夜風に香るブルームーン

稲葉真乎人

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パウエルのフルート

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雅人が、慶彦に呼び出されてクレインを訪ねたのは、町中が賑やかに華やいでいるクリスマスを前にした、週半ばの夜だった。
クレインは、忘年会の流れだという太秦の映画関係者で埋まっていた。
松板製の扉には「RESERVED」のプレートが下げてあった。
雅人が遠慮がちに扉を開けると、沙紀が気付いて迎えに来た。
「混んでいますから、どうぞこちらへ」とカウンターに連れて行かれた。
カウンター席には磯崎と静香が、先客で座っていた。
磯崎に会釈をしているときだった、後ろから肩を叩かれた。
振返ると、エプロンをした華奈が立っていた。
華奈の姿は、店の雰囲気に馴染み、以前から居たような錯覚を雅人に与えた。
厨房から慶彦が顔を覗かせた。
「よお、今夜は貸切だよ。華奈さんが、よくやってくれて、ほんとに助かっているよ。お客に任せておけば手は掛からないんだけどな、応援は拒まない方だから……。それより、雅ちゃん、忘れないうちに一寸こっちに回ってくれるか?」
慶彦はカウンターの横にあるロッカールームのドアを開けて先に入ると、雅人を招き入れた。
「どうしたんですか?」
「華奈さんに聞いてくれただろ? 
雅ちゃんは知っているように、縁起の悪いものでは無いからな、気障に言えば、僕の青春時代の純愛が込められているんだ、ふたりに託したいと思う……。知らない他人に持っていて貰いたくないし、かといって、今の僕では手元には置けない……。雅ちゃんから、彼女に渡してくれるか?、純な二人の元に置いて貰って、これから、ずっと彼女が吹いてくれればと思ってる……。そうしてくれれば、このフルートに込められた、嘗ての恋人同士の想いも、慰められるというものだろ?」
雅人が言った。
「慶彦さんの元に置いといた方がよくないですか?、 慶彦さんの想いが篭ったものだし、高額な楽器なんでしょ?、それに、僕と繭子さんは、まだどうなるか分からないんですよ?」
慶彦が言った。
「馬鹿なことを言うなよ、雅ちゃんたちが、いちばん似合いのカップルじゃないか……。磯崎さんだって僕だって、問題は山ほど抱えて一緒になろうとしているんだぞ、きみ等が駄目だったら、みんなショックを受けるだろ……。雅ちゃん、急がなくても、二人は僕が思っているようになるから……。持って行ってくれ、幼馴染からのクリスマスプレゼントだと思ってくれよ……。このフルートにとって、一番いい、居場所なんだから……」
慶彦はそう言うと、抱えていたパウエルのケースを雅人に押し付けて、先にロッカールームを出て行く。
雅人は、暫らくケースを抱えて立ち竦んでいた。
店内から♪~I Can’t Stop Loving you~♪と、レイ.チャールス風に、歌い慣れた渋い感じの歌声が聞こえて来た。
雅人がロッカールームから出ていくと、浅黒い肌で、この頃では珍しいGIカットの銀髪、レザー.ジャケットにジーンズ、ウエスタン.ブーツを履いた初老の長身男性が、フロアから二十センチほど高く設えられたステージでマイクを握っていた。
グループの仲間は立ち上がって、ゆっくりと左右にからだを揺すり、陽気に両手を打ったり、指を鳴らしたりしていた。
バックのギターもドラムもキーボードも、同じ仲間のようだった。
磯崎の隣に座っていた静香が、フルートのケースを持って無表情にステージ見ている雅人に、声を掛けてカウンターの椅子を勧めた。
カウンターの周りにいた誰にというのではなく、雅人が言った。
「すいません、今夜は失礼します。ごゆっくり、また年内には……」
雅人は地下鉄に向って歩きながら、本当に繭子との関係がうまく進んで行くのだろうかと自問していた。
危うく、地下鉄の入口を通り過ぎそうになった。

繭子とクリスマスを一緒に過ごすほどの関係にはなかった。
雅人は、クリスマスの翌週に、繭子を夕食に誘った。
通常なら、勤務先の最寄駅のJR向日町駅から電車に乗って帰宅する雅人は、上桂から阪急電車で京都市内に帰ってくる繭子に合わせて、四条烏丸で待ち合わせた。
地下の改札口で落ち合って地上に出ると、雅人は繭子を庇いながら、人込みを縫うようにして、四条通を東に向って進んだ。
五つ目の富小路通との交叉点を北に上がると、人通りが疎らになった。
繭子は、何も聞かずに雅人に従っていた。
雅人が言った。
「洒落た店じゃないけど、繭子さんにも、少し関係のある店ですよ。こどもの頃には父に連れて来て貰ったけど、中学生になってからは、ひとりでも時々通っている店なんです」
繭子が興味深そうに訊いた。
「中学生の頃から、ひとりで?」
「そう、行けば分かりますよ、不思議じゃないですから……」
通の両側を見ながら、繭子が言った。
「この辺りのお店には、来ることがありませんから……」
四条通から、ひと通り目の錦小路通を横切って、数軒先にある『小菊』という暖簾の掛かった店に、繭子を案内した。
雅人は、綺麗に拭き込まれた格子戸を開けて、先に、繭子を中に入れると、後ろ手に戸を閉めた。
着物が良く似合う女将が、白木のカウンターの向こうで、繭子を笑顔で迎える。
「いらっしゃいませ、お待ちしていましたよ……。雅人くん、奥に準備してあるわ、どうぞ、直ぐにお手拭を持って行きますから……」
繭子が言った。
「こんばんは、お邪魔します」
雅人が言った。
「小母さん、すいません、この前は無理をお願いして……。今夜は、まだ、お客さんは見えないの?」
女将が言った。
「クリスマスの後の月曜日よ、少ないと思うわ。さあ、どうぞ……」
カウンター席の奥の、一間しかない六畳間の座敷には、真中に座卓が一つと、座布団が向かい合わせに二つ、揃えてあった。
雅人は、繭子のコートを受け取ってハンガーに掛けてやると、座るように言った。
繭子が言った。
「ありがとうございます……。優しそうで綺麗な女将さんですね、あのひとが、わたしに関係があるんですか?」
雅人が、笑みを浮かべて頷いたとき、「お邪魔しますよ」と言いながら、女将が、盆にお絞りを載せて、座敷に顔を出す。
女将が話し出す前に、雅人が言った。
「小母さん、紹介します。待田琴絵さんのお孫さんになるひとです、奥居繭子さん……」
女将が言った。
「あら、そうなの!」
そう言って、じっと繭子の顔を見詰めた後で言った。
「お綺麗なお嬢さんね……。そう云えば、何となく、母の女学校時代の写真にある、琴絵小母さんに目の辺りが、よく似てらっしゃる……。それは、ようこそいらっしゃいました、江波静乃と申します。母は旧姓が芦田幸恵と言うんですよ、お祖母様は、お元気なんですか?」
「はい、はじめまして、奥居繭子と云います、宜しくお願いします。あの、祖母と女将さんのお母様が、お友だちなんですね?」
そう言いながら、視線を雅人に移した。
雅人は視線に応えて頷くと、言った。
「そう云うこと……。待田琴絵さん、芦田幸恵さん、僕の祖母の里村絹江、三人とも名前に『え』が付くから、そんなことで仲良しになったんだそうだよ。小母さんは僕の父も祖母も知っているし、繭子さんのお祖母さんには、こどもの頃に可愛がって貰っていたって……。そうですよね?」
静乃が言った。
「そうですよ。母が生きていたら、喜んだと思いますわ。仲良し三人組が、みなさん結婚されて、夫々のお孫さんが大きくなられたんですからね。琴絵小母さんも絹江小母さんも、いいお孫さんを持たれたんですね……。訊いてもいいのかしら?、 雅人くんと繭子さんはどうして?」
雅人が言った。
「半年くらい前に偶然知り合ったんです。祖母たちが知り合いだと云うのは後で知ったんですよ」
静乃が言った。
「そうなの?、どちらのお婆ちゃんも、喜んでおられるでしょうね?、卓雄さんも篤史さんも、驚いてらっしゃるんじゃないかしら……」
繭子が言った。
「父を、ご存知なんですか?」
静乃が、両手を重ねて正座した膝の上に置いた。
「ええ、よく知っていますよ。わたし達が小さかった頃には、母たちが連絡しあっていたのね。一緒に動物園や植物園に連れて行ってくれたのよ、中学に上がる前くらいまでは時々会っていましたよ。雅人くんのお父さんは、わたしが小菊を始めてから、ずっと長く来てくれて、雅人くんは物心つく頃から来ていたわね……。繭子さんのお父さんにも、是非、寄ってくださいと、伝えてくれませんか?、懐かしいわ……」
繭子が言った。
「はい、伝えます。わたしも、雅人さんに連れて来て貰っていいですか?」
静乃は嬉しそうに言った。
「ええ、どうぞ、繭子さんおひとりでも宜しいですよ。雅人くん、いいでしょ?」
雅人は笑顔で言った。
「勿論、繭子さんのお祖母さんも、元気なら一緒に連れて来てあげれば?……。 今、気付いたんだけど、親父は、繭子さんのお父さんを知っていることを僕に話してくれてないんだな……、お祖母ちゃんは持田琴絵さんじゃないかって話していたのに……」
静乃が言った。
「貴方たちが、どんなお付き合いになるか分からないのに、関わりがあるなんて話さない方がいいこともあるでしょ?。絹江小母さんも、最低限のことしかお話しになっていないんじゃないの?」
雅人が言った。
「そうか、親父なりに考えてくれているのかな……。小母さんありがとう、よく分かりましたよ」
繭子が言った。
「雅人さんのお祖母さまは、お元気なの?」
雅人が言った。
「足が少しね、あまり長くは歩けなくて、耳も少し遠いし……。この前の小物入れのお礼も、電話をしたらって言ったのに葉書を書いて出したくらいだから、電話も聞き取りにくいんだと思う」
静乃が言った。
「雅人くん、それは仕方ないわよ、今年は喜寿のお祝いだったでしょ?、うちの母も亡くなる前は、目も耳も駄目だったわ。認知症も出ていたしね。お二人には、まだまだ元気でいて欲しいと思うわ……。あら、ごめんなさい。直ぐ、お料理、準備しますからね、お酒にしますか?」
静乃が繭子を見て言った。
雅人が繭子の表情を窺っていると、繭子は無言で頷いて雅人に任せた。
雅人が言った。
「冷酒を、お願いします、多くは飲みませんから……」
静乃が言った。
「はい、分かりました。貰い物なんだけど、近江の純米酒の美味しいのを頂いているから、サービスよ……。じゃ、少し待って下さいね?」
静乃が下がると、繭子が言った。
「そう云うことだったのね、不思議な感じ⁉」
雅人が言った。
「でしょ……。でも、今日誘ったのには、他にも訳があってね」
「何かしら……」
「実は、まだ少し迷っているんだけど……」
繭子は、一瞬、訝るような表情を見せたが、直ぐに平生に戻って言った。
「わたしは、どんなことでも大丈夫だと思いますけど、大変なことなのかしら?」
雅人は、ほんの少しの間沈黙した。
ゆっくりと考えながら話し始める。
「大変と言うより、大切なことのように思えるんですよ。繭子さんがどうするか、そのことが重要な意味を持つことになるからね。僕から伝えていいのかどうか、まだ少し迷っている処もあって……。割と慎重な方だから、決心してしまえば絶対の自信はあるんだけど、僕が話すと僕の意思表示ということになるから……」
繭子は首を傾げるだけで、何も訊かなかった。
雅人が、自分に言い聞かせるように言った。
「でも、繭子さんを此処に呼んだと言うことは、僕は心の奥底では決めているってことなのかも知れないけど……」
表の方で、誰か来た気配がした、静乃の、迎える声が聞こえる。
繭子は、雅人が考えているのが何かを知りたいと思い、静かに待った。
暫らくすると、紺と白の小振りの矢絣の着物に、飴色の着物用前掛けをした若い女性が、料理と酒を運んで来た。
襖越しに、声が掛かった。
「お邪魔します」
襖が開いて、娘が言った。
「いらっしゃいませ、お待たせしました」
雅人が言った。
「こんばんは、休みじゃなかったの?」
娘が言った。
「はい、お正月も、こちらで過ごそうかと思っているんです。ようこそ、お久し振りです……」
雅人が言った。
「両方に紹介するよ。奥居繭子さん……、此処の手伝いをしている柿本智美ちゃん……、短大の二年で、実家は福知山だったよね?」
智美が言った。
「はい、そうです。柿本智美です、宜しくお願いします」
繭子が言った。
「奥居繭子です。こちらこそ、宜しくお願いします」
「はい、宜しくお願いします……。女将さんのお料理は美味しいですから、これからも、いらして下さい」
智美はそう言いながら、手際よく二人の前に箸と料理の皿を並べた。
雅人が言った。
「智ちゃん、春には卒業だったよね、就職は決まったの?」
智美が料理の器を並べ終えて、言った。
「就職ですか?、保育士は競争が厳しいですから、ここで働かせて貰おうかと考えているんです……。お料理は教えてあげるから、その気なら構わないって、女将さんは言って下さっているんです。わたしもお料理は好きですし、女将さんは憧れの女性ですから……」
雅人が言った。
「そうなんだ。でも、それもいいかも知れないね?、僕の従弟も調理師なんだけど、好きな道に進んで活き活きしているよ。智ちゃん、無責任を承知で言わせて貰うと、僕は、小菊の智ちゃんを歓迎するよ」
繭子も言った。
「たくさんひとが居るところにお勤めするのが、必ずいいとは言えないわ。初めてお会いして無責任かも知れないけど、わたしも、智美さんは愛嬌があるし、接客業には向いているかも知れないと思う……。ここの女将さんは、とてもいいひとみたいだし……」
雅人が言った。
「智ちゃん。繭子さんは総務部人事課で仕事をしているんだよ、ひとを見る目はあると思うよ……。参考意見として聞いとけば、いいんじゃないかな?」
繭子が、顔の前で手を小さく左右に振った。
智美が言った。
「そうでしょ、卒業しても福知山には帰りたくないんですよね。お二人から応援を頂きましたから、わたしの進路は決定ですね。ありがとうございます、じゃ、ごゆっくり」
錦市場で仕入れた食材を使った静乃の料理は、どれも素材の味を生かす優しい出汁や薬味に加え、自然の旨味と苦味や辛味が、絶妙なバランスで舌を刺激した。
二人は食べることで、気持が安らいだ。
器や盛り付けも、静乃の感性が、そのまま現れたように、優しい配色と形に調えられていた。
食材は、食べるのに丁度いい大きさにしてあった。繭子は、一品一品を丁寧に箸で扱い、口元に運んでいた。
暫らく料理を楽しんだ後で、雅人が言った。
「よし、自分を信じよう……。ちょっと待ってね?」
そう言って部屋を出ると、静乃に声を掛けた。
静乃は、店の二階に上がり、雅人から預かっていたケースを、慎重に抱え持って、下りて来る。
静乃は、雅人にどんな事情かは聞かず、快くケースを預かっていた。
「雅人くんは、高価な物だとしか言わないんだから、気が休まらなかったわよ。はい、お渡ししますよ、どうぞ……」
雅人が言った。
「小母さん、ごめんなさい。傍に置いといたら、自分が他人の意見に流されて判断を誤るような気がしてね……。大切なことだから、自分の素直な気持を知りたくて?」
静乃が言った。
「素直になれたの?、そこが雅人くんのいい処なのよ、その気持は、ずっと持っていてね。お父さんとよく似ているわ……。小母さんも、雅人くんのそう云う処は好きですよ……」
雅人と静乃の会話は、繭子に聞こもえていた。
雅人が座敷に戻ると同時に、繭子はケースを見て驚いた。
見たことのある、パウエルのケースだった。
「それ、どうしたの?」
雅人が言った。
「うん、これも大切な物だけど、託されたことの方に大切な意味があってね……」
繭子は、雅人の目を見ながら訊いた。
「それ、クレインのマスターのですよね?」
雅人が言った。
「そう、繭子さんも吹いたって聞いたよ……。このフルートだけどね……」
繭子は意味が分からなかった、話しをさえぎるように言った。
「そのフルートを雅人さんが頂いたの?」
「違うんだよ。慶彦さんは、これからずっと僕達ふたりの傍に、このフルートを置いて欲しいって……。僕に渡せば繭子さんに使って貰えるから、自分にとってもフルートにとっても、それがいちばん幸せなことなんだと言って僕に託されたんだけど……」
繭子は暫く考えていた、決心するように、雅人を直視して言った。
「雅人さん、このフルートには、マスターと好きだったひとの思い出が詰まっているのよね、でも、わたしは構わないわ、鶴間さんの気持をお受けしたいと思う……。
誤解しないでね、このフルートが憧れのパウエルだからじゃないのよ……」
雅人は、少し驚いて言った。
「そんな風には思わないよ。繭子さん、訊いていいかな、慶彦さんが、僕たち二人の傍にフルートを置くことが幸せなんだと言った意味を理解しているよね?」
繭子は真剣な眼差しで、雅人を見て言った。
「ええ、わたしは大丈夫です、自信があります。これから先、ずっと一緒にいられるって……」
雅人がホッとしたのは一瞬だった、なんとも言えない気持になった。
「ほんとに……、そう、良かった……。慶彦さんより、繭子さんに感謝するよ。慶彦さんは簡単に僕に渡してくれたけど、考えていてくれたんだと思う……。僕がフルートを受け取って繭子さんに渡すことは、プロポーズと同じ意味だから……。僕は自分自身の想いだけで進めてはいけない、絶対に不幸にはしないと云う自信が持てるまでは、と思っていたから……。繭子さんに対する気持を持ち続ける自信はあるよ。でも、失敗は許されないし、時期尚早なんじゃないか……、そう思うと決心が鈍って、迷っていたんだ……」
「その気持、分かるわ……、とても嬉しい……」
「うん、それで、小母さんに預かって貰って、フルートがなかったら、どうするのかって考えたんだ。初めて会ってから今日までの自分の気持を考えたよ。やっぱり、自分の想いに素直に従うのが最善の行動だ……、それが結論だった。改めて、このフルートを二人で受け取ることに決めよう。繭子さんに渡すよ」
繭子は微笑みながら言った。
「ありがとう、真剣に考えてくれていたんですね、嬉しいわ、本当に……」
雅人は、歓喜の思いが次第に高まって行くのを感じた。
暫くは、ことばが見つからなかった。
気持が静まり、成り行きを話すことができた。
「繭子さん。慶彦さんから、このフルートを託されたとき、二人がこれからどうなるか分からないのに受け取れないって言ったんだ……。慶彦さんは、絶対に大丈夫だ、二人は上手く行く。繭子さんとのことが駄目だと言うのなら、他のカップルは、もっと不安を抱えて一緒になろうとしているって……。繭子さんへの思いは、初めて会ったときから始まってしまったから、積み重ねたものは何もないから不安だった。だから、突然、心変わりすることもあるかも知れない、そう思わずにはいられなかったんだけど……。今、僕から、このことを聞いて、繭子さんは不安を感じることはない?」
繭子にも、全く不安がない訳ではなかった。それでも、自分の気持に自信を持てた。
「今のわたしが無理に考えようとしないで、気持に素直になれているとしたら、不安はないわ、わたしも雅人さんと同じです。最初のときに感じた思いは、今日までひとつも変わってないわ……。この半年の間、とても楽しかったから……」
雅人は頷きながら、想いを込めてパウエルのケースを繭子に手渡す。
繭子はケースを両腕で受け取り、胸に抱いた。
雅人の目を、じっと見詰める。
雅人も、じっと、その目を見返した。
ふたりは無言のまま、暫らく、お互いの顔を見詰め合っていた。
静乃が声を掛けて、襖を開けた。
ケースが繭子の横に置いてあるのに気付く。
「はい、ご飯も、少しは食べて貰らわないとね?、若いから、お茶漬けよりも、いいかと思って……」
半円形の黒塗りの盆に、ピンポン球のような握り鮨が、右寄りに三つ。黄色の小菊の花とピンクの生姜が、寿司と離れた左寄りに、配されていた。
黒い扇に描かれた絵のようだった。
静乃が言った。
「暖まるように茶碗蒸にしましたよ……。どうなのかしら?、いいお話し合いになったようね。ふたりとも、嬉しそうな顔をしているわね。雅人くん、迷った甲斐があったのね?、自分の気持に素直になれば、案外と楽なものでしょ?」
雅人が言った。
「そうですね。小母さんにも繭子さんにも教えられました。良かったです」
静乃が言った。
「あなた達は、いまどき珍しい素敵なカップルだわ。長くお会いしていないけど、琴絵小母さんも絹江小母さんも、仲良くしている姿をご覧になったら、きっと喜ばれるでしょうね。わたしの母には孫はいなかったから……」
静乃の最後の言葉は、少し寂しそうに聞こえた。
雅人が言った。
「小母さん。僕が他所に行っている息子みたいでしょ?、こどものときから来ているんだから……。中学、高校、大学、会社に勤めてからも、ずっとですからね……。それに、智ちゃんも娘みたいに可愛がっているじゃないですか?、さっき、智ちゃんに聞いたけど、ここで働くかも知れないって、本当ですか?」
静乃が言った。
「智ちゃんが話したのね、わたしは嬉しいんだけど、智ちゃんのために本当にいいのかしらって、このごろ毎日考えているところなのよ。福知山のご両親とも、一度お会いしてご相談をしてからになるわね。これからは、繭子さんも来て下さるんでしょ?、若いひとがお店に見えて下されば、わたしも智ちゃんも、遣り甲斐があるわ……。智ちゃんがその気なら、小菊を彼女に託してもいいと思っているのよ。先のことかも知れないけど……」
静乃は、心配しながらも何処か嬉しそうだった。
繭子が静乃に言った。
「わたし、必ず伺います。このお店は、わたしにとって大切な場所になりましたから……。女将さんのことも、お祖母ちゃんに、きちっと伝えます」
静乃は、去り際に、ポンと雅人の肩を叩いて出て行った。
雅人は、繭子が静乃に言ったことばが胸に沁みた。
繭子に笑顔を送った。
微笑んでいる雅人に、繭子が言った。
「雅人さん。大丈夫よね?、きっと、ずっと一緒にいられるわよね?、本当は、わたしも自分の気持が心配なの……」
「そう、変な言い方だけど、それを聞いて安心したよ。僕も、本当に繭子さんのことを思っていないんじゃないかって、自分を疑ったりしていたから……。大丈夫だよ、フルートを返すようなことには絶対させないよ。でも、受取ってくれてありがとう。嬉しさって、少しずつ増してくるものなのかなぁ……」
「わたしも同じです……。まだ知らないことも、知って貰いたいことも沢山あるけど、宜しくお願いします……」
「それは、お互いだよ。これから二人が思うことは、全部二人に共通することだから……。僕の方こそ宜しく……」
店のカウンターが忙しくなっていた。
ふたりは、静乃と智美に送られて小菊を出る。午後八時を少し回った時刻だった。
フルートのケースは雅人が持ってやった。
繭子は、出会ってから半年を経て、初めて雅人と腕を組んだ。
ふたりは、通を北に上り、三条通に出ると、賑わう河原町通に向って歩いた。
途中、空いていたカフェテリアに入った。
雅人が、フルートのケースを繭子に渡して言った。
「僕はシナモン.コーヒーにするけど、何にする?」
繭子が笑顔になった。
「わたしも同じで……。嬉しいわ、周りにシナモンの嫌いなひとが多いの、良かった……。ミルクもお砂糖もいりません」
「同じだ、じゃあ、Lサイズでもいい?」
繭子は頷いた。シナモンの些細な共通点が大切なことのように感じられた。
雅人の後姿から視線を外した後で、パウエルのケースを優しく撫でてみる。
店内は暖かかった。互いにコートを脱いで向かい合い、視線が会うと笑顔になった。
シナモン.スティックを透明な包みから出して、香を楽しんでからコーヒーに入れた。
雅人が言った。
「本当にシナモンでよかったの?」
「ええ、驚いたわ、だって、コーヒーを飲んだとき言わなかったでしょ?、友達にシナモンが嫌いなひとがいるから、わたしも言わなかったの……」
「僕は気にしていなかったけど、遠慮しなくても良かったのに……。僕は会社の抽斗にシナモン.スティックを入れているんだよ。開発室で根を詰めて仕事をしているときなんかに、気分転換に自販機でコーヒーを買うんだけど、抽出されたコーヒーをそのまま飲むより、ちょっと抽斗からシナモンを取り出してカップに差し込むと、そのことで、気が静まるような気がしてね」
「わかります。わたしはひとりで淹れるときには、そうします。でも嬉しい……」
「そうだね、共通なものが見つかるって、なんか嬉しいね」
「会社は何時までですか?」
「うん、明後日の午前中だけど、繭子さんの会社は?」
「明日で、お仕舞いです。忘年会なんかは、もう終ったのですか?」
「もう全部終わり。それより繭子さん、普通に話してくれていいよ?」
「そうしようとしているのよ、そのつもりなのに、会社の癖なのかもしれない……。雅人さんは年上だから、つい、ます、です、になってしまう……。わたし、今夜は緊張しているみたい、おかしいでしょ、自分でも、なんか変なの……」
「おかしくはないけど、気にするほどの歳の差ではないと思うけどな。繭子さんは、妹のひとつ上だから、僕は、そんなに気にしていないつもりだけどね。妹は結構言いたいことを言うから、丁寧に話されると勘が狂ってしまって……。会社のことは忘れようよ?」
「そうですね、じゃなくて、そうね、かしら……」
繭子は、雅人が年末年始の休日を、どう過ごすのか気になった。
今までは、次に会う日を訊いたこともなかった。
自分の心の中の何かが変わっていることに気付いた。
横の椅子に掛けていた雅人のコートから、ポケットが震動して着信を伝えていた。
「ちょっといい?、誰かな?」
そう言いながら、雅人は店の外に出ると、ガラス越しに繭子の見える場所に立った。
雅人が真面目な顔で話しているのが繭子に見える。
雅人は、急に嬉しそうに笑って、繭子の方を見た。
電話の相手に返事をしながら、ドアに向かって歩き、電話を切った。
雅人は椅子に座り、コートのポケットに携帯電話を戻しながら繭子に言った。
「誰からだと思う?、繭子さんも知っているひとだけど?」
繭子の顔を見た、繭子は少し考えている様子だった。
「静香さんか、クレインのマスター?」
「いい勘だね、そのどちらか?」
今度は、繭子の携帯電話に受信があった。
繭子はバッグを探って電話機を取り出すと、メールを見て、直ぐに雅人に言った。
「答えはクレインのマスター、鶴間さんでしょ?」
「どうして?」
「このメール、静香さんからよ。マスターから宇都宮さんにも連絡が行くって、あるわ、参加しますよね?」
「知らないうちにネットワークが出来ているんだ……、メールの内容は、何て?」
「三十日、午後七時にスキャットに集合、色々と重大発表あり。仲間で忘年会をします。絶対来なさい、雅人さんと相談のこと、ですって。鶴間さんのお話しは何んて?」
「それプラス、楽器演奏のできる者は楽器持参、ドラム.セット、キーボード、ベース、ギターは準備あり、僕と繭子さんは共演すること、何か考えておくこと……。それと、最後に、フルートは受け取ってくれたのかって……」
「何て、返事したの?」
「慶彦さんの予言を信じた、と伝えたよ、悲鳴を上げて喜んでくれていたよ・・・。いつ渡したのかって訊かれたから、今日って答えたたら、繭子さんが其処にいるのなら、ありがとうと、おめでとうの両方を伝えてくれって……。最後にスキャットには絶対来いよ、クレインも休業してママに協力するからって……」
「重大発表って、雅人さんとわたしのことじゃないわよね?」
「うん、磯崎さんと静香さんかな?、もうひと組あるんじゃないかな?慶彦さんに伝えたから、ぼく等も何か言われると思うよ、どうする?」
「雅人さん、どうする?」
「三十日か……、僕は今夜、家族に話すよ。喜ぶと思う、反対はないよ。スキャットで宣言させられるかも知れないな……」
「じゃ、わたしも、今夜、話します。話した後で、遅くても電話します」
「うん、この年末は色々ありそうだな。忙しくなるかも知れないね?、繭子さんは明日で終りなんだ、いいな。そうだ、もし都合が付けば、明後日の午後に会えるかな?、僕の会社が済んでからカラオケに行って練習なんてどう?、でも、混んでいるかも知れないな?、その後で、ご馳走するよ。二人の記念と忘年会とスキャット参加の準備のためにね……」
「変なの……。でも賛成だわ。雅人さんの歌が上手なのは知っているけど、楽器は?」
「来ると思った、笑わないで欲しいんだけど、ピアノ」
繭子は、本当に驚いて言った。
「予想できなかった、幾つから?」
「小さい頃からじゃないよ。高校で陸上競技を卒業して、大学では学業に専念するって宣言したんだ。そうしたら、暇なときにやることがなくなってね。偶然、カーペンターズのビデオを観たときに、リチャード.カンペンターが、妹のカレンを優しい眼差しで見ながらピアノを弾いているのに惹かれてね、僕がピアノを弾いて妹に歌わせようと思ったんだ、それは無理だったけど。まあ、それがきっかけだから、七、八年前からかな……」
「妹さんと仲良しなのね?、どなたか、先生に付いたの?」
「そんな、専門家になる訳じゃないから、先生は母だよ。ピアノは家にある母の嫁入り道具のペトロフと云うアップライト型のピアノ。つまり、ほとんどカーペンターズの曲しか弾けないってこと……。でも、結構ジャズ風にアレンジはできるよ、下手くそだけど……」
「お母さんは、ずっとピアノを?」
「いや、最近ピアノを弾いているのは見たことがないよ、最も、僕が出勤しているときは分からないけど……。よく弾いているのは三味線かな、ピアノは、こどもの頃かららしいけど、三味線は結婚してから、お祖母ちゃんに教わったらしいよ。嫁姑の共通の話題作りが習う動機みたいだって、父から聞いたことがあるよ。母は音感が良くて筋がいいって、お祖母ちゃんには好印象だったらしいよ……」
「素敵だわね、お母さん。雅人さんの歌が上手な訳が分かったわ。じゃ、カーペンターズの曲に決めましょう、何か選んで?」
「本当に僕にピアノを弾かせる気かい?、デュエットで歌う方が楽だけどなぁ」
「じゃあ、両方準備する?」
「乗り気なんだ?」
「そうよ、今夜からはね……、雅人さんと一緒なら何だって出来そうだもの、そんな気がするの……」
二人は、ほのかなシナモンの香りとコーヒーのアロマとフレーバーを、気持よさそうに楽しんでいた。
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