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すれ違いには気が付かずに。

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 ◇


 エレノアは、抱きしめたまま、離してくれる様子がないその腕を、以前のようにポンポンと叩いた。
 婚約者として、幼い時から過ごしてきたエレノアには、レイがひどく弱っていることが分かってしまったから。

 レイが、人を傷つけることや、戦いを好んでいるわけではないことをエレノアは知っている。きっと、三年間もの戦地での時間は、レイを苦しめただろう。

「――――それで、あと一日我慢すれば、今度こそ私たちの婚約は解消されるってことよね?」
「そうだな。……でも、もう一度だけ、俺に機会をくれないか」
「……ねぇ。私は、魔塔の中では、好きなことを好きなだけして幸せだわ。魔道具があれば、生活に困ることもないの。だから、責任を感じる必要なんて」
「責任? 俺が、どんな目でエレノアのことを見ていたかなんて、知らないくせに」

 その瞬間、横抱きにされたエレノアは、ベッドへ壊れ物を扱うかのように降ろされる。

「レイ……?」

 不思議そうに首を傾げたエレノアを見つめるレイの瞳の奥は、何かの激情が渦巻いているようだった。

「やっと名前を呼んでくれた。そうやって……。俺のことを何とも思ってないのだって、何度も思い知らされても」

 何とも思っていないのは、エレノアではなくレイのほうだ。
 そう、抗議しようとした瞬間、その言葉は今一度、冷たく柔らかい唇にふさがれる。

「……英雄になんて、なりたかったわけじゃない」
「――――レイ?」
「はっきり言って、最前線では何度も死ぬかと思ったし、実際死にかけた。仲間が、次の日には動かなくなるし、ほんの少しのミスで、大事な人たちの命は、いとも簡単になくなった」

 エレノアは、黙って起き上がると、レイの体を抱きしめた。
 本当は、レイが、戦地に赴く前に、思いを聞いてあげるべきだったのだ。でも、それはできなかった。
 
「レイ、ごめんね」
「あの日、戦地に旅立つ日。エレノアがいなくて、俺が……どんな気持ちだったかわかる?」

 エレノアは黙ってしまう。
 それに対する答えを、持ち合わせていなかったから。

 それでも、戦地に赴くレイを、魔塔の長になることが決定しているエレノアが送り出してしまえば、どうしたって婚姻が結ばれる以外に道はなくなってしまう。

「――――英雄になったのは、エレノアのためだ」
「え……?」
「エレノアにふさわしい地位が欲しかった。俺は、侯爵家とは言っても庶子だから」

 庶子であることなんて、エレノアは気にしたことはなかった。
 だから、レイが失った腕を取り戻した直後、すぐに前線に身を置いてしまった時、自分と一緒にいることが辛くなったのだと判断したのに。

 エレノアは、動揺を隠すこともできず、冷たい感触のレイの右手に触れる。
 そこには、確かにエレノアの魔力が流れている。

「あの……」
「エレノアが、俺のことを好きではないのだとしても、手に入れることを諦められなかった」
「えっと。レイ、私はレイと結婚することはできない」
「――――俺が、何も知らないとでも?」

 そう言って、エレノアの瞳を見つめるレイは、怒っているような、ひどく悲しんでいるような複雑な表情をしていた。

 エレノアが、レイと婚約破棄を申し出た理由は、ただレイが責任のためにエレノアと結婚することを望まなかったというだけではない。

「この義手の力を維持するために、魔塔の中に身を置く必要があるのだろう?」
「っ……なんのこと」
「――――ところで、知らないのか? エレノアは、嘘をつくときに、耳が赤くなるんだ」
「え?!」

 耳に手を触れた瞬間、レイの唇が、とても意地悪気に歪められる。

(うぐ、はめられた)

 しかし、それはグラスを倒してしまい、ワインを床にこぼしてしまったように取り返しがつかない失態だった。

 ……実際にレイの義手が、通常の手と同じように動き続けるためには、エレノアは常に魔術を発動し続ける必要がある。
 2~3日であれば、魔術を切っても動き続けることが出来るにしても、それは時間の問題だ。

 たった一つ、解決する方法があるにはあるが、それは最終手段にしたかった。

 ほとんど見えない視力と、魔術を発動しているせいで、長距離の移動が難しい体を守ってくれる堅牢で安全な場所。そして、趣味の魔道具や魔法薬の開発を好きなだけできる場所。

 そんな条件を満たすのが、魔塔の中というだけの話で。

(魔塔の中でなくてはいけないわけでは)
「魔塔の中でなくてはいけないわけではない。そうだろう?」
「へっ?!」

 そんな場所があるのなら、エレノアだって知りたかった。
 怠惰に過ごすことができる空間を気に入っているのだとしても、たまに来る魔術師団長くらいしか会う人もいない生活は、辛いものがあったから。

「――――条件を満たす場所が、魔塔以外にもあると思わないか? その場所では、希少な魔獣の素材や、最先端の設備、遠い国の薬草も予算の申請なく使い放題だ」
「えっ、そんな場所があるわけ」

 レイが、エレノアの闇のような髪の毛をひと房指先でつかみ取る。

「――――この部屋、気が付くことはない?」
「え……?」

 魔道具が取り上げられてしまったせいで、魔力を使った室内の把握が難しいエレノアは、まだ室内の様子を把握していなかった。

「ああ、すべて取り上げてしまったのだったか。すまなかった。これからは、これを使って。賠償金に利子をつけた。これなら十分だと思うのだが」

 抵抗する間も与えず、レイがエレノアの指に指輪をはめる。
 その瞬間、魔力による探知が発動し、その指輪にはめられた宝石が、レイの瞳と同じ南洋の色をしていることを、エレノアは理解した。

「――――まるで、すべてが見えているみたい。向こうの部屋の様子までわかるって……。ずいぶん性能がいい魔道具ね?」

 たぶん、この魔道具を使えば、今までよりも広範囲の音を、自由に集めることも出来そうだ。

「ああ、王宮の宝物庫にあった神代のものだからな」
「はっ?! 神代のっ?!」
「今回の戦いの褒賞としてもらい受けたのだが……」

 エレノアは、頬を紅潮させて、その指輪に何度も指を滑らす。
 王国にも数えるほどしか残されていない神代に作られたアイテム。
 それは、エレノアが作る魔道具が目指す究極の形でもあった。

(じっ、実物に出会える日が来るとは!)

 指輪に頬ずりしたい欲求に何とか耐えているらしい、かわいい婚約者をレイは優しさとあきらめを混ぜた、複雑そうな表情で見つめていた。

「その頬を赤く染め上げているのが、この結婚指輪に込められた意味だったらいいのに」
「っ……レイ?」
「今は、理由がそれでもいいから、絶対にその指輪を外したりしないで」

 指輪をはめたエレノアは、初めて自分のいる部屋が、必要以上に広く、快適に整えられていることを知った。
 そして、部屋の奥の扉の向こうには、おそらく魔塔と比べても遜色のない、研究施設がつくられていることも。

「――――遠い南の海を見に行こうといった時、その海よりも興味を持っていた、人魚の鱗だってある。それに、遠い月から落ちてきたという石も」
「えっ……。ええぇ……」

 エレノアは、衝動に耐えることができず、扉を開いて飛び込んだ。
 そこは、エレノアが申請し、予算の関係で却下されたすべての機材、そして希少な素材で埋め尽くされていた。

「――――何?! この夢空間っ! えっ、これ聖女の涙では」

 ここまで来て、ようやくエレノアは、斜め上の理解をした。

「結婚しましょう、レイ」
「本当に? 気に入ってくれたのかな? エレノア」
「……王国と、ラプラス家の繁栄のために、ここに籠って力を尽くすわ! レイに、ちゃんと愛する人が現れるまで!」

 振り返った、エレノアの茜色の瞳は、輝いていた。

 レイがエレノアと結婚する理由が責任を取りたいという義務感から来るのだとしても、この婚姻がレイの役に立つのであれば、それでもかまわないとエレノアは腹をくくることにした。

 それくらい、この環境は魅力的だ。そして、この環境であればエレノアは社交ができなくても、レイの役に立つことはできるだろう。

「えっ……エレノア?」
「ただし、一つだけ条件があるの」
「――――ああ、妻の願いは全て叶えると誓うよ。この部屋から、俺の知らないうちに出てどこかに行ってしまう以外は」

 そう、この部屋に足りないものは、たった一つ。

「ふぅ。多分レイは、妻をダメにする人ね……。とりあえずベルセーヌに、魔塔からソファーを持ってくるように伝えて。あと、約束を守るように言ってね」

 二人の関係について、レイからの誤解をベルセーヌが解くのに、一万の兵を相手にすることが容易に思えるほどの、背水の陣のような思いをするなんてエレノアは知らない。

 そして、後日ベルセーヌではなく、レイが抱えてきた王都の新作スイーツに、舌鼓を打つことになることも。
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