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第三十七話 料理人の誇りと二種類のパイ
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商人グリードが去った後、彼の残した噂は良くない形で街へと伝わった。
「森の食堂には金儲けの種になる秘密のレシピがある」
「あの店の料理人をうまく丸め込めば一財産築けるに違いない」
そんな欲望に満ちた噂話が食い詰めたならず者や悪賢い商人たちの間で囁かれるようになったのだ。
その結果陽だまり亭にはこれまでとは質の違う客が訪れるようになった。
ある者は湊に甘い言葉で近づきレシピを聞き出そうとする。
またある者は店の珍しい食材を盗もうと画策する。
中には力尽くで店を乗っ取ろうとする乱暴者まで現れた。
しかし彼らの企みはことごとく失敗に終わった。
なぜなら陽だまり亭には今や最強の用心棒がいるからだ。
オークの兄弟、ボルとグル。
彼らは湊に恩義を感じており店の平和を乱そうとする者には容赦しない。
その丸太のような腕でつまみ出されればどんな屈強なならず者も赤子同然だった。
そんな騒がしい日々が続いていたある日のこと。
一人の男が店を訪れた。歳の頃は五十代。痩せているがその目つきは鋭く背筋はぴんと伸びている。
彼は王都で一番と謳われる大食堂の料理長アントンと名乗った。
「お前さんが噂のミナトか。単刀直入に言おう。儂と料理で勝負しろ」
アントンは陽だまり亭の噂を聞きつけその真偽を確かめるためにやってきたのだ。
彼は自分の料理人としての腕とプライドに絶対の自信を持っている。森の田舎料理人に負けるはずがないと。
もし自分が勝てば陽だまり亭のレシピを全て譲り受ける。それが彼の条件だった。
湊はその挑戦を受けて立つことにした。
ただし勝敗を決めるのはアントン自身ではない。
「俺たちの料理を食べたお客さんがどちらを美味しいと思うか。それで決めましょう」
それが湊の提案だった。
勝負の題目は「パイ料理」。
アントンは自信満々に頷いた。パイ料理は彼の最も得意とする分野の一つだったからだ。
彼は持参した最高級の食材を取り出した。王国貴族に献上される子羊の肉。希少な黒トリュフ。そして何種類もの秘伝のスパイス。
彼はそれらを使い技術の粋を凝らした「子羊と黒トリュフの贅沢パイ」を作り上げた。
その芳醇で複雑な香りはそれだけで人の理性を失わせるほど魅力的だった。
一方湊が作ったのはいつもの素朴なポットパイだった。
森ドリの肉と冬に甘みを増した根菜。ムーの乳とバターで作ったクリーミーなホワイトシチュー。
特別な食材は何一つ使っていない。
ただそこには食べる相手の体を気遣い心を温めようとする湊の愛情だけがたっぷりと込められていた。
二つのパイがテーブルに並べられる。
審査員はその日店にたまたま居合わせた常連の魔物たちだ。
彼らはまずアントンの豪華なパイを食べた。
美味しい。間違いなく美味しい。
これまで食べたことのない洗練された味わい。一口食べるごとに幸福なため息が漏れる。
次に彼らは湊のいつものパイを口にした。
サクッとしたパイを崩すと立ち上る温かい湯気。
口に運ぶ。
……ああ、いつもの味だ。
派手さはない。驚きもない。
けれどその一口は冷えた体をじんわりと温め疲れた心を優しく包み込んでくれる。
それは家に帰ってきた時のような絶対的な安心感に満ちた味だった。
魔物たちは顔を見合わせた。
どちらが優れているかなど比べるまでもない。
彼らは皆黙って湊のパイの皿を綺麗に空にした。
そしてアントンのパイにはもう手をつけようとはしなかった。
それが彼らの答えだった。
アントンはその光景を呆然と見つめていた。
自分の技術とプライドが目の前で打ち砕かれた瞬間だった。
彼は料理人として最も大切なものを忘れていたのだ。
料理とは技術を誇示するものではない。食べる相手を思いやる心そのものなのだと。
料理長の完敗だった。
「森の食堂には金儲けの種になる秘密のレシピがある」
「あの店の料理人をうまく丸め込めば一財産築けるに違いない」
そんな欲望に満ちた噂話が食い詰めたならず者や悪賢い商人たちの間で囁かれるようになったのだ。
その結果陽だまり亭にはこれまでとは質の違う客が訪れるようになった。
ある者は湊に甘い言葉で近づきレシピを聞き出そうとする。
またある者は店の珍しい食材を盗もうと画策する。
中には力尽くで店を乗っ取ろうとする乱暴者まで現れた。
しかし彼らの企みはことごとく失敗に終わった。
なぜなら陽だまり亭には今や最強の用心棒がいるからだ。
オークの兄弟、ボルとグル。
彼らは湊に恩義を感じており店の平和を乱そうとする者には容赦しない。
その丸太のような腕でつまみ出されればどんな屈強なならず者も赤子同然だった。
そんな騒がしい日々が続いていたある日のこと。
一人の男が店を訪れた。歳の頃は五十代。痩せているがその目つきは鋭く背筋はぴんと伸びている。
彼は王都で一番と謳われる大食堂の料理長アントンと名乗った。
「お前さんが噂のミナトか。単刀直入に言おう。儂と料理で勝負しろ」
アントンは陽だまり亭の噂を聞きつけその真偽を確かめるためにやってきたのだ。
彼は自分の料理人としての腕とプライドに絶対の自信を持っている。森の田舎料理人に負けるはずがないと。
もし自分が勝てば陽だまり亭のレシピを全て譲り受ける。それが彼の条件だった。
湊はその挑戦を受けて立つことにした。
ただし勝敗を決めるのはアントン自身ではない。
「俺たちの料理を食べたお客さんがどちらを美味しいと思うか。それで決めましょう」
それが湊の提案だった。
勝負の題目は「パイ料理」。
アントンは自信満々に頷いた。パイ料理は彼の最も得意とする分野の一つだったからだ。
彼は持参した最高級の食材を取り出した。王国貴族に献上される子羊の肉。希少な黒トリュフ。そして何種類もの秘伝のスパイス。
彼はそれらを使い技術の粋を凝らした「子羊と黒トリュフの贅沢パイ」を作り上げた。
その芳醇で複雑な香りはそれだけで人の理性を失わせるほど魅力的だった。
一方湊が作ったのはいつもの素朴なポットパイだった。
森ドリの肉と冬に甘みを増した根菜。ムーの乳とバターで作ったクリーミーなホワイトシチュー。
特別な食材は何一つ使っていない。
ただそこには食べる相手の体を気遣い心を温めようとする湊の愛情だけがたっぷりと込められていた。
二つのパイがテーブルに並べられる。
審査員はその日店にたまたま居合わせた常連の魔物たちだ。
彼らはまずアントンの豪華なパイを食べた。
美味しい。間違いなく美味しい。
これまで食べたことのない洗練された味わい。一口食べるごとに幸福なため息が漏れる。
次に彼らは湊のいつものパイを口にした。
サクッとしたパイを崩すと立ち上る温かい湯気。
口に運ぶ。
……ああ、いつもの味だ。
派手さはない。驚きもない。
けれどその一口は冷えた体をじんわりと温め疲れた心を優しく包み込んでくれる。
それは家に帰ってきた時のような絶対的な安心感に満ちた味だった。
魔物たちは顔を見合わせた。
どちらが優れているかなど比べるまでもない。
彼らは皆黙って湊のパイの皿を綺麗に空にした。
そしてアントンのパイにはもう手をつけようとはしなかった。
それが彼らの答えだった。
アントンはその光景を呆然と見つめていた。
自分の技術とプライドが目の前で打ち砕かれた瞬間だった。
彼は料理人として最も大切なものを忘れていたのだ。
料理とは技術を誇示するものではない。食べる相手を思いやる心そのものなのだと。
料理長の完敗だった。
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