氷雨の密計

稲葉真乎人

文字の大きさ
上 下
4 / 10

恋仲の事情

しおりを挟む
志水と道子と夏美がランチを食べ終えたとき、昼休憩の時間は十分しか残っていなかった。三人は食後のコーヒーを諦める。
志水が、二人に退社後に飲みに連れて行くから、続きを話してくれるか、と言うと、二人は快諾した。

夕方、社内に戻って来た佐々木を志水が誘う。
女性二人と佐々木を連れて、淀屋橋の近くのビルの二階に在る、フランスの田舎料理と謳っている店に行く。
独身寮に住む、大食いの佐々木のことを気遣っての選択だ。
コース料理と違い、注文料理は大皿に盛って出で来る、それをみんなで取って食べるのだ。
ワイン好きの佐々木のために、瓶が空いたら二千円以下のワインを選んで補充して欲しいと、志水がウエイターに頼む。
適当に腹が落ち着いた処で志水が言った。
「昼の話しの続きだけど、糸井の相手は誰なんだ、僕も知っている男か?」
道子が言った。
「知っておられますよ、うちの課の全員が知っている人なんです」
「えーっ、誰よ?、もしかして社内か?」
「流石にそれは違いますよ。志水さん、興奮しないで下さい、まあ抑えて、抑えて……」
「そうか、ちょっと安心だな、文句を言いに行くかもしれんからなぁ……、僕じゃないよ、血の気の多い竹内くんだ」
佐々木が言った。
「それは言えますね、あいつは変に義理人情と任侠の世界だからなぁ……」
夏美が言った。
「そうですよね、うちの課のひとでなかったら、わたしはちょっと怖いかも……」
道子が言った。
「でも、竹内さんは凄く優しい処もあったりするわよ、分かり易いひとだわ」
「おい、竹内くんのことはいいから、誰だよ?」
「あっ、はい、志水さんがいつか謝り行ったでしょ、吉川くんが展示会場の駐車場で、バンパーが擦れたって云って、揉めたひとですよ」
「えーっ、あいつか、大北精工のどら息子だな……」
「そうなんですよ」
「何で、あいつと糸井が知り合ったんだ?」
「あのときは総務課が引き継いで、保険で処理することになったでしょ」
「ああ、ちょっとバンパーの色が変わったただけなのになぁ」
「流石に会社には来なかったんですが、総務の窓口が糸井さんだったんですよ、聞いたんですけど、中学時代からの友達みたいなんですよ」
「それなら、結婚する前に福井に手を出さなければいいだろうに……」
夏美が大人っぽく言った。
「その頃は結婚なんて考えていなかったと思いますよ。でも、今は女の見栄と言うか、意地なんじゃないですか、自分を選んだ福井さんが、湯元さんと縒りを戻したら格好が付かないじゃないですか、自分が捨てられたことになるでしょ?」
佐々木が食べるのを止めて言った。
「夏美ちゃん言うじゃない、それは有りだな。だけど糸井だろうが大北だろうが、志水さんが言われたけど、竹内くんが聞いたら黙ってないぞ、あのバンバー接触のとき、吉川くんの隣に乗っていたのは竹内くんだからなぁ。志水さんが止めなかったら、あの大北の馬鹿息子を殴り倒していたよ」
道子が言った。
「そうですよね、アメフトのフォワードだもん、体当たりで脳震盪を起こさせていたかもしれないですよね、竹内さん口数は少ないけどパワーあるから」
志水が言った。
「大北の馬鹿息子なら、誰も、糸井が良い相手を見つけたとは思わないだろ?」
道子が得意そうに言った。
「そうなんですよ。糸井さんは高原さんに、同期の他のひと達にも連絡をして、結婚式に出て貰うように言って欲しいって、頼んだんだそうですよ。でも高原さんから聞いたのでは、誰も行かないって言っているらしいんですけどね」
「よぉーし、それでいいんだよ。あんな奴うちの会社とは、もう関係ないんだから」
佐々木が言った。
「湯元さんの耳にも入っているのかなぁ?」
夏美が言った。
「女性社員はみんなか湯元さんを応援しているんです、でも、本人は何か他の事で悩んでおられるような感じなんですよ」
佐々木が言った。
「どうして?、回り道はしたけど、結果として良かったって事じゃないか?」
道子が言った。
「湯元さんはそんな風に考えておられないんですよ、自分がもっと積極的だったら、福井さんに迷惑を掛けずに済んだのにって、そう思っておられるみたいなんです、業務の藤野さんが、少しそんなことを話しておられました」
志水が言った。
「福井くんも湯元さんも今時珍しいな、でも奥床しいなぁ、京都の女性ってみんなそうなのかなぁ……」
佐々木が言った。
「先輩、それはそうでもないですよ」
「何で、お前が分かるんだよ?」
「僕の彼女が京都ですから……」
「えっ⁉、彼女はいないのかって訊くと、禁句だって言うだろ……、あれは嘘か?」
「すいません、あのときは勢いで……」
「阿保か、勢いだったら彼女がいるって言うのが普通だろ?」
道子が言った。
「そうですよ、課長が本気で佐々木さんの彼女を探していたら、どうするんですか?」
「そうだぞ、課長は面倒見がいいひとだから、分からないぞ?」
「先輩、脅かさないで下さいよ、課長に話しますよ……」
「それで、何処のひとなんだよ?」
「大山崎です」
「お前なぁ、あの辺りは、そう云う意味の京都じゃないだろうが?。それと、何処って訊いたのは勤め先のことだよ」
「うちの社内関係です」
「えっ、誰なんだよ、ついでに教えてくれてもいいだろ?」
夏美も言った。
「佐々木さん教えて下さいよ、年下だったら、わたし達も知っていますよね?」
「物流センターの庶務係……」
道子が言った。
「わたしと同期じゃない!・・・、中田香子さんなの?」
佐々木は恥ずかしそうに黙って肯く。
志水が言った。
「おい、福井と糸井みたいなことは無いだろうな?」
「無いですよ、誰も知らないんですから」
「それは云えるか……、谷口さんも知らなかったの?」
「そうですね、支店の中では噂を聞いていませんけど……」
「よーし、分かった、応援してやるよ、うまくやれよ・・・。谷口さん、中田さんて好いひと?」
「好いひとですよ、佐々木さんとだったら、合うかも知れませんね」
佐々木が言った。
「合うよ、だから付き合っているのに……」
「そうか、それもそうですね」
夏美が言った。
「佐々木さんは優しいんですね、森脇さんのことを考えて、飲み会のときには話されなかったんでしょ?」
志水が言った。
「佐々木は鈍いだけだよ、それを言う斉藤さんの方が優しいよ、課長の指導がいいんだろうなぁ・・・」
「そうですよ、母がそう言っていますから、鴻池課長の下になってから、行儀も話し方も優しくなったって……」
佐々木が言った。
「僕の結婚はずっと先だけど、及ばずながら湯元さんの応援をしたいな」
志水が言った。
「そうだなぁ、彼女は一度辛い思いをして、今度は福井のことで心を痛めているんだからな、でも課長が相談に乗られたようだから大丈夫だろ、糸井のことは僕が課長の耳に入れとくよ」

志水は二十七で結婚して、三年で離婚した、その二年後に五歳年上の、二人の子連れの女性と再婚した。
再婚してから三年目になるが、二人の子供と妻を、心から愛して大切にしている。
彼には結婚に対する信念があった。何があろうと好きな者同士が一緒になるべきで、好きだから身を引くなどと考えるべきではない、と云うものだ。周りで恋愛話しが出ると必ずと云っていいほどそれを口にする。

俊輔が夕食後に書斎に入り、パソコンを開くとメールが入っていた。
タイトルは『ご無沙汰しております。福井信二』とある。
mail
突然のメールお許し下さい。
東京支店総務課の福井信二です、長らくご無沙汰をしております。
大阪本社に在席の折は、色々とご指導を頂きありがとうございました。
先日、本社業務課の湯元美由紀さんから、このアドレスを教えてもらいました。
わたしと旧姓糸井良子が離婚をしたことは、既にご存知のことと思います。
わたしは自分の至らなさから、湯元美由紀さんに辛い思いをさせてしまいました。
彼女はそんなわたしを許してくれました。一緒になりたいと云う気持が伝わってくるのですが、彼女に対して申し訳ないと云うわたしの気持が、又あのときと同じように彼女に辛い思いをさせてしまっています。
わたしは離婚して、湯元美由紀さんのことを思っている自分の気持に気付きましたが、
彼女の気持に応えようと考えると、今度は、あまりにも身勝手で虫のいい話しだという気持になり、決心を揺るがせてしまいます。
東京には相談できる友人も知人もおりません。
彼女は、わたしが糸井良子に翻弄されているのでは、という社内の噂を払拭するためにも、早く結婚をしようと言ってくれますが、わたしは今のような気持のままで結婚しては駄目だと思うのです。
わたし自身、決断力の無さを歯がゆく思いながら悩んでおります。
所属部門の異なる鴻池課長に、社内で電話をさせて頂くという訳にはいきませんので、メールで無作法だと思われるかも知れませんが、尊敬する管理職の鴻池課長なら、どのようにお考えになるのかと、是非お教え頂きたいと思ってお願いする次第です。
湯元美由紀さん共々、どうか宜しくお願い致します。

俊輔はメールを読み終えると、暫く目を閉じて考えていた。
二年半前、部下の志水昭信が再婚すると言って来た時のことを思い出していた。
志水の最初の結婚は見合い結婚だった。相手は志水の父方の里の和歌山県新宮市近郷に住む素朴な娘さんだった。
志水は彼女を俊輔に会わせたときに「素朴な田舎タイプの女性です、僕が引っ張って幸せにします」と嬉しそうに言った。
しかし、結婚後一年もしないうちに、彼女は新宮に頻繁に帰るようになり、やがて仲人から連絡があった。申し訳ないが仲人として自分達の下調べに手落ちがあり、娘には森林組合に勤める好きな男性が居たというような内容だった。
志水は黙って受け容れた。俊輔が酒に誘ったとき、志水は酔っていたが本心から言った。
「好きなひとがいるなら、何で言わないんですか、好きな者同士が結婚するのが一番に決まっているでしょう、僕はいつもそう話していたのに、可哀想に、あんな田舎だったら本人は出戻り娘と呼ばれるし、相手だって、そんな娘を貰わなくてもと言われるでしょ、住み辛い筈なのに……」
俊輔はそれを聞いたとき、次の主任に推薦してやろうと思った。
志水の他人を思う気持や優しさと同時に、気持を切り替える決断力を本物だと思ったからだった。そのことを思い出していた。
再婚のときは「課長、お互いに愛し合っているんです、子供達も好きです、懐いてくれています、結婚していけない理由はありませんから結婚します」そんな意味のことを言い切って再婚をした。
自分を責めて決心できないでいる福井信二と、じっと待って福井の身を案じている湯元美由紀のことを思うと、何とかしてやろうと思わずにはいられなかった。
しおりを挟む

処理中です...