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「光の魔法と黒の呪い」前編
10王妃の日記
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金属質な音が意識の遠いところで鳴ったような気がしてカルディアは目を覚ます。椅子を扉に対して横向きに置いて、肘掛けと扉に体重を預けて眠っていた体はあちこちがぎしぎしと軋んだ。扉が開く気配を感じ取ると慌てて椅子を抱えて飛びのく。
「アスラン!」
髪はボサボサで目の下には酷いクマを作ったアスランがぐったりとした様子で出てくる。服は辛うじて布を被ったという状態で、ベルトもしていない。倒れたら事なのですかさず脇から手を回して腰の辺りを掴む。
「アスラン、もう平気?」
「ああ……」
返事にも一切覇気がない。今日はこのまま休ませるべきだろう。
「僕の部屋に行こう」
一晩獅子が暴れた部屋には噛み痕でボロボロになった角材が転がり、爪で引き裂かれたシーツがベッドの周辺に散らばっていた。とてもゆっくり休ませてやれる環境ではないと判断してすぐに隣のカルディアの部屋にアスランを連れていった。
カルディアのベッドにアスランを寝かせると、ボサボサになってしまった彼の前髪を掬って、露わになった額に口付ける。顔を離すと物欲しげな目をして髪に触れていた手を握ってくるので「もう」と言いながらも唇を合わせた。
「この続きはまた、後で……」
ストン、と灯りが消えるようにして即座に入眠したアスランにカルディアは苦笑する。前回よりも暴走の程度が軽く済んだようだ。
ベッドから降りると、ぐっと伸びをする。アスランの闘いは終わったがカルディアの闘いはこれからだ。
鏡の傍に本来なら装飾品を入れておくための脚付きの瀟洒な引き出しがある。故郷から持ってきた物を収めたら一段目だけで済んでしまったおかげで二段目と三段目は空っぽのままだった。それが先日、二段目の鍵を使う機会があった。
カルディアは意を決して二段目の引き出しの鍵を開ける。中から前に見た時と変わらない皮革の表紙が出てくる。表題には作者である『ニクス・I=ジェシアフ』の名が流麗な彫りによって刻まれただけの寂し気なそれはアスランの母の日記。
手に持つと厚みがある分しっかりとした重さがある。それはニクスがシリオで過ごした日々を文字にした思いだ。
表紙と背表紙を繋ぐベルトにつけられた錠前に、日記と共にオスマから受け取っていた細く小さな金属製の鍵を入れて回す。金属同士が噛み合って穴の奥で開く音がする。叔母は自分の甥に日記を読まれる事など想像しなかっただろう。彼女の許しを得ずに鍵を開けたせいか、金属の硬く無機質な音は手に伝わる感覚以上に冷たく聞こえた。
見返しに使われているのは羊皮紙だ。乾ききった羊皮紙がパリッと硬い質感を手のひらに伝える。独特の臭気もあって、あまり長く嗅いでいたいものではない。表紙を捲った一ページ目にはニクス・フォトスと執筆者の名が記されている。表題にある名と違う理由は、この日記が婚前から書かれたものだからだろう。
二ページ目には日付があった。この日記はニクスがシリオに嫁ぐ日から始まっていて、最初の日付は今から約二十六年前だ。逆算すればニクスはシリオに嫁いで間もないうちにアスランをその身に宿したのだという事が分かる。ニクスはせいぜい二、三ヶ月程度の間に子を身ごもって無事長男を産み、〈盟約の花嫁〉としての役目を果たしたのだ。
カルディアは短くも長かったフォトスからの旅路を思い出す。ニクスも同じようにたった一人で故郷を離れたのだ。どんな思いだったろう。ディナミが遠くなり、魔法が消えて、これまでの自分ではない自分になる感覚を、彼女はどう受け止めたのだろう。そんな事を考えながらページを進める。
『私は今日、愛すべき故郷を去ります。これからここに記していく事は、全ては私の心の事。現実は異なろうと、心の真実は決して変えられないと、私はここに書き留めておきたいのです』
表題の署名と全く同じ筆跡はカルディアよりもずっと丁寧で、ずっと繊細だ。日記の文字の向こうに、これから訪れる見知らぬ異国の土地に不安を覚えてたまらずペンを執った華奢な少女の姿が連想される。オスマによればフォトスの古語を使って日記を書いてあるという事だったが、この頃はまだ現代のフォトスの書き文字だ。慣れ親しんだ文字を視線で追いながら読み進めていく。
『ジェサーレ王はとても素敵な方でした。〈花契びの儀〉でまさしく初心である私は何もかもを彼のお方に任せているだけで、後の事は瞬く間に過ぎ去っていました。生涯この日の事は忘れる事が出来ないでしょう。どうか、先の幸福を願います』
この頃既にジェサーレが王位に即いていたという事実と共に、「素敵な方」というニクスの印象に驚く。
当時の二人の年齢は、ニクスが十八歳で、ジェサーレが二十歳だ。この日から二十六年。それだけの時間が過ぎれば人とは変わってしまうものなのかも知れない。
日記は暫くの間はシリオでの慣れない生活に苦労している様子が綴られていた。カルディアと同じように〈落果〉が起こり魔法が使えなくなった事もその時の体の変化や感情に至るまで詳らかに書いてある。鍵のついた日記であれば、後の世に誰かに読まれる事もなく失われていくと思ったのかも知れない。赤裸々な言葉の数々に時折身につまされた。
アスランを身ごもったと知った日、そしてアスランが産まれてきた日。そのどちらもニクスは涙を流すほど喜んでいた。この頃まではニクスとジェサーレの関係にもさほど変化は見られない。
日記はまめにつけられていた訳ではなく、書き綴りたいと思う事が起きた日に気ままにペンを執っていたようだ。日付は飛び飛びで、すぐにアスランが産まれた日から半年ほどが過ぎていく。
気になる記述が出て来たのはアスランが一歳になる頃だった。
『ジェサーレ様はどうしても私を番にはして下さらない』
二人が最後まで番にならなかった事は、皮肉にもジェサーレが生き証人だ。番は片割れを失うと、残った方も後を追うように弱り息絶える。ニクスが死に、ジェサーレが生きている以上は、つまりそういう事だ。
ジェサーレと想いが通じ合っていると思っていたニクスの日記はこの頃から悲嘆に暮れる内容が増えていく。
ジェサーレがニクスと番わなかった理由は彼がすでに国王として政務をこなす立場だったからかも知れない。ジェサーレに兄弟姉妹はなく、先代も無くなったジェサーレにとって番を作る行為は命を危険に晒すも同然だ。ジェサーレ個人の感情で番う事は許されなかったかも知れない。
ニクスは悲しみのあまりそうしたジェサーレの事情を想像する事はなかったようだ。ひたすらにどこまで悲哀に飲まれた文章は、読んでいるだけのカルディアまで胸の奥が重たく苦しくなってくるようだ。
「古語だ。『私が、愚かでした』……?」
アスランが三歳になる頃だった。アスランに暴走らしき症状が現れる。この日を境にニクスは日記に使う文字を古語に切り替えていた。
古語が出始めた契機はアスランの狂獣化だった。嫌な予感がし始めて、ページを捲る手が慎重になる。
アスランの狂獣化の症状が出始めるとジェサーレはニクスを〈ヴィラの塔〉へと幽閉し、アスランの育児は完全に乳母に任される事になる。二人の関係は終ぞ修復することはなく、ニクスが三十三年という短い生涯を終えるまで、蟠りは解消されなかったようだ。
三歳のアスランに起きた暴走はひとりでに獣化してしまうという程度のものだった。暴れたりする事はなく誰かを誤って噛んでしまうというような事は起こっていないらしい。これに対してニクスは古語で『私のディナミが息子の体にそうさせてしまうのです』と書いている。ニクスのディナミを受け継いだ事が暴走の原因だと考えているようだった。
ヴィラの塔に幽閉されて数年が経つ頃には日記の内容は荒みきって筆跡もひどく乱れている日が多くなる。まともな文章になっていない事も多く、感情のままに同じ単語を繰り返し繰り返し、紙に傷を付けるように強い筆圧で書き殴られている日もある。
ひとまずまともな文章になっているところだけでも追っていくが、大抵はジェサーレへの呪いの言葉だ。繊細で控えめな印象だった女性は伴侶との関係が縺れるにつれて豹変していった。その強い憎しみからはどうしてもクファルを想像してしまう。アスランに良く似た容貌を憑り殺さんばかりに歪めて睨みつける表情は、忘れようとして忘れられるものではない。一度はカルディアにも向けられた憎悪は、クファルの傷ついた心の裏返しだった。ニクスの呪いもまた、出会った頃のようにジェサーレに愛されたいという至って普遍的な願いが根底にある。
『何もかもを呪うしかない。自分がΩに産まれた事、自分がフォトスの王族に生まれた事、あなたと出会ってしまった事、あの子を産んでしまった事。全てが私を悪い方へと連れていく悪魔だ。ここは狭い。家畜のように飼われている。情事の相手を餌のように放り込まれ、事が済むと全部が分からなくなる。今がいつで、ここがどこかも、分からなくなる。辛い。苦しい。何もかもが、私のように呪われてしまえばいいのに』
「カルディア」
夢と現を分断するように名前を呼ばれてカルディアは弾かれたように顔を上げる。そこで初めて自分が呼吸を忘れている事に気が付いた。何度も大きく肩で息を吸って、吐いて。落ち着いたところで肩に置かれた手に手を重ねる。
「……アスラン」
砂っぽくて乾いた熱風が頬を撫でて、全身に掻いた大量の汗を冷やしていく。
テーブルに置かれたそれが何なのかをアスランも知っている。もともとカルディアに日記を渡すようオスマに言いつけたのはアスランだった。
見上げればアスランの顔色はまだ良いとは言えない。彼の体を押しやってベッドに寝かせ、その縁に腰掛けてから口を開く。
「王妃様は勤勉で繊細な方だったみたいだね。シリオの事をよく学んで、国に馴染もうと努力されていた。君の事も日記に書いてあった。王妃様は君が産まれた事をとても喜んでいたよ」
ニクスがアスランを産んだ事を後悔したのはアスランが憎いからではなかったとカルディアは思う。ニクスには何か秘密があるようだが、古語をきちんと読み解くまでは分からない。
アスランは大層重たそうに開けていた瞼をゆっくりと閉じた。「そうか」短い一言に込められたものの複雑さは察してあまりある。
アスランの冷えてしまった額を撫で、柔らかくキスをする。しばらくするとすぐに寝息が聞こえてきた。まだ体が万全ではないというのに、ベッドから抜け出てきたのは不安だったからだろうか。それとも日記が気になったのだろうか。
第二夫人の事がまた頭を過る。確かめなくてはならないと思うのに、ニクスの日記を読んだ今、見ないフリをして閉じ込めてしまった方が良いような気さえしてしまう。
フォトスからシリオへ嫁いで間もなかった頃のニクスはジェサーレと愛し合っていた。当時の彼女と今の自分をつい重ねてしまっては気が塞ぐ。
またテーブルに戻って日記を開いた。ページを捲る手は、重い。
「アスラン!」
髪はボサボサで目の下には酷いクマを作ったアスランがぐったりとした様子で出てくる。服は辛うじて布を被ったという状態で、ベルトもしていない。倒れたら事なのですかさず脇から手を回して腰の辺りを掴む。
「アスラン、もう平気?」
「ああ……」
返事にも一切覇気がない。今日はこのまま休ませるべきだろう。
「僕の部屋に行こう」
一晩獅子が暴れた部屋には噛み痕でボロボロになった角材が転がり、爪で引き裂かれたシーツがベッドの周辺に散らばっていた。とてもゆっくり休ませてやれる環境ではないと判断してすぐに隣のカルディアの部屋にアスランを連れていった。
カルディアのベッドにアスランを寝かせると、ボサボサになってしまった彼の前髪を掬って、露わになった額に口付ける。顔を離すと物欲しげな目をして髪に触れていた手を握ってくるので「もう」と言いながらも唇を合わせた。
「この続きはまた、後で……」
ストン、と灯りが消えるようにして即座に入眠したアスランにカルディアは苦笑する。前回よりも暴走の程度が軽く済んだようだ。
ベッドから降りると、ぐっと伸びをする。アスランの闘いは終わったがカルディアの闘いはこれからだ。
鏡の傍に本来なら装飾品を入れておくための脚付きの瀟洒な引き出しがある。故郷から持ってきた物を収めたら一段目だけで済んでしまったおかげで二段目と三段目は空っぽのままだった。それが先日、二段目の鍵を使う機会があった。
カルディアは意を決して二段目の引き出しの鍵を開ける。中から前に見た時と変わらない皮革の表紙が出てくる。表題には作者である『ニクス・I=ジェシアフ』の名が流麗な彫りによって刻まれただけの寂し気なそれはアスランの母の日記。
手に持つと厚みがある分しっかりとした重さがある。それはニクスがシリオで過ごした日々を文字にした思いだ。
表紙と背表紙を繋ぐベルトにつけられた錠前に、日記と共にオスマから受け取っていた細く小さな金属製の鍵を入れて回す。金属同士が噛み合って穴の奥で開く音がする。叔母は自分の甥に日記を読まれる事など想像しなかっただろう。彼女の許しを得ずに鍵を開けたせいか、金属の硬く無機質な音は手に伝わる感覚以上に冷たく聞こえた。
見返しに使われているのは羊皮紙だ。乾ききった羊皮紙がパリッと硬い質感を手のひらに伝える。独特の臭気もあって、あまり長く嗅いでいたいものではない。表紙を捲った一ページ目にはニクス・フォトスと執筆者の名が記されている。表題にある名と違う理由は、この日記が婚前から書かれたものだからだろう。
二ページ目には日付があった。この日記はニクスがシリオに嫁ぐ日から始まっていて、最初の日付は今から約二十六年前だ。逆算すればニクスはシリオに嫁いで間もないうちにアスランをその身に宿したのだという事が分かる。ニクスはせいぜい二、三ヶ月程度の間に子を身ごもって無事長男を産み、〈盟約の花嫁〉としての役目を果たしたのだ。
カルディアは短くも長かったフォトスからの旅路を思い出す。ニクスも同じようにたった一人で故郷を離れたのだ。どんな思いだったろう。ディナミが遠くなり、魔法が消えて、これまでの自分ではない自分になる感覚を、彼女はどう受け止めたのだろう。そんな事を考えながらページを進める。
『私は今日、愛すべき故郷を去ります。これからここに記していく事は、全ては私の心の事。現実は異なろうと、心の真実は決して変えられないと、私はここに書き留めておきたいのです』
表題の署名と全く同じ筆跡はカルディアよりもずっと丁寧で、ずっと繊細だ。日記の文字の向こうに、これから訪れる見知らぬ異国の土地に不安を覚えてたまらずペンを執った華奢な少女の姿が連想される。オスマによればフォトスの古語を使って日記を書いてあるという事だったが、この頃はまだ現代のフォトスの書き文字だ。慣れ親しんだ文字を視線で追いながら読み進めていく。
『ジェサーレ王はとても素敵な方でした。〈花契びの儀〉でまさしく初心である私は何もかもを彼のお方に任せているだけで、後の事は瞬く間に過ぎ去っていました。生涯この日の事は忘れる事が出来ないでしょう。どうか、先の幸福を願います』
この頃既にジェサーレが王位に即いていたという事実と共に、「素敵な方」というニクスの印象に驚く。
当時の二人の年齢は、ニクスが十八歳で、ジェサーレが二十歳だ。この日から二十六年。それだけの時間が過ぎれば人とは変わってしまうものなのかも知れない。
日記は暫くの間はシリオでの慣れない生活に苦労している様子が綴られていた。カルディアと同じように〈落果〉が起こり魔法が使えなくなった事もその時の体の変化や感情に至るまで詳らかに書いてある。鍵のついた日記であれば、後の世に誰かに読まれる事もなく失われていくと思ったのかも知れない。赤裸々な言葉の数々に時折身につまされた。
アスランを身ごもったと知った日、そしてアスランが産まれてきた日。そのどちらもニクスは涙を流すほど喜んでいた。この頃まではニクスとジェサーレの関係にもさほど変化は見られない。
日記はまめにつけられていた訳ではなく、書き綴りたいと思う事が起きた日に気ままにペンを執っていたようだ。日付は飛び飛びで、すぐにアスランが産まれた日から半年ほどが過ぎていく。
気になる記述が出て来たのはアスランが一歳になる頃だった。
『ジェサーレ様はどうしても私を番にはして下さらない』
二人が最後まで番にならなかった事は、皮肉にもジェサーレが生き証人だ。番は片割れを失うと、残った方も後を追うように弱り息絶える。ニクスが死に、ジェサーレが生きている以上は、つまりそういう事だ。
ジェサーレと想いが通じ合っていると思っていたニクスの日記はこの頃から悲嘆に暮れる内容が増えていく。
ジェサーレがニクスと番わなかった理由は彼がすでに国王として政務をこなす立場だったからかも知れない。ジェサーレに兄弟姉妹はなく、先代も無くなったジェサーレにとって番を作る行為は命を危険に晒すも同然だ。ジェサーレ個人の感情で番う事は許されなかったかも知れない。
ニクスは悲しみのあまりそうしたジェサーレの事情を想像する事はなかったようだ。ひたすらにどこまで悲哀に飲まれた文章は、読んでいるだけのカルディアまで胸の奥が重たく苦しくなってくるようだ。
「古語だ。『私が、愚かでした』……?」
アスランが三歳になる頃だった。アスランに暴走らしき症状が現れる。この日を境にニクスは日記に使う文字を古語に切り替えていた。
古語が出始めた契機はアスランの狂獣化だった。嫌な予感がし始めて、ページを捲る手が慎重になる。
アスランの狂獣化の症状が出始めるとジェサーレはニクスを〈ヴィラの塔〉へと幽閉し、アスランの育児は完全に乳母に任される事になる。二人の関係は終ぞ修復することはなく、ニクスが三十三年という短い生涯を終えるまで、蟠りは解消されなかったようだ。
三歳のアスランに起きた暴走はひとりでに獣化してしまうという程度のものだった。暴れたりする事はなく誰かを誤って噛んでしまうというような事は起こっていないらしい。これに対してニクスは古語で『私のディナミが息子の体にそうさせてしまうのです』と書いている。ニクスのディナミを受け継いだ事が暴走の原因だと考えているようだった。
ヴィラの塔に幽閉されて数年が経つ頃には日記の内容は荒みきって筆跡もひどく乱れている日が多くなる。まともな文章になっていない事も多く、感情のままに同じ単語を繰り返し繰り返し、紙に傷を付けるように強い筆圧で書き殴られている日もある。
ひとまずまともな文章になっているところだけでも追っていくが、大抵はジェサーレへの呪いの言葉だ。繊細で控えめな印象だった女性は伴侶との関係が縺れるにつれて豹変していった。その強い憎しみからはどうしてもクファルを想像してしまう。アスランに良く似た容貌を憑り殺さんばかりに歪めて睨みつける表情は、忘れようとして忘れられるものではない。一度はカルディアにも向けられた憎悪は、クファルの傷ついた心の裏返しだった。ニクスの呪いもまた、出会った頃のようにジェサーレに愛されたいという至って普遍的な願いが根底にある。
『何もかもを呪うしかない。自分がΩに産まれた事、自分がフォトスの王族に生まれた事、あなたと出会ってしまった事、あの子を産んでしまった事。全てが私を悪い方へと連れていく悪魔だ。ここは狭い。家畜のように飼われている。情事の相手を餌のように放り込まれ、事が済むと全部が分からなくなる。今がいつで、ここがどこかも、分からなくなる。辛い。苦しい。何もかもが、私のように呪われてしまえばいいのに』
「カルディア」
夢と現を分断するように名前を呼ばれてカルディアは弾かれたように顔を上げる。そこで初めて自分が呼吸を忘れている事に気が付いた。何度も大きく肩で息を吸って、吐いて。落ち着いたところで肩に置かれた手に手を重ねる。
「……アスラン」
砂っぽくて乾いた熱風が頬を撫でて、全身に掻いた大量の汗を冷やしていく。
テーブルに置かれたそれが何なのかをアスランも知っている。もともとカルディアに日記を渡すようオスマに言いつけたのはアスランだった。
見上げればアスランの顔色はまだ良いとは言えない。彼の体を押しやってベッドに寝かせ、その縁に腰掛けてから口を開く。
「王妃様は勤勉で繊細な方だったみたいだね。シリオの事をよく学んで、国に馴染もうと努力されていた。君の事も日記に書いてあった。王妃様は君が産まれた事をとても喜んでいたよ」
ニクスがアスランを産んだ事を後悔したのはアスランが憎いからではなかったとカルディアは思う。ニクスには何か秘密があるようだが、古語をきちんと読み解くまでは分からない。
アスランは大層重たそうに開けていた瞼をゆっくりと閉じた。「そうか」短い一言に込められたものの複雑さは察してあまりある。
アスランの冷えてしまった額を撫で、柔らかくキスをする。しばらくするとすぐに寝息が聞こえてきた。まだ体が万全ではないというのに、ベッドから抜け出てきたのは不安だったからだろうか。それとも日記が気になったのだろうか。
第二夫人の事がまた頭を過る。確かめなくてはならないと思うのに、ニクスの日記を読んだ今、見ないフリをして閉じ込めてしまった方が良いような気さえしてしまう。
フォトスからシリオへ嫁いで間もなかった頃のニクスはジェサーレと愛し合っていた。当時の彼女と今の自分をつい重ねてしまっては気が塞ぐ。
またテーブルに戻って日記を開いた。ページを捲る手は、重い。
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