爽やかな出逢いの連鎖

稲葉真乎人

文字の大きさ
上 下
7 / 40

熟年のロマンス

しおりを挟む
榎木紳策がペンション.アミティエを訪れた時、待村久美子は滞在して二年が経とうとしていた頃だった。
久美子と紳策が偶然出会ったのは、久美子がペンションの裏山を散策している時だった。
久美子は普段はブラウスにセーターとかカーディガンで過ごすことが多いが、気が向くと、身を引き締めるように、少しだけ持ち込んでいる和服を着て散策することがあった。
この日は十字絣の結城縮の白っぽい着物に、涼しげな薄い草色模様の帯を締めていた。
ペンション近くの、疎らな樹木の間から遠くを見ている久美子を見つけた紳策が、思わず声をかける。
穏やかな表情で、常念岳から北アルプスを眺めている久美子の姿は、還暦を過ぎた紳策の男心をときめかせた。
優しそうな横顔と、物静かな雰囲気が、遠い日に亡くした母親に何処となく似ていた。
「アミティエのお客様ですか?」
「えっ、はいそうです、お世話になっておりますが・・・」
「長く、おいでなんですか?」
「はい、二年近くになります。中村さんのご好意に甘えております、身体の具合が少し悪いものですから・・・」
「それはいけませんね、失礼ですが、お言葉が・・・、関西からお越しですか?」
「はい、お宅様もですか?」
「ええ、京都の北嵯峨に住んでおります」
「あら、京都ですの?、奇遇ですわね、わたしは、東山の青蓮院の近くに住んでおります」
「そうですか・・・、中村くんは富山の高校の後輩なんですよ、わたしも毎年寄せて貰っているんです、気晴らしにね」
「そうですの、わたしも亡くなった主人も、中村さんとは山仲間だったんです、大学時代からの・・・」
「ほう!、奥さんが・・・、とても山に登られるようには見えませんが?」
「随分、昔のことですから、今では信州に来ても、ここまでが精一杯です」
「ご主人が亡くなられたと、おっしゃいましたが?」
「はい、もう七回忌が近くなりました、赴任先のモントリオールで・・・」
「ほう、カナダでお亡くなりに・・・、それはお気の毒に、いや、立ち入ったことをお訊きしました、許してください」
「いいえ、長い間一緒に住んでいた訳ではありませんの、なのに、亡くなりますと・・・、娘と二人で、どうしようかと不安が募りまして・・・」
「海外のお仕事が多かったのですか?」
「ええ、随分長い間、単身赴任で海外に行っておりました。中村さんと同じ商社に勤めておりましたので・・・」
「ああ、そうですか・・・」
「長く滅入っておりましたので、お医者さまに、気分を変えてみなさいと言われまして、それで此処にご厄介になっております」
「とてもそんなには見えませんね、穏やかないいお顔をなさっています、こんなことを申しあげては何ですが・・・、疲れたときには、わが身を木の葉にでも譬えて・・・、素直な気持で流れて行くのも良いものですよ、実は、わたしも十五年ほど前に妻を亡くしましてね・・・、生前、苦労ばかりさせていましたので随分悩みました。早く楽にしてやろうと、必死で仕事をしていたんです、妻もいっしょに・・・。楽をさせてやる前に、亡くなってしまいました・・・、悔やまれて随分自分を責めましたよ」
「大変でしたのね、それで、どうなさったのですか?」

久美子は自分の不幸を忘れ、白髪混じりの、温厚な雰囲気を漂わす紳策に興味を覚えていた。
紳策は心を開いた。
「聞いていただけますか?、息子がひとり居たのですが・・・後妻に迎えた女性と合わなかったのです。高校に進学すると、寄宿舎に入ると言って出て行きました。今は自立して東京に住んで、よく、仕事で海外に行っているようです。わたしは富山の薬屋の三男ですので、京都に身寄りはおりません、会社の社員達の幸せだけを考えるようにしてやってきました。傍に居るひと達の勧めで後妻を貰ったのですが・・・、生活習慣が合いませんでね、浪費がひどくて・・・、結婚を勧めてくれたひと達が、今度は、別れるように勧めましてね・・・、別れました・・・数年前に・・・。いい機会でしたので、会社も全て、共にやってきた後輩たちに任せました、何も、惜しいとは思いません・・・、ひとりでやって来た訳ではありませんからね・・・。先妻を亡くしたとき、暫く落ち込みましたが、自分を責めても仕方ないと考えたのです。流れに任せようと決めました・・・、罰が当たるのなら、当ててくれと思いましてね・・・」
「それでは、今は、お独りで暮らしてらっしゃるのですか?」
「ええ、ご近所の方に、手伝いに来て頂いておりますが・・・、静かに暮らしていますよ・・・、そうだ、一度嵯峨野の拙邸においで下さい?、中村君に住所を伝えておきますから、是非・・・」
「ありがとうございます、息子さんがいらっしゃるのですね?、わたしにも娘がひとりおります、主人が亡くなって、わたしが体調を崩したものですから・・・、自分に責任があると思って結婚も避けているようなのです。それも気になっているんです、相談する方もないものですから・・・」
「それでしたら、ご縁ですから、一度、お嬢様も一緒に是非・・・、のんびりできる家ですから、ご遠慮なくどうぞ・・・。そうでした、わたしは榎木紳策と申します、還暦を過ぎた年寄りですが、憶えて頂ければ幸せです」
「わたしは、待村久美子と申します、榎木様より、片手ほど若こうございます、何か、旧いお友達のように思えて、久しぶりに気持がようございました」
「いえいえ、こちらこそ、今まで毎年来ておりましたのにね・・・、お会いすることがなかったとは・・・、ご縁が無かったのか・・・、まあ、わたしは此処に来ても、天候が良ければ山に登って、下りれば帰るようなことが多かったですから・・・。でも、ご主人とご一緒だったら、嫉妬に狂っていたかもしれませんな・・・、お綺麗な方だから・・・」
「まあ、お上手をおっしゃって・・・」
久美子は久方ぶりに、心から自然に笑が出てきたように思った。
名残を込めて紳策が言った。
「わたしは、明日京都に戻りますが、四日も居て最後の日にお目にかかるとは、残念でもあり、光栄とも言えますかな・・・。それより、食事では、お見掛けしませんでしたが?」
「ええ、朝食は富さん、中村さんをそう呼んでいるのです、無理をお願いして、ゆっくりさせて頂いております、夕飯は、みなさんより早く部屋でいただいていましたので・・・。知らない方が、楽しくしてらっしゃるのを見ても、寂しくなって落込んだりするものですから」
「そんなには見えませんが、今日は、よろしい方なんですか?」
「ええ、榎木さんに、お会いしたからかも知れません・・・」
「待村さんの方こそ、お上手ですよ」
ふたりは緊張がほぐれて、暫く笑顔の絶えない時を過ごした。
長い間、久美子には無かったことだった。
笑うたびに、心にまとわりついていた硬い皮膜が、ひとつひとつ剥がれ落ちて行くような気がした。
ペンションに戻るとき、紳策は久美子に優しく手を貸す。
久美子も、気遣いを快く受け容れて歩いていた。
久美子の表情からは、心の病は遠い日の事の様に窺えた。
しおりを挟む

処理中です...