夜風に香るブルームーン

稲葉真乎人

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幸せなフェードアウト

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繭子が持ってきたケーキ箱には、三種類のトルテと二種類のロール.ケーキが二個ずつ入っていた。
四人は子供のように迷いながら、自分の食べるケーキを選んだ。
幼い頃のおやつの楽しい思い出を互いに語り合い、静かな屋敷に笑い声が満ちた。
紅茶を飲み終えた頃、雅人が将太のことを切り出した。
雅人は、料理人として小菊で手伝わせて貰いながら、静乃に教わりたいという将太の意思を真剣に伝えた。
雅人の話しに、静乃は最初から分かっていたかのように応えた。
静乃は両手を正座した膝に置き、ゆっくりと顔を上げて雅人を見て言った。
「雅人さんの考えていたこと、小母さんよく分かっていましたよ。色々と思うことはあるわ、でもね、今は何も言わないで、その申し入れをお受けしたいと思っていますよ。後は一緒に働く智美ちゃんの返事次第、でも、それも分かっているわ……」
そう言うと、静乃は微笑みを浮かべながら智美の方に視線を振った。
智美が口を開いた。
「お母さん、雅人さんは、わたしの気持を知っておられると思っていましたから、お任せしました」
静乃が言った。
「雅人さん、そう言うことね、色々と心配を掛けてごめんなさいね。お父様ではなくて貴方にお世話になるとは思っていなかったわ。随分大人になったのね、わたしが歳をとる筈だわ……」
雅人は静乃から感謝のことばを聞いて嬉しかった。
周りで悲しい出来事が暫く続いていただけに、将太と修司が料理人として、将来は伴侶になるかもしれない女性と共に、同じようにスタート.ラインに立てたことをこころから喜んだ。
仲間の間では、男女間のことについての考え方が子供染みていると言われていた雅人と繭子は、短い期間に様々な男女間のこころの動きに触れて、少しはおとなの恋愛事情を理解できたと思っていた。
夕刻になり二人は静乃と智美に送られて路地を出た。
富小路通を南に下がり、四条通に出で地下鉄四条駅に向う途中、通に立っている女性が「是非覗いて頂けませんか?、若い職人たちで始めたお店なんです」と言いながらチラシを配っていた。雅人はチラシを受け取った。
淡い桜色に白抜きの桜の花びらが散らされた千代紙の、はがき程度の大きさの二つ折りの手作りチラシを広げると、若草色の台紙に日本料理の一品メニューが書かれていた。
雅人と繭子は無言で顔を見合わせた、思いは同じだった。
チラシをくれたのは、智美や美智代と同年代の感じのいい女性だった。
案内されて通から横道に入ると、ビルの二階に案内された。
店は若い男性と女性が二人ずつ、四人でやっているようだった。
そのうちのひとりが通でチラシを配っていた女性だった。
お客は中年のカップルと、若い女性の二人組がいた。
雅人と繭子は一番奥のテーブルに案内された。
男性のひとりが先付けの小鉢と箸を持って注文を取りに来た。
客が当日の食材リストからリクエストして、それを料理して提供するシステムになっていた。
料理の方法もリクエストできた、他に本日のお勧めコースというのもあった。
聞くと、魚料理を主体に京都の野菜を使った料理が三品付くと言う。
雅人と繭子はそれを注文して冷酒も頼み、更にお勧めリストにあった小さな春の押し寿司と蛤の潮汁を、冷酒が終ってから出して貰うように頼んだ。
椅子もテーブルも脚部は黒のスチール製なのに、テーブルの上面は漆塗りのような仕上げになっていた。
椅子の座席部分は籐編みで紬地の座布団が敷いてあった。
壁面は枯れ竹と青竹の太さの異なる竹を立体的に使い、奥行きを出して竹林の風情をモダンに印象付けていた。
突き当たりの壁は坪庭の風景が大きくガラス板に引き伸ばされて、バックライトの工夫で立体感があり、いかにも実在しているかのように工夫されたバーチャル.リアリティーの世界を造りあげていた。
繭子は店内を見渡した後で雅人に言った。
「ねえ、さっきのひとが調理師さんのひとりなのね、将太さんと変わらないわ……。若い人達がみんな張切っているんだわね?。サラリーマンの同年齢のひと達より自分で歩いているって感じがしない?」
雅人が言った。
「サラリーマンにも色々いるけど、大きな組織にいないだけでもそう感じるね。内装も借りたフロアをそのまま使わないで、自分たちなりに工夫しているし……。万人受けはしないかも知れないけど、経験を積んで、いい店にして行くんだろうな」
「将太さんや修司さんも、料理をする人たちはみんな将来の具体的な夢を持っているんでしょうね?」
「うん、そして、彼らを支えて行く女性がいる……。夫婦で夢を実現させていくひと達も多いんだろうな……」
「そうね、ある程度年齢を重ねて、それなりのお店になれば、女将さんがいる方が落ち着くし、バランスも取れるような気がするわ」
出て来た料理と器に、ふたりは惹かれた。
小鯛の酢漬けは、木目の綺麗な器に盛り付けられていた。
よく見ると、皿は木目の上に透明の硬質コーティングがされてリアルな笹の葉が閉じ込められていた。
他にも、ガラス製皿の底部分に青竹の簾や杉皮、紫蘇の葉、檜の葉などがリアルに封じ込められた器や、自然木や竹を使った器も使われていた。
それには、冷たいものは冷たく温かいものは温められた料理として、器にぴたりと収まっていた。
特別に味から受けるインパクトはなかったが、程よい温度感が、優しい味と相俟って食する者をホッとさせる。
見え隠れする、若い料理人の作ったものとは思えなかった。
冷酒の残り香が作用するのか、口の中で料理の旨味が増すような気がした。
上品にグラスに両手を添えて冷酒を飲んだ繭子は、ゆっくりと味わってから雅人に言った。
「みんな、ひとには分からない苦労をしているんでしょうね、頑張っているんだわ……。わたしね、思春期からずっと、不幸だと思う出来事に余り出会うことがなかったの、祖父母も健在だったし、学生時代も特別大きな変化もなかったわ。去年から今年にかけて、大柳さんや愛子さん、静香さんに優子さん、美津子さん、それに智美ちゃん、身近なひと達の色んなことに出会ったわ。姉の結婚が急に決まったことや、祖父や華奈さんのお父さまが亡くなって。わたしは会社を辞めて、母のお店を手伝いながら平穏に雅人さんとの結婚を待っているわ……」
繭子は神妙な表情を浮かべていた。
雅人が訊いた。
「それで、どうしたの?」
「ううん、もっと年齢毎に相応しい経験をしたかったなって……。わたしは学生時代に特定の男性とお付き合いをしたこともないし……。姉が決まらなかったから、大学を卒業してもお見合いの話もなかったわ。お見合いの話しはこの頃になってやっとだった。友達にはもう遅いって言われていたの……。今になって人生って色々なんだって、周りのひとから学んでいる、そう思って……」
「そう、僕も大して変わらないよ、どうしてか晩生なんだなぁ。でも、これからの方がもっと山や谷があって、波瀾万丈ってなるかも知れないよ」
「これから先はちっとも怖くないわ、だって、これからは一人じゃないもの……」
「言うね、そう言われると、できれば谷には遭遇したくないよね……」

八坂神社の裏に続く円山公園の桜が満開になった頃。
繭子のブラスバンド部の仲間四人は、夫々に伴侶とともに新しい生活を始めていた。
静香や華奈が夫婦として生活を始め、雅人と繭子はふたりだけで行動することが多くなった。
スキャットには新しい厨房担当が来ていた。
長い間、企業の保養所の厨房でシェフとして働いていた、杉浦良然という五十歳になる男性だった。
黒髪に白髪の混じる頭髪を、シックな組み紐でひとつに束ね、後ろに流していた。
中肉で長身の体躯の細面の顔つきは、眼窩が少し深く、顎の輪郭が鋭いために神経質そうな感じを与えた。
目だけを見れば、左右に動揺することが少なく、濁りの無い白目に黒い瞳が強い印象を与え、濃い眉毛の下で厳しさを秘めているかのように見える。それを長い睫毛が柔和な印象に変えていた。
声はバリトンがやや響く感じで、外国映画の吹き替え声優のようだった。
眉毛に隠された厳しい眼つきとは異なり、優しい物言いだった。
杉浦は、京都府北部の綾部市外にある、浄土宗のお寺の次男で、中学を出ると舞鶴の工業専門の学校に進学した。
どのような心境の変化があったのか、卒業と同時に、学んだ学業とは全く関係のない調理師の道を選んだ変り種だった。
レストランの見習から、三十五歳で宮津市に洋食レストランを開いた。
ある企業が天橋立の見える阿蘇海の北岸に保養所を建設するとき、スカウトされた。洋食レストランを閉めて、保養所の厨房の責任者として勤めた。
スキャットに来る前の年、保養所を所有する企業が経営破綻に陥り、保養所は閉鎖に追い込まれた。
当時、杉浦良然は五十歳を前にしていた。
スキャットに来ることになったのは、将太の親方、藤森周作からの推薦だった。
将太は自分の我が儘で亜樹子に迷惑を掛けまいと、親方に相談していた。
親方は、昔、舞鶴のホテルにいた頃に杉浦の先輩だった。
杉浦が庖丁を置き、綾部市の実家でブラブラしていると聞いていた親方は、将太からスキャットの様子を詳しく聞いた。
杉浦に向いた仕事だと思った親方が、将太に言って亜樹子と杉浦を会わせた。
将太は杉浦を亜樹子に会わせる前に、親方と一緒に杉浦と会った。
そのとき、ひょっとしたらと感じるものがあった。
東山の料亭で亜樹子と良然は、面接ということで初めて会食をした。
その宵、良然は客としてスキャットを訪れた。
良然は将太に厨房を見せて貰い、その後で将太の小料理を食べた。その後で、「親方の弟子だね」と将太に丁寧な言葉で言った。
良然は元宮のギター.トリオのジャズ演奏を聴いてた。
隅の席に座っていても、スキャトでは見慣れない粋な風貌の存在は、元宮の目にも留まった。
良然の膝の上で、長い指がリズムにあわせてスイングしていた。
良然は帰り際に亜樹子の傍に近づき、長身の背筋を伸ばして僅かに前傾すると、笑みを浮かべながら亜樹子に言った。
「甲田さん、もし、私でよければ、是非ここで働かせて頂けませんか?。お力になれると思います、手当てはお任せします如何でしょう?。お返事はいつでも結構です、田舎で遊んでいますから……。今日は会って頂いてどうもありがとうございました」
亜樹子は、年上の男性の丁寧な挨拶に、珍しく緊張していた。
「いいえ、私の方こそ、わざわざ遠くから来て頂いて、ありがとうございました。気に入っていただけましたか?」
良然は、はっきりと言った。
「はい、全てが気に入りました。検討してみて下さい?、良いお返事を待っています」
「はい、分かりました。それでは後日、早いうちにご連絡をさせて頂きます。ありがとうございました」
濃紺ボタンがアクセントの、真っ白な丸襟カッターシャツに生成りのジャケット、ネイビーのチノパンツにフェラガモのローファーを履いた良然を、亜樹子は丁寧にお辞儀をして見送った。
あまり身体を揺すらずに、静かに歩いて帰っていく良然の、銀髪を束ねた白と紺の組み紐が亜樹子の気持を惹いた。
亜樹子の気持は決まっていた。
その夜、スキャットを閉めると、亜樹子は将太に言った。
「将ちゃん、藤森さんに伝えて頂戴、杉浦さんにお願いしたいって……。綾部から通うのは無理だわ、ご家族と相談して貰って、住まいのこともどうするか訊いて頂戴、わたしの方で考えるから。それと、幾らくらいお手当てを払えばいいのかも訊いて?」
将太が言った。
「分かりました、明日、親方に会ってきます。それにしても洋食のひとって私服でも何となくスマートですよね。そうだ、話していませんでしたけど、杉浦さんは独身ですよ、家はお寺さんで、次男ですから自由は利くんです。住まいは考えて上げた方がいいかも知れませんね?。でも、余分な経費がかかりますよね?」
「そう、それはいいのよ、どうにかするわ。色々とありがとう。お世話を掛けるわね」
「いえ、僕が勝手をさせて貰ったんですから……。それに美智代のことでもお世話を掛けてしまったし……。いい人でしょ、杉浦シェフ?」
亜樹子は気のない返事を返した。
「そうね、あの髪を解いて少し短くしたらクリント.イーストウッドを若くした感じかしらね。でも、背が高いから厨房の入口を高くしなくてもいいかしら?」
「そんなの、心配し過ぎですよ、屈めば済むんですから、まだ来てもいないのに、少し入れ込み気味ですよ、大丈夫ですか?」
「なにが?」
「いいえ、何も……。僕より経費が掛かりそうだから、申し訳ないと思っているんです」
二週間後、亜樹子は聖護院の近くに、八畳のフロアと六畳のダイニング.キッチン、バス.トイレ付きのマンションを借りた。
最低限の家具と家電製品とベッドも備えた。
杉浦良然は、海外トラベル用の大型バッグを提げてやって来た。
同じ日に運送会社のトラックが、マンションの洋服ロッカーに入り切らない程の衣装をスーツ専用ケースで運び込んだ。
マンションの設備を見た良然は、予想外の歓迎だと感じて恐縮していた。
良然は初めてスキャットに出勤する数日前、亜樹子と開店前のスキャットで会った。
将太が出勤して来るまでの間、これからのことを話し合った。
良然は言った。
「ママ、少しやり過ぎですよ、もし、私がここで続けられるなら、一年間給料は要りません、前の会社から多額の退職金を頂いていますし、家族はいませんから、そういう条件にして頂けませんか?」
「いいえ、そんな訳には行きませんよ、お給料なしだなんて、藤森さんにも合わせる顔がありませんから……」
「いいんですよ、藤森先輩は分かってくれますから……。働けることとジャズをライブで聴けるんでしょ?。むかし舞鶴に居た頃がそうだったんです。修行が済んで、ホテルのラウンジを任せられるようになった頃ですよ、わたしの青春時代なんです……。この前、此処に来たときに若い日を思い出しましてね……。呼んで貰って感謝しているんです、一度は京都の街でやってみたいと思っていましたしね」
「困ったわ、どうすればいいのかしら」
「それじゃ、無給の代わりに、二つお願いをさせて貰っていいでしょうかね?」
「何でしょう、おっしゃって下さい?」
「そうですか、ひとつは谷川くんに訊いたんですが、わたしはママより十歳は上です、お願いは五十にもなって厚かましいんですが、同い年程度に見て頂いて言葉遣いもそうしてくれませんか?。勿論、ママと厨房係の関係は変わりませんよ。それと、わたしの呼び方は杉さんでも良さんでも、何でも結構です。心安く呼んで頂くと有り難いのですが……」
「杉浦さん、気遣って下さってありがとうございます」
「ですから、その言い方は止めませんか?、そうね、でいいでしょう?。わたしも仕事のときは、店の雰囲気に合わせて喋らせて頂きますから……」
「杉さん、良さん、どっちにしましょう?」
「そう、それでいいじゃないですか、どちらでも。もうひとつ、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
「損はさせませんからメニューを任せて頂けませんか?。少し谷川くんとは変えたいのです。それと、もう少し先になると思いますが、今は夜だけ明けているスキャットを、お昼に店を開けさせてくれませんか?。十一時から午後の二時くらいまで……。ママは今まで通りの生活をして頂いて結構です。店の造作も触りません、絶対に損はさせませんから。そのときは私が損害を補填させて頂きます。そう云う覚悟でお話ししています……」
亜樹子は良然の軽く響くバリトンに聴き入っていた。
記憶が過去に遡って行くようだった。
スキャットを始めてから十年近く、考えたこともなかった新しい夢を耳にしていた。
良然は亜樹子のこころに、本人が気付かない幾つかの夢の種を蒔いた。
「良さん、何てことを最初からおっしゃるんですか?。わたし、いまショックを受けています……」
「いや、それなら、お昼のことは止めにしましょう。突然です。無理もない提案ですから……」
「違います、いいんです、良さんにお任せします。わたしは若いひと達に出入して貰って、一緒に音楽を楽しむことができれば、他に望んでいることは何もないんです……」
「同じですよ、実は、わたしもジャズに魅せられた男なんです。先輩はそれも知っていて推薦してくれたんですよ。何時か、わたしの拙い歌を聞いて頂く機会があるかも知れません……。それはともかく、ランチ.タイムの件は、わたしのささやかな夢をお願いしたんです……」
「素敵だわ、分かりました。好きにして頂いて宜しいわ」
「そう、そういう言い方でね、分かりました。今日は谷川くんに仕入れ先を案内して貰います。藤森さんにもご挨拶してきますので、正式には明日から、それでいいですね?」

良然がスキャットに来て一週間くらい経った日に、雅人と繭子は亜樹子から杉浦良然を紹介された。同時に、良然がスキャットに来ることになった経緯も聞かされた。

雅人は集中的に仕事をこなして、極力、残業はしないようにしていた。
繭子は和装小物の母の店「京小物.おくい」を手伝いながら、店が終ると音楽教室に行きフルートを練習した。
会える機会があれば、可能な限り雅人と会った。
休日には宇都宮家にいることも多くなっていた。
結婚式が近づいた実柚と恭司は、この頃には本当の姉のように繭子に接していた。
絹江は繭子が顔を見せるだけで喜んだ。
優司は最初、畳の寝床からベッドに替えて、あまりベッドから離れることが少なくなっていた。それが、繭子が部屋を訪ねるようになると、身体を起こそうとした。
繭子が手伝うと、言葉にならない、うめくような声を出しながら笑顔を作った。
やがて自力で立ち、見違えるように元気になって行った。
絹江が「お爺さんも、男なんですね」と言って珍しく優司をからかった。

静香や華奈、繭子の友人たちが結婚をして足が遠のいていたスキャットに、雅人と繭子は実柚と恭司を誘って出入するようになった。
恭司も会社の仲間や、嘗てのブラスバンドの仲間達を連れてくるようになった。
音楽の好きな若い客を連れて行くと、亜樹子は喜んだ。
それでも亜樹子がいちばん喜ぶのは、雅人と繭子が顔を出すときだった。
上機嫌で必ずステージで歌った。
スキャットは少しずつ変化していた。
夜の十一時を過ぎると、プロのミュージシャンが顔を出すのが目立つようになった。
ホテルで演奏しているピアノマン、カルチャー教室で教えているフルーティストやギターリスト、他にも交響楽団に所属しているひともいた。
高校の音楽教師仲間、ジャンルの違う音楽の場で演奏しながらもジャズが趣味のひと、他にも音楽を仕事にしている人たちが、仕事を終えると寛ぎにやって来た。

小菊が定休日の夜、将太は久し振りにスキャットを訊ねた。
杉浦シェフに挨拶をして、九時過ぎに来てから閉店間近まで、客としてカウンターに座っていた。
亜樹子が雇った、大阪の音楽専門学校に通うジャズ.シンガー志望だというアルバイトの角倉悠里が、忙しくカウンターとテーブルの間を行き来していた。
将太は、目の前のカウンターを経由してシェフが出すプレートの料理を、悠里が取りに来るまでじっと見詰め、その料理が届けられる先の客まで見届けた。
テーブルの上を見ると、アルコール飲料は明らかにウヰスキーやビールが減り、ワインが目立った。
料理用のプレートも、将太が使用していた器よりサイズが大きくなっているのに気付いた。
フロアの客は、元宮トリオの演奏に集中している客が六割、残りの四割は杉浦シェフの料理を楽しんでいる感じがした。
将太は、悠里がカウンターに持って帰ってきたメニューを見せて貰った。
将太はじっと一行一行、目で読んだ。
茄も胡瓜も、オクラもチーズも、鰯も甘鯛も鮪も、料理名の後に付くフランス語のカタカナ文字や短い文章が、将太の目を引いた。
深夜近くに来る客の半数は、紛れもなく音楽より料理と会話を楽しんでいた。
亜樹子の表情にも態度にも、不満気な気配はなかった。
将太は、スキャットが杉浦シェフの料理で変化しているのを知った。
真顔で水割りを飲んでいる将太に、手の空いた良然がカウンターに出て来て言った。
「谷川くん、どうした?、難しい顔をして。わたしの料理はどう感じたのかな?」
「はい、店って随分シェフの腕で変わるものだと思って……。勉強になります」
「君も頑張っているって、藤森さんから聞いたが、その通りだな。そう言う感性が大切だよ、これからも遠慮なく来て、訊いてくれたらいいよ。和と洋の違いはあったけど、わたしも若いとき藤森さんに教わった。食べに連れて行かれて料理に欠点を言ってみろって、そう言われただろ?。わたしはフレンチだが、和食でも洋食でも、料理人として精進するのは同じだと言われてね。君もわたしの料理に文句をつけてくれ?。藤森さんは期待しておられたよ。小菊だったかな、一度ママと一緒に行かせて貰うよ……」
この夜、良然と亜樹子との遣り取りを目の当たりにし、自分への優しい話し掛けを通して、将太は、親方に対しての思いとは異なる、親しみと尊敬の念を良然に対して持った。
良然のスキャットに対する思いを知った将太は、小菊での自分の役割を真剣に考えようと決心した。
閉店後の後始末が終り、亜樹子に歌のレッスンを受けたいという悠里を店に残して、修司は良然と一緒にスキャットを出た。
良然が将太を誘った。
「今夜は、まだいいのかい?」
「はい、いいです」
「一軒、付き合ってくれるか?」
「はい。でも、もう馴染みの店を見付けられたんですか?」
「いや、旧い友だち、と言うより尊敬する先輩だな……。最後に会って十年くらい経っているかなぁ、一緒にいた当時、若手ではトップのバーテンダーと言われていたひとなんだよ。そのひとの店があるんだ。京都に来たら一度は顔を出せと言われていてね。あっという間に十年だよ」
「そうなんですか、近いんですか?」
「この通の北の方だ、先日、昼間に行ったら閉まっていたよ」
くすんだベージュ色の壁に、黒褐色の格子のガラス.ドアと、日除けのガラリで覆われたアーチ型の窓がひとつある、間口の狭い店だった。
青黒い鋳鉄のブラケットにぶら下げられた色褪せた円形の木製ボードには「BUOY」と彫刻されていた。将太が言った。
「杉浦シェフ、何て読むんですか?」
「ああ、ブイだよ、浮標、海に浮かぶ浮きのことだよ……。それと、仕事を離れたら杉浦でいいよ」
良然は電球の輝きが、カウンターの上に点々と見える店内をガラス越しに覗いた。
カウンター席だけの店内は空席だった。
「将太くん、そう呼んでいいな?、空いているようだ、入ろう」
良然が先に入った。
「こんばんは、よろしいですか?」
店内には若いバーテンがひとり居た。
「ええ、どうぞ、いらっしゃいませ」
そう言うと、湯気の立つお絞りとコースターをカウンターに二つ並べて、笑顔でふたりの客を見て無言で注文を待った。
良然が、何にするか問うように将太の顔を無言で見た、将太が言った。
「それじゃ、僕はカティサークを」
良然が言った。
「いいね、ブイだから帆船を選んだか、分かり易い発想だ。わたしはバルヴェニーを」
バーテンが聴いた。
「十二年から二十五年もありますが?」
「二十五年がありますか?、じゃあ、わたしはそれで」
「承知しました、カティサークも二十五年にしましょうか?」
将太が言った。
「そんなのがあるんですか?、十二年は飲んだことがありますけど……」
「十八年もありますよ、カティサークはマスターも気に入っていましてね」
良然が言った。
「いい機会じゃないか、それにして下さい」
「かしこまりました」
若いバーテンが準備を始めたときだった。
狭いカウンターの奥から白のカッターシャツにネービー.ブルーの蝶ネクタイを締め、白髪をショート.カットにした初老のバーテンが店に顔を出した。
カウンターの端に立ち、ほんの少しの間、それとなく良然と将太を見ていた……。
わざと思いついたように、少しおどけて言った。
「間違っていたらごめんなさいよ、良然くんじゃないか?」
良然は椅子から下りて言った。
「お久し振りです垣田さん、ご無沙汰をしております。遅くなりましたが、やっとお目にかかることが出来ました」
垣田と呼ばれたバーテンが言った。
「本当に久し振りだね、十年以上かい?」
「そうです、保養所に勤める直前でしたから……」
「そうか、今夜はお弟子さんと一緒かな?」
「いえ、藤森さんのお弟子さんですよ。谷川将太くんと言います」
将太も椅子を下りて丁寧に挨拶をした。
垣田清輝と良然は、舞鶴のホテルにいた頃に知り合った。
清輝は父親が急な病で亡くなり、急遽京都の親元に帰った。三十年以上前のことだった。
後に、良然が独立をしようとしたときも、企業から引き抜きの話しがあったときにも、良然は清輝に相談した。
清輝は舞鶴の良然の元にやって来て、相談に乗ってくれた。
「垣田さん、お世話になりながら、ご報告が遅れました」
「なんだい、三度目の相談かい?」
「いやいや、その節は本当にお世話になりました。実はあの保養所が昨年潰れまして、会社がおかしくなりましてね、解雇ですよ。ぶらぶらしていた処に、この谷川くんが藤森さんに、いい話しを持ってきてくれまして、ひょんなことから京都で仕事をすることになりました」
「いやぁ、懐かしいね。わたしも紹介させて貰おう?。これは息子の裕司です、京都にいるのなら宜しく頼むよ?」
グラスにウヰスキーを注ぎ終えていた若いバーテンが挨拶をした。
「垣田裕司です、始めまして、宜しくお願いします」
良然と将太も挨拶を交わした。
良然が言った。
「垣田さん、先日、店の前まで来たんですが、閉まっていましたのでご挨拶が遅れてしまいました、ご勘弁ください?」
清輝が言った。
「ああ、玄関は反対側だ、ここは本来裏口だった所だから、いいよ、気にしなくても、それで何処で働くんだい?」
「ええ、この通を下がった所です、路地を入りますがスキャットというジャズ.クラブなんです。ご存知のように、わたしもジャズが好きなものですから、藤森さんもその辺りで、わたしを思い出して頂いたようなんです……」
「そうだったね、あの膨大な数のレコードはどうしたんだい?」
「はい、全部実家のお寺にあります、もう一度聞く機会があるかどうか?」
「良然くんはそろそろ五十か……ご家族は?」
「いえ、縁がありませんでね……」
「仕事に入れ込み過ぎだな、これからでも遅くはないよ。君は若振りだし、なんなら探して上げてもいいよ?」
「いえいえ、其処までして頂いたら罰があたります。今までのお返しも出来ていませんから……」
良然は、そう言いながら将太を見た。
カティサーク二十五年を一口飲んだところだった、将太が言った。
「マスター、杉浦さんは、きっと京都でいいひとと巡り合うことができると思います、わたしも応援しようと思っていますから……」
清輝が言った。
「そうだね、藤森さんとも長くお会いしていないがお元気かな?。何かの縁だね、良然くんにとっても師匠みたいなものだから、兄弟弟子って処だ。宜しく面倒を見てあげてくれよ?」
将太が言った。
「はい、わたしも色々教えて貰うことが多いですから、お礼に頑張ります」
清輝が言った。
「裕司、この人はそう言うひとだ、乾杯だな……。わしにもカティサーク、谷川くんと同じやつでな……」
良然が言った。
「ありがとうございます。カティサーク、相変わらずお好きなんですね?」
「ああ、舞鶴、港、船、カティサークだ。味より銘柄なんだ、安直な拘りだよ……」
裕司も一緒に乾杯をした。
裕司が言った。
「マスター、スキャットと言えば、丈ちゃんもよく行くって言っていたね?。あそこのことかな?」
清輝が言った。
「ああ、丈晴くんが、とてもいいママさんだって言っていたなぁ……」
将太が言った。
「ママはわたしの叔母なんです。わたしもこの前まで手伝っていたんです。丈晴さんと言われるのは、この前結婚された相馬さんですか?」
裕司が言った。
「そうです、ご存知ですか?。テーラー相馬は直ぐ其処ですよ、父親同士もわたし達も幼馴染なんです」
将太が言った。
「同じ通で仕事をしていても、あまり接点はないんですが、知人を通してお会いしました。あの、裕司さんはお幾つなんですか?、わたしは二十五なんですけど……」
裕司が言った。
「若く見られますけど、三十路に入っているんですよ、親父の傍にいるから何時までも親離れできなくて、寝んねなんですよ……」
良然が言った。
「いや、店に入って来たときは様になっていましたよ。それより、垣田さんはもうカクテルはやられないんですか?」
「ああ、此処では十年くらい前までは、やっていたんだがね……。この店構えでは若いひとは来ないし、息子はやろうって言っているんだが……」
良然が言った。
「是非やってくれませんか?、今夜久し振りにお会いして思いました。お元気だし、往年の雰囲気は失われていませんよ。スキャットに来る若い人を紹介したいんです。グループで本格的にウヰスキーを楽しみたいお客さんには、クレインという店をママが紹介しているんです、勿論、客筋は選ばせて頂いています。しかし、若い女性が独りとかカップルには、垣田さんカクテルを楽しんで貰いたいんですよ、安心できますしね。それと、僕らが垣田さんに教わった、バーテンダーという仕事に対する熱いパッションと、カクテルに関するあらゆるスキルを、息子さんに伝えてあげて欲しいですね?」
裕司が言った。
「杉浦さん、ありがとうございます。クレインと言えば、さっき話した相馬くんから聞いたんですが、鶴間さんはテーラー相馬のお得意さんで懇意なんです。
クレインとスキャットのお客さんは、共通のひとが結構おられて、その人たちはみんな紳士で大人だと聞いています。杉浦さんにそう言って頂けるのなら、マスター、やってみようよ?、僕も教えて欲しいし?」
清輝が手に持ったグラスを見ながら言った。
「良然くん、えらいお土産を持ってきたなぁ、うーん……、裕司、考えてみるか?。わしも三年もすれば古稀だ、もうひと踏ん張りか……」
将太が言った。
「マスターはそんなに見えませんよ。杉浦さんもそうですけど、十歳は若いですよね?」
良然が言った。
「将太くん、カティサーク二十五年が君には強すぎたかな……。酔いが早くて視力が低下しているんじゃないか?」
四人は楽しそうに笑った。
話しが弾み、時計は十二時を回っていた。
いちばん若い将太は、みんなに可愛がられているようで居心地が良かった。

修司と美智代が働く『幸』は順調に行っていた。
クレインでは相変わらず沙紀が元気に働いていた。
週末になると、下請けで設計図面をひいている華奈も手伝いに来ていた。
東山が淡い緑の新芽で覆われる頃、スキャットはランチ.タイムに店を開けるようになっていた。
路地にあるにも関わらず、口コミで来る若い女性で満席になり、限定数のミニ.フレンチ.ランチ六百円は毎日完売だった。
恋愛を謳歌している雅人と繭子は、スキャットやクレイン、幸や小菊をよく訪れた。
『小料理小菊』の暖簾が『割烹小菊』に変わり、智美が動けることで、二階にも客を上げるようになった。
静乃の京の家庭料理に、将太が新しい料理を加えた。
小菊の店内は、智美と静乃の仄々とした遣り取りが、客を和ませていた。
磯崎の事業がミュージシャンの間に広まり、各地で音楽愛好者の資産家が協力を名乗り出た。
静香は磯崎に付き添って各地を回り、木島と川崎も新たなスタジオが出来ると演奏をしながら、拠点のPRと定着のために奔走して、プランは順調に進捗していた。
木島と川崎はプロ.ミュージシャンとして演奏していた頃より、妻を働かせることなく、家族を養えるだけの予想外の給与を手にしていた。
ショット.バー「BOUY」は、改造して奥にカウンターを伸ばし、十人分の椅子を準備して六十七歳と三十二歳のバーテン親子がカウンターに立っていた。
ふたりのバーテンダーは、夫々の客を受け持ってシェイカーを振り、ステアをし、ビルドやブレンドを駆使してブイ.オリジナル.カクテルで客を喜ばせていた。
丈晴は、よく瑠璃を連れてブイを訪れた。
良然が聖護院のワンルーム.マンションから亜樹子のマンションに移ったと、雅人と繭子が将太から聞かされたのは、前の週の半ばから小雨が降り続き、テレビの中では、気象予報士が、管区気象台が近畿全域の入梅を発表したと伝えた週末のことだった。
亜樹子の前にこれからの人生を共に歩むひととして良然が現われ、互いに思いを受け容れたことに、雅人と繭子はこころから喝采を送った。
ふたりがスキャットで出会い、解散した陣内トリオの〈singing in the rain〉を聞いてから、まだ一年も経っていなかった。

節子の焼いたチーズ.パンと、篤史が挽いて淹れてくれたコーヒーの香が、ダイニングルームに満ちていた。
月始に実柚が恭司に嫁ぎ、宇都宮家は以前より、全体に静かな雰囲気に包まれていた。
節子が少し早めに庭に咲いた紫陽花の花びらを、ガラスの器に浮かせてテーブルに飾っていた。
二杯目のコーヒーを前にして、雅人が指で花びらをつつきながら、両親に亜樹子の喜ばしいニュースを話し始めたときだった。
離れの間から食堂に繋がる廊下に、緩やかな衣擦れの音が聞こえた。
絹江の姿が食堂に現れ、普段どおりに「おはよう」と言ってから、食卓の傍まで来て、立ったまま普段と同じ口調で言った。
「おじいさんが、向こうに旅立ったわ……」
篤史と節子と雅人は、互いに顔を見合わせた後、束の間無言で絹江の顔を注視した。
絹江は普段と変わらない穏やかな表情だった。
絹江は紫陽花を連想させるような、抑えた藤色の小紋の単に、明るい灰緑色に焦げ茶の線のある半巾帯を締めて、見る者に明るい印象を与えた。
夫を見送ったばかりの老妻に相応しい着物なのだろうか?
節子は絹江の心中を図りかねていた。
篤史は落ち着いた口調で言った。
「お母さん、何時ごろなんだい?」
絹江はゆっくりと喋った。
「分からないわ、昨夜床についてから一度も目を覚ましていないもの……」
「分かった、吉永先生に来て貰らわないといけないね……」
篤史は慌てることもなく席を立ち、近所の掛かりつけの医師に連絡をとるために、廊下にある電話機に向かった。
雅人の視神経は家族三人の動きをスロー.モーションで脳に伝達し始めていた。
からだは椅子と密着したかのように微動だにせず、意識だけが目の前の動きを記録していた。
降り続いている雨の滴が、換気扇のステンレス.フードに当たって食堂に不規則なリズムで響いた。
二日後に迫っていた優司の誕生日は、家族だけではなく、新しくできた親戚や知人に見送られる遠い旅立ちの日に代わった。(了)     
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