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灰色の中で
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これはまだ、私たちが灰色の施設で暮らしていた頃の話だ。
私が初めて見た景色は、灰色の壁だった。
毎日の実験と検査。お薬を飲んだり、体に変な機械をつけられたり。他にも、ちょっと痛いことも。腕や足なんか縫い跡や注射跡だらけだし、薬の副作用とかいうやつで体調が悪いこともしょっちゅうだった。
そんな日々が、私にとってのあたりまえ。
「……つまんないなあ」
今日も今日とて、脱ぎきしやすい水色の実験服に身を包み、私は真っ白なベッドに身を投げ出した。灰色の壁には何もいないし、窓の向こうの景色もいつもと変わらない木々が立ち並ぶばかりだ。
見上げた天井も灰色で、その閉塞感に一つため息をつく。投げ出した左腕は真っ白な毛におおわれていて。この腕は生まれつきだ。ここにいるほかの子にはないものだけど、物心ついた時からこうなんだからどうしようもない。外から来た子には人外と同じだなんて怖がられたりするから、普通の人から見たら変なのかもしれないけれど。
真っ白で飾り気のないテーブルの上には、今日の朝食が乗っていた空っぽのお皿と読みかけの本。
「んー……ここ、何回目だっけなあ」
起き上がって本をぱらぱらとめくってみても、もう何度か読んだページばかりだった。これまた白い本棚にはそれなりの本が詰まっているけど、ここでの暇つぶしは読書くらいしかないから、読み終わった本しかそこにはありゃしない。本棚の上にはボードゲームやトランプなんかもあるが、一人でやっても詰まらないことこの上ない。
「またゼロに新しいの入れてもらわなくっちゃ」
ゼロ、というのは私に毎朝の健康観察のお部屋に案内してくれたり、私が頼めば大体どんな本でも持ってきてくれる猫の獣人だ。前に少し耳にしたことがあるが、あれはここの職員というやつで、どうも私の担当らしい。ここでは二人の子供につき一人の担当職員がつくらしいが、現在彼女が担当しているのは私だけだった。
前には私以外の子もいたけれど、いつの間にかいなくなっていた。多分実験の途中で死んだか何かだろう。きっと私もいずれそうなるんだろうと、隣人がいなくなるたびに思うのだ。この部屋の二つ目のベッドは空っぽで、かつての隣人の面影などどこにもない。あの子はどんな子だったっけ。それすらもうまく思い出せないほどに、私の記憶からは薄れていた。
「ま、どうでもいいか。ゼロ、まだかなあ」
死んだやつのことなど、どうでもいい。人間なんて、簡単に死んでしまうものなのだから。ゼロはそろそろ来るはずだった。いつもこのくらいの、私が朝食を終えて暇を持て余しているころにやってくるのだ。
ここでは、時というものを確認するすべがない。前にどこかの本で『三時のおやつ』という単語を見たことがあったのだが、そもそも三時ってなんなんだ。時の名前らしいけど、いったいいつなんだろう。ひょっとして、今だったりするんだろうか。
なんてぼんやり考えていたら、ガチャンと後ろのほうから音がした。それは扉の鍵が開いた音で。きっとゼロだ。私の朝食のお皿を片付けに来たんだろう。
「ゼロ。よかったー、来ないんじゃないかと……」
私はそんな言葉を口にしながら扉が開く音と同時に振り向いたが、そこでかたまってしまう。
「誰……?その子」
見慣れた白衣姿のゼロの隣には、私と同じくらいの少女がいた。
肩にかからないくらいの黒髪、私と同じ水色の実験服に、白くて細い腕と足。そのところどころには包帯がぐるぐると巻かれていて、ほんのり血がにじんでいた。
そして、何よりも私の目を引いたのは、彼女の瞳だった。吸い込まれてしまいそうなほどに真っ黒で、光なんてものは一切映っていない。まるで、死んでいるみたいだ。
私がその子に目を奪われていると、ゼロが「ごめんね、急に」と口を開く。
「この子、昨日ここに来たんだけど、部屋の空きがここしかなくて。66、急なんだけど、今日からこのこと相部屋ってことで、いいかな?」
かがんで私と目線を合わせながら、困ったように眉を下げながら。ゼロは尋ねた。私に断る権利があるわけでもないのに、彼女はいつもこうやって尋ねるのだ。それに私が首を横に振ったことは一度もない。どうせ、断っても結果は変わらないんだろうから。
その代わりにいつも、私はこくんと頷くのだ。
「うん。じゃあ今日から、二人はここで相部屋ね。それじゃあ、私はほかの仕事があるからもう行くよ。66、この子のこと、よろしくね」
ゼロはそれだけ言って、食器を持って部屋を出て行った。重たい扉がきいっと音を立てて閉まり、私は新入りと二人きりになる。
「えっと、何か聞きたいこと、ある?」
扉が閉まるのをぼうっと見ていた彼女に、私は取り敢えず尋ねてみることにした。私の声にびくりと肩を揺らし、恐る恐るといった様子で振り返る。
「……っあ、あ、え、えと、その……」
話すことが得意ではないのか、どもりながら目を伏せる。その視線の先にあるのは、私の服に刺しゅうされている66の数字だった。
もしかして、これが気になるのかな。試しにちょっと裾を持ち上げてみると、それを追うように視線が動く。
「これが気になるの?」
そのまま聞くと、小さく彼女は頷いた。
「これね、いや、この数字はね、しきべつばんごうって言うんだって。君にもあるよね。ほらそこ、服の端っこ」
彼女は服の裾を持ち上げ、その数字をまじまじと見つめる。そんなに珍しいものではないが、ここに初めて来たのならこの反応もおかしくはないのだろうか。そして、ひとしきりそうした後、どこか納得したように「そっか」と呟いた。
「えっと、この部屋、案内するよ」
いつまでも突っ立たせておくわけにもいかず、私は75にトイレやお風呂の場所を教えてあげた。おもちゃ箱にしまわれたままだったボードゲームやら何やらも紹介したのだが、彼女は自由帳とクレヨンがお気に入りらしい。せっかく相手ができたと思ったんだけど、それは見当違いだったみたいだ。
彼女は私と言葉を交わすどころか、目すら合わせずに、黙々といつも何かを描いていた。
「何描いてるの?」
「……わかん、ない」
「そっかあ」
時々言葉を交わすことはあっても、それはいつも続かなかった。
そんな私たちに転機が訪れたのは、とある夜のことだった。
「……う、ううん……ん、んー……」
眠れない。それは、じくじくと痛む腕のせいで。
今日の実験でつけられた左腕の切り傷はだいぶ深かったのか、数時間たった今でもまだ痛むのだ。一応軽く処置はされたけれど、それだけではとても足りているとは思えない。
「うう……んー、んん……」
眠ろうとは何度も挑戦するものの、痛みと妙に冴えてしまった目のせいで眠れやしない。部屋の明かりはついておらず、真っ暗闇の中で75の安らかな寝息だけがすやすやと響いている。起こしちゃ悪いかな。そんな考えからか、私はベッドから降りた。
水で流せば少しはよくなるかもしれない。お風呂に向かおうと足を踏み出した、その時だった。
「うあっ……う、いってて……」
何かにつまずいたのだろう。私は冷たい床に倒れこむ。いつもなら左手をついてすぐに起き上がれるのだけど、使えないせいで右腕ごと固い床に打ち付けてしまった。左腕ほどではないものの、こっちもじんじんと痛い。
ああ、早く起き上がらなくちゃ。75が起きてしまう。右の手のひらをついて、起き上がろうと、した。でも、できなかった。
「……っ、ぐ……無理、かなあ」
これはどうにも、右腕も重症らしい。体重をかけるだけで走った鈍い痛みに負けて、私はなすすべなく床に崩れ落ちた。誰かに肩でも借りるか、持ち上げるかしないと起き上がれそうにないな、こりゃあ。仕方ない。朝まで床で待つとしよう。
冷たい。ほっぺたに伝わってくるのは、無機質な冷たさで。コンクリート製の床に一人横たわるというのは、どうにも退屈で、少し寂しいものだった。
こんな夜にこんな冷たい場所に体を預けていれば、思考なんてものがいい方向に向かうはずもなく。このままずっと夜なんじゃないかとか、誰も助けてくれないんじゃないだろうかとか。永遠にこの暗闇にとらわれてしまうんじゃないだろうか、とか。いやな考えばかりが頭に浮かんでは脳内をそればかりが支配していく。
気が付くと私は、柄にもなく、泣いていた。
いや、泣くって程じゃないかもしれない。ちょっと視界がうるんだ、それだけのことだった。
それだけ、のはずだった。
「……泣いて、るの……?」
気が付くと、75が目の前に立っていて。目が慣れたのか、困惑したような顔が見えた。
きっと起こしてしまったんだろう。ああ、早く取り繕わなくっちゃ。
「あ、いや、何でもないよ。起こしてごめん。今立つから……っ」
早口でそう言ってから、立ち上がろうとした途端。息をひそめていた痛みが鋭く両腕に走る。体勢を崩して再び床に倒れこむ……はずだった。
「わわ、あぶ、ないよ」
冷たい床の代わりに私を受け止めたのは、暖かな75の腕だった。さらさらとした布の感触は、その腕に巻かれた包帯のもので。
「よし、よし。だいじょうぶ、だいじょうぶ、だよ」
尋ねる間もなく、頭の上に降ってきたのは髪の毛を押しのける柔らかな感触。頭をなでられているのだと実感するまでに、そう時間はいらなかった。
初めて、だった。そんなことを誰かにされるのは。
加えて彼女の言葉が、声が。私の耳に入る度に、何かを溶かしていく。私の中の何かが、溶けていく。体の奥からこみあげてくるものを抑え込むのも忘れて、私はただ。
君の体温に包まれていた。
どのくらいそうしていただろう。
気がつけば、もう涙はどこかへ消えていた。75もそれに気が付いたのか、私の頭をなでていた手を止める。
「あ。落ち、着いた……?」
私はそれに、頷き一つで答える。75はほっとしたように息をつく。
「どうして……?」
顔を上げて尋ねると、75はちょっと恥ずかしそうに眼をそらす。
「いや、なんか、泣いてるみたい、だったから。こうしたら、落ち着く、かな、って……」
「昔、お母さんが、僕が泣いてたら、よく、こうしてくれた、から」
「落ち着いた、なら、よかった」
75はふにゃりと口元を緩ませた。懐かしむような眼の先にいる『お母さん』ってのは誰なんだろうという疑問を飲み込んで。私は口を開く。
「……ありがとう」
あまり口にしない言葉だ。そもそも使う機会がめったにないものだから。でも、ここまでされて言わないわけにはいかないのだ。少しだけ、また何かが溶けたような気がした。
「どう、いたしまして」
75はまたさっきの顔をした。今気が付いたけれど、これって笑っているんだろうか。今日まで無表情で過ごしてきた彼女だったが、ちゃんと笑えるらしかった。
「もう、ねよっか。あ、立てる……?」
75は立ち上がり、心配そうに私の顔を覗き込む。
もしかしたらもう立てるかもしれないと少しの希望にかけてみたものの、やっぱり痛みには勝てなかった。
「いや、無理そうかな」
仕方なく75の肩を借り、私はどうにか立ち上がる。それからベッドまでそのまま歩き、寝転んだ。柔らかな掛布団が私を受け止めてくれる。そのまま布団をかぶり、目を閉じようとした時だった。
「お、おやすみ……」
ふと、隣のベッドから小さくそんな言葉が聞こえた。
「おやすみ」
私もそっくりそのまま、それを返してやった。こっそり布団の隙間からのぞいた君の顔は、ひどく嬉しそうだった。
この日から、私たちの距離は縮まった。
会話をすることも増えたし、一緒にカードゲームをしたこともあった。
でも、まだ。私と君の間にある微妙な壁は、残ったままだった。
そんな日々を送っていた、ある日のこと。
お昼の後の少し長めの実験を終え、ゼロに連れられて私は部屋に戻ってきた。今日の実験は特に痛くもなく、ただこの左腕で硬いものを握りつぶすだけのもの。周りにいた人間たちはひどく驚いていたようだったが、別に大したことじゃない。ああいうのがずっとならいいのにな。なんて考えながら部屋に足を踏み入れたが、そこに75の姿はなかった。
夕食の固形物は私の分だけが残されており、ついさっきまでそこにいたのか、描きかけの自由帳がテーブルの上に広げてある。窓の外はすっかり日が落ちていて、うっそうとした森が広がっていた。
どこに行ったんだろう。
「おーい、75ー?」
呼びかけてみるが、返事はない。この部屋から実験以外で出ることはできないから、おそらくお風呂かトイレなんだろうけど、耳を澄ませてもそれらしき音は聞こえてこなかった。
「75-?どこー?」
そう声をかけながら、ベッドの下やテーブルの下。掛布団をひっくり返してみたり。いろんなところを探してみたが、そこには埃の一つも転がっていなかった。仕方なくもう一度耳を澄まし、何か音がしないかと確かめてみると、変な音が耳に入ってくる。
はあ、はあ、ひゅう、ひゅう……。
なんだろう、これ。……呼吸音?あれ、これ、なんか……。
嫌な予感がする。心臓がどくどくと脈打つ感覚。
「75っ……!」
気がつけば、私は走り出していた。耳に全神経を集中させながら、音の出どころへ一直線。
お風呂につながる洗面所の扉を、勢い良く開けた。ばん、と派手な音が鳴る。
そこには、床にうずくまり、心臓のあたりをぎゅっと抑えながら、ぜえぜえと肩で息をする75の姿があった。
「な、75.……!だ、大丈夫……?」
75は私の声で顔を上げると、口を開いた。
「っは、っろ、く……ひゅ、は、っは……」
きっと何かを話そうとしたんだろう。でも、彼女の口から漏れ出すのは苦しそうな呼吸だけで。私の名前を呼ぼうとしているのか、何度も『ろく』と途切れ途切れに口にする。
そんな姿が、見ていられなかったんだ。
「無理にしゃべんなくていいから……!」
私はそう言いながら、彼女を抱きしめた。どうしたらいいかなんて、だれかと接した経験の少ない私にはよくわからない。だから、君をまねることにした。
あの夜に、75が私にしたように。
右手を75の頭に伸ばし、優しく撫でる。それから、彼女が口にしたのとおんなじ言葉を。
「大丈夫、大丈夫だよ。よしよし」
しばらくそうして頭を撫で続けていると、少し落ち着いたのかまだ荒い呼吸ではあるものの、私に体を預けてきた。寄りかかってきても、あんまり重さは感じない。私の腕の中に納まる彼女は、私と背はさほど変わらないのになんだかずいぶん小さく見えた。
そうして私は、しばらく75の頭をなで続けていた。
ふと、今までおとなしく腕の中に納まっていた75がもぞもぞと動き出す。頭に乗せていた手をどけてやると、一つ息をついてから顔を上げた。真っ黒な瞳が私を覗き込む。
「あ、66……」
まだうまく口が回らないのか、私の名前だけを呟くように口にした。
「落ち着いた?」
「……うん」
75はだれかと話すのが苦手らしくよくどもってしまうのだが、最近はだいぶ流暢に話せるようになっていた。私の質問に頷きを返した後でも、彼女は私の腕から逃れる気はないようで。ふかふかの真っ白な毛に覆われた左腕は触り心地がいいのか、彼女は無言でそれを撫でたり、抱き寄せて顔をうずめたりしている。
そんな75の顔をうっかり握りつぶしたりしないように、私はできるだけ左手から力を抜き、細心の注意を払う。そんな私の苦労などつゆ知らず、彼女はしばらくそうしていた。
「……お風呂、まだ、だった」
左手がそろそろ疲れてきたところで、75は不意にそんな言葉を口にした。夕飯は食べ終えた後だったみたいだし、お風呂に入ろうとしてああなったのだろうか。少し聞いてみたくなったけれど、やめておくことにした。なんとなく、踏み込むべきじゃないような気がしたから。彼女の真っ黒な瞳の奥は、まだ見えない。
長居してもしょうがない。私は残されていた夕食の存在を思い出し、立ち上がる。
「そっか。じゃあ、先に入っててよ。私、夕飯まだなんだ」
立ち去ろうとする私の服の裾を、75が引っ張った。その口から飛び出したのは、意外過ぎる言葉で。
「お風呂、い、いっしょに、入ら、ない……?」
「……へ?」
ほんのり頬を赤く染めながら、75は尋ねる。ぽかんと口を開けて固まる私に、彼女は「いや、そ、その」と懸命に続けた。
「い、いやだったら、いいんだけど……」
別に、いやだというわけではない。いや、正確には嫌かどうかは入ってみないとわからない。流石に私でもお風呂は基本的に一人で入るものだということくらい知っている。それに、自分以外の他者と一緒にお風呂場に入ったことすら記憶にないほどだ。だから、きっと彼女が言っているのは普遍的なことではないということくらい、すぐに分かった。
いや、もしかしたら……。私のほうがおかしいのか?
ここの外ではだれかと一緒にお風呂に入ることなど普通のことで、何の変哲もないことなのかもしれない。もしそうだとしたら、私は誘いを断った変な奴になってしまうかもしれないのだ。それはよくない。
しばらくそうして考え、私が出した結論は。
「……いいよ。わかった、一緒に入ろう」
申し出を受け入れることだった。よくよく考えてみれば、どうということもない。ただ、いつものお風呂場に一人増えただけ。それ以外はないも変わらないだろう。じゃあ、別にいいじゃないか。と、こんな結論に至ったのだ。
彼女は私の言葉を聞いて、ふにゃりと口元を緩ませて。
「そっか、よかった」
それだけ言って、いそいそと服を脱ぎだした。私たちが着ている水色の服は子供でも脱ぎ着しやすく、職員たちも脱がせやすく着せやすい構造になっており、頭からすっぽりとかぶるようなものだ。
彼女につられて、私もそれを脱ぐ。しゅるしゅると、包帯をほどく音がする。脱ぎ終えてすぐに視界に飛び込んできた75の姿に、私は絶句した。
「そ、それ……」
その細い両腕は、傷だらけだったのだ。
いや、そこまでならおかしなことではない。ここでの実験には傷跡がついてしまうようなものもあり、私の体にだってそれなりにはある。でも、そんなものの比ではなかった。
おびただしい数の傷跡が、真っ白な肌についている。
傷跡だけではない、まだ赤い傷口が口のように開いていたり、治りかけのかさぶたなんかもあった。見ているだけでも痛々しくて、鳥肌が立ってしまうほどなのに。彼女はそれを何でもないような顔で見つめていた。
そして私の視線に気が付いたのか、ちょっと言いづらそうに眼をそらす。
「あ、こ、これは……」
「自分で……き、切っちゃった、んだ。あ、ごめん……いや、だった、よね……」
下着姿のまま、目を伏せる75。その表情が、酷く悲しそうなものだったから。
「別に、いやじゃないよ。ほら、私の腕も傷ばっかりでしょ?」
私は自分の腕を見せて、そんな言葉をかける。私の腕も数々の実験のせいで、縫い跡やら傷跡だらけだった。まあ、75ほどではないのだけど。それでも、彼女はどこかほっとしたように口元を緩ませた。
「あ、ほんと、だ……」
「だからいやじゃないよ。ほら、お風呂入ろう」
「う、うん」
私たちは下着を脱ぎ、お風呂場に足を踏み入れた。
お風呂が沸いてからはさほど時間が経っていなかったらしく、湯船の中のお湯はまだ暖かい。シャワーを浴びながら、ちらりと彼女を横目に見る。
真っ白な肌と、細い体。さっきは気づかなかったけれど、太ももにも腕ほどではないがそれなりの切り傷がたくさん刻まれていた。染みたら痛そうなのに、75はシャワーが当たっても声の一つも上げやしない。痛覚というものがちゃんとあるんだろうか。
「……ん?どうか、した?」
私の視線に気が付いて不思議そうな顔を向けた75に、ちょうどいいやと試してみる。
「ちょっとごめんねー」
「……っん!?い、いひゃい……」
試しにほっぺたをつねってみると、ちゃんと驚いた顔をして痛がった。ああ、よかった。
「ごめんごめん。ちょっと気になってさ」
「んー……まあ、いい、けど……」
怒らせてしまったかとちょっとひやひやしていたけど、意外にも嫌な顔すらしなかった。それも疑問ではあったのだけど、ここで聞いてもしょうがない。
私たちは運良く二つあった椅子に腰掛け、頭を洗うことにした。風呂場がそこまで広くないせいで、椅子を縦に並べることになってしまう。困ったな、これじゃあ並んで頭を洗うことができない。
どうしようかなと洗面器に水を注ぎながら考えていると、後ろから「ね、ねえ……」とためらいがちな声がした。
「あの、僕が、頭、洗おうか?」
遠慮がちではあったが、しっかりとした言葉。彼女も私としゃべることに慣れてきたんだろう。
「んじゃ、お願いしようかな」
シャンプーを75に差し出し、さっそく洗ってもらうことにした。誰かに頭を洗われたことなんて記憶にはなく、これが初めてだった。
シャワーで髪の毛を濡らされて、真っ白でふわふわの髪がぴったりと肌に張り付くこの感覚は、あんまり好きじゃない。続いて75の指が頭皮に触れる。緊張しているのか、わしゃわしゃと洗う手は少し震えていた。頭をほぐされるような、妙な感覚。
ああ、これは、何だか。とても……。
意識が、遠のいていくような……。
「……く、ろく……66」
ふと気が付くと、心配そうな75が私の顔を覗き込んでいた。真っ黒な瞳と、目が合った。
「へ?どうしたの?」
ぼんやりとした頭のまま首をかしげると、彼女は「どうした、もなにも……」と口を開く。
「頭、洗い終わって、顔、みたら、寝ちゃってて……」
「いま、起こしたところ」
よかったあ、と息をつく75。試しに髪に触れてみても、泡は残っていなかった。どうやら彼女の言った通り私が寝ている間に髪はもう洗い終えたらしい。
「そうだったんだ」
「気分良くて、寝ちゃったのかも、ね」
75はにっこりと控えめな笑みをこぼし、シャワーを手に取った。
「次は、僕を、洗ってくれる?」
席を取り換えて、今度は私が75の頭を洗う。さらさらの黒髪はシャンプーのせいか、ちょっといい匂いがした。何度か指に通して楽しんでいたけれど、早くしろと目でせがまれたから私はおとなしく彼女の頭を洗ってやった。
「はい、おしまい」
最後にシャワーをもとの場所に戻すと、75はすやすやと安らかな寝息を立てていた。
なんだ、私と同じじゃないか。なんてほほえましく思いながら、私は彼女の肩に手を置いた。
「ほら、75起きて。もう終わったよー」
「ん、んう……?ぼ、僕は、トア、だよ……?」
「へ……?」
寝ぼけ眼の彼女が発した言葉に、私は息を飲んだ。『トア』って、誰だろう。ああでも、僕ってことは、これが、この子の……。
「……んあ、66……。僕、寝ちゃってた……?」
私が固まっていると、トアが目をこすりながら話しかけてきた。
「あ、ああ、うん。寝ちゃってたみたい」
「んー、そっか、あ」
どうにか取り繕ったが、まだ寝ぼけた彼女は疑問にも思わなかったらしい。ボディーソープを片手に「体も、洗っちゃお」と微笑んで見せたのだから。
「んー、いい湯だ、ねえ」
「そうだねえ」
体を洗い終え、二人で湯船につかった。75は機嫌がいいようで、タオルを頭に乗せ、鼻歌なんかを歌っている。ほんのりと赤らんだ頬と濡れた髪から、どうしてか目を離せなかった。
体を洗う時、背中を流しあったりもしたのだけど、正直75の発した言葉が気になってあんまり覚えていない。ただ真っ白で傷だらけの、でこぼこした腕だけが妙に印象に残っていた。
「どうか、した?」
考えすぎていたのだろうか。気が付くと、75が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「いや、ちょっとね」
「ふーん、だいじょぶ、なら、いいんだけど」
ここで話してものぼせてしまうだろうから、私は尋ねるのをやめておく。75はどこか腑に落ちないようだったが、素直に引き下がってくれた。
そこで会話は終わり、風呂場に静寂が訪れる。75が水面を叩く、ちゃぷちゃぷという音がやけに響いていた。
「いーち、にー、さーん……」
いつ上がればいいんだろう、とぼーっとしていたら、不意に75が数を数えだした。どうしたんだろう。カウントダウンをしなきゃいけないような場面ではないだろうし、第一一から順に増えていくんじゃカウントダウンも何ありゃしない。
「ねえ、それ、なんで数えてるの?」
たまらず彼女の言葉をさえぎって尋ねてしまう。75は数えるのをやめ、不思議そうに私に目をやった。
「あれ、知らない?一から、十まで。数えてから、でようって、やつ」
「お母さん、よく言ってたんだけど、なあ」
なんだそれは。まったく聞いたことがない。いや、そもそもお風呂の入り方だなんて誰かに教わるものじゃないだろうに。そもそも、そのたまに出てくるお母さんってのは何なんだ。
言いたいことはたくさんあったけれど、ここでそれを言うわけにもいかず、私は黙って首を横に振った。
「んー、そっかあ」
「じゃあ、いっしょに数えよう。僕の、真似してね」
彼女は私の返事も聞かずに、数を数えだす。
「いーち、にー……」
「……いーち、にー」
75の控えめな声に少し遅れて私の声が続く。よくわからないけれど、このまま十まで数を数えればいいみたいだ。見よう見まねで、私も数を数えていく。
数が増えるにつれて、私たちの声も重なって。
気がつけば、二人の声は一つになっていた。
「「きゅー、じゅう!」」
ただ、数を数えただけなのに。なんだかそれが楽しくてしょうがなくて。
私はいつの間にか笑っていた。75も私につられて笑って。
結局、湯船から上がったのは十まで数えてからしばらくたってからだった。
「ふいー、いい、湯だったねえ」
ぼふんと75がベッドに飛び込んだ。ろくに整えていない布団は更にぐちゃぐちゃなったけれど、どうせこれから寝るんだからどうでもいいものだった。私も75と同じようにベッドに飛び込んでやると、彼女が「わーっ」と楽しげな声を上げる。
「へへ、66も、こういうこと、するんだね」
顔が近い。話せば息がかかりそうなくらいの近く。75はまだ赤い頬でそんな言葉を口にした。
「75には、私がそういう風に見えてたの?」
「んー、なんとなく、ね……」
足元に追いやられていた掛布団を手繰り寄せながら、75は言葉を濁した。どうしたんだろうと見つめていると「あの、さ……」と語りだす。
「……僕の、ことさ、トアって呼んで、くれない、かな?」
「……トア?」
彼女が口にしたのは、先程お風呂場で聞いた単語だった。
「う、うん」
私が思わず聞き返すと、彼女は控えめに頷いた。そして、その言葉で呼ばれるのを待っているように、こちらをじっと見つめている。ああ、やっぱり。
私はずっと、気になっていたことを尋ねてみることにした。
「それってさ、75の、ほんとの名前?」
ずっと、気になっていたんだ。今まで読んできた数々の物語の中の、人間や人外たちはみんな。私にはないものを持っていたから。それは、数字じゃない、ちゃんと意味を持った名前。
両親からつけてもらった、大事な呼び名。それが外にはあるんじゃないかって。
ああ、本当に外にはあったんだ。私の、欲しかったものが。
「うん、そうだけど……。66には、ないの?」
75……もといトアは、困惑したように首を傾げた。きっと外でずっと過ごしてきた彼女にとっては、名前がないということは想像しがたいことなのだろう。
「そう、私にはないの。しきべつばんごうの66しかない」
「そう……なんだ」
トアは何とも言えない顔で頷いて、手繰り寄せた掛布団を被る。どうしたのだろう。私と彼女はまだ同じベッドに寝転がったままだ。
「あ、もう寝るの?ごめんね、変な話しちゃって……」
無言ではあったが、もう寝るのだろうと判断した私は、さすがに同じベッドに入っているわけにもいかずそそくさと抜け出す。私も眠ろうと歩き出したのだが、不意にトアが私の腕を引っ張った。
「どうかした?」
振り返ると、彼女はベッドの上に座っていた。私の腕を握ったまま「えっと、その……」とちょっと口ごもってから続ける。
「あの、今日は、一緒に寝ない……?」
数時間前に私をお風呂に誘ったのと同じように「いやなら、いいんだけど……」付け足した。別にいやだというわけではない。彼女はそこまで寝相が悪くないことくらい、隣で眠る私は知っていた。一緒に寝たってベッドから落とされてしまうことなんてないだろう。別に異論はないんだ。ただ……。
「別にいいけど……どうして急に?」
私が尋ねると、トアは掴んでいた私のもふもふな左腕を抱き寄せ、目を伏せる。
「あ、の……さっきみたいに、急に息ができなくなること、よくあるんだけど……。その時、66がいてくれたらいいなあ、って……」
「だから、だめ、かな……?」
包帯の巻きなおされた彼女の腕は微かに震えており、湧き上がる不安を隠しきれていないようだった。さっきのものが何なのかはよくわからなかったが、あんな風に突然息ができなくなったら不安でしかないだろう。少しうるんだ瞳で見つめられては、断ることなんてできない。
「わかった。いいよ、一緒に寝よう」
「あ、ありがとう……!」
私が承諾するとトアは途端にぱあっと笑みを浮かべ、私の腕を嬉しそうにベッドの中に引き入れようとする。そこで私は彼女の座るベッドの上に、枕が一つしかないことに気が付いた。
「ちょっと待って、枕持ってくるから」
ぐいぐいと引っ張っていた彼女の手を言葉で制し、私は自分のベッドへ向かう。さすがに一つの枕を二人で使うんじゃ狭苦しいったらありゃしないし、いくら子供とは言えちょっと厳しいものがある。
掛布団もマットレスもシーツも。さらには枕カバーに至るまで。何から何まで真っ白に染め上げられた寝具一式の中に紛れた枕を探し出し、抱きかかえてトアの元へと向かう。そういえば私がまだ幼かったころは、ぬいぐるみをこんな風に抱きかかえていたなあ。
なんてぼんやり考えながら彼女の待つベッドへ。
「入るよー」
「どうぞ、どうぞ。いらっしゃい」
声をかけると、トアは掛布団を持ち上げて招き入れてくれた。自分の枕を彼女の枕の隣に並べると、ふかふかのマットレスにぼふんと寝転ぶ。自分のベッドではないせいか、ほんのりとトアのいい匂いがした。
「お布団、かけますねー」
なんだかちょっとかしこまったようなおかしな口調で、彼女は私に布団をかける。ふわふわとした布団の材質も色も変わらないからか、他人の布団であってもそこまで違和感を感じることはなかった。
「これってさ、この後どうするの?」
だれかと一緒に眠ったことなどなかったから、ここで何をすればいいのかよくわからない。尋ねられたトアは「そうだ、なあ……」と少し考えてから。
「66の、これまでの話、ききたいな」
そんな言葉を口にした。
「これまで?」
「そう。僕が、ここにくるまで。君はなにを、してたのかな、って」
とてもじゃないが面白いものではないことぐらい、容易に想像がつきそうなものなのに。彼女が心底楽しみだと言いたげな目を向けるものだから。
「特に面白いものじゃないんだけど……」
私はこんな前置きをして、彼女に語ってあげることにした。
「私はここで生まれて、今日までずっとここで過ごしてきた。この部屋にほかの子が来て一緒に過ごしたことも何回かあったけど、みんな実験で死んじゃったから覚えてないなあ」
記憶をたどり、かつての隣人の顔をどうにか思い出そうとするけれど、誰一人として思い出せなかった。まあ、ここまで持ったトアがすごいほうだからな。
大抵の子は実験の負荷に耐えられないか、別の部屋に移されたりでこの部屋からいなくなるのに、彼女だけは何でもないようにここで日々を送っている。彼女に行われている実験はほかの子とは違うのだろうか。なんて話もそこそこに考えていると、トアが私の腕を引いた。
「どうしたのって、わわ」
私の言葉をさえぎるように、彼女はつかんでいた私の左腕をぐいっと抱き寄せ、私に抱き着くような格好になった。胸のあたりに回された腕が、かすかに震えている。
ああ、何かまずいことを言ってしまっただろうか。そう思うくせして、まったくもって心当たりはないのだけど。とにかく、安心させてあげなくちゃ。
私は寝返りを打って彼女のほうに向きなおると、まだ少し湿った髪に手を伸ばした。
「よしよし……どうかした?」
ぽんぽんと軽くなでてやると震えは収まったようだったから、そのままの姿勢でやさしく尋ねる。真っ黒な瞳はぐらりと揺らぎ、トアは目を伏せて、弱弱しい声でこんなことを口にした。
「……も、もしも。ぼ、僕が、死んじゃったら……君は、僕のこと、覚えててくれる……?」
伏せた目は潤み、今にも何かがこぼれ落ちてしまいそうで。気が付けば、私はトアの目元に手を伸ばしていた。左手の指先で、傷つけないように慎重に。やさしくぬぐってやると、彼女は不思議そうにぽかんと口を開けた。
「忘れるわけないし、それに……」
「君が死ぬのは、どうしてか、すごく嫌なんだ」
おかしな話だ。ほかの子になんて興味を持ったことすらなかったのに。死のうがどうしようが、どうだってよかったのに。いま私の腕の中にいる君だけは、どうしてか失いたくないと思ってしまう。ここでそんな感情を抱いても、どうしようもないことくらいわかっているのに。
君が死んで、この部屋に私一人だけになった光景を想像してみるだけで、胸が押しつぶされてしまいそうだったのだ。
そんな私の心情などつゆ知らず、トアはふにゃりとほほ笑む。ずいぶんと柔らかくなった表情で、心底嬉しそうに彼女は語る。
「そっかあ……よかった。僕もね、君が死ぬのは、嫌だよ。へへ、いっしょだね」
子供っぽく笑う彼女の顔を見ていたら、そんなことはどうでもよくなっていた。トアの年齢はよくわからないから、こんな反応も年相応なのかもしれないけれど。
「あーあ。こんなことになるなんて、なあ……」
ふと彼女が天井に手を伸ばし、包帯の上から傷だらけの腕をなでる。その目はどこか遠くを見つめていた。その姿勢のまま、トアはぽつりぽつりと語りだした。
「僕、ね。ほんとは、死ぬつもり、だったんだ。ここに連れてこられる前に」
深い腕の傷跡は、それが原因だったらしい。出血多量で死に至るつもりだったんだろうか。
「だから、自分の腕を切ったってわけか。でも、新しいのもあるよね?」
それだけが理由だったとするならば、ここ最近にできた傷はあるはずがないのだ。彼女はちょっと目を見開いて、変なことを言った。
「あれ……?驚いたり、しないんだ……?」
「へ?んー、別に、死にたいって思うくらい誰にだってあるんじゃないの。私もちょっと前まで思ってた。実験で死ぬよりかましだって、試してみようとしたこともある。でも、案外怖いもんなんだよねえ。あとちょっとのところで、手が止まっちゃってさあ」
別に何一つ変なことじゃないだろう。たまに自殺したやつがいるって話を職員の口からきくことも、珍しい話じゃないんだから。でも、自分でやってみると案外難しいものなのだ。ふかふかの腕が首に回った感触は、今でも思い出すことができる。
「そう、なんだ……へへ、よかった」
トアはまだ驚いたようだったが、どこか安心したように口元を緩ませた。
どこがよかったのか、私にはよくわからない。でも彼女のそんな顔を見ていたら、そんなことどうでもよくなってしまうのだ。
「なんかね、落ち着くんだ。自分を、傷つけると。変だって、思うかもしれないんだけど、ちょっとだけ、苦しくなくなるんだ」
包帯をほどき、ぼこぼこした傷跡をなぞりながら彼女は語る。私にはその気持ちは理解できなかったけれど、トアがそれで救われるのならそれでいいと思った。どうせそんなことしなくたって、ここにいればいずれ傷がつくのだから。
「そっかあ。それならしょうがないね」
私は彼女の包帯を巻きなおしてやりながら、それを肯定してやった。
それがうれしかったのか、トアは私をぎゅっと抱きしめる。
「ここにいるのって、みんな66、みたいなの……?」
唐突に、彼女が変な質問を口にした。ここにほかの子もいるのは知ってはいたが、同室にでもならなければまず顔を合わせることもない。実験のタイミングで出会ったとしても、入れ替わりの数秒間だけじゃ名前どころか顔も覚えられやしない。
「さあ?ほかの子には会わないから、よくわかんないなあ」
「ところで、なんで急にそんなことを?」
「……ここの外の人とは、ずいぶん、違うなあって」
再び天井に戻された視線の先は、きっと私の知らない世界なのだろう。外の人間は私とどう違うんだろうか。姿形という意味であるならば、確かに私は随分と逸脱しているのかもしれない。だが、トアが人を見た目で判断するようにはとても思えない。
私がよくわかっていないことに気が付いたのか、彼女は「ええと」と説明してくれる。
「外の人は、僕の傷を見て、よく、気持ち悪いって、言ってたんだ。あと、あんまり、君みたいに、やさしくなくて……っ、僕なんか、消えたらいい、って。よく、言ってた」
目を潤ませところどころどもりながら、トアは語ってくれた。まだほかにもあったのか、再び口を開いたものの。その口から漏れ出したのは言葉ではない、小さな嗚咽だけで。
途端に泣き出してしまった彼女にかける言葉を、私は持ち合わせていなかった。だから、さっきもしたように彼女を抱き寄せ、よしよしと頭をなでてやる。今の私には、これぐらいしかできないけれど、少しでもトアが安心するように。しばらく、そのままでいた。
「……うう、うん。もう、だいじょうぶ。ごめん」
しばらくそうしていると落ち着いたのか、トアが顔を上げた。謝ってしまうのが癖なのか、彼女の口からその言葉を聞くのはもう慣れている。
「ん、よかった。こっちこそごめんね。無理にしゃべらせるようなことして」
外のことは全く知らない私でも、彼女の過去があまり思い出したくないようなものであったことくらい容易に想像できた。そして、その引き金を引いたのが私であったことも。謝らなくてはいけないのはむしろ私のほうなのに。
「謝らないでよ」
そう言って彼女は微笑むのだ。
「もう電気消そうか?」
気が付けば、窓の外もだいぶ夜の色が濃くなっていた。流石にそろそろ瞼も重たい。トアもそこは変わらないのか、目をこすりながらこくんと頷く。
入り口付近にある照明のスイッチを切ると、あたりが闇に包まれた。転ばないように慎重にトアの待つベッドにたどり着くと、ぎゅっと抱きしめられる。そしてそのまま倒れこむようにベッドに寝転んだ。トアはまだ手を放す気がないらしい。このまま私を抱き枕にする気のようだ。
「あのさ、僕、思いついたんだけど……」
「言っても、いい?」
このまま眠るのかと思いきや、ふとトアがそんな言葉を口にした。
言ってもいいか聞くだなんて、よっぽど重要なことなのだろうか。わざわざこれから寝ようという時に言うのだから、きっとそうに違いない。私は少し身構える。
「い、いいよ」
ああ、どんなものが来るんだろう。重大な発表なんて思い当たるものが何もない。私は心臓がどくどくと脈打つのを感じながら、ごくりと唾をのんだ。
「……君の名前、ロロ、ってのは、どうかな……?」
「……へ?」
自分でも驚くほど、素っ頓狂な声が出たと思う。
「あ、い、いやだった……?そ、それなら……」
「いやじゃないよ」
私の反応を否定と受け取ってしまったようなトアの言葉を、思わず遮ってしまう。ただ、想定していたものとだいぶ違った発表だったものだから、少し驚いてしまっただけなのだ。喜びやら安堵やらで、固まっていた体が弛緩する。一気に力が抜けてしまう。
「考えてくれてたんだ、私の名前」
ようやく回り出した頭で、そんな言葉を口にする。
「うん。ないって、言ってたから。ほしいかなあ、って」
ただ私に数字以外の名前がないことを驚いていたように見えたのだが、あれは私の名前を考えていてくれたのだろうか。わざわざ、私の名前を……。
「ロロ、ロロ……うん、いい名前だ」
口に出してみると、随分としっくりくる。はじめてもらった、数字以外の名前。人間らしい私だけの、名前。今まで曖昧でふわふわと漂っていたような『私』が『ロロ』という名を与えられたことで、ようやく私という存在が確立したような、そんな気がした。
「……ありがとう」
思わずこみあげてきた涙が頬を伝うのを感じながら、言い忘れていたお礼をトアに伝える。暗闇に目が慣れてきたのか、彼女は手を伸ばして私の目元をぬぐう。
「別に、大したことじゃ、ないよ。気に入ってくれたなら、よかった」
「もう遅いし、そろそろ寝よっか」
私の頭をポンポンとやってから、彼女は寝返りを打った。
「おやすみ、ロロ」
「お、おやすみ。トア」
まだ呼ばれなれていなくて、少し反応が遅れてしまう。まあ少し経てば慣れてくるだろう。
ロロ、ロロ……頭の中で反芻する。ああ、やっぱりいいな。数字の名前が嫌いだったわけではないけれど、やっぱりこっちのほうがずっといい。なんか、人間らしいような、そんな気がする。ああ、もっと呼ばれたいな。
早く明日になるように。私は目を閉じて、夢の世界へと落ちていった。
「……ろ、きて……ロロ、おきて」
気が付くと、誰かが私を呼んでいた。この自信のなさそうな控えめな声は、きっとトアのもの。まだ夢の中を揺蕩っていた意識が、一気に現実に引き戻される。
「んん、トア……?」
のそのそと起き上がると、トアが目の前に。はっきりしてきた視界の先、テーブルの上に見えるのはいつもの朝ご飯で。どうやら、朝食が運ばれてきても起きない私をトアが起こしてくれたらしかった。
「よかったあ。もう、起きないのかと」
トアはほっとしたように胸をなでおろすと、首を傾げた。
「どうしたの?いつもは、僕よりも、早いのに」
そんな不思議そうな目を向けられても、思い当たる節は特に何もない。おそらくなんでもないただの寝坊だろう。
「別になんでもないよ。ただの寝坊」
「そっか。それなら、よかった」
彼女はまた安心したような顔をする。最近気が付いたけれど、トアは意外と感情が豊かで思っていることが割と顔に出てしまうようだった。はじめのころの不愛想な感じは、慣れていなかっただけなのだろう。
「朝ごはん、早く食べよ。いつ呼ばれるか、わかんないから」
「それもそうだね。検査呼ばれるかもしんないし」
検査、というのは毎朝の日課みたいなもので、私たちの健康状態を毎日チェックするというものだった。検査といってもそれは簡単なものでせいぜい聴診器を当てたり、身長体重を測ったり体調に関する質問に答える程度のものだ。たいしたことではない。
だが、朝食を食べ損ねるわけにもいかない。私はベッドからおり、トアと一緒に朝食をとることにした。いつも通りの四角い固形食を片手に取り、口元に運ぶ。
「そういや、さ。これ、なんなの……?」
同じように食事をしようとしていたトアが、唐突にそんなことを言い出した。
「これって、この食べ物のこと?」
「うん」
口に含んでいたものをしっかり飲み込んでから答えると、トアは頷く。
これ、と呼ばれたのは今まさに私たちが食べている薄茶色の固形食のことだ。ここでの食事は基本的にこれしか出てこず、飲み物がたまに水からお茶に代わる程度だった。味が美味しいのかどうかはよくわからないが、吐き出すほどのもではない。
何かと聞かれても、食べ物という答えしか私には導き出すことができなかった。
「何って、食べ物だよ」
「いや、そういうんじゃ、なくってさ」
どうやら彼女が言いたいのはそういうことではないらしい。食べ物といえばこれ一つしかないし、それ以外だなんていったい何があるのやら。トアは少し考えるようにもぐもぐとそれをかじり、飲み込んでから「ええっと」と話し始める。
「外には、これ以外の食べ物も、あるんだけど……。ここには、これしかないの?」
「へ?」
これ以外の、食べ物……?なんだそれは。思わず間抜けな声が出てしまう。この固形食以外の食べ物を本の中では見たことがあったけれど、そんなのどれも創作物で、想像上のものであるはずだ。でも、もしかして。
「外には、これ以外の食べ物があるの?」
私の言葉を聞いた途端、トアは目を見開いた。
「……うん。これ以外にも、たくさん」
驚きの言葉は口にしなかったものの、外との差異に随分圧倒されているようだった。外にはどんな食べ物があるのだろう。昔に本で見たケーキやオムライス、ハンバーグなんかもあるんだろうか。どんな味がするんだろう。今食べているこれとは、違うのだろうか。
右手に握った固形食はいつも通りの味で、やっぱりよくわからなかった。
「……いつか、食べてみたいなあ」
無意識のうちに口から漏れ出したのつぶやきは、だれにも拾われることなく静寂に溶けていった。仕方のないことだ。どうせここから逃れることはできないのだから。
ちょうど朝食を終えたあたりで、コンコンと部屋の扉がノックされる。もう検査の時間らしい。
「はーい」
私たちは返事をして、検査に向かった。
検査はいつも通り。聴診器の冷たさに少しびっくりしたくらいだった。
簡易的なベッドと、向かい合った二つの椅子。無機質な灰色の壁には、誰かがひっかいたような爪痕が残っている。目の前に座った職員の机上のモニターには、到底理解できそうにもない数字がずらりと並ぶ。見ているだけでくらくらしてきそうだった。
「それでは、いいですか」
髪のはさまれたボードを片手に持った職員が、決まりきった質問をする。これは、始めの合図みたいなものだった。私がうなずくと、彼女は淡々と話し始める。
「今朝は、いつもと体調に変わりはありませんか」
「うん」
「朝食は問題なく取れましたか」
「うん」
「その左腕のことで、何か変わったことはありませんか」
「ないよ」
「きちんと睡眠はとれましたか」
「うん」
「ふむ。変わりなし……と。はい、では失礼しますね」
ボードに何やらさらさらと書き込んだ彼女は、私の額に機械を向けた。ピッという音がしたこと思うと、その画面上に表示された数字が読み上げられる。
「三十七度二分。はい、正常ですね」
変わらずの三十七度台。なぜかは知らないが、私の体温は普通の人間よりちょっと高いのだ。
「では、まずは右手をこちらに」
言われるがままに右手を差し出すと、右手首に指をあてられる。この職員んは少し体温が低いのか、ひんやりとしていた。
「脈も問題なさそうですね。では、左手を」
今度は左手の番だ。こっちはどこが手首に当たるのかいまいちよくわからないのか、脈を測るようなことはしなかった。代わりにぺたぺたといろんな所を触られる。もう慣れていたし、いやというわけではないのだけど少しくすぐったい。早く終わらないかなあ。
「はい。特に問題はなさそうですね」
もう気が済んだのか、彼女は私から手を離した。それからボードに目を落とし、程なくして口を開く。
「はい、健康状態に問題なし。経過も良好と見られます。それでは、ドアの外で担当の職員が待機しておりますので、お部屋までお戻りください」
「はーい」
どうやら今日はもう終わりらしい。これから実験の予定はないようで、特に別の部屋に通されることもなく終了した。職員の「また明日」という無機質な声を背に受けながら、私は部屋を後にする。
「あ、終わったみたいだね。それじゃ、部屋に戻ろうか」
扉を開けると、待っていたらしいゼロに手を引かれた。検査室から部屋まではそこそこの距離がある。ここでゼロはいつも私に他愛もない話をするのだ。
「今日も健康?そりゃあよかった」
「本棚の本、新しいのは何がいい?」
「食べ物の本がいい。たくさん載ってるやつ」
「おっけー。近いうちにもっていくよ」
「75とはうまくいってる?」
「うん。よく話すよ」
「そりゃあよかった」
コンクリートの床はひんやりとしていて、裸足にはちょっと冷たすぎるくらいだった。私がもっと小さかったころは持ち上げて運んでくれたりもしたのだけど、今はもう厳しいだろう。
横目に見える部屋の数々からは物音一つしない。ほとんどの部屋には私やトアと同じように番号の振られた子供たちがいるはずなのだが、防音がしっかりしているのだろうか。
外の食べ物の本を頼んだりしていると、あっという間に私の部屋が見えてきた。早くトアの顔を見ようと足早に扉へ向かったが、それはいくら力を込めても開いてくれない。
「ほらほら、いま鍵開けるから……」
ああ、そうだった。ここの扉には鍵が付いていて、職員の持つカギでしか開けられない仕組みになっているんだった。それすらも忘れて突っ走ってしまうなんて、子供っぽいことをしてしまったな。なぜかはわからないけれど、トアがいると考えただけでこうなのだ。
変だよなあと首をかしげていると、がちゃんと扉から音がした。
「ほら、開いたよ。それじゃ、またお昼にね」
ゼロはそれだけ言って私を中へ押し込むと、扉の鍵を閉めて行ってしまった。トアがいない頃なら少しそれを物足りなく思ったものだけれど、もうそんな風には思わない。
「トアー、帰ってきたよー」
大声で呼びかけてみても、返事はない。まさかと思い少し冷や汗をかいたが、当の本人はベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。
「あ……寝てる」
安心しきった表情で眠っている彼女の寝顔を見て、ほっと胸をなでおろす。以前のことがあったせいか、トアの返事がないときはどうしたのだろうと不安になってしまうのだ。まあ、何事もなかったからよかったのだけど。
しかし、トアはこんなによく眠る子だっただろうか。少なくともお昼寝なんかをしているのは見たことがないし、昨日の夜眠りについたのもそこまで遅くはなかったはずだ。実験か何かで疲れてしまったのだろうか。
よくわからないが、起こすのも悪いだろう。とりあえず本でも読もうかと立ち上がると、テーブルの上に一枚の紙切れがコップと一緒に置かれているのに気が付いた。
「なんだろ、これ」
手に取って読み上げてみる。
『ロロへ
今日はおくすりをのむよ。
このくすりはきぶんを落ち着かせるかわりにねちゃうらしい。
僕がねていたらそういうことです。
おきるまではしばらくかかるけど、めざめるからごあんしんを。
トアより 』
とのことだった。どうやら、これは彼女を対象とした実験だったらしい。トアの体に自らがつけた傷以外が見当たらなかったのは、これが原因なのかもしれない。投薬が中心の実験であれば、外傷が少ないのも納得できる。
「……なにしよう」
しかし、彼女が眠っているとなると、それは困ったものだった。トランプは一人じゃむなしすぎるし、お絵かきも一人じゃ楽しくない。トアが来てからというものの、二人で遊んでばかりいたせいで一人でいたころにどうしていたのかすっかり忘れてしまったのだ。
「とりあえず、本でも読むか」
なんとなしに目に付いた本を引っ張り出し、開いてみる。それはずいぶん昔に一度読んだことがあった、どこか遠い国の童話だった。もう内容は覚えていないし、そのまま読んでみることにする。
獣人の男の子と人間の女の子が、種族を超えて友情を育んでいく。
そして二人は、親友になる。そんな心温まるお話だった。
こんな場所が、ここの外にはあるのだろうか。
「……ねえ、なに、読んでるの?」
気が付くと、トアが私の後ろから本を覗き込んでいた。窓の外はもうずいぶん明るくなっており、お腹がぐうと音を立てる。
「ああ、もう起きたの?」
今日一日くらいは眠っているものかと思っていたが、そうではないらしかった。トアは「あー」と口を開く。
「んん、くすり、ちょっと小さかったから……かなあ」
まだ眠いのか、目をこすりながらいまいちろれつの回らない口で彼女は言う。どうやら目覚めてもしばらくは眠気が残ってしまうようだった。まあ、それくらいなら大したことはないか。
「ちょっと、失礼」
トアの声とともに、両手に持っていた本がひょいと持ち上げられる。もうとっくに読み終えていたから、取り上げ荒れても問題はない。トアはぱらぱらとページをめくり、軽く内容を把握したのか口を開いた。
「童話か。どこの国の、だろう。いい話だね」
表紙に印刷されたふんわりとしたタッチの絵を指でなでながら、彼女はにこりとほほ笑んだ。それは表紙の女の子と男の子の笑みに、なんだか似ているような気がした。
それから、その本は私たちのお気に入りとなった。いつか、そんな世界に行けることを夢見るための、お守りみたいなもの。それさえあれば、外の世界に希望を持つことができたのだ。
「……あ」
実験が終わり、部屋の扉が開かれ中に足を踏み入れると、工作用のはさみを持ったトアが目の前に突っ立っていた。彼女の左手首からはだらだらと鮮血が流れ出ており、真っ赤な水玉模様を床に描き出している。私と目が合うと、ばつが悪そうに眼をそらす。
「い、いや。これは、その……」
「いいから。ほら、こっちおいで。消毒しよう」
言い訳をしようとしたトアの言葉を遮って、私は彼女の手を引いた。こうしないと、すぐにトアは傷口を隠してしまうのだ。別にこの行為を否定するわけじゃない。ただ消毒をして適切な処置をしてやらないと、跡がくっきり残ってしまうから。
いつの間にか部屋に置かれていた救急箱からいつもの消毒液とガーゼ、包帯を取り出し、トアを座らせる。消毒液を含ませたガーゼを、少しいやそうな表情のトアの傷口にお構いなしに押し付けた。
「いっ……うう……それ、いたいのに……」
その瞬間にビクンと体を揺らし、痛そうにうめき声をあげる。
「この消毒なんかより、そっちのほうがよっぽど痛そうだけどなあ」
「これとあれとじゃ、話が、違うよ」
深々と切りつけたらしい生々しい傷口は、ピンク色の肉がのぞいていた。全く、どうやったらあのハサミでこんな傷がつけられるんだか。子供用の丸まった先端を思い出しながら、くるくると包帯を巻いていく。
彼女の両腕から包帯が取れたことは一度もなく、いつも傷だらけの細い腕は布切れをまとっていた。それは実験から帰ってきても、いつも同じ。この布の下を見られるのは、きっと私だけ。ほのかな優越感で私を満たしてくれるから、それも案外悪いものじゃなかった。
「痛いのはおんなじじゃないの?」
トアの発言が少し引っ掛かり、包帯を巻き終えてからきいてみた。彼女は言葉を探すように天井に目をやり、ううん、と唸る。しばらくしてから思いついたようで「なんかね」と口を開いた。
「刃物で切り付ける痛みと、消毒でしみる痛み。どっちも、いたいんだけど、違うんだ。切るほうは、びりびりする。しみるのは、じーんってする。違い、なんとなく、わからない?」
言われてみれば、確かにトアの言うとおりだった。痛みと一口に言っても、その中身は多種多様。ぶつけた痛みと新しい紙で指を切ってしまった時の痛みは同じ言葉で表現されるけど、まったく別のものだ。
「確かに。痛いって言ってもいろいろあるね」
「だよね、だよね……!僕は、切るのは、あんまり痛くないんだよね。でも、しみるのは普通に痛い」
私に同意されたのが嬉しかったのか、トアは珍しく声を上ずらせた。どうやら彼女は刃物で切り付ける痛みには強いらしいが、消毒の時のしみる痛みには弱いらしい。一時期は腕の痛覚だけが麻痺しているんじゃないかと思っていたが、そうではないらしかった。
「はい、おわり」
「ん、ありがと」
救急箱をもとの位置に戻し、トアの頭をなでる。その手を掴み、彼女は自分の頬にもっていく。私の真っ白な毛に包まれた左手は、彼女のお気に入り。すりすりと頬を擦り付けて、ふかふかを堪能しているようだった。これが落ち着くなら、まあいいかと思っている。
気が済むまでやったのか、トアは私の左手から離れた。そして、先ほど巻いた包帯をなでながらこんなことを口にした。
「また、こういうことがあっても、ロロは、手当てしてくれる?」
その顔はうつむいており、表情は見えない。だが、声が少し不安げに震えているのは、私でも分かった。
「なーに言ってんの。そんなの、しないわけないじゃない」
私は彼女に歩み寄り、ぎゅっと抱きしめた。一瞬ぴくりと肩を揺らしたが、すぐに体を預けてくる。よしよしと再び頭をなでてやると、安堵したように息をついた。
「よかったあ。じゃあ、これからも、安心して、切れるや」
にかっとした笑みを見せた彼女に、ちょっと呆れてしまう。
「そこ安心していいとこなんだ……」
でもまあ、こういうところも含めてトアってことなんだろう。仕方ないなあ、なんて思いながら私はしばらくそうしていた。
それから、しばらくたったある日。私たちは部屋の外に連れ出された。ごはんの時間でもないのに、実験だろうか。でも、二人まとめてなんてことは今までになかった。じゃあ、これはいったい……?
「……ついてきて、二人とも」
そう静かに告げるゼロの表情が、妙に暗かったのを今でも覚えている。ひんやりした廊下をペタペタと進み、いつもの検査室を通り過ぎた。そこで、なんとなく悟ったんだと思う。
私たちはこれから、未知の場所に連れていかれるのだと。
それがどこなのかはわからない。知る由もない。
外かもしれないし、そうではないかもしれない。
ただ一つ、断言できたことといえば。
これから行く場所が、いい場所ではないってことくらいだ。
隣を歩いているトアは、最初こそ不安げに辺りをきょろきょろと見まわしていたのだが、やがてもう何かを察してしまったのか、私と手をつなぎながらぼうっと進行方向だけを見つめて歩いていた。ああ、きっと君も気が付いてしまったのだろう。
これから私たちを待ち受けているであろう、悲惨な未来に。
「着いた。ここだよ」
ふと、ゼロが足を止めた。その目の前にあるのは、大きな鉄扉。横の壁には厳重に囲われたレバーが付いており、それで開閉するらしかった。ゼロが首元にぶら下げていたカードのようなものを機械に通すと、がちゃん、と音がする。
見ると、レバーを覆っていた透明な箱のようなものが上に持ち上がっていた。ゼロはそれに一つ息をついてから手をかける。
ああ、これからこの扉が開かれるんだ。私たちが行くのはきっとこの扉の向こう。いったい何が待ち受けているんだろうか。恐怖やら好奇心やら何やらがごちゃ混ぜになった感情が、私の脳を支配していた。
「……開けるよ」
その言葉を合図に、彼女はゆっくりレバーを下げた。ぎいいっと耳をつくような音とともに、鉄扉は開かれる。その先に、広がっていたのは。
「……外だ」
木々の生い茂る、深い森だった。
二股のしっぽの猫のような生物が、物珍しそうにこちらをじっと見つめている。今目の前に見えた銀色は、空を泳ぐ魚のお腹の色。ふよふよと空中を漂うクラゲが、風にさらわれ飛ばされる。それはまごうことなき、外だった。
ずっと、あこがれていたものだった。トアと二人でいつかと何度も思い描いたそんな場所。
ああ、やっと。
今すぐにでも飛び出して、その空気を肺いっぱいに吸い込みたいのに。
森を駆け回って、おひさまの下で遊びたかったはずなのに。
どうしてか、私の足は前に出てはくれなかった。
「ほら、早く行きなよ。望んでいた外なんだから」
いつの間にか、ゼロが後ろに回っていたらしい。背後から、震えた声がする。
「ここじゃあもう、きみたちは、用済みなんだ……だから」
そこでぐっと、ゼロは言葉を止める。それでも懸命に息を吸い込んで、彼女は続けた。
「ここから、出ていって……!」
そして、彼女は私たちの背中を押した。その衝撃で、思わず地面に倒れこむ。固いユアではない場所に手をつくのは初めてだったが、新鮮さはどこにもなかった。
「ゼロ……!」
振り返るころには、もう、扉は閉じかかっていて。
彼女が最後に。
「ごめんね」
そう言ったように聞こえた。
うっそうとした森に取り残され、途方に暮れる私たちの頭上。
大きな魚が一尾、悠々と通り過ぎて行った。
私が初めて見た景色は、灰色の壁だった。
毎日の実験と検査。お薬を飲んだり、体に変な機械をつけられたり。他にも、ちょっと痛いことも。腕や足なんか縫い跡や注射跡だらけだし、薬の副作用とかいうやつで体調が悪いこともしょっちゅうだった。
そんな日々が、私にとってのあたりまえ。
「……つまんないなあ」
今日も今日とて、脱ぎきしやすい水色の実験服に身を包み、私は真っ白なベッドに身を投げ出した。灰色の壁には何もいないし、窓の向こうの景色もいつもと変わらない木々が立ち並ぶばかりだ。
見上げた天井も灰色で、その閉塞感に一つため息をつく。投げ出した左腕は真っ白な毛におおわれていて。この腕は生まれつきだ。ここにいるほかの子にはないものだけど、物心ついた時からこうなんだからどうしようもない。外から来た子には人外と同じだなんて怖がられたりするから、普通の人から見たら変なのかもしれないけれど。
真っ白で飾り気のないテーブルの上には、今日の朝食が乗っていた空っぽのお皿と読みかけの本。
「んー……ここ、何回目だっけなあ」
起き上がって本をぱらぱらとめくってみても、もう何度か読んだページばかりだった。これまた白い本棚にはそれなりの本が詰まっているけど、ここでの暇つぶしは読書くらいしかないから、読み終わった本しかそこにはありゃしない。本棚の上にはボードゲームやトランプなんかもあるが、一人でやっても詰まらないことこの上ない。
「またゼロに新しいの入れてもらわなくっちゃ」
ゼロ、というのは私に毎朝の健康観察のお部屋に案内してくれたり、私が頼めば大体どんな本でも持ってきてくれる猫の獣人だ。前に少し耳にしたことがあるが、あれはここの職員というやつで、どうも私の担当らしい。ここでは二人の子供につき一人の担当職員がつくらしいが、現在彼女が担当しているのは私だけだった。
前には私以外の子もいたけれど、いつの間にかいなくなっていた。多分実験の途中で死んだか何かだろう。きっと私もいずれそうなるんだろうと、隣人がいなくなるたびに思うのだ。この部屋の二つ目のベッドは空っぽで、かつての隣人の面影などどこにもない。あの子はどんな子だったっけ。それすらもうまく思い出せないほどに、私の記憶からは薄れていた。
「ま、どうでもいいか。ゼロ、まだかなあ」
死んだやつのことなど、どうでもいい。人間なんて、簡単に死んでしまうものなのだから。ゼロはそろそろ来るはずだった。いつもこのくらいの、私が朝食を終えて暇を持て余しているころにやってくるのだ。
ここでは、時というものを確認するすべがない。前にどこかの本で『三時のおやつ』という単語を見たことがあったのだが、そもそも三時ってなんなんだ。時の名前らしいけど、いったいいつなんだろう。ひょっとして、今だったりするんだろうか。
なんてぼんやり考えていたら、ガチャンと後ろのほうから音がした。それは扉の鍵が開いた音で。きっとゼロだ。私の朝食のお皿を片付けに来たんだろう。
「ゼロ。よかったー、来ないんじゃないかと……」
私はそんな言葉を口にしながら扉が開く音と同時に振り向いたが、そこでかたまってしまう。
「誰……?その子」
見慣れた白衣姿のゼロの隣には、私と同じくらいの少女がいた。
肩にかからないくらいの黒髪、私と同じ水色の実験服に、白くて細い腕と足。そのところどころには包帯がぐるぐると巻かれていて、ほんのり血がにじんでいた。
そして、何よりも私の目を引いたのは、彼女の瞳だった。吸い込まれてしまいそうなほどに真っ黒で、光なんてものは一切映っていない。まるで、死んでいるみたいだ。
私がその子に目を奪われていると、ゼロが「ごめんね、急に」と口を開く。
「この子、昨日ここに来たんだけど、部屋の空きがここしかなくて。66、急なんだけど、今日からこのこと相部屋ってことで、いいかな?」
かがんで私と目線を合わせながら、困ったように眉を下げながら。ゼロは尋ねた。私に断る権利があるわけでもないのに、彼女はいつもこうやって尋ねるのだ。それに私が首を横に振ったことは一度もない。どうせ、断っても結果は変わらないんだろうから。
その代わりにいつも、私はこくんと頷くのだ。
「うん。じゃあ今日から、二人はここで相部屋ね。それじゃあ、私はほかの仕事があるからもう行くよ。66、この子のこと、よろしくね」
ゼロはそれだけ言って、食器を持って部屋を出て行った。重たい扉がきいっと音を立てて閉まり、私は新入りと二人きりになる。
「えっと、何か聞きたいこと、ある?」
扉が閉まるのをぼうっと見ていた彼女に、私は取り敢えず尋ねてみることにした。私の声にびくりと肩を揺らし、恐る恐るといった様子で振り返る。
「……っあ、あ、え、えと、その……」
話すことが得意ではないのか、どもりながら目を伏せる。その視線の先にあるのは、私の服に刺しゅうされている66の数字だった。
もしかして、これが気になるのかな。試しにちょっと裾を持ち上げてみると、それを追うように視線が動く。
「これが気になるの?」
そのまま聞くと、小さく彼女は頷いた。
「これね、いや、この数字はね、しきべつばんごうって言うんだって。君にもあるよね。ほらそこ、服の端っこ」
彼女は服の裾を持ち上げ、その数字をまじまじと見つめる。そんなに珍しいものではないが、ここに初めて来たのならこの反応もおかしくはないのだろうか。そして、ひとしきりそうした後、どこか納得したように「そっか」と呟いた。
「えっと、この部屋、案内するよ」
いつまでも突っ立たせておくわけにもいかず、私は75にトイレやお風呂の場所を教えてあげた。おもちゃ箱にしまわれたままだったボードゲームやら何やらも紹介したのだが、彼女は自由帳とクレヨンがお気に入りらしい。せっかく相手ができたと思ったんだけど、それは見当違いだったみたいだ。
彼女は私と言葉を交わすどころか、目すら合わせずに、黙々といつも何かを描いていた。
「何描いてるの?」
「……わかん、ない」
「そっかあ」
時々言葉を交わすことはあっても、それはいつも続かなかった。
そんな私たちに転機が訪れたのは、とある夜のことだった。
「……う、ううん……ん、んー……」
眠れない。それは、じくじくと痛む腕のせいで。
今日の実験でつけられた左腕の切り傷はだいぶ深かったのか、数時間たった今でもまだ痛むのだ。一応軽く処置はされたけれど、それだけではとても足りているとは思えない。
「うう……んー、んん……」
眠ろうとは何度も挑戦するものの、痛みと妙に冴えてしまった目のせいで眠れやしない。部屋の明かりはついておらず、真っ暗闇の中で75の安らかな寝息だけがすやすやと響いている。起こしちゃ悪いかな。そんな考えからか、私はベッドから降りた。
水で流せば少しはよくなるかもしれない。お風呂に向かおうと足を踏み出した、その時だった。
「うあっ……う、いってて……」
何かにつまずいたのだろう。私は冷たい床に倒れこむ。いつもなら左手をついてすぐに起き上がれるのだけど、使えないせいで右腕ごと固い床に打ち付けてしまった。左腕ほどではないものの、こっちもじんじんと痛い。
ああ、早く起き上がらなくちゃ。75が起きてしまう。右の手のひらをついて、起き上がろうと、した。でも、できなかった。
「……っ、ぐ……無理、かなあ」
これはどうにも、右腕も重症らしい。体重をかけるだけで走った鈍い痛みに負けて、私はなすすべなく床に崩れ落ちた。誰かに肩でも借りるか、持ち上げるかしないと起き上がれそうにないな、こりゃあ。仕方ない。朝まで床で待つとしよう。
冷たい。ほっぺたに伝わってくるのは、無機質な冷たさで。コンクリート製の床に一人横たわるというのは、どうにも退屈で、少し寂しいものだった。
こんな夜にこんな冷たい場所に体を預けていれば、思考なんてものがいい方向に向かうはずもなく。このままずっと夜なんじゃないかとか、誰も助けてくれないんじゃないだろうかとか。永遠にこの暗闇にとらわれてしまうんじゃないだろうか、とか。いやな考えばかりが頭に浮かんでは脳内をそればかりが支配していく。
気が付くと私は、柄にもなく、泣いていた。
いや、泣くって程じゃないかもしれない。ちょっと視界がうるんだ、それだけのことだった。
それだけ、のはずだった。
「……泣いて、るの……?」
気が付くと、75が目の前に立っていて。目が慣れたのか、困惑したような顔が見えた。
きっと起こしてしまったんだろう。ああ、早く取り繕わなくっちゃ。
「あ、いや、何でもないよ。起こしてごめん。今立つから……っ」
早口でそう言ってから、立ち上がろうとした途端。息をひそめていた痛みが鋭く両腕に走る。体勢を崩して再び床に倒れこむ……はずだった。
「わわ、あぶ、ないよ」
冷たい床の代わりに私を受け止めたのは、暖かな75の腕だった。さらさらとした布の感触は、その腕に巻かれた包帯のもので。
「よし、よし。だいじょうぶ、だいじょうぶ、だよ」
尋ねる間もなく、頭の上に降ってきたのは髪の毛を押しのける柔らかな感触。頭をなでられているのだと実感するまでに、そう時間はいらなかった。
初めて、だった。そんなことを誰かにされるのは。
加えて彼女の言葉が、声が。私の耳に入る度に、何かを溶かしていく。私の中の何かが、溶けていく。体の奥からこみあげてくるものを抑え込むのも忘れて、私はただ。
君の体温に包まれていた。
どのくらいそうしていただろう。
気がつけば、もう涙はどこかへ消えていた。75もそれに気が付いたのか、私の頭をなでていた手を止める。
「あ。落ち、着いた……?」
私はそれに、頷き一つで答える。75はほっとしたように息をつく。
「どうして……?」
顔を上げて尋ねると、75はちょっと恥ずかしそうに眼をそらす。
「いや、なんか、泣いてるみたい、だったから。こうしたら、落ち着く、かな、って……」
「昔、お母さんが、僕が泣いてたら、よく、こうしてくれた、から」
「落ち着いた、なら、よかった」
75はふにゃりと口元を緩ませた。懐かしむような眼の先にいる『お母さん』ってのは誰なんだろうという疑問を飲み込んで。私は口を開く。
「……ありがとう」
あまり口にしない言葉だ。そもそも使う機会がめったにないものだから。でも、ここまでされて言わないわけにはいかないのだ。少しだけ、また何かが溶けたような気がした。
「どう、いたしまして」
75はまたさっきの顔をした。今気が付いたけれど、これって笑っているんだろうか。今日まで無表情で過ごしてきた彼女だったが、ちゃんと笑えるらしかった。
「もう、ねよっか。あ、立てる……?」
75は立ち上がり、心配そうに私の顔を覗き込む。
もしかしたらもう立てるかもしれないと少しの希望にかけてみたものの、やっぱり痛みには勝てなかった。
「いや、無理そうかな」
仕方なく75の肩を借り、私はどうにか立ち上がる。それからベッドまでそのまま歩き、寝転んだ。柔らかな掛布団が私を受け止めてくれる。そのまま布団をかぶり、目を閉じようとした時だった。
「お、おやすみ……」
ふと、隣のベッドから小さくそんな言葉が聞こえた。
「おやすみ」
私もそっくりそのまま、それを返してやった。こっそり布団の隙間からのぞいた君の顔は、ひどく嬉しそうだった。
この日から、私たちの距離は縮まった。
会話をすることも増えたし、一緒にカードゲームをしたこともあった。
でも、まだ。私と君の間にある微妙な壁は、残ったままだった。
そんな日々を送っていた、ある日のこと。
お昼の後の少し長めの実験を終え、ゼロに連れられて私は部屋に戻ってきた。今日の実験は特に痛くもなく、ただこの左腕で硬いものを握りつぶすだけのもの。周りにいた人間たちはひどく驚いていたようだったが、別に大したことじゃない。ああいうのがずっとならいいのにな。なんて考えながら部屋に足を踏み入れたが、そこに75の姿はなかった。
夕食の固形物は私の分だけが残されており、ついさっきまでそこにいたのか、描きかけの自由帳がテーブルの上に広げてある。窓の外はすっかり日が落ちていて、うっそうとした森が広がっていた。
どこに行ったんだろう。
「おーい、75ー?」
呼びかけてみるが、返事はない。この部屋から実験以外で出ることはできないから、おそらくお風呂かトイレなんだろうけど、耳を澄ませてもそれらしき音は聞こえてこなかった。
「75-?どこー?」
そう声をかけながら、ベッドの下やテーブルの下。掛布団をひっくり返してみたり。いろんなところを探してみたが、そこには埃の一つも転がっていなかった。仕方なくもう一度耳を澄まし、何か音がしないかと確かめてみると、変な音が耳に入ってくる。
はあ、はあ、ひゅう、ひゅう……。
なんだろう、これ。……呼吸音?あれ、これ、なんか……。
嫌な予感がする。心臓がどくどくと脈打つ感覚。
「75っ……!」
気がつけば、私は走り出していた。耳に全神経を集中させながら、音の出どころへ一直線。
お風呂につながる洗面所の扉を、勢い良く開けた。ばん、と派手な音が鳴る。
そこには、床にうずくまり、心臓のあたりをぎゅっと抑えながら、ぜえぜえと肩で息をする75の姿があった。
「な、75.……!だ、大丈夫……?」
75は私の声で顔を上げると、口を開いた。
「っは、っろ、く……ひゅ、は、っは……」
きっと何かを話そうとしたんだろう。でも、彼女の口から漏れ出すのは苦しそうな呼吸だけで。私の名前を呼ぼうとしているのか、何度も『ろく』と途切れ途切れに口にする。
そんな姿が、見ていられなかったんだ。
「無理にしゃべんなくていいから……!」
私はそう言いながら、彼女を抱きしめた。どうしたらいいかなんて、だれかと接した経験の少ない私にはよくわからない。だから、君をまねることにした。
あの夜に、75が私にしたように。
右手を75の頭に伸ばし、優しく撫でる。それから、彼女が口にしたのとおんなじ言葉を。
「大丈夫、大丈夫だよ。よしよし」
しばらくそうして頭を撫で続けていると、少し落ち着いたのかまだ荒い呼吸ではあるものの、私に体を預けてきた。寄りかかってきても、あんまり重さは感じない。私の腕の中に納まる彼女は、私と背はさほど変わらないのになんだかずいぶん小さく見えた。
そうして私は、しばらく75の頭をなで続けていた。
ふと、今までおとなしく腕の中に納まっていた75がもぞもぞと動き出す。頭に乗せていた手をどけてやると、一つ息をついてから顔を上げた。真っ黒な瞳が私を覗き込む。
「あ、66……」
まだうまく口が回らないのか、私の名前だけを呟くように口にした。
「落ち着いた?」
「……うん」
75はだれかと話すのが苦手らしくよくどもってしまうのだが、最近はだいぶ流暢に話せるようになっていた。私の質問に頷きを返した後でも、彼女は私の腕から逃れる気はないようで。ふかふかの真っ白な毛に覆われた左腕は触り心地がいいのか、彼女は無言でそれを撫でたり、抱き寄せて顔をうずめたりしている。
そんな75の顔をうっかり握りつぶしたりしないように、私はできるだけ左手から力を抜き、細心の注意を払う。そんな私の苦労などつゆ知らず、彼女はしばらくそうしていた。
「……お風呂、まだ、だった」
左手がそろそろ疲れてきたところで、75は不意にそんな言葉を口にした。夕飯は食べ終えた後だったみたいだし、お風呂に入ろうとしてああなったのだろうか。少し聞いてみたくなったけれど、やめておくことにした。なんとなく、踏み込むべきじゃないような気がしたから。彼女の真っ黒な瞳の奥は、まだ見えない。
長居してもしょうがない。私は残されていた夕食の存在を思い出し、立ち上がる。
「そっか。じゃあ、先に入っててよ。私、夕飯まだなんだ」
立ち去ろうとする私の服の裾を、75が引っ張った。その口から飛び出したのは、意外過ぎる言葉で。
「お風呂、い、いっしょに、入ら、ない……?」
「……へ?」
ほんのり頬を赤く染めながら、75は尋ねる。ぽかんと口を開けて固まる私に、彼女は「いや、そ、その」と懸命に続けた。
「い、いやだったら、いいんだけど……」
別に、いやだというわけではない。いや、正確には嫌かどうかは入ってみないとわからない。流石に私でもお風呂は基本的に一人で入るものだということくらい知っている。それに、自分以外の他者と一緒にお風呂場に入ったことすら記憶にないほどだ。だから、きっと彼女が言っているのは普遍的なことではないということくらい、すぐに分かった。
いや、もしかしたら……。私のほうがおかしいのか?
ここの外ではだれかと一緒にお風呂に入ることなど普通のことで、何の変哲もないことなのかもしれない。もしそうだとしたら、私は誘いを断った変な奴になってしまうかもしれないのだ。それはよくない。
しばらくそうして考え、私が出した結論は。
「……いいよ。わかった、一緒に入ろう」
申し出を受け入れることだった。よくよく考えてみれば、どうということもない。ただ、いつものお風呂場に一人増えただけ。それ以外はないも変わらないだろう。じゃあ、別にいいじゃないか。と、こんな結論に至ったのだ。
彼女は私の言葉を聞いて、ふにゃりと口元を緩ませて。
「そっか、よかった」
それだけ言って、いそいそと服を脱ぎだした。私たちが着ている水色の服は子供でも脱ぎ着しやすく、職員たちも脱がせやすく着せやすい構造になっており、頭からすっぽりとかぶるようなものだ。
彼女につられて、私もそれを脱ぐ。しゅるしゅると、包帯をほどく音がする。脱ぎ終えてすぐに視界に飛び込んできた75の姿に、私は絶句した。
「そ、それ……」
その細い両腕は、傷だらけだったのだ。
いや、そこまでならおかしなことではない。ここでの実験には傷跡がついてしまうようなものもあり、私の体にだってそれなりにはある。でも、そんなものの比ではなかった。
おびただしい数の傷跡が、真っ白な肌についている。
傷跡だけではない、まだ赤い傷口が口のように開いていたり、治りかけのかさぶたなんかもあった。見ているだけでも痛々しくて、鳥肌が立ってしまうほどなのに。彼女はそれを何でもないような顔で見つめていた。
そして私の視線に気が付いたのか、ちょっと言いづらそうに眼をそらす。
「あ、こ、これは……」
「自分で……き、切っちゃった、んだ。あ、ごめん……いや、だった、よね……」
下着姿のまま、目を伏せる75。その表情が、酷く悲しそうなものだったから。
「別に、いやじゃないよ。ほら、私の腕も傷ばっかりでしょ?」
私は自分の腕を見せて、そんな言葉をかける。私の腕も数々の実験のせいで、縫い跡やら傷跡だらけだった。まあ、75ほどではないのだけど。それでも、彼女はどこかほっとしたように口元を緩ませた。
「あ、ほんと、だ……」
「だからいやじゃないよ。ほら、お風呂入ろう」
「う、うん」
私たちは下着を脱ぎ、お風呂場に足を踏み入れた。
お風呂が沸いてからはさほど時間が経っていなかったらしく、湯船の中のお湯はまだ暖かい。シャワーを浴びながら、ちらりと彼女を横目に見る。
真っ白な肌と、細い体。さっきは気づかなかったけれど、太ももにも腕ほどではないがそれなりの切り傷がたくさん刻まれていた。染みたら痛そうなのに、75はシャワーが当たっても声の一つも上げやしない。痛覚というものがちゃんとあるんだろうか。
「……ん?どうか、した?」
私の視線に気が付いて不思議そうな顔を向けた75に、ちょうどいいやと試してみる。
「ちょっとごめんねー」
「……っん!?い、いひゃい……」
試しにほっぺたをつねってみると、ちゃんと驚いた顔をして痛がった。ああ、よかった。
「ごめんごめん。ちょっと気になってさ」
「んー……まあ、いい、けど……」
怒らせてしまったかとちょっとひやひやしていたけど、意外にも嫌な顔すらしなかった。それも疑問ではあったのだけど、ここで聞いてもしょうがない。
私たちは運良く二つあった椅子に腰掛け、頭を洗うことにした。風呂場がそこまで広くないせいで、椅子を縦に並べることになってしまう。困ったな、これじゃあ並んで頭を洗うことができない。
どうしようかなと洗面器に水を注ぎながら考えていると、後ろから「ね、ねえ……」とためらいがちな声がした。
「あの、僕が、頭、洗おうか?」
遠慮がちではあったが、しっかりとした言葉。彼女も私としゃべることに慣れてきたんだろう。
「んじゃ、お願いしようかな」
シャンプーを75に差し出し、さっそく洗ってもらうことにした。誰かに頭を洗われたことなんて記憶にはなく、これが初めてだった。
シャワーで髪の毛を濡らされて、真っ白でふわふわの髪がぴったりと肌に張り付くこの感覚は、あんまり好きじゃない。続いて75の指が頭皮に触れる。緊張しているのか、わしゃわしゃと洗う手は少し震えていた。頭をほぐされるような、妙な感覚。
ああ、これは、何だか。とても……。
意識が、遠のいていくような……。
「……く、ろく……66」
ふと気が付くと、心配そうな75が私の顔を覗き込んでいた。真っ黒な瞳と、目が合った。
「へ?どうしたの?」
ぼんやりとした頭のまま首をかしげると、彼女は「どうした、もなにも……」と口を開く。
「頭、洗い終わって、顔、みたら、寝ちゃってて……」
「いま、起こしたところ」
よかったあ、と息をつく75。試しに髪に触れてみても、泡は残っていなかった。どうやら彼女の言った通り私が寝ている間に髪はもう洗い終えたらしい。
「そうだったんだ」
「気分良くて、寝ちゃったのかも、ね」
75はにっこりと控えめな笑みをこぼし、シャワーを手に取った。
「次は、僕を、洗ってくれる?」
席を取り換えて、今度は私が75の頭を洗う。さらさらの黒髪はシャンプーのせいか、ちょっといい匂いがした。何度か指に通して楽しんでいたけれど、早くしろと目でせがまれたから私はおとなしく彼女の頭を洗ってやった。
「はい、おしまい」
最後にシャワーをもとの場所に戻すと、75はすやすやと安らかな寝息を立てていた。
なんだ、私と同じじゃないか。なんてほほえましく思いながら、私は彼女の肩に手を置いた。
「ほら、75起きて。もう終わったよー」
「ん、んう……?ぼ、僕は、トア、だよ……?」
「へ……?」
寝ぼけ眼の彼女が発した言葉に、私は息を飲んだ。『トア』って、誰だろう。ああでも、僕ってことは、これが、この子の……。
「……んあ、66……。僕、寝ちゃってた……?」
私が固まっていると、トアが目をこすりながら話しかけてきた。
「あ、ああ、うん。寝ちゃってたみたい」
「んー、そっか、あ」
どうにか取り繕ったが、まだ寝ぼけた彼女は疑問にも思わなかったらしい。ボディーソープを片手に「体も、洗っちゃお」と微笑んで見せたのだから。
「んー、いい湯だ、ねえ」
「そうだねえ」
体を洗い終え、二人で湯船につかった。75は機嫌がいいようで、タオルを頭に乗せ、鼻歌なんかを歌っている。ほんのりと赤らんだ頬と濡れた髪から、どうしてか目を離せなかった。
体を洗う時、背中を流しあったりもしたのだけど、正直75の発した言葉が気になってあんまり覚えていない。ただ真っ白で傷だらけの、でこぼこした腕だけが妙に印象に残っていた。
「どうか、した?」
考えすぎていたのだろうか。気が付くと、75が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「いや、ちょっとね」
「ふーん、だいじょぶ、なら、いいんだけど」
ここで話してものぼせてしまうだろうから、私は尋ねるのをやめておく。75はどこか腑に落ちないようだったが、素直に引き下がってくれた。
そこで会話は終わり、風呂場に静寂が訪れる。75が水面を叩く、ちゃぷちゃぷという音がやけに響いていた。
「いーち、にー、さーん……」
いつ上がればいいんだろう、とぼーっとしていたら、不意に75が数を数えだした。どうしたんだろう。カウントダウンをしなきゃいけないような場面ではないだろうし、第一一から順に増えていくんじゃカウントダウンも何ありゃしない。
「ねえ、それ、なんで数えてるの?」
たまらず彼女の言葉をさえぎって尋ねてしまう。75は数えるのをやめ、不思議そうに私に目をやった。
「あれ、知らない?一から、十まで。数えてから、でようって、やつ」
「お母さん、よく言ってたんだけど、なあ」
なんだそれは。まったく聞いたことがない。いや、そもそもお風呂の入り方だなんて誰かに教わるものじゃないだろうに。そもそも、そのたまに出てくるお母さんってのは何なんだ。
言いたいことはたくさんあったけれど、ここでそれを言うわけにもいかず、私は黙って首を横に振った。
「んー、そっかあ」
「じゃあ、いっしょに数えよう。僕の、真似してね」
彼女は私の返事も聞かずに、数を数えだす。
「いーち、にー……」
「……いーち、にー」
75の控えめな声に少し遅れて私の声が続く。よくわからないけれど、このまま十まで数を数えればいいみたいだ。見よう見まねで、私も数を数えていく。
数が増えるにつれて、私たちの声も重なって。
気がつけば、二人の声は一つになっていた。
「「きゅー、じゅう!」」
ただ、数を数えただけなのに。なんだかそれが楽しくてしょうがなくて。
私はいつの間にか笑っていた。75も私につられて笑って。
結局、湯船から上がったのは十まで数えてからしばらくたってからだった。
「ふいー、いい、湯だったねえ」
ぼふんと75がベッドに飛び込んだ。ろくに整えていない布団は更にぐちゃぐちゃなったけれど、どうせこれから寝るんだからどうでもいいものだった。私も75と同じようにベッドに飛び込んでやると、彼女が「わーっ」と楽しげな声を上げる。
「へへ、66も、こういうこと、するんだね」
顔が近い。話せば息がかかりそうなくらいの近く。75はまだ赤い頬でそんな言葉を口にした。
「75には、私がそういう風に見えてたの?」
「んー、なんとなく、ね……」
足元に追いやられていた掛布団を手繰り寄せながら、75は言葉を濁した。どうしたんだろうと見つめていると「あの、さ……」と語りだす。
「……僕の、ことさ、トアって呼んで、くれない、かな?」
「……トア?」
彼女が口にしたのは、先程お風呂場で聞いた単語だった。
「う、うん」
私が思わず聞き返すと、彼女は控えめに頷いた。そして、その言葉で呼ばれるのを待っているように、こちらをじっと見つめている。ああ、やっぱり。
私はずっと、気になっていたことを尋ねてみることにした。
「それってさ、75の、ほんとの名前?」
ずっと、気になっていたんだ。今まで読んできた数々の物語の中の、人間や人外たちはみんな。私にはないものを持っていたから。それは、数字じゃない、ちゃんと意味を持った名前。
両親からつけてもらった、大事な呼び名。それが外にはあるんじゃないかって。
ああ、本当に外にはあったんだ。私の、欲しかったものが。
「うん、そうだけど……。66には、ないの?」
75……もといトアは、困惑したように首を傾げた。きっと外でずっと過ごしてきた彼女にとっては、名前がないということは想像しがたいことなのだろう。
「そう、私にはないの。しきべつばんごうの66しかない」
「そう……なんだ」
トアは何とも言えない顔で頷いて、手繰り寄せた掛布団を被る。どうしたのだろう。私と彼女はまだ同じベッドに寝転がったままだ。
「あ、もう寝るの?ごめんね、変な話しちゃって……」
無言ではあったが、もう寝るのだろうと判断した私は、さすがに同じベッドに入っているわけにもいかずそそくさと抜け出す。私も眠ろうと歩き出したのだが、不意にトアが私の腕を引っ張った。
「どうかした?」
振り返ると、彼女はベッドの上に座っていた。私の腕を握ったまま「えっと、その……」とちょっと口ごもってから続ける。
「あの、今日は、一緒に寝ない……?」
数時間前に私をお風呂に誘ったのと同じように「いやなら、いいんだけど……」付け足した。別にいやだというわけではない。彼女はそこまで寝相が悪くないことくらい、隣で眠る私は知っていた。一緒に寝たってベッドから落とされてしまうことなんてないだろう。別に異論はないんだ。ただ……。
「別にいいけど……どうして急に?」
私が尋ねると、トアは掴んでいた私のもふもふな左腕を抱き寄せ、目を伏せる。
「あ、の……さっきみたいに、急に息ができなくなること、よくあるんだけど……。その時、66がいてくれたらいいなあ、って……」
「だから、だめ、かな……?」
包帯の巻きなおされた彼女の腕は微かに震えており、湧き上がる不安を隠しきれていないようだった。さっきのものが何なのかはよくわからなかったが、あんな風に突然息ができなくなったら不安でしかないだろう。少しうるんだ瞳で見つめられては、断ることなんてできない。
「わかった。いいよ、一緒に寝よう」
「あ、ありがとう……!」
私が承諾するとトアは途端にぱあっと笑みを浮かべ、私の腕を嬉しそうにベッドの中に引き入れようとする。そこで私は彼女の座るベッドの上に、枕が一つしかないことに気が付いた。
「ちょっと待って、枕持ってくるから」
ぐいぐいと引っ張っていた彼女の手を言葉で制し、私は自分のベッドへ向かう。さすがに一つの枕を二人で使うんじゃ狭苦しいったらありゃしないし、いくら子供とは言えちょっと厳しいものがある。
掛布団もマットレスもシーツも。さらには枕カバーに至るまで。何から何まで真っ白に染め上げられた寝具一式の中に紛れた枕を探し出し、抱きかかえてトアの元へと向かう。そういえば私がまだ幼かったころは、ぬいぐるみをこんな風に抱きかかえていたなあ。
なんてぼんやり考えながら彼女の待つベッドへ。
「入るよー」
「どうぞ、どうぞ。いらっしゃい」
声をかけると、トアは掛布団を持ち上げて招き入れてくれた。自分の枕を彼女の枕の隣に並べると、ふかふかのマットレスにぼふんと寝転ぶ。自分のベッドではないせいか、ほんのりとトアのいい匂いがした。
「お布団、かけますねー」
なんだかちょっとかしこまったようなおかしな口調で、彼女は私に布団をかける。ふわふわとした布団の材質も色も変わらないからか、他人の布団であってもそこまで違和感を感じることはなかった。
「これってさ、この後どうするの?」
だれかと一緒に眠ったことなどなかったから、ここで何をすればいいのかよくわからない。尋ねられたトアは「そうだ、なあ……」と少し考えてから。
「66の、これまでの話、ききたいな」
そんな言葉を口にした。
「これまで?」
「そう。僕が、ここにくるまで。君はなにを、してたのかな、って」
とてもじゃないが面白いものではないことぐらい、容易に想像がつきそうなものなのに。彼女が心底楽しみだと言いたげな目を向けるものだから。
「特に面白いものじゃないんだけど……」
私はこんな前置きをして、彼女に語ってあげることにした。
「私はここで生まれて、今日までずっとここで過ごしてきた。この部屋にほかの子が来て一緒に過ごしたことも何回かあったけど、みんな実験で死んじゃったから覚えてないなあ」
記憶をたどり、かつての隣人の顔をどうにか思い出そうとするけれど、誰一人として思い出せなかった。まあ、ここまで持ったトアがすごいほうだからな。
大抵の子は実験の負荷に耐えられないか、別の部屋に移されたりでこの部屋からいなくなるのに、彼女だけは何でもないようにここで日々を送っている。彼女に行われている実験はほかの子とは違うのだろうか。なんて話もそこそこに考えていると、トアが私の腕を引いた。
「どうしたのって、わわ」
私の言葉をさえぎるように、彼女はつかんでいた私の左腕をぐいっと抱き寄せ、私に抱き着くような格好になった。胸のあたりに回された腕が、かすかに震えている。
ああ、何かまずいことを言ってしまっただろうか。そう思うくせして、まったくもって心当たりはないのだけど。とにかく、安心させてあげなくちゃ。
私は寝返りを打って彼女のほうに向きなおると、まだ少し湿った髪に手を伸ばした。
「よしよし……どうかした?」
ぽんぽんと軽くなでてやると震えは収まったようだったから、そのままの姿勢でやさしく尋ねる。真っ黒な瞳はぐらりと揺らぎ、トアは目を伏せて、弱弱しい声でこんなことを口にした。
「……も、もしも。ぼ、僕が、死んじゃったら……君は、僕のこと、覚えててくれる……?」
伏せた目は潤み、今にも何かがこぼれ落ちてしまいそうで。気が付けば、私はトアの目元に手を伸ばしていた。左手の指先で、傷つけないように慎重に。やさしくぬぐってやると、彼女は不思議そうにぽかんと口を開けた。
「忘れるわけないし、それに……」
「君が死ぬのは、どうしてか、すごく嫌なんだ」
おかしな話だ。ほかの子になんて興味を持ったことすらなかったのに。死のうがどうしようが、どうだってよかったのに。いま私の腕の中にいる君だけは、どうしてか失いたくないと思ってしまう。ここでそんな感情を抱いても、どうしようもないことくらいわかっているのに。
君が死んで、この部屋に私一人だけになった光景を想像してみるだけで、胸が押しつぶされてしまいそうだったのだ。
そんな私の心情などつゆ知らず、トアはふにゃりとほほ笑む。ずいぶんと柔らかくなった表情で、心底嬉しそうに彼女は語る。
「そっかあ……よかった。僕もね、君が死ぬのは、嫌だよ。へへ、いっしょだね」
子供っぽく笑う彼女の顔を見ていたら、そんなことはどうでもよくなっていた。トアの年齢はよくわからないから、こんな反応も年相応なのかもしれないけれど。
「あーあ。こんなことになるなんて、なあ……」
ふと彼女が天井に手を伸ばし、包帯の上から傷だらけの腕をなでる。その目はどこか遠くを見つめていた。その姿勢のまま、トアはぽつりぽつりと語りだした。
「僕、ね。ほんとは、死ぬつもり、だったんだ。ここに連れてこられる前に」
深い腕の傷跡は、それが原因だったらしい。出血多量で死に至るつもりだったんだろうか。
「だから、自分の腕を切ったってわけか。でも、新しいのもあるよね?」
それだけが理由だったとするならば、ここ最近にできた傷はあるはずがないのだ。彼女はちょっと目を見開いて、変なことを言った。
「あれ……?驚いたり、しないんだ……?」
「へ?んー、別に、死にたいって思うくらい誰にだってあるんじゃないの。私もちょっと前まで思ってた。実験で死ぬよりかましだって、試してみようとしたこともある。でも、案外怖いもんなんだよねえ。あとちょっとのところで、手が止まっちゃってさあ」
別に何一つ変なことじゃないだろう。たまに自殺したやつがいるって話を職員の口からきくことも、珍しい話じゃないんだから。でも、自分でやってみると案外難しいものなのだ。ふかふかの腕が首に回った感触は、今でも思い出すことができる。
「そう、なんだ……へへ、よかった」
トアはまだ驚いたようだったが、どこか安心したように口元を緩ませた。
どこがよかったのか、私にはよくわからない。でも彼女のそんな顔を見ていたら、そんなことどうでもよくなってしまうのだ。
「なんかね、落ち着くんだ。自分を、傷つけると。変だって、思うかもしれないんだけど、ちょっとだけ、苦しくなくなるんだ」
包帯をほどき、ぼこぼこした傷跡をなぞりながら彼女は語る。私にはその気持ちは理解できなかったけれど、トアがそれで救われるのならそれでいいと思った。どうせそんなことしなくたって、ここにいればいずれ傷がつくのだから。
「そっかあ。それならしょうがないね」
私は彼女の包帯を巻きなおしてやりながら、それを肯定してやった。
それがうれしかったのか、トアは私をぎゅっと抱きしめる。
「ここにいるのって、みんな66、みたいなの……?」
唐突に、彼女が変な質問を口にした。ここにほかの子もいるのは知ってはいたが、同室にでもならなければまず顔を合わせることもない。実験のタイミングで出会ったとしても、入れ替わりの数秒間だけじゃ名前どころか顔も覚えられやしない。
「さあ?ほかの子には会わないから、よくわかんないなあ」
「ところで、なんで急にそんなことを?」
「……ここの外の人とは、ずいぶん、違うなあって」
再び天井に戻された視線の先は、きっと私の知らない世界なのだろう。外の人間は私とどう違うんだろうか。姿形という意味であるならば、確かに私は随分と逸脱しているのかもしれない。だが、トアが人を見た目で判断するようにはとても思えない。
私がよくわかっていないことに気が付いたのか、彼女は「ええと」と説明してくれる。
「外の人は、僕の傷を見て、よく、気持ち悪いって、言ってたんだ。あと、あんまり、君みたいに、やさしくなくて……っ、僕なんか、消えたらいい、って。よく、言ってた」
目を潤ませところどころどもりながら、トアは語ってくれた。まだほかにもあったのか、再び口を開いたものの。その口から漏れ出したのは言葉ではない、小さな嗚咽だけで。
途端に泣き出してしまった彼女にかける言葉を、私は持ち合わせていなかった。だから、さっきもしたように彼女を抱き寄せ、よしよしと頭をなでてやる。今の私には、これぐらいしかできないけれど、少しでもトアが安心するように。しばらく、そのままでいた。
「……うう、うん。もう、だいじょうぶ。ごめん」
しばらくそうしていると落ち着いたのか、トアが顔を上げた。謝ってしまうのが癖なのか、彼女の口からその言葉を聞くのはもう慣れている。
「ん、よかった。こっちこそごめんね。無理にしゃべらせるようなことして」
外のことは全く知らない私でも、彼女の過去があまり思い出したくないようなものであったことくらい容易に想像できた。そして、その引き金を引いたのが私であったことも。謝らなくてはいけないのはむしろ私のほうなのに。
「謝らないでよ」
そう言って彼女は微笑むのだ。
「もう電気消そうか?」
気が付けば、窓の外もだいぶ夜の色が濃くなっていた。流石にそろそろ瞼も重たい。トアもそこは変わらないのか、目をこすりながらこくんと頷く。
入り口付近にある照明のスイッチを切ると、あたりが闇に包まれた。転ばないように慎重にトアの待つベッドにたどり着くと、ぎゅっと抱きしめられる。そしてそのまま倒れこむようにベッドに寝転んだ。トアはまだ手を放す気がないらしい。このまま私を抱き枕にする気のようだ。
「あのさ、僕、思いついたんだけど……」
「言っても、いい?」
このまま眠るのかと思いきや、ふとトアがそんな言葉を口にした。
言ってもいいか聞くだなんて、よっぽど重要なことなのだろうか。わざわざこれから寝ようという時に言うのだから、きっとそうに違いない。私は少し身構える。
「い、いいよ」
ああ、どんなものが来るんだろう。重大な発表なんて思い当たるものが何もない。私は心臓がどくどくと脈打つのを感じながら、ごくりと唾をのんだ。
「……君の名前、ロロ、ってのは、どうかな……?」
「……へ?」
自分でも驚くほど、素っ頓狂な声が出たと思う。
「あ、い、いやだった……?そ、それなら……」
「いやじゃないよ」
私の反応を否定と受け取ってしまったようなトアの言葉を、思わず遮ってしまう。ただ、想定していたものとだいぶ違った発表だったものだから、少し驚いてしまっただけなのだ。喜びやら安堵やらで、固まっていた体が弛緩する。一気に力が抜けてしまう。
「考えてくれてたんだ、私の名前」
ようやく回り出した頭で、そんな言葉を口にする。
「うん。ないって、言ってたから。ほしいかなあ、って」
ただ私に数字以外の名前がないことを驚いていたように見えたのだが、あれは私の名前を考えていてくれたのだろうか。わざわざ、私の名前を……。
「ロロ、ロロ……うん、いい名前だ」
口に出してみると、随分としっくりくる。はじめてもらった、数字以外の名前。人間らしい私だけの、名前。今まで曖昧でふわふわと漂っていたような『私』が『ロロ』という名を与えられたことで、ようやく私という存在が確立したような、そんな気がした。
「……ありがとう」
思わずこみあげてきた涙が頬を伝うのを感じながら、言い忘れていたお礼をトアに伝える。暗闇に目が慣れてきたのか、彼女は手を伸ばして私の目元をぬぐう。
「別に、大したことじゃ、ないよ。気に入ってくれたなら、よかった」
「もう遅いし、そろそろ寝よっか」
私の頭をポンポンとやってから、彼女は寝返りを打った。
「おやすみ、ロロ」
「お、おやすみ。トア」
まだ呼ばれなれていなくて、少し反応が遅れてしまう。まあ少し経てば慣れてくるだろう。
ロロ、ロロ……頭の中で反芻する。ああ、やっぱりいいな。数字の名前が嫌いだったわけではないけれど、やっぱりこっちのほうがずっといい。なんか、人間らしいような、そんな気がする。ああ、もっと呼ばれたいな。
早く明日になるように。私は目を閉じて、夢の世界へと落ちていった。
「……ろ、きて……ロロ、おきて」
気が付くと、誰かが私を呼んでいた。この自信のなさそうな控えめな声は、きっとトアのもの。まだ夢の中を揺蕩っていた意識が、一気に現実に引き戻される。
「んん、トア……?」
のそのそと起き上がると、トアが目の前に。はっきりしてきた視界の先、テーブルの上に見えるのはいつもの朝ご飯で。どうやら、朝食が運ばれてきても起きない私をトアが起こしてくれたらしかった。
「よかったあ。もう、起きないのかと」
トアはほっとしたように胸をなでおろすと、首を傾げた。
「どうしたの?いつもは、僕よりも、早いのに」
そんな不思議そうな目を向けられても、思い当たる節は特に何もない。おそらくなんでもないただの寝坊だろう。
「別になんでもないよ。ただの寝坊」
「そっか。それなら、よかった」
彼女はまた安心したような顔をする。最近気が付いたけれど、トアは意外と感情が豊かで思っていることが割と顔に出てしまうようだった。はじめのころの不愛想な感じは、慣れていなかっただけなのだろう。
「朝ごはん、早く食べよ。いつ呼ばれるか、わかんないから」
「それもそうだね。検査呼ばれるかもしんないし」
検査、というのは毎朝の日課みたいなもので、私たちの健康状態を毎日チェックするというものだった。検査といってもそれは簡単なものでせいぜい聴診器を当てたり、身長体重を測ったり体調に関する質問に答える程度のものだ。たいしたことではない。
だが、朝食を食べ損ねるわけにもいかない。私はベッドからおり、トアと一緒に朝食をとることにした。いつも通りの四角い固形食を片手に取り、口元に運ぶ。
「そういや、さ。これ、なんなの……?」
同じように食事をしようとしていたトアが、唐突にそんなことを言い出した。
「これって、この食べ物のこと?」
「うん」
口に含んでいたものをしっかり飲み込んでから答えると、トアは頷く。
これ、と呼ばれたのは今まさに私たちが食べている薄茶色の固形食のことだ。ここでの食事は基本的にこれしか出てこず、飲み物がたまに水からお茶に代わる程度だった。味が美味しいのかどうかはよくわからないが、吐き出すほどのもではない。
何かと聞かれても、食べ物という答えしか私には導き出すことができなかった。
「何って、食べ物だよ」
「いや、そういうんじゃ、なくってさ」
どうやら彼女が言いたいのはそういうことではないらしい。食べ物といえばこれ一つしかないし、それ以外だなんていったい何があるのやら。トアは少し考えるようにもぐもぐとそれをかじり、飲み込んでから「ええっと」と話し始める。
「外には、これ以外の食べ物も、あるんだけど……。ここには、これしかないの?」
「へ?」
これ以外の、食べ物……?なんだそれは。思わず間抜けな声が出てしまう。この固形食以外の食べ物を本の中では見たことがあったけれど、そんなのどれも創作物で、想像上のものであるはずだ。でも、もしかして。
「外には、これ以外の食べ物があるの?」
私の言葉を聞いた途端、トアは目を見開いた。
「……うん。これ以外にも、たくさん」
驚きの言葉は口にしなかったものの、外との差異に随分圧倒されているようだった。外にはどんな食べ物があるのだろう。昔に本で見たケーキやオムライス、ハンバーグなんかもあるんだろうか。どんな味がするんだろう。今食べているこれとは、違うのだろうか。
右手に握った固形食はいつも通りの味で、やっぱりよくわからなかった。
「……いつか、食べてみたいなあ」
無意識のうちに口から漏れ出したのつぶやきは、だれにも拾われることなく静寂に溶けていった。仕方のないことだ。どうせここから逃れることはできないのだから。
ちょうど朝食を終えたあたりで、コンコンと部屋の扉がノックされる。もう検査の時間らしい。
「はーい」
私たちは返事をして、検査に向かった。
検査はいつも通り。聴診器の冷たさに少しびっくりしたくらいだった。
簡易的なベッドと、向かい合った二つの椅子。無機質な灰色の壁には、誰かがひっかいたような爪痕が残っている。目の前に座った職員の机上のモニターには、到底理解できそうにもない数字がずらりと並ぶ。見ているだけでくらくらしてきそうだった。
「それでは、いいですか」
髪のはさまれたボードを片手に持った職員が、決まりきった質問をする。これは、始めの合図みたいなものだった。私がうなずくと、彼女は淡々と話し始める。
「今朝は、いつもと体調に変わりはありませんか」
「うん」
「朝食は問題なく取れましたか」
「うん」
「その左腕のことで、何か変わったことはありませんか」
「ないよ」
「きちんと睡眠はとれましたか」
「うん」
「ふむ。変わりなし……と。はい、では失礼しますね」
ボードに何やらさらさらと書き込んだ彼女は、私の額に機械を向けた。ピッという音がしたこと思うと、その画面上に表示された数字が読み上げられる。
「三十七度二分。はい、正常ですね」
変わらずの三十七度台。なぜかは知らないが、私の体温は普通の人間よりちょっと高いのだ。
「では、まずは右手をこちらに」
言われるがままに右手を差し出すと、右手首に指をあてられる。この職員んは少し体温が低いのか、ひんやりとしていた。
「脈も問題なさそうですね。では、左手を」
今度は左手の番だ。こっちはどこが手首に当たるのかいまいちよくわからないのか、脈を測るようなことはしなかった。代わりにぺたぺたといろんな所を触られる。もう慣れていたし、いやというわけではないのだけど少しくすぐったい。早く終わらないかなあ。
「はい。特に問題はなさそうですね」
もう気が済んだのか、彼女は私から手を離した。それからボードに目を落とし、程なくして口を開く。
「はい、健康状態に問題なし。経過も良好と見られます。それでは、ドアの外で担当の職員が待機しておりますので、お部屋までお戻りください」
「はーい」
どうやら今日はもう終わりらしい。これから実験の予定はないようで、特に別の部屋に通されることもなく終了した。職員の「また明日」という無機質な声を背に受けながら、私は部屋を後にする。
「あ、終わったみたいだね。それじゃ、部屋に戻ろうか」
扉を開けると、待っていたらしいゼロに手を引かれた。検査室から部屋まではそこそこの距離がある。ここでゼロはいつも私に他愛もない話をするのだ。
「今日も健康?そりゃあよかった」
「本棚の本、新しいのは何がいい?」
「食べ物の本がいい。たくさん載ってるやつ」
「おっけー。近いうちにもっていくよ」
「75とはうまくいってる?」
「うん。よく話すよ」
「そりゃあよかった」
コンクリートの床はひんやりとしていて、裸足にはちょっと冷たすぎるくらいだった。私がもっと小さかったころは持ち上げて運んでくれたりもしたのだけど、今はもう厳しいだろう。
横目に見える部屋の数々からは物音一つしない。ほとんどの部屋には私やトアと同じように番号の振られた子供たちがいるはずなのだが、防音がしっかりしているのだろうか。
外の食べ物の本を頼んだりしていると、あっという間に私の部屋が見えてきた。早くトアの顔を見ようと足早に扉へ向かったが、それはいくら力を込めても開いてくれない。
「ほらほら、いま鍵開けるから……」
ああ、そうだった。ここの扉には鍵が付いていて、職員の持つカギでしか開けられない仕組みになっているんだった。それすらも忘れて突っ走ってしまうなんて、子供っぽいことをしてしまったな。なぜかはわからないけれど、トアがいると考えただけでこうなのだ。
変だよなあと首をかしげていると、がちゃんと扉から音がした。
「ほら、開いたよ。それじゃ、またお昼にね」
ゼロはそれだけ言って私を中へ押し込むと、扉の鍵を閉めて行ってしまった。トアがいない頃なら少しそれを物足りなく思ったものだけれど、もうそんな風には思わない。
「トアー、帰ってきたよー」
大声で呼びかけてみても、返事はない。まさかと思い少し冷や汗をかいたが、当の本人はベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。
「あ……寝てる」
安心しきった表情で眠っている彼女の寝顔を見て、ほっと胸をなでおろす。以前のことがあったせいか、トアの返事がないときはどうしたのだろうと不安になってしまうのだ。まあ、何事もなかったからよかったのだけど。
しかし、トアはこんなによく眠る子だっただろうか。少なくともお昼寝なんかをしているのは見たことがないし、昨日の夜眠りについたのもそこまで遅くはなかったはずだ。実験か何かで疲れてしまったのだろうか。
よくわからないが、起こすのも悪いだろう。とりあえず本でも読もうかと立ち上がると、テーブルの上に一枚の紙切れがコップと一緒に置かれているのに気が付いた。
「なんだろ、これ」
手に取って読み上げてみる。
『ロロへ
今日はおくすりをのむよ。
このくすりはきぶんを落ち着かせるかわりにねちゃうらしい。
僕がねていたらそういうことです。
おきるまではしばらくかかるけど、めざめるからごあんしんを。
トアより 』
とのことだった。どうやら、これは彼女を対象とした実験だったらしい。トアの体に自らがつけた傷以外が見当たらなかったのは、これが原因なのかもしれない。投薬が中心の実験であれば、外傷が少ないのも納得できる。
「……なにしよう」
しかし、彼女が眠っているとなると、それは困ったものだった。トランプは一人じゃむなしすぎるし、お絵かきも一人じゃ楽しくない。トアが来てからというものの、二人で遊んでばかりいたせいで一人でいたころにどうしていたのかすっかり忘れてしまったのだ。
「とりあえず、本でも読むか」
なんとなしに目に付いた本を引っ張り出し、開いてみる。それはずいぶん昔に一度読んだことがあった、どこか遠い国の童話だった。もう内容は覚えていないし、そのまま読んでみることにする。
獣人の男の子と人間の女の子が、種族を超えて友情を育んでいく。
そして二人は、親友になる。そんな心温まるお話だった。
こんな場所が、ここの外にはあるのだろうか。
「……ねえ、なに、読んでるの?」
気が付くと、トアが私の後ろから本を覗き込んでいた。窓の外はもうずいぶん明るくなっており、お腹がぐうと音を立てる。
「ああ、もう起きたの?」
今日一日くらいは眠っているものかと思っていたが、そうではないらしかった。トアは「あー」と口を開く。
「んん、くすり、ちょっと小さかったから……かなあ」
まだ眠いのか、目をこすりながらいまいちろれつの回らない口で彼女は言う。どうやら目覚めてもしばらくは眠気が残ってしまうようだった。まあ、それくらいなら大したことはないか。
「ちょっと、失礼」
トアの声とともに、両手に持っていた本がひょいと持ち上げられる。もうとっくに読み終えていたから、取り上げ荒れても問題はない。トアはぱらぱらとページをめくり、軽く内容を把握したのか口を開いた。
「童話か。どこの国の、だろう。いい話だね」
表紙に印刷されたふんわりとしたタッチの絵を指でなでながら、彼女はにこりとほほ笑んだ。それは表紙の女の子と男の子の笑みに、なんだか似ているような気がした。
それから、その本は私たちのお気に入りとなった。いつか、そんな世界に行けることを夢見るための、お守りみたいなもの。それさえあれば、外の世界に希望を持つことができたのだ。
「……あ」
実験が終わり、部屋の扉が開かれ中に足を踏み入れると、工作用のはさみを持ったトアが目の前に突っ立っていた。彼女の左手首からはだらだらと鮮血が流れ出ており、真っ赤な水玉模様を床に描き出している。私と目が合うと、ばつが悪そうに眼をそらす。
「い、いや。これは、その……」
「いいから。ほら、こっちおいで。消毒しよう」
言い訳をしようとしたトアの言葉を遮って、私は彼女の手を引いた。こうしないと、すぐにトアは傷口を隠してしまうのだ。別にこの行為を否定するわけじゃない。ただ消毒をして適切な処置をしてやらないと、跡がくっきり残ってしまうから。
いつの間にか部屋に置かれていた救急箱からいつもの消毒液とガーゼ、包帯を取り出し、トアを座らせる。消毒液を含ませたガーゼを、少しいやそうな表情のトアの傷口にお構いなしに押し付けた。
「いっ……うう……それ、いたいのに……」
その瞬間にビクンと体を揺らし、痛そうにうめき声をあげる。
「この消毒なんかより、そっちのほうがよっぽど痛そうだけどなあ」
「これとあれとじゃ、話が、違うよ」
深々と切りつけたらしい生々しい傷口は、ピンク色の肉がのぞいていた。全く、どうやったらあのハサミでこんな傷がつけられるんだか。子供用の丸まった先端を思い出しながら、くるくると包帯を巻いていく。
彼女の両腕から包帯が取れたことは一度もなく、いつも傷だらけの細い腕は布切れをまとっていた。それは実験から帰ってきても、いつも同じ。この布の下を見られるのは、きっと私だけ。ほのかな優越感で私を満たしてくれるから、それも案外悪いものじゃなかった。
「痛いのはおんなじじゃないの?」
トアの発言が少し引っ掛かり、包帯を巻き終えてからきいてみた。彼女は言葉を探すように天井に目をやり、ううん、と唸る。しばらくしてから思いついたようで「なんかね」と口を開いた。
「刃物で切り付ける痛みと、消毒でしみる痛み。どっちも、いたいんだけど、違うんだ。切るほうは、びりびりする。しみるのは、じーんってする。違い、なんとなく、わからない?」
言われてみれば、確かにトアの言うとおりだった。痛みと一口に言っても、その中身は多種多様。ぶつけた痛みと新しい紙で指を切ってしまった時の痛みは同じ言葉で表現されるけど、まったく別のものだ。
「確かに。痛いって言ってもいろいろあるね」
「だよね、だよね……!僕は、切るのは、あんまり痛くないんだよね。でも、しみるのは普通に痛い」
私に同意されたのが嬉しかったのか、トアは珍しく声を上ずらせた。どうやら彼女は刃物で切り付ける痛みには強いらしいが、消毒の時のしみる痛みには弱いらしい。一時期は腕の痛覚だけが麻痺しているんじゃないかと思っていたが、そうではないらしかった。
「はい、おわり」
「ん、ありがと」
救急箱をもとの位置に戻し、トアの頭をなでる。その手を掴み、彼女は自分の頬にもっていく。私の真っ白な毛に包まれた左手は、彼女のお気に入り。すりすりと頬を擦り付けて、ふかふかを堪能しているようだった。これが落ち着くなら、まあいいかと思っている。
気が済むまでやったのか、トアは私の左手から離れた。そして、先ほど巻いた包帯をなでながらこんなことを口にした。
「また、こういうことがあっても、ロロは、手当てしてくれる?」
その顔はうつむいており、表情は見えない。だが、声が少し不安げに震えているのは、私でも分かった。
「なーに言ってんの。そんなの、しないわけないじゃない」
私は彼女に歩み寄り、ぎゅっと抱きしめた。一瞬ぴくりと肩を揺らしたが、すぐに体を預けてくる。よしよしと再び頭をなでてやると、安堵したように息をついた。
「よかったあ。じゃあ、これからも、安心して、切れるや」
にかっとした笑みを見せた彼女に、ちょっと呆れてしまう。
「そこ安心していいとこなんだ……」
でもまあ、こういうところも含めてトアってことなんだろう。仕方ないなあ、なんて思いながら私はしばらくそうしていた。
それから、しばらくたったある日。私たちは部屋の外に連れ出された。ごはんの時間でもないのに、実験だろうか。でも、二人まとめてなんてことは今までになかった。じゃあ、これはいったい……?
「……ついてきて、二人とも」
そう静かに告げるゼロの表情が、妙に暗かったのを今でも覚えている。ひんやりした廊下をペタペタと進み、いつもの検査室を通り過ぎた。そこで、なんとなく悟ったんだと思う。
私たちはこれから、未知の場所に連れていかれるのだと。
それがどこなのかはわからない。知る由もない。
外かもしれないし、そうではないかもしれない。
ただ一つ、断言できたことといえば。
これから行く場所が、いい場所ではないってことくらいだ。
隣を歩いているトアは、最初こそ不安げに辺りをきょろきょろと見まわしていたのだが、やがてもう何かを察してしまったのか、私と手をつなぎながらぼうっと進行方向だけを見つめて歩いていた。ああ、きっと君も気が付いてしまったのだろう。
これから私たちを待ち受けているであろう、悲惨な未来に。
「着いた。ここだよ」
ふと、ゼロが足を止めた。その目の前にあるのは、大きな鉄扉。横の壁には厳重に囲われたレバーが付いており、それで開閉するらしかった。ゼロが首元にぶら下げていたカードのようなものを機械に通すと、がちゃん、と音がする。
見ると、レバーを覆っていた透明な箱のようなものが上に持ち上がっていた。ゼロはそれに一つ息をついてから手をかける。
ああ、これからこの扉が開かれるんだ。私たちが行くのはきっとこの扉の向こう。いったい何が待ち受けているんだろうか。恐怖やら好奇心やら何やらがごちゃ混ぜになった感情が、私の脳を支配していた。
「……開けるよ」
その言葉を合図に、彼女はゆっくりレバーを下げた。ぎいいっと耳をつくような音とともに、鉄扉は開かれる。その先に、広がっていたのは。
「……外だ」
木々の生い茂る、深い森だった。
二股のしっぽの猫のような生物が、物珍しそうにこちらをじっと見つめている。今目の前に見えた銀色は、空を泳ぐ魚のお腹の色。ふよふよと空中を漂うクラゲが、風にさらわれ飛ばされる。それはまごうことなき、外だった。
ずっと、あこがれていたものだった。トアと二人でいつかと何度も思い描いたそんな場所。
ああ、やっと。
今すぐにでも飛び出して、その空気を肺いっぱいに吸い込みたいのに。
森を駆け回って、おひさまの下で遊びたかったはずなのに。
どうしてか、私の足は前に出てはくれなかった。
「ほら、早く行きなよ。望んでいた外なんだから」
いつの間にか、ゼロが後ろに回っていたらしい。背後から、震えた声がする。
「ここじゃあもう、きみたちは、用済みなんだ……だから」
そこでぐっと、ゼロは言葉を止める。それでも懸命に息を吸い込んで、彼女は続けた。
「ここから、出ていって……!」
そして、彼女は私たちの背中を押した。その衝撃で、思わず地面に倒れこむ。固いユアではない場所に手をつくのは初めてだったが、新鮮さはどこにもなかった。
「ゼロ……!」
振り返るころには、もう、扉は閉じかかっていて。
彼女が最後に。
「ごめんね」
そう言ったように聞こえた。
うっそうとした森に取り残され、途方に暮れる私たちの頭上。
大きな魚が一尾、悠々と通り過ぎて行った。
0
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