。後に叛意が無い事を確認し、無事軍に戻っている。
林隆宸の斃れた場所に残った痕跡は絨毯を敷く事で隠された。舶来品の品でいかにも異国風の複雑な模様と派手な配色は幼少に訪れた東妃宮の雰囲気を戊陽に思い出させた。
名前も知らない幾何学的な文様を見下ろして、桂昭は感心したように頷く。
「良い品ですなぁ。そう言えば木王の屋敷にも興味深い骨董品が飾ってあった事を思い出しました。あの方はとても趣味が良い」
それには覚えがあった。向青倫の屋敷には彫り物と壺が飾ってあったが、その辺りには造詣が深くない上にもともと興味も無いので品の良し悪しは戊陽には分からない。
「……さて、ご気分はいかがですかな、陛下」
思い出したように拱手してから、桂昭は玉座に座った戊陽を見上げる。三日前に血が流れるような事件が起きた事など露も感じさせない晴れ晴れとした顔だ。
この場には戊陽と桂昭の他には人を入れさせていない。玲馨は別件で行動を別にしており、四郎は外に控えさせている。兵士たちも扉の外だ。
広々とした玉座の間は音を吸う物が少ないせいで、男二人の声を微かに反響させる。
「お前の献策によって此度の決着となった。褒美は存分に取らせよう」
質問に答えなかったからだろうか、桂昭の鋭い目がすっと細められ「有難き事に御座います」と切口上で返す。その態度には熱のような物が感じられない。
「褒美を貰った後で牢に閉じ込められるなんて事はありますまいな?」
ふざけた質問だがいつもの芝居じみた調子は鳴りを潜めて、至極真面目に問うている。
「無い。今のところお前に罪の影は見つからなかった」
ふー、と桂昭が鼻から息を漏らす。安堵の溜息か、或いは戊陽を嘲ったのかは分からない。
「私にお答え出来る事ならなんなりとお話し致しますよ、陛下」
もしも、同じ事を妓楼で出会ったあの日に言われていたなら戊陽はこう訊ねただろう。「お前の目的は何か」と。しかし、一人また一人と官吏の罪が晒されていくうちに、桂昭にとって何が邪魔なのかが顕になっていった。それは例えば砂に指で書いたような文字のようで、波に浚われれば跡形も無く消えてしまうほど曖昧なものだったが、桂昭は自身が仕える誰かのために動いていたのだとこの数日の軌跡が物語っていた。
そして、彼が仕えている、或いはこれから仕えたいと考えている相手は、戊陽ではない。
「桂昭、お前は天子に何を求める?」
虚を衝かれたような顔をしたのは短い間だけだった。すぐに興がすっかり醒めたような顔付きに戻る。妓楼で酒に酔っていたあの日には確かに彼から熱意のようなものを感じていたが、今では消えてしまっている。事が決着して戊陽への興味を失ったように見えた。
「──改革を」
その一言を答えるまでに、僅かに考えるような間があった。
「分かった。下がってよいぞ、桂昭」
一度頭を下げて再び顔を上げた時には神妙だった雰囲気は消え失せて「是非また妓楼にお出で下さい」と愛想良く笑って去っていった。
桂昭が出て行くと、入れ違うようにして四郎が入ってくる。四郎は特に何かを訊くでもなく無言で傍に侍り、戊陽を待った。
四郎はいつもこうだ。自分から話し掛けてくる事など滅多に無く、余計な口を挟まないその一方で矢鱈に戊陽を気遣うような事もない。気楽だが、時折彼には血が通っているのか怪しく思う事もある。今日は後者で何か声を掛けてほしかったのだが、情報の漏洩を防ぐため四郎を遠ざけた後ろめたさがあった。
「黄麟宮に戻る」
「はい」
結局いつものように少しの雑談さえ交わす事なく玉座の間を出ていく。
何故だかすっきりとしない気分だった。兄を暗殺させた事を林隆宸に認めさせる事が叶ったというのに、心は晴れない。
林隆宸を死なせてしまったからだろうか?
桂昭に見放されたからだろうか?
それとも、この手で林隆宸にとどめを刺せなかったからだろうか。
──宮廷は、これからどうなっていく?
二人分の足音を聞きながら、戊陽は思考を深めていく。
桂昭は名誉貴族で紫沈の貴族でありながらも東江の勢力に属しているようだ。それは林隆宸を師と仰いでいた事からも間違いないだろう。今回の事は、東江勢力の内部分裂──いや、掃討だ。力をつけ過ぎた林隆宸を排除するための動きだった。
風通しのよくなった東江勢力の向こうには一体何が待ち構えているのだろうか。安穏としている訳にはいかない事を重々承知しながらも、桂昭を筆頭に官吏たちの思惑がはっきりと見えてこない事に焦燥を覚える。沈はこの先、どうなってしまうのか。
黄麟宮へと続く扉の前まで来たところで、はたと気付いて足を止める。扉を開けようとしていた四郎がそれに気付き戊陽を振り返るが、やはり何かを言ってくる事はない。
──兄上の仇を取るという悲願を果たしたというのに、俺は宮廷の事ばかり考えてはいないか……?
記憶の中で笑う兄の姿が僅かに霞んで見えた。
「……何でもない。開けてくれ」
一切波の立たない恬淡とした四郎には疑問の色さえ浮かばない。ただ待つ事に専念していた四郎に扉を開けさせて殿舎の中へ入る。
桂昭の事も聞かれる事はなかった。四郎が政の一切に興味が無いという訳ではないのだとしたら、寧ろ全てを把握しているから知らぬ存ぜぬを貫けるのではあるまいか。
戊陽の帰還にいそいそと動き始めた宮女たちの起居の気配を感じながらひとつ息を吐き出す。
きっと少し疲れているのだろう。このところほとんど毎日頭に鈍痛を感じている。酷くはなく、薬が必要なほどではない。兄の死に纏わる事柄に触れる時、戊陽は必ずといって良いほどこうなるのだ。今に始まった事ではない。
だから林隆宸の死についても頭が考えたくないと勝手に思考を逸らしてしまうのかも知れない。
気に病むほどに体もそれに引きずられて病んでいく事を、戊陽は身をもって経験している。兄が死んだ日を思い出すほどに、記憶は戊陽を苛んできた。
今日はもう休んでしまおうと決めて、着替えを手伝わせてから寝台に横になった。
*
戊陽が玉座の間で桂昭と対峙していた一方その頃、玲馨は嘗て存在した「循司」という治安維持組織が使っていた詰め所を訪れていた。いつ頃からか循司の役割は禁軍に取って代わられて廃止されて久しく、詰め所もそのまま禁軍で使われるようになった。
詰め所のうちの一つは午門の内側、つまり汀彩城の中にある。兵舎とはまた別で、主に宮廷犯罪に関わった者を一時的に拘束したりするのに使用される。
ここに、林隆宸の養子で彼を殺す事になった林雅が捕らえられていた。林隆宸は紛れもなく謀反者だが、それでも林雅は林隆宸を殺したという罪を負うことになる。
林雅は憔悴してはいたが話すべき事は隠さず答えていたようで、その中で一度だけ桂昭の娘について触れた事があったという。「桂昭に火の粉がかからないのは本当か? 家族は、娘は大丈夫なのか?」といった様な事を兵士に訊ねたそうだ。
当然桂昭についても調べているがあの男に至っては拘束するための正当な理由が無い。本人から聴取する訳にはいかないので、兵士は何とも答え難い事を訊かれたと思って悩んだ。その話が戊陽にも伝わりこうして玲馨が遣わされたというわけだが──。
少し離れた所に見知った人影を見付けて玲馨は驚く。本当に現れるとは思っていなかった。罪人を捕らえておくような場所に、まだ年若い女の場違いさは甚だしい。もちろん女囚が居ないという訳ではないのだが。
「桂茜さん」
玲馨が呼び掛けると相手もぎょっとしたように目を見開いた。髪に挿した銀の簪が揺れ、翡翠が陽の光にきらめく。
「あ、あなたは、陛下の」
陛下と思わず口にしてしまった事に遅れて気付き、桂茜は慌てて口を塞ぐ。やはり桂茜は父がどんな人間と交渉をしていたかを知っていた。
「こんな所へ何の御用でしょう? 若い女性が来るには少々相応しくないようですが」
それにどうやって城の中へ入ってきたのだろう。夫の忘れた弁当を届けに、なんて嘘が通用するような場所ではない。
「父についてきたんです」
頭の中で考えたはずの疑問に答えがあって目を瞠る。
「……その、そういうお顔をなさってましたから」
つまり玲馨の心を読んだらしい。伊達に客商売をしていないというわけだ。
「林雅に会わせては頂けませんか?」
桂茜は、既に玲馨が彼女と林雅の関係について承知していると考えている。確かに戊陽を通して知らされており、だからこそ玲馨がここに居るので彼女の推測は的中していた。その聡明さは父を思わせる。
戊陽からは決して二人を会わせるなと厳命されていた。しかし玲馨が桂茜を止めずとも兵士は彼女を中へは通さなかったろう。だから、玲馨に求められているのは桂茜を引き止める事ではない。
「私にその権限はありません。ただの宦官です。桂茜さんもご存知でしょう?」
ふ、と桂茜の表情が陰る。
「……でしたら、これを」
そう言って桂茜が差し出したのは丁寧に折り畳まれた紙だ。折り目に紙の端が差し込まれて簡単には開かないようになっている。よく見ると中の文字が透けて見えるのできっと手紙だろう。
「せめて私の言葉を届けてはもらえませんか?」
それくらいなら──と思ってしまうように桂茜は上手に玲馨の心理を誘導している。彼女が妓楼で働く女だと知らなければ、他意はないのだろうと手紙を届ける役目を任されてやったかも知れない。
「届ける事は出来ますよ。ですが、中を確認する必要がありますが、構いませんか?」
手紙を持っていた桂茜の手がぴくりと小さく跳ねて僅かに手を引きかける。
「謝罪が認めてあるんです。あの人が決断したのは、私のせいだから。共に生きたいと私が願ってしまったから、林雅は養父の事を……」
林雅本人はそんな事は一言も言わなかったが、林雅が養父である林隆宸を裏切ったその動機を考えた時、桂昭の娘である桂茜を深く愛していたからというのは尤もらしい。養父と愛する女の実父が対立していたのだから、林雅はどちらかを選択する立場に追いやられていた事だろう。きっと彼女も嘘は言っていない。だが、彼女がそれを今ここで語るのは手紙の中身を見られては困るからだ。
「林雅さんは、恐らく解放される事になります」
「え……?」
「あなたも彼も悲観しているのかも知れませんが、林雅さんは陛下を救った立場でもある」
「それは、どういう事ですか?」
「林隆宸は暗器を仕込んでいました。林隆宸はそれを実際に使ったのです。玉体に傷こそ出来ませんでしたが着ていた衣は浅く裂けていました。林雅さんが林隆宸を刺し貫いていなければ、林隆宸の刃は陛下の喉元に届いていたかも知れない」
林雅は宮廷を掌握していた尚書令を殺し、皇帝の命を守った。林氏勢力を完全に排除した訳ではないので、当然林氏側からは林雅の行いは罪過であると訴えられる。しかし事は皇帝の命だ。どんなに林隆宸の影が大きかろうと皇帝と同じ天秤に乗せてはならないし、何よりこれから先細るであろう林氏側の顔を立て過ぎる事を他の勢力が良しとしないだろう。
様々な思惑が絡み合って暫くは外に出てこられないかも知れないが、何より戊陽が林雅を死なせる事を許さない。だから、林雅は拘束から解放されるのだ、必ず。
とは言え、宮廷内の複雑な事情を桂茜に懇切丁寧に説明するわけにはいかない。
玲馨は桂茜に向かって手を差し出す。
「届けましょう。その代わり中の物は私が没収します」
「っ……!」
桂茜は素早く手紙を持った手を引き胸元に隠すようにして押し当てる。草葉の陰で親友が鼻を持ち上げている事だろう。「僕の妓楼の知識が役に立ったね!」といった具合に。妓楼では当たり前に使われるとある薬があった。
「約束します。決してあなたが手紙に仕込んだそれを理由に、あなたが罪を得るような事には致しません。陛下は林雅さんにも桂茜さんにも生きてほしいと望んでおられます」
なるべく嘘くさくならないよう慎重に言葉を選んだつもりだ。戊陽は誰かの死に無関心でいられるような人ではない。玲馨の事は信じられなくとも、戊陽の事は信じてほしかった。
そうした玲馨の思いが通じたか、桂茜の目が縁がじわじわと赤くなっていき涙の膜が瞳を覆った。けれど彼女は決して涙を流す事はなく目尻を指で拭い、今度こそ手紙を玲馨に差し出した。
「私が渡すのは手紙だけです。構いませんね?」
受け取る前に確認すると「陛下はきっと嘘をつくような方ではないと思いますから」と桂茜ははっきりと答えた。妓楼で培った自分の見る目に自信があるのだろう。
「では、責任を持って預かりましょう」
「あのっ」
踵を返すと桂茜が引き止めた。そして髪から銀の簪を外すとあの美しい翡翠の飾りを引き千切ってしまう。
「伝えてください。桂茜は待っています、と。また壊れてしまったから、直してほしいって」
翡翠を受け取りながら頷きだけを返し、鼻の頭に皺を寄せ今にも泣き出しそうな桂昭と別れた。
簪ごと渡されたらきっと受け取らなかったろうと思いながら、玲馨は手紙の中身を入れ替える。先の尖った簪など持ち込めば玲馨の立場も危うい。
詰め所と牢屋で違うのは地下ではない事と窓がある事。見張りも禁軍が行っているので人の質が良い。また市井で捕らえた者を一時的に入れておく鍵付きの部屋があるのが普通だ。
戊陽からの遣いである事を伝えて中に通してもらい、林雅を捕らえている部屋まで案内してもらう。
基本的に牢というのは複数人がまとめて押し込められているものだが、ここは牢ではないし事情が事情なだけに林雅は比較的清潔な部屋に一人で入れられていた。
「林雅さん、私は陛下に仕えている玲馨という者です」
ゆるゆると持ち上げた顔には濃い疲労が浮かんでいる。完全に憔悴しきっていた。養父子である事とは別に林隆宸との関係性がどうだったのかは分からない。だが仮にも育ての親だという人をその手にかけて平気な顔をしていられる程、二人の仲は劣悪ではなかったようだ。
「陛下はあなたに感謝しておられます」
「……感謝、てすか?」
「あの時、陛下もまた冷静ではありませんでした。林雅さんが居なければ、陛下に凶刃が及んでいたかも知れない」
皮肉な事を言っている自覚があるだけに、玲馨の口調は固い。「あなたが養父を殺したおかげで戊陽は助かった」と言葉にしているのだから。
瞼を伏せて俯く姿はますます窶れて見えた。彼に会ったばかりの玲馨が今何を言っても言葉は届かないだろう。
桂茜から預かった手紙を部屋の脇に備え付けてある机に置く。
「林雅さんを待っている方がおられます」
再び緩慢に顔が擡げられる。暗く沈んだ瞳には待ち人が誰なのか想像がついていないようだ。
「これはその方からの手紙です。きっと……──」
きっと、桂茜は心中するつもりだったのだ。
手紙に挟まれていたのは想像通り毒と思しきものだった。妓女は子を堕胎するための薬を持っており、中には薬を飲んで腹の子諸共死んでしまう妓女もいる。その毒性を強める事が出来るなら、堕胎薬は確実に互いを殺すのに良い薬となったろう。しかし、毒薬は玲馨によって美しい翡翠の玉にすり替えられた。
「中に、『直してほしい物』が入っていると仰っていました」
念の為に手紙の内容も読んでいた。彼女の言う通りそれは謝罪と後悔で溢れており、今の林雅にこれを読ませて果たして吉と出るか凶と出るかは分からない。
「あなたが何故、槍をその手に握ろうと思ったのか。それを忘れない事です」
もはやこれ以上彼にかける言葉は見付からなかった。
玲馨が去った後も林雅は暫く何の反応も見せなかった。しかし、やがてのっそりと動いて机の上から手紙を取ると、目を通して肩を震わせた。誰が書いた物で誰が待ってくれているのかを、きっと思い出したに違いない。その手にはしっかりと翡翠が握られていた。
玲馨にとっては桂茜も林雅も関係の深い人物ではない。明日死んだとて玲馨の人生には何の変化も与えないだろう。だけど一度でも言葉を交わした人間の死の報せは、寝覚めが良いものでは決してない。
死とは、この沈においてさほど遠いものではない。これまでにいくらかの死を見てきたが、その全てに心を痛めるなんて事はない。けれど心が晴れるような事もやはりなかった。憎くてたまらなかった林隆宸の死もやはり、玲馨の胸を複雑にさせるばかりで、喜ぶなどという感情とは程遠いところにあった。
林隆宸の事は後宮にも伝わっているようで、東妃から数日は休めとお達しが来ている。東妃は怜悧で苛烈な人だが、人の心のある人だ。
帰ろう。戊陽の事が心配だ。休息の必要が無い人間などないのだから、今は休むべきなのだろう。
終わったのだ。二年前不当に片づけられた黄昌暗殺は、漸く真実を白日の下に晒す事で解決した。
その用意周到ぶりは虎視眈々と官吏を蹴落とす機会をうかがっていたに違いないと思わせるものだった。とんとん拍子に事は進みほんの七日程度のうちに、桂昭の言う「柳」に属していたのであろう官吏たちはしめて九人が監獄の向こうの住人になっていた。
事が進むにつれて玲馨が何より恐ろしいと感じていたのは、一人捕まるごとに林隆宸の罪が一つ明るみになる事だった。
呂雄に養子を取らせて呂憲と名乗らせ、剣術の道場を開いている元禁軍の元武官に話を付けて呂憲を養子以前から道場の門徒だったという過去をでっちあげて、武科挙を受ける際に融通させた。呂憲の配属は当然の如く城の警護隊に回されて、それから二年。あの事件が、黄昌暗殺事件が起きる事になる。
他にも、無実の罪で獄死させられた戴という文官を脅していた事など、黄昌暗殺に林隆宸が関与していたという証言が次から次へと集まっていった。
極めつけは当時、黄昌付きの宦官だったという男の告白だ。
黄昌に毒を盛ったその下手人は呂憲、彼は武官である。しかし、彼は宦官の装いをして黄麟宮に忍び込んでいた。その宦官の衣を呂憲に貸したのが黄昌付きの宦官だった。
黄昌の死後宦官の宿舎に戻り元皇帝付きの宦官とは思えないような雑用をこなしていた彼は、まさか呂憲が皇帝を毒殺するなどとは露ほども考えなかったと泣いて許しを請うた。宦官の衣を呂憲に貸すよう言ってきたのは二年前当時宦官と恋仲だった宮女で、その宮女は既に年季が明けて故郷に戻っていたが、宮女と縁の深かった官吏については桂昭の采配によって案の定捕らえる事となった。
こうして、林隆宸を問い詰めるに足る証言を十分なほど得る事が出来たのだが。
「……信じがたいな」
この数日間で集めて来た数々の証言と証拠の記録を前にして戊陽が呟く。
汀彩城の玉座の間には戊陽と玲馨と今日は四郎も付き添い、それから護衛のために梅が呼ばれた。更に禁軍の兵士たちが玉座の脇を固めている。いつになく物々しい様相を呈す玉座の間にはそれ相応の理由があるのだが、主役不在では幕は上がらない。
階を降りたところには桂昭が立ち、劇の主役の登場を待ちわびている。その横顔にはうっすらと笑みこそ浮かんではいるが、とても楽し気には見えない。桂昭の放つ気配は、扉の向こうから餌の蛙が飛び出してくるのを構えて待つ蛇のそれだ。
桂昭は戊陽の呟きを聞き取って顔を上げる。
「やめられますかな? 今ならまだ、全ての証拠を陛下のお心に留めておく事が出来ますぞ」
「桂昭。お前の事も現在調べているところだ。お前に後ろ暗いところがあるなら、今のうちに申すが良い」
「どうぞよしなに、陛下。私に罪の痕跡があったなら、決して逃げずに贖う事を誓いますよ」
桂昭は自分に罪は無いとは言わなかった。常に演技めいた口調や言葉選びをする男だが、今日は特に酷い。桂昭ほどの男でも今日という日の訪れに興奮せずにはいられないのかも知れない。
林隆宸を断罪し、罷免する──。他の官吏ならいざ知らず、宮廷にて強大な力を持つ筆頭高級官吏を表舞台から退かせるという事は、紫沈の政において大きな意味を持つ。
林隆宸を罷免する事で宮廷内の勢力図は大きく変わる事になる。彼を中心にまとまっていた林氏勢力は瓦解し、林隆宸に寄生していた者たちは新たな宿主を探してさまよう事になる。中には有力な貴族、優秀な官吏も当然いるだろう事を思えばこれを機に皇帝側へとつけさせたいところだが、桂昭という男が居る限り、結局皇帝が宮廷を掌握する事は叶わないと思わせるものが桂昭にはあった。
桂昭がふと視線をずらした。距離があるせいで正確には分からないが、玲馨の方を見たような気がする。或いは、その隣に控えている四郎か。
──あの切れ者がこの機を逃すはずがない。何を企んでいるのか知らないが、野に放たれた林尚書令の勢力はきっと桂昭に吸収されるだろうな。
能ある鷹は何とやらとはよく言ったものだが、桂昭の場合隠し過ぎてどこまでが爪かも分からない。あの桂昭を戊陽に上手く制御して政をしろというのはあまりに酷だ。それが、この数日間で得た、桂昭への揺るぎない印象。あの男を御せるほどの支配者ならば、失墜した皇帝の権威を取り戻し、腐りきった沈という国を上手く立て直せるのだろう。
玉座の間に続く開け放した扉の前から兵士が離れていく。強い陽射しが差し込み、元の色が分からなくなるほど床を白く照らし出した。その真っ白な陽光の中を一人の老人が階を鷹揚な足取りで登ってくるのが見えた。
縄こそ掛けられていないが左右を兵士に挟まれてなお、小柄な体躯から放たれる自信と威圧的な空気は衰えない。皇帝を凌ぐ権力を手にした男は、この段に至っても焦燥や不安とは無縁のようだ。
「陛下に拝謁致します、林隆宸で御座います」
年輪を重ねた嗄れた声には余裕さえうかがえる。或いは拱手のやり方さえも忘れたのではないかと疑うほどだ。皇帝の玉座の前に立つ姿は堂に入っており、他の官吏との風格の違いは著しい。
「林隆宸。この日を、私がどれほど望んでいたか、お前に分かるか?」
「さて、これだけの兵士を集めて、今日は将軍の任命式でも執り行われますのやら。それならばこのような屋内ではなく、練兵場にて行うがよろしいかと存じますが」
顔の前で合わせていた手を下ろし林隆宸は悪びれもせず、それどころか玉座に座る皇帝を虚仮にする。兵士に連れてこられた以上は自分がどんな状況に立たされているかは承知しているはずだ。
「事前に教えておこう。言い逃れは無用である。数々の証文と証拠の記録は既に私自ら改め、刑部と大理寺からそれぞれ法に詳しい者にも審理させた」
桂昭の正面に控えていた二人の官吏は、恐る恐るといった様子で戊陽に向かって拱手する。彼らは桂昭の意見に従い連れて来た「柳」に属さない官吏。涅すれども緇まずにいられた者たちだ。
「恐れながら申し上げます。林尚書令の行いは、反逆の罪に相当致します。直接手を下してはいませんが、当時服毒して死んだ呂憲を刺客とし、亡き黄昌太上皇帝陛下の弑逆を命じました。これは呂憲よりも重大な罪であります。また様々な方法を用いて刺客を手引きし、実行の手助けをしております。これらの──」
「陛下、黄昌帝の事につきましては既に解決した昔事。今更蒸し返しては黄昌帝の御霊も安心して休まれますまい」
まるで子供を諭すような声音が大理寺の官吏の話を遮った。しん、と痛いほどの静寂に、成り行きを見守る者たちからの無言の視線が戊陽と林隆宸の双方を突き刺す。
話を遮られ戸惑うように戊陽を見上げる大理寺の官吏を手で制し、戊陽が代わりに口を開く。
「ああそうだな。兄上に安らかに眠って頂くためにも、諸悪の根源を裁かねばならぬ」
「裁く! 何を持ってして私を悪と申されるのか」
「では問おう。お前の何を持ってして皇帝弑逆の善なるかを」
ふ、ふ、と嗄れた声が低く笑う。
「善などどこにも御座いませんよ。私は、徳を失った皇帝を放伐したに過ぎないのですから」
「なれば!」
ドンッ、と玉座の肘掛けを戊陽の拳が殴りつける。
「何故お前が玉座につかぬ! 放伐とは仁義をもつ者が行う事にこそ意味がある。お前のやった事は単なる殺しだ! 誰が兄上を暴君だ暗君だと謗ったか申してみよ!!」
勢いのまま立ち上がり、戊陽は玉座から下りていく。
「陛下!」
完全に怒りに呑まれてしまっている戊陽を玲馨は咄嗟に呼んだが止まらない。玉座の次は階を下り、とうとう槍ならば一突きで胸に届く位置まで林隆宸に近付く。一瞬にして兵士たちが緊張状態に陥り、一触即発の空気に全員が固唾を飲んだ。
「陛下、まだまだお若いあなた様に、老耄が一つ教えて差し上げましょう」
林隆宸が一歩、前に進み出る。その表情は自信に満ち満ちて、罪人どころかさながら義の勇士のようだ。
この時にはもう無我夢中で玲馨は走り出していた。
「師資相承という言葉が御座います。桂昭は私のやり方をよく学んだ弟子でした。ですから私は桂昭の手管をよく知っているのですよ」
林隆宸が広げた右手を顔の横に持ち上げる。何かの合図だった。瞬間、ぶすりと鋭い槍の穂先が肉を貫く音が響く。
「ぐ、ふ……っ!?」
玲馨が戊陽を庇うようにして前に立つと半歩遅れて剣を構えた梅が更に玲馨の前に踊り出る。しかし玲馨を、正確には戊陽を狙うはずだった槍は、合図を出した林隆宸本人の横腹を突き破り、左から一本の槍が林隆宸の体を串刺しにしていた。
「なに、が……っ」
林隆宸が声を出すと、ボタボタと血液が腹からこぼれ落ちていく。
「弟子ってのは師を超えるものですよ、隆宸老師」
兵士たちが構える槍や剣の海の中を悠々と歩いて渡っていく桂昭は、笑っていた。素晴らしい戯曲でも見ているかのように、今にも手を打ち鳴らして賛美を送りそうな表情で、もはや貫かれた槍にぶら下がっているような林隆宸の傍に立つ。
「隣をご覧下さい隆宸老師。そこの禁軍兵の事を私も知っているんですよ」
数名の兵士が釣られて林隆宸を刺した男へと武器を向けた。
左に立つ兵士の、兜の下に隠れた顔を見た林隆宸の顔から血の気が引いていき、絶望が張り付く。
「りっ、……や」
痛みからか引き攣った声は上手く言葉にならないが、林隆宸は「林雅」と男を見て呼んだ。
林ということは、孫か或いは息子か。林隆宸に睨まれた林雅は何かを言いかけたが、終ぞ声には出さぬまま、その口を固く閉ざした。
そして──。
ぼたぼたと水っぽくて重さのある血液が玉座の間の床をしとどに濡らして血溜まりを作ってゆく。林隆宸の命運もまたここで閉じようとしていた。
「権力にばかり目を向けず息子の将来を考えてやっていれば、この事にも気付く事が出来たやも知れませんなぁ」
「ぐっ……桂昭……っ!」
「老師。あなたには大変世話になった。その恩義に報いる事は叶いませんでしたが、その代わり沈をより良くするために粉骨砕身尽力致すとお約束しましょう。あなたの役目は終わりです。ゆっくりと休んでください」
人を食ったような話し方をする桂昭の、紛れもない「人間」としての一面だった。踵を返した桂昭の顔に笑みはなく、それどころかあらゆる感情らしきものが全て抜け落ちていた。たった今語った言葉は彼の本心だったのだろう。
去る桂昭の背中を悔しげに見送った林隆宸は最期の時が近かった。顔面は蒼白になり、呼吸は今にも止まりそうだ。
戊陽が手振りで林隆宸を刺した兵士に離れろと指示する。槍が体から抜ける時にまた大量の血をこぼしながら林隆宸はがっくりと膝を折って床に崩れていく。尻をつき、支えきれない上体はぐにゃりと縦に潰れるように折れ曲がり、両手を横につく事でどうにか留まる。
床に頽れた老人に近付く皇帝に、或いは自らその喉に剣を突き立て兄の仇を取る姿を誰しもが想像したかも知れない。しかし、戊陽は林隆宸の正面に屈み込むと、武器を持たない両手を腹部の傷に押し当てた。
──癒やしの力。
戊陽は、林隆宸の傷をその異能で癒やそうとしている。
その事にいち早く気付いたのは玲馨ではなかった。
パシンと軽く乾いた弱々しい音がした。林隆宸が力なく戊陽の手を払った音だった。
「やめろ……。殺せ」
これまでの饒舌ぶりが嘘のように端的な言葉はあまりにも明快だった。
しかしそれを聞く戊陽ではない。問答無用で傷を塞ごうとする戊陽に対して、林隆宸は突如として笑い出す。
「ふふ、ははは、は、……、そうか……私の役目は終わり、か、はっ、ははっ。私を殺して、終わりと、思いなさるか……っ」
「いっとき黙れ。治ったらお前の世迷言も全て聞いてやる。それから正しく法のもとに罰を受けろ」
その一瞬、深手を負った老人と思って誰もが油断していた。
林隆宸は老人とは思えないような機敏な動きで右手を戊陽に向かって振り上げた。林隆宸の右手には暗器である匕首が握られており、戊陽の胸元を危うく傷付け後ろへ下がる。
「陛下!!」
玲馨の叫びが轟き林隆宸を取り押さえようと玲馨や梅、そして兵士たちが一斉に動いたが、林隆宸の鋭い一言が全員をその場に縫い止めた。
「寄るなああッ!!」
血混じりの怒号は玉座の間を震わせて、ぽっかりと出来た空洞に座った林隆宸は自分の首に匕首を沿わせて躊躇いなく手前に引いた。
プシュッと血飛沫が飛び散って、林隆宸の体はとうとう床の上に倒れる。最期、林隆宸が見ていたのは戊陽でも林雅でも桂昭が去った方向でもない。もっと別の何かを一心に見つめていた。しかし、彼のその視線の先を追えた者は、果たしてこの場には誰も居なかった。
戊陽は即座に立ち上がり林隆宸に近付こうとしたがそれを梅に羽交い締めにして止められて、代わりに林隆宸に近付いた玲馨が彼の体を確かめる。
林隆宸は既に事切れていた。怒りに染まった眼球は天井を凝視したまま固まり、最後の最後まで何かを強く恨む者の目をしていた。
戊陽を振り返り、首を左右に振る。
梅を振り解こうと暴れていた戊陽は動きを止めて、ただ一言「ふざけている」と悔しげに吐き捨てた。
*
玉座の間で血が流れるなど本来あってはならない事である。林隆宸は自身の養子である林雅に戊陽を殺すように命じていた。養子である事に加えてこれまでの暗躍に関与している可能性を踏まえて、三日経った今でも林雅は拘束中である。
また禁軍の兵士にも数名ほど林雅同様に協力するよう言われていた者が居たが、それらは全て事前に桂昭によって玉座の間に近づかないよう排除されていた。後に叛意が無い事を確認し、無事軍に戻っている。
林隆宸の斃れた場所に残った痕跡は絨毯を敷く事で隠された。舶来品の品でいかにも異国風の複雑な模様と派手な配色は幼少に訪れた東妃宮の雰囲気を戊陽に思い出させた。
名前も知らない幾何学的な文様を見下ろして、桂昭は感心したように頷く。
「良い品ですなぁ。そう言えば木王の屋敷にも興味深い骨董品が飾ってあった事を思い出しました。あの方はとても趣味が良い」
それには覚えがあった。向青倫の屋敷には彫り物と壺が飾ってあったが、その辺りには造詣が深くない上にもともと興味も無いので品の良し悪しは戊陽には分からない。
「……さて、ご気分はいかがですかな、陛下」
思い出したように拱手してから、桂昭は玉座に座った戊陽を見上げる。三日前に血が流れるような事件が起きた事など露も感じさせない晴れ晴れとした顔だ。
この場には戊陽と桂昭の他には人を入れさせていない。玲馨は別件で行動を別にしており、四郎は外に控えさせている。兵士たちも扉の外だ。
広々とした玉座の間は音を吸う物が少ないせいで、男二人の声を微かに反響させる。
「お前の献策によって此度の決着となった。褒美は存分に取らせよう」
質問に答えなかったからだろうか、桂昭の鋭い目がすっと細められ「有難き事に御座います」と切口上で返す。その態度には熱のような物が感じられない。
「褒美を貰った後で牢に閉じ込められるなんて事はありますまいな?」
ふざけた質問だがいつもの芝居じみた調子は鳴りを潜めて、至極真面目に問うている。
「無い。今のところお前に罪の影は見つからなかった」
ふー、と桂昭が鼻から息を漏らす。安堵の溜息か、或いは戊陽を嘲ったのかは分からない。
「私にお答え出来る事ならなんなりとお話し致しますよ、陛下」
もしも、同じ事を妓楼で出会ったあの日に言われていたなら戊陽はこう訊ねただろう。「お前の目的は何か」と。しかし、一人また一人と官吏の罪が晒されていくうちに、桂昭にとって何が邪魔なのかが顕になっていった。それは例えば砂に指で書いたような文字のようで、波に浚われれば跡形も無く消えてしまうほど曖昧なものだったが、桂昭は自身が仕える誰かのために動いていたのだとこの数日の軌跡が物語っていた。
そして、彼が仕えている、或いはこれから仕えたいと考えている相手は、戊陽ではない。
「桂昭、お前は天子に何を求める?」
虚を衝かれたような顔をしたのは短い間だけだった。すぐに興がすっかり醒めたような顔付きに戻る。妓楼で酒に酔っていたあの日には確かに彼から熱意のようなものを感じていたが、今では消えてしまっている。事が決着して戊陽への興味を失ったように見えた。
「──改革を」
その一言を答えるまでに、僅かに考えるような間があった。
「分かった。下がってよいぞ、桂昭」
一度頭を下げて再び顔を上げた時には神妙だった雰囲気は消え失せて「是非また妓楼にお出で下さい」と愛想良く笑って去っていった。
桂昭が出て行くと、入れ違うようにして四郎が入ってくる。四郎は特に何かを訊くでもなく無言で傍に侍り、戊陽を待った。
四郎はいつもこうだ。自分から話し掛けてくる事など滅多に無く、余計な口を挟まないその一方で矢鱈に戊陽を気遣うような事もない。気楽だが、時折彼には血が通っているのか怪しく思う事もある。今日は後者で何か声を掛けてほしかったのだが、情報の漏洩を防ぐため四郎を遠ざけた後ろめたさがあった。
「黄麟宮に戻る」
「はい」
結局いつものように少しの雑談さえ交わす事なく玉座の間を出ていく。
何故だかすっきりとしない気分だった。兄を暗殺させた事を林隆宸に認めさせる事が叶ったというのに、心は晴れない。
林隆宸を死なせてしまったからだろうか?
桂昭に見放されたからだろうか?
それとも、この手で林隆宸にとどめを刺せなかったからだろうか。
──宮廷は、これからどうなっていく?
二人分の足音を聞きながら、戊陽は思考を深めていく。
桂昭は名誉貴族で紫沈の貴族でありながらも東江の勢力に属しているようだ。それは林隆宸を師と仰いでいた事からも間違いないだろう。今回の事は、東江勢力の内部分裂──いや、掃討だ。力をつけ過ぎた林隆宸を排除するための動きだった。
風通しのよくなった東江勢力の向こうには一体何が待ち構えているのだろうか。安穏としている訳にはいかない事を重々承知しながらも、桂昭を筆頭に官吏たちの思惑がはっきりと見えてこない事に焦燥を覚える。沈はこの先、どうなってしまうのか。
黄麟宮へと続く扉の前まで来たところで、はたと気付いて足を止める。扉を開けようとしていた四郎がそれに気付き戊陽を振り返るが、やはり何かを言ってくる事はない。
──兄上の仇を取るという悲願を果たしたというのに、俺は宮廷の事ばかり考えてはいないか……?
記憶の中で笑う兄の姿が僅かに霞んで見えた。
「……何でもない。開けてくれ」
一切波の立たない恬淡とした四郎には疑問の色さえ浮かばない。ただ待つ事に専念していた四郎に扉を開けさせて殿舎の中へ入る。
桂昭の事も聞かれる事はなかった。四郎が政の一切に興味が無いという訳ではないのだとしたら、寧ろ全てを把握しているから知らぬ存ぜぬを貫けるのではあるまいか。
戊陽の帰還にいそいそと動き始めた宮女たちの起居の気配を感じながらひとつ息を吐き出す。
きっと少し疲れているのだろう。このところほとんど毎日頭に鈍痛を感じている。酷くはなく、薬が必要なほどではない。兄の死に纏わる事柄に触れる時、戊陽は必ずといって良いほどこうなるのだ。今に始まった事ではない。
だから林隆宸の死についても頭が考えたくないと勝手に思考を逸らしてしまうのかも知れない。
気に病むほどに体もそれに引きずられて病んでいく事を、戊陽は身をもって経験している。兄が死んだ日を思い出すほどに、記憶は戊陽を苛んできた。
今日はもう休んでしまおうと決めて、着替えを手伝わせてから寝台に横になった。
*
戊陽が玉座の間で桂昭と対峙していた一方その頃、玲馨は嘗て存在した「循司」という治安維持組織が使っていた詰め所を訪れていた。いつ頃からか循司の役割は禁軍に取って代わられて廃止されて久しく、詰め所もそのまま禁軍で使われるようになった。
詰め所のうちの一つは午門の内側、つまり汀彩城の中にある。兵舎とはまた別で、主に宮廷犯罪に関わった者を一時的に拘束したりするのに使用される。
ここに、林隆宸の養子で彼を殺す事になった林雅が捕らえられていた。林隆宸は紛れもなく謀反者だが、それでも林雅は林隆宸を殺したという罪を負うことになる。
林雅は憔悴してはいたが話すべき事は隠さず答えていたようで、その中で一度だけ桂昭の娘について触れた事があったという。「桂昭に火の粉がかからないのは本当か? 家族は、娘は大丈夫なのか?」といった様な事を兵士に訊ねたそうだ。
当然桂昭についても調べているがあの男に至っては拘束するための正当な理由が無い。本人から聴取する訳にはいかないので、兵士は何とも答え難い事を訊かれたと思って悩んだ。その話が戊陽にも伝わりこうして玲馨が遣わされたというわけだが──。
少し離れた所に見知った人影を見付けて玲馨は驚く。本当に現れるとは思っていなかった。罪人を捕らえておくような場所に、まだ年若い女の場違いさは甚だしい。もちろん女囚が居ないという訳ではないのだが。
「桂茜さん」
玲馨が呼び掛けると相手もぎょっとしたように目を見開いた。髪に挿した銀の簪が揺れ、翡翠が陽の光にきらめく。
「あ、あなたは、陛下の」
陛下と思わず口にしてしまった事に遅れて気付き、桂茜は慌てて口を塞ぐ。やはり桂茜は父がどんな人間と交渉をしていたかを知っていた。
「こんな所へ何の御用でしょう? 若い女性が来るには少々相応しくないようですが」
それにどうやって城の中へ入ってきたのだろう。夫の忘れた弁当を届けに、なんて嘘が通用するような場所ではない。
「父についてきたんです」
頭の中で考えたはずの疑問に答えがあって目を瞠る。
「……その、そういうお顔をなさってましたから」
つまり玲馨の心を読んだらしい。伊達に客商売をしていないというわけだ。
「林雅に会わせては頂けませんか?」
桂茜は、既に玲馨が彼女と林雅の関係について承知していると考えている。確かに戊陽を通して知らされており、だからこそ玲馨がここに居るので彼女の推測は的中していた。その聡明さは父を思わせる。
戊陽からは決して二人を会わせるなと厳命されていた。しかし玲馨が桂茜を止めずとも兵士は彼女を中へは通さなかったろう。だから、玲馨に求められているのは桂茜を引き止める事ではない。
「私にその権限はありません。ただの宦官です。桂茜さんもご存知でしょう?」
ふ、と桂茜の表情が陰る。
「……でしたら、これを」
そう言って桂茜が差し出したのは丁寧に折り畳まれた紙だ。折り目に紙の端が差し込まれて簡単には開かないようになっている。よく見ると中の文字が透けて見えるのできっと手紙だろう。
「せめて私の言葉を届けてはもらえませんか?」
それくらいなら──と思ってしまうように桂茜は上手に玲馨の心理を誘導している。彼女が妓楼で働く女だと知らなければ、他意はないのだろうと手紙を届ける役目を任されてやったかも知れない。
「届ける事は出来ますよ。ですが、中を確認する必要がありますが、構いませんか?」
手紙を持っていた桂茜の手がぴくりと小さく跳ねて僅かに手を引きかける。
「謝罪が認めてあるんです。あの人が決断したのは、私のせいだから。共に生きたいと私が願ってしまったから、林雅は養父の事を……」
林雅本人はそんな事は一言も言わなかったが、林雅が養父である林隆宸を裏切ったその動機を考えた時、桂昭の娘である桂茜を深く愛していたからというのは尤もらしい。養父と愛する女の実父が対立していたのだから、林雅はどちらかを選択する立場に追いやられていた事だろう。きっと彼女も嘘は言っていない。だが、彼女がそれを今ここで語るのは手紙の中身を見られては困るからだ。
「林雅さんは、恐らく解放される事になります」
「え……?」
「あなたも彼も悲観しているのかも知れませんが、林雅さんは陛下を救った立場でもある」
「それは、どういう事ですか?」
「林隆宸は暗器を仕込んでいました。林隆宸はそれを実際に使ったのです。玉体に傷こそ出来ませんでしたが着ていた衣は浅く裂けていました。林雅さんが林隆宸を刺し貫いていなければ、林隆宸の刃は陛下の喉元に届いていたかも知れない」
林雅は宮廷を掌握していた尚書令を殺し、皇帝の命を守った。林氏勢力を完全に排除した訳ではないので、当然林氏側からは林雅の行いは罪過であると訴えられる。しかし事は皇帝の命だ。どんなに林隆宸の影が大きかろうと皇帝と同じ天秤に乗せてはならないし、何よりこれから先細るであろう林氏側の顔を立て過ぎる事を他の勢力が良しとしないだろう。
様々な思惑が絡み合って暫くは外に出てこられないかも知れないが、何より戊陽が林雅を死なせる事を許さない。だから、林雅は拘束から解放されるのだ、必ず。
とは言え、宮廷内の複雑な事情を桂茜に懇切丁寧に説明するわけにはいかない。
玲馨は桂茜に向かって手を差し出す。
「届けましょう。その代わり中の物は私が没収します」
「っ……!」
桂茜は素早く手紙を持った手を引き胸元に隠すようにして押し当てる。草葉の陰で親友が鼻を持ち上げている事だろう。「僕の妓楼の知識が役に立ったね!」といった具合に。妓楼では当たり前に使われるとある薬があった。
「約束します。決してあなたが手紙に仕込んだそれを理由に、あなたが罪を得るような事には致しません。陛下は林雅さんにも桂茜さんにも生きてほしいと望んでおられます」
なるべく嘘くさくならないよう慎重に言葉を選んだつもりだ。戊陽は誰かの死に無関心でいられるような人ではない。玲馨の事は信じられなくとも、戊陽の事は信じてほしかった。
そうした玲馨の思いが通じたか、桂茜の目が縁がじわじわと赤くなっていき涙の膜が瞳を覆った。けれど彼女は決して涙を流す事はなく目尻を指で拭い、今度こそ手紙を玲馨に差し出した。
「私が渡すのは手紙だけです。構いませんね?」
受け取る前に確認すると「陛下はきっと嘘をつくような方ではないと思いますから」と桂茜ははっきりと答えた。妓楼で培った自分の見る目に自信があるのだろう。
「では、責任を持って預かりましょう」
「あのっ」
踵を返すと桂茜が引き止めた。そして髪から銀の簪を外すとあの美しい翡翠の飾りを引き千切ってしまう。
「伝えてください。桂茜は待っています、と。また壊れてしまったから、直してほしいって」
翡翠を受け取りながら頷きだけを返し、鼻の頭に皺を寄せ今にも泣き出しそうな桂昭と別れた。
簪ごと渡されたらきっと受け取らなかったろうと思いながら、玲馨は手紙の中身を入れ替える。先の尖った簪など持ち込めば玲馨の立場も危うい。
詰め所と牢屋で違うのは地下ではない事と窓がある事。見張りも禁軍が行っているので人の質が良い。また市井で捕らえた者を一時的に入れておく鍵付きの部屋があるのが普通だ。
戊陽からの遣いである事を伝えて中に通してもらい、林雅を捕らえている部屋まで案内してもらう。
基本的に牢というのは複数人がまとめて押し込められているものだが、ここは牢ではないし事情が事情なだけに林雅は比較的清潔な部屋に一人で入れられていた。
「林雅さん、私は陛下に仕えている玲馨という者です」
ゆるゆると持ち上げた顔には濃い疲労が浮かんでいる。完全に憔悴しきっていた。養父子である事とは別に林隆宸との関係性がどうだったのかは分からない。だが仮にも育ての親だという人をその手にかけて平気な顔をしていられる程、二人の仲は劣悪ではなかったようだ。
「陛下はあなたに感謝しておられます」
「……感謝、てすか?」
「あの時、陛下もまた冷静ではありませんでした。林雅さんが居なければ、陛下に凶刃が及んでいたかも知れない」
皮肉な事を言っている自覚があるだけに、玲馨の口調は固い。「あなたが養父を殺したおかげで戊陽は助かった」と言葉にしているのだから。
瞼を伏せて俯く姿はますます窶れて見えた。彼に会ったばかりの玲馨が今何を言っても言葉は届かないだろう。
桂茜から預かった手紙を部屋の脇に備え付けてある机に置く。
「林雅さんを待っている方がおられます」
再び緩慢に顔が擡げられる。暗く沈んだ瞳には待ち人が誰なのか想像がついていないようだ。
「これはその方からの手紙です。きっと……──」
きっと、桂茜は心中するつもりだったのだ。
手紙に挟まれていたのは想像通り毒と思しきものだった。妓女は子を堕胎するための薬を持っており、中には薬を飲んで腹の子諸共死んでしまう妓女もいる。その毒性を強める事が出来るなら、堕胎薬は確実に互いを殺すのに良い薬となったろう。しかし、毒薬は玲馨によって美しい翡翠の玉にすり替えられた。
「中に、『直してほしい物』が入っていると仰っていました」
念の為に手紙の内容も読んでいた。彼女の言う通りそれは謝罪と後悔で溢れており、今の林雅にこれを読ませて果たして吉と出るか凶と出るかは分からない。
「あなたが何故、槍をその手に握ろうと思ったのか。それを忘れない事です」
もはやこれ以上彼にかける言葉は見付からなかった。
玲馨が去った後も林雅は暫く何の反応も見せなかった。しかし、やがてのっそりと動いて机の上から手紙を取ると、目を通して肩を震わせた。誰が書いた物で誰が待ってくれているのかを、きっと思い出したに違いない。その手にはしっかりと翡翠が握られていた。
玲馨にとっては桂茜も林雅も関係の深い人物ではない。明日死んだとて玲馨の人生には何の変化も与えないだろう。だけど一度でも言葉を交わした人間の死の報せは、寝覚めが良いものでは決してない。
死とは、この沈においてさほど遠いものではない。これまでにいくらかの死を見てきたが、その全てに心を痛めるなんて事はない。けれど心が晴れるような事もやはりなかった。憎くてたまらなかった林隆宸の死もやはり、玲馨の胸を複雑にさせるばかりで、喜ぶなどという感情とは程遠いところにあった。
林隆宸の事は後宮にも伝わっているようで、東妃から数日は休めとお達しが来ている。東妃は怜悧で苛烈な人だが、人の心のある人だ。
帰ろう。戊陽の事が心配だ。休息の必要が無い人間などないのだから、今は休むべきなのだろう。
終わったのだ。二年前不当に片づけられた黄昌暗殺は、漸く真実を白日の下に晒す事で解決した。
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Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
その首輪は、弟の牙でしか外せない。
ゆずまめ鯉
BL
養子ゆえに、王位継承権を持たないオメガで長男のレイン(24)は、国家騎士団として秘密裏に働き、ただ義弟たちを守るためだけに生きてきた。
第一継承権を持つアルファで次男のリオール(19)は、そんな兄に「ごく潰し」と陰口を叩く連中を許せなかった。自分を犠牲にしてまで守る価値はないと思っていた。なにかと怪我の多い国家騎士団を辞めさせたかった。
初めて訪れた発情期のとき。約束をすっぽかされたリオールが不審に思い、兄の部屋へ行くと、国家騎士団の同僚──グウェンソード(28)に押し倒されるところを目撃して激高する。
「今すぐ部屋から出ろ!」
独占欲をあらわにしたリオールは、グウェンソードを部屋から追い出し、兄であるレインを欲望のままに抱いた。
翌朝、差し出されたのは特注の首輪──外せるのはリオールのみ。
「俺以外に触らせるな」
そう囁かれたレインは、何年も首輪と弟の執着に縛られ続けてきた。
弟には婚約者がいるのに、こんな関係を続けてもいいのか。
本当にこのままでもいいのか。
ひたすら執着して独占したがる弟と、罪悪感に苛まれる兄。
その首輪は、いつか弟の牙で血に染まるのか──。
どうにかしてレインを落としたいリオールと、弟との関係に悩むレインのオメガバースです。
リオール・グランケット(19)×レイン・グランケット(24)
※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。
三人称ですが攻めだったり受けだったり視点がよくかわります。攻め視点多めです。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
大学一軍イケメンにいちご狩りに誘われた陰キャの俺、なぜかいちごじゃなくて俺が喰われたんだが(?)
子犬一 はぁて
BL
大学一軍イケメン×大学九軍陰キャ
喰われるなんて聞いてないんだが(?)
俺はただ、
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誘ってきた大学一軍イケメンの海皇(21)に
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ちょっと待てい。
意味がわからないんだが!
いちご狩りから始まる
ケンカップルいちゃらぶBL
※大人描写のある話はタイトルに『※』あり
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