見つめていたい

稲葉真乎人

文字の大きさ
上 下
11 / 21

10.親切な企て

しおりを挟む
祭日で、小料理屋『山海や』は休業日だった。
秀一は、峰子が若いころから師事している、地唄舞の師匠の発表会に誘われていた。
学生時代に、優一と一緒に行ったことがあるが、当時はあまり地唄舞の良さも分からず、退屈な時間だったのを思い出す。
峰子にはチケットの販売ノルマがあった。
かなり高額のチケットを、手元に残して無駄するのは惜しい。
峰子から、「会が終わったら、帰りに東山の料亭で、ごちそうしますさかい」と言われ、それに釣られての同伴だ。
今回は秀一のほかに、優一の妻の由美も同伴する。
由美の幼い子供は、夫の優一が由美の実家に連れて行く段取りらしく、下沢家に現れた由美は、何時もより若やいで見えた。
母親の峰子と連れ立って歩く秀一と由美は、姑と若夫婦なのに、普通に息子と娘のように見える。
久しぶりに育児から離れて、青春時代に戻ったようだと話す由美を見て、秀一も気持ちが明るくなるのを覚えた。

会場のホテルに着くと、峰子は挨拶をしてくると言って、ロビーに秀一と由美を残して何処かへ消えた。
「由井さんは、学生時代に主人も一緒に、お義母さんと観にこられたんですってね?」
「随分前だけど、少し退屈だったのを憶えているよ。その時はホテルじゃなくて旅館の広間だったし、お客さんも今日みたいに華やかな感じじゃなかった……」
「そうですね、今日は若い女性の方も多いし……。ホテルだからかしら?」
「由美さんは何度か?」
「ええ、嫌いじゃないんです。わたしの母も、日本舞踊を少し習っていましたから」
「そう、小母さんの話しだと、今回は衣装なんかも素晴らしいって?」
「そうでしょうね、チケット、高いみたいですよ」
「そうらしいね、習い事も大変だな」

「かんにんえ、ほっといて。秀一さん、紹介します。杉峰千里さん、お母さんは、わたしと同じお師匠さんのお弟子さんなんえ」
「初めまして、杉峰千里です」
「由井秀一です、よろしく」
「由美さんは、一度、おうた(会うた)ことがあったなぁ?」
「ええ、法事のときに、御無沙汰しています」
「こちらこそ、お子さん、生まれはったんですよね。大きぃならはりました?」
「ええ、元気にしてます」
「そやったなぁ、あん時は、由美さんのおなかが大きかったんや。ほな、会場に行きまひょか?」
峰子は千里の背を軽く押すようにして前を歩いていた。
秀一は、訳が分からず友美に訊いた。
「由美さんは杉峰さんと知り合いなの?」
「ええ、義母は、同じ踊りのお仲間の娘さんや言わはりましたでしょ。ほんまは、優一さんとは従兄妹になるんです」
「知らなかったな、学生時代に話題にも出なかった。あんなに綺麗なひとだから、優ちゃん、隠していたのかな?」
「違う思います、主人が大学の頃は、峰子さん、イギリスに留学してはったと聞いてます」
「そうか、才媛なんだな……」
「なんでも、外国の伝統的な文化に触れさせて、京都の古いもんの良さの分かるひとに育てたい云うのが、ご両親の目的やったそうです。それで留学先をアメリカやのうてイギリスにしはったらしいんです。そう聞きましたけど……」
「ふーん、じゃぁ英語は自由に話せるということ?」
「ええ、それを活かして、今は、ホテルの受付に居てはるんですよ」
「そうだろうな、歩くスタイルも様になっているし、洗練されているって感じだな」
「気に入らはりました?」
「えっ、彼女のこと?」
「あら、聞いてはらへんかったんですか?」
「何を?」
「お話ししても、ええんかしら?・」
秀一は、少し歩くペースを落として由美を見た。
「由美さん、小母さんから何か聞いているの?」
その時、前を行く峰子が振り返った。
「秀一さんも由美さんも早よぉ?、お席は自由やから、ええ席に座らんと観えまへんえ?」
「はーい」
由美は返事をすると、秀一の問いには答えず、秀一の腰に手を添えて「行きましょう」と、前を行くふたりを追った。
由美が峰子に追いつくと、千里が歩を緩めて後ろに下がり、秀一と並ぶ格好になる。
会場のホールには、和服の女性に交じって男性の和服姿も見られ、七割の客は和服だった。
秀一が濃紺のスーツで、千里も紺系の服装で来ていたのは偶然だった。
ブラウスのフリルの付いた襟が覗く上着に、フレアパンツの千里をエスコートする、細い襟のスリムなスーツ姿の秀一。
先に進む由美と峰子の後に続いて、席の間を進む長身の二人に、先客の視線が注がれた。
席に付くと、峰子は、バッグから千代紙模様のシックな二つ折りのプログラムを取り出し、若い三人に、それぞれの演目を指さしながら、嬉しそうに話し掛けた。
「これとこれが、『本業物』や、それから、これが『芝居物』、そして『艶物』が、これとこれ、このふたつが『作物』呼ばれる舞なんえ。お師匠はんは、本業物と艶物をやらはる、見応えはあると思うけど……」などと、地唄舞の内容を説明する。
若い三人は、真剣に聴きながら開演を待つ。

由美、峰子、千里、秀一と並んで席にいた。
開演までの待ち時間、話し掛けたのは千里だった。
「由井さんは、初めてですか?」
「大学時代に小母さんに誘われて一度、杉峰さんは?」
「仕事と関係もあるので、何度か」
「ホテルのフロントだとか?」
「ええ、コンシェルジュを目指しているんです」
「ああ、それで何でも知っておこうと言う訳ですね?」
「京都に生まれたのに、まだまだ知らないことが多いんです」
「多感な頃に留学をされていたから?」
「あら、叔母さんから聞かれたんですか?」
「いえ、さっき由美さんから……。それより、優一くんとは従兄妹なんだそうですね、彼は学生時代に、ひとことも千里さんのことを話してくれませんでしたよ」
「優一さんもわたしも、目標がはっきりしていましたから、あの頃は一生懸命で、ゆとりがなかったのだと思います」
「そうでしたね、その彼が、今はパン職人の道に転向です。当時は海外を飛び回る商社マンを目指していたのに……」
「わたしも外国で日本人観光客のための通訳になりたいと思っていました。でも、今はホテル勤務です。秀一さんは、学生時代の目標どおりに進まれたんですか?」
「いや、同じです。少し逸れたみたいですが、でも、今、考えているんです」
二人は自然に名前を口にしていた、開演間近の報せがホール内に報らされた。

流派の発表会は、学生時代に観たものとは異なり、演目も演者の衣装もバラエティ豊かで、『艶物』と呼ばれる女舞には、衣裳にも舞にも魅了され、学生時代とは違う印象と感動を味わった。
家元の『本業舞』は、学生の頃は観ていて退屈だったが、知らず知らずに舞に引き込まれた。
舞終えてお辞儀をする姿を見ながら、滑らかな舞の所作を通して、粘り強く鍛えられた、無駄のない強靭な筋肉が、衣装の下に隠されていることを秀一は感じ取った。

発表会終了後、ホールの隣室で簡単な立食パーティーが催されるが、峰子は若い三人にロビーで待つように言うと、ざわつく和服の集団に姿を紛れ込ませて行った。
秀一たちはホテルのロビーのソファーに座り、目の前を通る和服姿の人の流れを見ていた。
由美が秀一に話しかけた。
「みなさん、ええ着物を着てはりますよね、私らには手ぇが届かへんわ……」
「由美さんも見劣りしてないですよ、良く似合っているし、値段じゃないから……」
「そうよ、とてもよく似合っているわ、わたしは何年も、お着物を着ていないわ」
「千里さんはスタイルもええし、お洋服がぴったりやから……。由井さんもスーツ似合うてはるし、ふたりはお似合いやわ……」
千里は笑いながら由美の言葉を受けると言った。
「由井さん、久しぶりの感想はどうでしたか?」
「前回とは全然違っていたな、学生時代は退屈だったのに、大人になったんだろうね。今日は新鮮に感じられたし、全てが綺麗だったから、感じるものが多かった気がする、千里さんは?」
「わたしも同じです、舞だけで感情を表現するなんてね、それも指先や扇の先まで想いが行き届いている感じがして、プロなんだって、そう思わされました」
由美が言う。
「お二人は、気ぃが合いそうですね?」
秀一が千里から由美に視線を移して言った。
「由美さんだって、同じように思ったんじゃないの?」
「まぁ、でも何度も観てますし、お二人のように、そんなに新鮮とは思わへんかったけど……。でも、今日は見入ってしまってたかも……。こんなん言うたら、おこがましいけど、若いお弟子さんも、上手やなぁ思いました」
峰子が和服の裾を気にしながら、小走りで近づいてきた。
「かんにんえ、待たしてしもて、ほな、行きまひょか?」
三人はホテルの前でタクシーの順を待つひとの列に加わった。
ホテルの手配が行き届いていた。タクシーは次から次に車回しに入ってきた。
秀一は運転席の隣に乗り込み、女性三人が後部座席に座った。
タクシーで十数分の、住宅街の一角に料亭は在った。
杉板張りの塀越しに、手入れされた庭木が見える。古い和風建築の屋敷だった。
「お屋敷は古いんやけど、お店は新しいんえ、御亭主は長年勤めてはった老舗の料亭を辞めはってなぁ、のんびりやりたい言うて開かはった。うちのお父さんの兄弟子になるお人なんえ」
「そうなんですか、僕たちが来られそうなお店ではないですね?」
「何を言うてはんの、秀一さんくらいやったら、どなたはんと来はっても似合いますがな」
「千里ちゃん、今日は下見して、今度ゆっくり来たらええわ」
「高級なのに……、わたしなんかは無理ですよ」
「違いますがな、秀一さんに連れて来てもろたらええですがな」
「そんな、今日、初めてお会いしたんですよ?」
「まぁまぁ宜しい、さあ入りまひょ」
門から続く石畳を、峰子が先に立って進んだ。
秀一は自然に振舞おうとしていたが、千里の存在が気になり、営業のときのように振る舞えていない自分を感じていた。
千里も、峰子の言葉の中に思惑を察したのか、普段の様子ではなかった。
しおりを挟む

処理中です...