魚は空を泳いでいた

ぬこぎつね

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時計塔のある街で

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兎の里を超え、草原を半日歩いたところ。レンガ造りの大きな建物たちが目に飛び込んできた。 
「おお……!」 
ロロは赤みがかった瞳をキラキラと輝かせ、思わず感嘆の声を漏らす。そりゃあそうだ。あの施設からじゃ高い建物なんて見えやしなかったのだから。かくいう僕も、ここまで大きな建物を都市部以外で見たことはなかった。 
「すごいでしょ。ここ、ぼくら側で一番大きな街なんだ」 
コハクが得意げに胸を張りながら教えてくれる。やはり人外側の中でも都市部にあたるらしかった。でも、人間側のほうによく見るビルのようなものはどこにも見当たらない。それでも僕らを圧倒するには十分なものだった。 
「ほら、いつまでもぼさっと突っ立ってないで早く行こうぜ」 
コハクの肩に乗っかっていたライムがぴょんと地面に降り立ち、こちらにむかってゆらりと尻尾を振ってみせる。これは彼がよくする癖のようなもの。僕らが手招きをするように、ライムはふさふさのしっぽで僕らを促すのだ。 
「ん、そうだね。行こうか」 
コハクも彼に同意して歩き出そうとしたのだが、何か思いついたのか声を上げて振り返った。 
「あ、二人ははぐれないように僕と手をつなごうか」 
そう言いながら、コハクは僕がロロとつないでいないほうの手を掴む。ロロほどじゃないけれど、彼の手もふかふかしていて肌触りがいい。僕の手を握りつぶさないようにしているのか、その感触はひどく優しかった。 
「じゃ、行こう」 
コハクに手を引かれ、僕らは街に足を踏み入れた。すぐに目に飛び込んできたのは、大勢が飛び交う大通り。その奥にそびえる、見上げるほどの時計塔。猫耳犬耳何でもござれ。羽をはやしたのはカラスだろうか。鱗の生えた尻尾を揺らす者も。人間っぽいものが見えたかと思えば、それは足の部分が透けていたり。 
人型から種族の形をとるものまで十人十色。様々な人ならざる者たちが、僕の目に映り込んでは去っていく。これは、ずいぶんと……。 
「……すごい……」 
完全に圧倒されてしまった僕の口から飛び出したのは、そんな普遍的な言葉だけだった。この場所を的確に表現できるほどの語彙力を、僕は持ち合わせていないのだ。 
「……ほんとだね」 
ロロも僕と同じなのか、あまり言葉が出てこないみたいだった。ただ、その瞳は輝いていて。彼女が抱いている感情が、好意的なものなのだと悟った。 
さすがのライムもこれには少し驚いたのか、そこで足を止めてしまう。数秒間そうしていたが、やがてあきらめたようにコハクの肩に上っていき、ふうと息をついた。 
「悪い。ちょっと多いのは苦手だ。コハク、どっかホテルでも探してくれ」 
「わかった。じゃ、ちょっと横道にそれようか」 
どうやらライムは人混みが苦手なようだった。人かと言われればそれはもちろん違うのだけど。コハクは彼の頭をぽんぽんとやってから、比較的人通りの少ない道に進路を変える。 
いくら通る者が少ないといっても、まったくいないわけじゃない。そこそこの賑わいはあるようで、あたりは楽しそうな話声で満ちていた。歩いていく僕らの横を、小さな子供が駆け抜けていく。頭に生えた角はまだ短く先も丸まっている。それをなんとなく目で追ってしまう。 
『ほらほら、早くついて来いよー!』 
『ま、待ってよお……』 
前を走る子供は、どうやら足が速いようだった。後ろに続く子は運動が苦手なのか、おぼつかない足取りながらも懸命に彼を追いかける。彼らが何を言っているのかはよくわからないが、どうも微笑ましい光景というわけではないみたいだ。 
『おっせーなあ。早く来いよ!のろま!』 
『うう……』 
彼らの話している言葉は僕にはわかりやしないけれど、僕にはなんとなくその意味が分かってしまうのだ。きっと、それは昔の僕によく似ていたからだと思う。悔しそうに目を潤ませた、角をはやした少年が。 
『悔しかったらもっと速く走れよな!ま、ろのまのお前には無理かもなー』 
その言葉以降、少年が何かを発することはなかった。ただ無言で立ち上がり、とぼとぼと先を行く子供を追うだけだ。そのうなだれた背中が。やけに、目に焼き付いた。 
「トア、どうかした?」 
僕の視線が彼らに向いていることに気が付いたのだろうか、ロロが不思議そうに尋ねてきた。その瞳は相変わらず輝いていている。ああ、君が期待するようなものじゃないんだよな。僕はちょっとだけ笑って見せる。 
「なんでもないよ」 
その言葉だけ彼女に告げた。 
「そっか。あんま無理しないでね。今日は荷物も多いんだから」 
ロロにぽんぽんと頭をなでられて、僕らの会話は終了した。そこで初めて、背中にずっしりとのしかかる重みに気が付く。そういえば、兎の里から貰ったものを詰めていたんだったな。これはどうするんだろう。 
なんてことを考えていたら、少年たちはいつの間にか姿を消していた。いくら昔の僕にそっくりだったからと言って、手を差し伸べるほどの勇気と強さを僕は持ち合わせていないのだ。少しだけ自分に嫌気がさしたような、そんな気がした。 
「あ、なんか落ちてる」 
そのまま通りを歩いていると、コハクが突然立ち止まる。彼の足元には、黒い物体が転がっていた。落とし物だろうか。 
「んー……なんだろう、これ……?」 
コハクはかがんでそれを拾い上げると、不思議そうに首をかしげる。ライムが彼の肩からそれを覗き込むが、答えは同じようで首を横に振った。 
「ねえ、これなんだかわかる?」 
振り向いた彼の手にあったのは、拳銃。 
「……なにって、銃、じゃないの」 
僕が至極当然のように答えると、コハクとライムはぽかんと口を開けて。 
「じゅう……?なにそれ?」 
「銃?それって何をするものなんだ?」 
「え、知らない、の……?」 
こくんと頷いた二人の目には曇りがなく、目をそらすこともない。どうやら本当に銃を知らないようだった。これはどうしようかと息をつくと、ロロが僕の袖口を引く。 
「あの……私もよく知らない……」 
ああ、教えなければいけないのが一人増えたみたいだ。 
「じゃあ、説明、するよ」 
僕はコハクから銃を受け取り、僕を取り囲むように丸くなった三人に良く見せてやる。説明するといっても、僕だって実際に見たり触ったりするのは初めてだ。本で少し見たことがある程度の浅い知識しかない。とりあえず、知っていることを話してみよう。 
「これはね、人の使う武器……って言ったらわかる、かな。ここに、穴があるよね、この中には弾が入ってて、この引き金を引くと、それが、勢いよく飛び出すんだ」 
こんなものでいいのだろうか。小さな子供でもできてしまいそうな、簡単な説明。それでも三人は口をはさむこともなく、静かに聞いていてくれた。 
「その弾、当たったら痛いのか?」 
疑問に思ったのか、ライムが質問してくる。 
「そりゃ、痛いと思うよ」 
痛くなきゃ武器として成り立たないような気がするし。まあ、当たったことなんてないしその痛みの大きさなんて計りえないのだけど。彼は「ふーん」と合図地を打った後、こんなことを言い出した。 
「なあ、それ使えるのか?」 
「わ、わかんない……」 
何せ撃ったことなんて一度もないのだ。僕にできるかどうかなんてわからない。どうしようと引き金に指をかけたり戻したりしていると、ロロが僕の肩にポンと手を置いた。 
「とりあえずやってみたら?私たちは離れておくし、そこの空き地に向かってやれば危なくないよ」 
「そ、そう……?じゃあ……」 
三人が僕から距離をとったのを確認してから、ゆっくりと引き金に指をかける。片手でなんてとてもできないだろうから、しっかり左手を添えて。 
引き金を、引いた。 
「……へ……?」 
だが、そこから弾が飛び出してくることは一向になかった。 
「どうしたの?出てこないけど……」 
三人も不思議そうに寄ってくる。ロロに銃を手渡して、ちょっと考えてみる。引き金が硬すぎるとか、そういうことではない。引き金は最後までちゃんと引かれているし、本体に異常があるわけでもなさそうだ。 
そうだとしたら、もしかして……? 
そんな疑惑が浮かんだところで、ぐしゃりと何かがつぶれたような音がした。 
「あー……壊れちゃった」 
ロロの手にあったのは、哀れにも粉々になってしまった拳銃。その残骸の中に、弾らしきものは一つも見当たらなかった。ああ、やっぱり。 
「……弾、入ってなかったんだ」 
僕の予想通り、それは玉切れだったみたいで。まあ、そうでもなきゃこんなところに置き去りにしたりしないだろう。 
「じゃあ、これはもういらないね」 
銃だったものは、ロロの手によってそこら辺に廃棄されることとなった。もったいないような気もしたが、コハクやライムが知らないのなら人外側には弾すらありゃしないだろうから持っていても荷物なだけだ。 
「やっぱ、人間とぼくらとじゃずいぶん違うんだね」 
「まあ、あんなものなくても魔法があるからな」 
「それもそうかあ」 
前の二人はもう興味が失せたのか、とっと歩き出してしまう。僕とロロもそれに続き、その場を後にした。



「おお、ここなんかいいんじゃない?」 
少し進んだあたりで、コハクが立ち止まる。目の前にそびえるのは大きなレンガ造りの建物。所々にお洒落な装飾が施されており、金ぴかに光るオブジェも入口に鎮座していた。 
「……ホテル?」 
「うん。ここにしようかなって」 
これはまた随分と豪華なものに。もちろん泊まれることは嬉しいのだが、こんなところに泊まれるほどのお金があるのだろうか。そんな僕の心配はつゆ知らず、ロロはきらきらと目を輝かせて口を開く。 
「これが……!ずいぶん大きいね」 
「うん……ここ、泊まれる、のかな……?」 
「あー……確かに」 
ロロも僕の言葉で理解したのか、ライムたちの顔色を窺った。 
意外にもその表情は明るく、コハクの問いかけに「いいんじゃないか」と頷いている。彼らの財産については何も知らないが、案外手持ちがあるのかもしれない。収入源もわかりゃしないのだけども。 
二人はしばらく話し込んでいたが、やがて辺りをきょろきょろと見回して声を上げる。 
「あ、あそこにあるよ」 
「お、よかったよかった。じゃあ、お前らあそこ行くぞ」 
その先にあったのは、こじんまりとした木製の建物だった。店のショウウィンドウにはよくわからない骨董品が並べられている。あれはたぶん、質屋とかいうやつだろう。なるほど。そこで僕が背負っている物たちを売ろうという算段らしい。 
「はーい」 
返事をしたロロに僕も続き、僕らは質屋に足を踏み入れた。中には所狭しと絵画や壺、よくわからないオブジェなどが詰まれており、カウンターらしき場所に続く細い道がかろうじてある程度だ。 
かき分けるようにしてどうにかカウンターにたどり着くと、羽とくちばしをはやした店員がにこにこと出迎えてくれる。 
「いらっしゃい。どんな物があるのかね?」 
片目にかけた眼鏡を触りながら、彼はそんなことを尋ねる。 
「ああ、兎の里で貰った物なんだが……トア、リュックおろしてくれ」 
「う、うん。よい、しょっと」 
ライムの指示で僕がリュックサックをおろすと、店員が近づいてきて「失礼するよ」と覗き込む。 
「ふむ……これは素晴らしい……!」 
しばらくリュックの中身をごそごそとあさっては品物を見定めていたが、やがて大きく頷いてカウンターへと戻っていった。それから駆け足で戻ってくると、重たそうな茶色の袋をぼんとカウンターに置く。 
「よし!これを全部持って行ってくれ!」 
受け取ったコハクが、中を覗き込んで目を見開いた。 
「え、こんなにもらっていいの……?」 
「……うおっ。こりゃすごいな」 
コハクの肩に上ってきたライムも中を覗き込んで声を上げる。試しに僕も少し覗いてみたが、そこにあったのは僕の知っている紙幣ではなく、ピカピカに光る硬貨のようなものが沢山詰められているだけで、その価値はよくわからなかった。 
店員は「いいんだよ」とほほ笑んで。 
「あそこの里の骨董品なんて滅多に外に持ち出されないんだからね。どうやって手に入れたのか、寧ろ教えてほしいくらいなんだ。まあ、そんなことを聞くのも野暮かねえ。いやあでも、一体どうやって……」 
饒舌に語っていた店員だったが、やがて落ち着いたのか息を一つついた。それから両の翼でばさっとカウンター叩き「ともかく」とくちばしを開く。 
「それは持って行ってくれよ。この街にはいろんな物があるんだ。その金でそこのお嬢ちゃんたちにいいものでも食わせてやんな」 
言葉こそ少々荒々しかったものの、店員は優しく僕とロロに笑いかけた。お嬢ちゃんだなんて呼ばれるのは少し恥ずかしかったけれど、僕は感謝の意を込めてぺこりと頭を下げ、コハクたちと共にその店を後にした。 
「じゃあ、金も手に入ったことだしホテルにでも行くか」 
「部屋あるといいねー」 
「まあ一部屋くらい空いてるだろ」 
通りに出るとすぐに、コハクとライムはそんな話をしながらホテルへ歩き出す。僕とロロはその背中を追う。先ほど見つけたホテルに入ると、豪勢な大理石のエントランスホールが僕たちを出迎えた。 
入口あたりで深々と頭を下げるホテル職員に少し圧倒されながら、ずんずんと進むコハクたちの後を追う。彼らは周りの空気など気にもせず、のんきにご飯の話なんかをしている。 
「ようこそお越しくださいました」 
カウンターに着くと、枝分かれした角をはやした鹿の獣人がにこやかに出迎えてくれた。 
「ああ、どうも。えっと、僕たち四人なんだけど部屋は……」 
「あ、俺はでかいベッドはいらないぜ。だから三人部屋にしてくれよ」 
四人部屋を手配してもらおうとしたコハクの言葉を遮り、ライムが三人部屋を希望した。確かに彼の体格じゃ、人型用のベッドなんて必要ないだろう。職員はパソコンをカタカタとやってから口を開いた。 
「はい、ご用意できました。それでは、ここにお名前を」 
差し出された紙にコハクが名前を記入すると、職員はカギを一つ手渡した。それには302と部屋番号らしき数字が彫り込まれた石のようなものが付いている。 
「そちらがお部屋のカギになります。お部屋への移動はそちらのエレベーターをお使いください」 
「はい。ありがとうございます」 
コハクがお礼を口にすると、その職員は言葉の代わりにお辞儀を返した。どうやらこれで宿泊のための手続きは終わったらしい。コハクはくるりと振り返り、笑みを浮かべる。 
「じゃ、行こっか」 
そう言って歩き出した彼の背を追って、僕たちはエレベーターに乗り込んだ。三階のボタンを押すと、扉が閉まり、独特の浮遊感に包まれる。少しすると、ポーンという音とともに扉が開いた。 
「コハク、俺らの部屋はどこなんだ?」 
エレベーターから一番に飛び出したライムがきょろきょろと辺りを見渡しながら尋ねる。 
「ちょっと待ってね。えー、僕らの部屋は……ああ、あっちだね。302号室」 
コハクがさっきもらったカギを見ながら指差して答えると、ライムがその方向へかけていく。よほど楽しみなのだろうか、いつもは控えめなしっぽが今日はブンブン揺れている。まあ、楽しみなのはいいことだよな。それを後ろから見守るコハクの顔も微笑ましい。 
「あ、あった!ここだぞー」 
てってってとかけていったライムは、一つの扉の前で立ち止まる。その扉には数字で302と書かれているのは、後から追いかけてきた僕も確認できた。 
「なあなあ、早く開けてくれよ」 
「はいはい。今開けるからねー」 
がちゃんと鍵の開く音。少し重たそうな扉が開いたその瞬間、ライムが中に飛び込んでいく。 
「なんか、あの部屋みたいだなあ……」 
ぽそり。今まで静かだったロロがつぶやいたのは、そんな言葉だった。 
確かに鍵付きの扉とか、ドアに書かれた数字なんかは似ている気がする。それにさっきのライムとコハクのやり取り。それはまるで、あの頃の僕らとゼロのようで。 
「確かに、ちょっと、わかるなあ。でも、ここは違うよ。ほら、中入ろう?」 
僕の言葉一つだけで少し暗くなっていた彼女の顔が、ぱっと明るく様変わり。これも魔法みたいなもんだな、なんて思いながらロロの手を引いた。 
「……おお……!」 
中に足を踏み入れた途端、ロロが感嘆の声を漏らす。それも無理はないだろう。目の前にあったのは豪勢なソファーにテレビ。所々に装飾の施されたお洒落なテーブルの上には、おいしそうなお菓子がかごに入れられていた。そして、その奥には大きなベッドが三つも鎮座していたのだから。 
あの施設の簡素な家具からは想像もつきそうにない、華やかで綺麗なものばかり。僕だって、圧倒されて声も出ない。固まる僕の手を、ふかふかの柔らかな手が掴む。 
「ねえねえトア!これなあに?」 
興奮気味に口を開いたロロが指さしたのは、少し分厚いテレビ。僕の家にあったのはもうちょっと薄い奴だったような気がする。ロロはあそこから出たことがないのだから、知らなくっても当然だった。 
「これはね、テレビ、っていうものなんだ。ええっと、あ、あった。見ててね」 
口で説明するよりも、実際に見せたほうが早いだろう。僕はテーブルに置かれていたリモコンを手に取って、真っ黒な画面に向けてボタンを押す。すると、画面にマイクを持った人物が映し出される。 
「おお……!なんか出てきたよ!」 
ロロは僕とつないだ手をぶんぶんと勢い良く振りながら、目を輝かせ食い入るように画面を見つめている。ちょっと肩が痛いけれど、ロロが楽しいならそれでいいか。 
内容は普遍的なニュース番組のようで、先程のリポーターと中継をつないだスタジオで知らない場所の傷害事件を報道していた。そこに並ぶのは角が生えていたり、耳がのぞいていたり、はたまたうろこの生えたしっぽを揺らす者たち。人間の姿はどこにもない。それでも、読み上げられるニュースは聞きなれたものばかりだった。 
「ねえ、これ、中にこの人たちが入ってるの?」 
そんな今まで考えたこともなかったような疑問が横から飛んできて、僕の思考は現実に引き戻された。 
「んー?そりゃあな、そんなかには誰もいないぞ。それを別の場所でカメラで撮って、ここに映してるんだが……これでわかるか?」 
僕たちの会話を聞いていたのか、ベッドでくつろいでいたライムが説明してくれる。それなりに分かりやすい説明だったような気はしたが、ロロにはいまいち伝わらなかったらしい。 
「うん?そうなんだね」 
それでも何とか自分の中で納得のいく結論が出せたようで、それから彼女がこの質問をぶつけてくることはなかった。 
しばらくテレビをいろんな角度から眺めたり、触ったりしていたが、やがて飽きたのかベッドにぼふんと飛び込んだ。 
「おー!これふっかふかだよ!トアもこっちおいでよー」 
歓声を上げたロロは、掛布団に顔をうずめたまま僕を呼ぶ。僕はテレビを消してから彼女のもとへ歩いていき、同じようにベッドに飛び込んだ。 
施設のものとは比べ物にならないくらいにふかふかな掛布団が僕を包み込み、マットレスの反発で少し体が跳ねる。さらさらとしたシーツは肌触りがよく、これなら二度寝なんで比ではない、四度寝五度寝くらいまでは余裕でかましてしまいそうだ。 
「んん、こりゃあいいね」 
「でしょでしょ。こんなの初めてだよ!」 
なぜか得意げなロロの左手をなんとなくいじくっていると、コハクが僕たちに声をかけてきた。 
「このホテル、大浴場があるんだって。ぼくとライムは行くつもりなんだけど、二人はどうする?」 
伏せていた体を起き上がらせると、コハクがタオルと替えの服を持って立っていた。 
「大浴場、かあ。ロロ、どうする?」 
「だいよくじょうって?」 
ロロに聞いてみたのだが、彼女は首を傾げるばかりだ。まあ、大浴場なんて入る機会もなかっただろうし、存在を知らなくても仕方ないだろう。 
「大浴場っていうのは、大きなお風呂のこと、だよ。そこに、たくさんの人が、一緒に入るんだ」 
「へえ、そうなんだ。んー、だったら……うん、やめとこっか」 
僕の説明で理解できたらしく、ふんふんと頷いた。それから僕の左腕にちらりと目をやってから、結論を出す。そりゃあそうだ。流石に傷だらけの腕を公衆の面前にさらすわけにはいかないし、きっと人間も少ないだろうから余計に浮いてしまうだろう。 
「うん。僕たちは、やめとくよ」 
「ん、わかった。部屋にお風呂はついてるみたいだから、そっちで済ませてね。じゃ、僕らは行って来るよ」 
「後でなー」 
ライムを頭に乗せたコハクはひらひらと手を振って、部屋を後にした。僕の腕の事情も分かっているせいか、特に深入りしてくることはない。こんな距離感は何とも心地のいいものだった。 
「お風呂、沸かしておこっか」 
「うん。お願い」 
ロロにお風呂を沸かしてもらっている間に、僕は包帯をほどいておく。シュルシュルとほどいていけば、ぼこぼことした傷だらけの腕があらわになる。自分でやったくせに、生々しい傷を見ていると嫌でも後悔してしまう。 
ロロに気づかれないようにひっそりとため息をついて、この気持ちを逃がしておこう。ロロは僕のことをよく見ているのか、些細なことでもすぐに心配そうな顔をする。それはありがたいんだけど、ちょっとお節介に思う時もたまにあるのだ。 
「トアー」 
そんなことを考えながらベッドでくつろいでいると、お風呂場のほうからロロがやってきた。 
「ん。沸いた、の?」 
「うん。そうみたい。ここは音とかならないんだねー」 
「へえ」 
彼女の言う音というのは、あの施設のお風呂が沸いたときに流れていた音楽のことだろう。ここでも多少のお知らせの音のようなものは鳴っていたみたいだったが、やっぱりあの音楽じゃないとお風呂が沸いたって感じはなかなかしないものだった。 
「まあ、ともかく沸いたんなら、入ろう」
「うん。入ろっか」 
部屋に人数分置かれていたタオルを手に取って、僕とロロは脱衣所へ向かう。備え付けられた手すりやらなにやらは丁寧に磨かれたのかピカピカと輝いており、僕の顔が映りこんでしまうほどだった。 
美しい装飾の施された扉を開け、中に足を踏み入れる。特に話すこともないから、僕はとっとと服を脱ぐことにした。ローブは被るようになっているため、脱ぎ着はしやすい。ロロもさっさと脱いでしまったようで、もう下着姿になっていた。 
「なんか、また傷増えてない?」 
「……う、まあ、そういうことも、あるよ」 
そそくさと逃げ出そうとした僕の手を、ロロが掴む。そしてグイっとそのまま彼女の体に引き寄せられて、ぎゅっと抱きしめられた。白くてすべすべな肌と、ロロの少し高い体温。彼女の心臓のあたりからどくどくと鼓動が伝わってくる。ああ、あったかいなあ。 
「……よしよし。次からは、ちゃんと私に言うんだよ」 
「う、うん」 
大きくてふかふかの手撫でられて、思わず頬が緩んでしまう。ロロの暖かな瞳に映るのは僕、一人だけ。僕は彼女のこの目が好きだった。いつまでも、この瞳で見つめられるのは僕だけだったらいいのに。ずっと、僕だけの。 
「ほら、早く行こう」 
そんな思考に浸っていると、ロロが僕の手を引いた。もう彼女は裸になっており、タオルを片手に持っている。置いてけぼりを食らうわけにもいかないから、僕もすぐに下着を脱ぎ服と一緒に畳んでおいた。それからロロに手を引かれるまま、お風呂場に足を踏み入れる。 
「おお……!」 
先に中を目にしたロロが感嘆の声を漏らす。さすがの彼女だってあの施設でお風呂場くらい見たことがあるはずだ。そんな声を上げるようなものがあるのだろうかと、僕もロロの後ろから顔をのぞかせてみる。 
「……お、おお……!これは……」 
豪華な装飾の施されたタイルに、浴槽には泡がいっぱい。シャワーヘッドやタオル掛けには金があしらわれており、僕らの顔を映り込ませていた。人生のほとんどを灰色の施設で過ごした彼女にとって、声を上げさせるには十分なものだったのだろう。もちろん、それは僕にとっても。 
「豪華、だね。ずいぶんと」 
「う、うん。こんなの見たことないよ」 
僕たちはお風呂場の入り口に突っ立って目を奪われていたが、しばらくしてようやく足を踏み出すことができたのだった。 
「とりあえず、体洗おうか。ここは広いから、二人でも横に並べるしね」 
そんな彼女の言葉で、僕は風呂椅子に腰かけた。そして、ロロが僕の隣に風呂椅子を並べる。あの施設じゃ考えられないことだったが、ここではそれもたやすいことだ。 
見たこともないようなボトルに入れられたボディーソープで体を洗いながら、ロロを横目に見る。白かった肌はもうすっかり日焼けして、健康的な色合いになっていた。対する僕はと言えば、健康という言葉とは対極にいるかのような白い肌をさらしている。 
「おおー……!これすごいね!あわあわだ!」 
「んー、そうだねえ。やけに泡立ちがいい」 
施設のものよりも随分と泡立ちの良いボディーソープを執拗に泡立てながら、彼女は楽しそうに体を洗う。ロロの声がお風呂場に反響してさらに大きくなる。彼女にとっては見るもの全てが新鮮で、声を上げずにはいられないのだろう。そんな彼女を微笑ましく眺めていたら、ふと気が付いた。 
「ロロ、背、伸びた?」 
体を洗っていた手を止め、彼女は口を開く。 
「んー?そうなの?」 
「うん。そんな、気がする」 
あの頃は風呂場のシャワーを取るのも一苦労だったのだが、今目の前にるロロは背伸びをすることもなくそれを手に取りシャワーを浴びている。普段一緒にいるからあまり気になることはないのだが、こういう場面では目に付くことがあった。 
「トアは伸びたかなー。ちょっと立ってみてよ」 
そんな言葉とともにシャワーを向けられ泡を流されると、手を引かれて立ち上がる。鏡の前でロロと背中合わせで気を付けの姿勢をとってみた。ふわふわな彼女の髪の毛が首元に当たってちょっとくすぐったい。水にぬれた肌がくっついて、暖かな体温が直に伝わってくる。 
「んー……私の方がちょっとおっきいかなあ」 
「そう、みたい」 
鏡に映る僕の頭は、真っ白な頭よりも拳一つ分くらい低い位置にあった。昔からの身長差は今も変わらないようで、僕が今まで彼女を抜かしたことは一度もない。体の一部が人と違っても発育に影響はさほどないようだ。そんなことをぼんやり考えていると、ふいにポンと肩に手を置かれた。 
「頭洗うから、そこ座ってー」 
彼女とお風呂に入るときは、お互いの頭を洗ってあげるのが僕らの中での決まりのようなものだった。初めて一緒にお風呂に入ったあの日は、ロロにとっても大事なものなんだろう。 
僕は言葉通りに縦に並べられた風呂椅子の前のほうに腰かけるとすぐに、頭に熱すぎないお湯が降りかかる。 
「熱くないですかー?」 
妙にかしこまった口調で尋ねる彼女に「大丈夫、ですよ」と返しておく。いつぞやの美容院ごっこをえらく気に入ったのか、僕の頭を洗う時はいつもこうするのだ。僕もお客さんになったみたいな気分で、ちょっと楽しい。 
「シャンプーつけますね」 
ポンプを押し込む音がして、僕の髪に小さな手と大きなふわふわの手が忍び込んでくる。頭皮をわしゃわしゃと揉みほぐされていく。気を付けていないとすぐに眠ってしまいそうだ。なんだかロロが段々上手くなっていっているような気がするなあ。 
「かゆいところはないですかー?」 
「……ん、ない、です……」 
閉じかけた瞼をどうにか開いて、彼女の質問に答える。二つの手が離れ、またお湯で髪を流された。その温度は決して熱くはないのだけど、眠りに落ちそうになっていた意識にはちょうどいい目覚ましになったみたいだ。 
「よし、じゃあ、次は僕ね」 
「はーい」 
立ち上がり、風呂椅子をロロに譲ってシャワーを手に取る。ふわふわの真っ白な髪を少し堪能してから、彼女に声をかける。 
「じゃあ、濡らすよ」 
そのままお湯をかけようとしたが「あ、待って」と腕をつかまれて止められた。 
「そうじゃない、よね?」 
ああ、そういえばそうだった。今は美容院ごっこの真っ最中だった。 
「ごめんごめん。えっと、お湯、かけますねー」 
「はーい」 
僕の腕から手を離し、満足げに頷いた。髪をお湯で濡らしながら、少し角にもお湯をかけておく。うねった角は神経がつながっているわけではないらしく、触っても特に身をよじったり声を上げたりすることもない。 
「次はシャンプー、していきますね」 
お洒落な装飾の施されたシャンプーボトルから、いい香りのする液体を取り出して両手に塗り付ける。それをロロの髪の中に忍び込ませ、泡立てるようにして洗っていく。頭皮のマッサージも忘れずに。角も念入りに洗ってやる。 
「かゆいところは、ないですか?」 
そんな言葉で尋ねてみるのだが、すやすやと安らかな寝息を漏らす彼女にはとどいていないようだった。ちょいちょいと軽く頭をつついてやると「んん」と声を上げる。どうやら目覚めたらしい。 
「ああ……うん、ないです……」 
まだ目覚め切っていないのか、いまいち呂律の回らない口でロロは答えた。やっぱり人に洗ってもらうのは気持ちがいいらしい。シャワーを手に取って、温度を調節しながら次の決まり文句を口にする。 
「じゃあ、流しますね」 
「はーい」 
真っ白な髪に指を滑り込ませながら、くっついた泡を落としていく。ふわふわの髪に仕上がるように、丁寧に丁寧に。角の先についた泡も流してやって、これでおしまい。 
「はい。おしまい」 
ポンと肩をたたいて、彼女に終わったことを伝える。 
「ん、ありがとー」 
振り向いてにっと笑みを浮かべたロロが、やけに綺麗に見えたのは彼女には内緒だ。 
「じゃあ、湯船につかろうか」 
「ん、そう、だね」 
丹念に磨かれたであろう浴槽に手をかけ、僕たちは湯船につかる。泡の持ちはいいようで、まだふわふわの泡が水面を埋め尽くしていた。 
「おー!まだふわふわだー!」 
「さすが。高そうなだけ、あるね」 
ロロが水面の泡を掬い上げては落とし、掬い上げては落としていく。キラキラと目を輝かせながら、救い上げた泡を自分の頭に乗っけている。額のあたりに乗せられた泡は先のほうがとんがっており、大方それが何なのかは予想がついた。 
「見て見て!三本目の角だよー!」 
「おっ、かっこいいよー」 
「えへへー」 
想定通りの言葉ではあったが、得意げに笑みを浮かべる彼女を否定する理由もない。何よりも、ロロが楽しそうならそれが一番なのだから。 
「ね、トアも何かやってみてよ」 
「ん、そうだね。どれどれ……」 
三本角に言われちゃかなわない。僕は近くの泡を適当に掬い上げて、頭の上辺りに三角形になるようにくっつけてみる。それから、それをもう一つ。ロロの方を向いて、両手を軽く握ってポーズを取った。 
「……にゃ、にゃーん……?」 
お風呂場には僕とロロしかいないのだから、恥ずかしがる理由なんてありもしないのに。少しだけ上ずった声はしっかり反響してしまう。ああ、なんだこれ。顔のあたりに熱が集まってくるのを感じながら、彼女に目をやれば。 
そんなことは気にもせず、せっせと泡を掬い上げて頭頂部に乗せているところだった。あれ。あの三角形は……もしかして。 
「にゃー。へへ……どう、かな?」 
ほんのり赤らんだ頬で、僕とおんなじポーズをとって見せる。 
「……かわいい」 
思わず、口から言葉が飛び出した。そのまま二人で見つめあって数秒静止したのち、自分の発言に気が付いて。 
「あ、いや、その……」 
「それ、ほんと?」 
慌てて訂正しようとした言葉を、食い気味にロロが遮った。心なしか彼女の瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。体をぐっと僕のほうに乗り出してきたロロの気迫に負けて、僕は無言で頷いてしまう。 
「へへっ……そうかあ」 
緩み切った頬で、満足げに呟く。一体、どういう意味なんだ。それは。尋ねようと開いた口からは、何一つ出て来やしない。ここまで自分の口下手を恨んだ日はなかったと思う。 
「さ、あがろっか。あんまりいるとのぼせちゃうよ」 
「う、うん」 
結局何も聞くことができずに、ロロにお風呂からひっぱり上げられてしまった。 
ああ、どういう意味なんだ?僕に言われるのが、嫌だったわけじゃない、と思う。あんな嬉しそうな顔してたし。じゃあ、うれしいってことなのかなあ。でも、だとしたら一体どうして?ああでも僕も同じ言葉をロロに言われたらきっと嬉しいし、それとおんなじなのかな。 
なんてことを悶々と考えていたら、いつの間にか着替えは終わっていて。僕の肩を掴み心配そうな顔で僕を覗き込むロロが、目の前にいた。 
「……あ、トア?大丈夫?」 
「あ、うん。だいじょうぶ、だと思う」 
「ふー……よかった。お風呂あがってからずっとぼうっとしてるんだもん。どうしたのかと思ったよ。まあ、大丈夫そうでよかった」 
ほっと安堵の息を漏らしたロロ。あんまり心配させるのも悪いな。とりあえず、今日のことは考えないようにしよう。このままでいたら、そのうちどこかにぶつかったりしそうだし。 
いつの間にか首にかけられていたふかふかのタオルに顔をうずめ、一つ深呼吸。柔軟剤のいい匂いが鼻腔をくすぐる。よし。もう気にしない。切り替えていこう。僕が顔を上げると、窓辺でロロが手招きをしていた。 
「トア!こっちこっち!見てよこれ!」 
まだ濡れた髪を揺らしながら随分と楽しそうに呼ぶものだから、僕も見てみることにした。彼女の隣へ歩いていくと。そこには。 
素晴らしい景色が広がっていた。街のシンボルの大きなレンガ造りの時計塔。それに同じくレンガ造りの建物が軒を連ねる。その間に通された道には、沢山の者たちが行きかっていて。その頭上に広がるのは、夕焼け色に染まる空。雲の隙間を縫うように泳ぐ、大きなマンタ。半透明の体が太陽光を反射してキラキラと輝いていて。 
「……すごい」
言葉では表しきれない。っていうのは、こういうことを言うんだろうか。そう考えてしまうくらいには、その景色はいいものだった。 
「でしょでしょ!あー!明日はどこに行くのかなー?」 
「素敵なところ、だといいね」 
「ね!明日もいい日になるといいなあ……」 
夕陽に照らされた君の横顔。そんなふうに輝いた瞳を、明日も見られますように。 
ふと、マンタがこちらに微笑んだような、そんな気がした。 
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