Strawberry&Cigarette

雪葵

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The Troubles in Midwinter ー第5話ー

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 2月14日の夜。
 バレンタインデーに会いたいという結衣の希望を断ることができず、吉野はカフェで結衣を待っていた。

「吉野さん、お待たせしてごめんなさい」

 花のように甘い香りがふわりと漂った。

「……いえ」
 その気配に、顔を上げる。

 いつもよりも一層華やかに美しい結衣が、淡く微笑んで目の前に立っていた。

 ……どこか、雰囲気が違う。

 白く柔らかなハイネックのセーターに、ネイビーのふわりとした膝丈のフレアスカート。
 淡いグレーの女性らしいコートに、センスの良いショートブーツがよく似合う。

 今日は、仕事モードのスーツを着替えたのだろうか。シンプルだが上質なことがよくわかる服を品良く着こなしたその姿は、文句なしに美しい。

 あ——
 それから……。
 髪が、違うんだ。

 吉野は、そのことに気づいた。

 今まできっちりと後ろに束ねられていた髪が、今日は柔らかに解かれ、緩いウェーブを描いて両肩にかかる。
 艶やかなブラウンのその髪から、いつもよりも一層甘い香りが漂うようだ。


「……行きましょうか。
今日は、私が車で来たので……私の行きたい場所へ、付き合ってもらえる?」

 そういうと、結衣は恥ずかしげに、どこか不器用な微笑みを浮かべる。

 これまでの尖った空気を薄く拭い取ったような結衣に、吉野は戸惑いつつ頷いた。



✳︎



 カジュアルなイタリアンで食事を終えた後、結衣はハンドルを握って微笑みながら呟く。

「タワーのイルミネーションが、今とっても綺麗なんです。バレンタインまでの期間限定らしいから……どうしても見てみたくて。
 少しだけ、そこに寄りたいんだけど……いいかしら?」

「——ええ」

 吉野は、言葉がうまく見つからないまま、それだけ返した。



 タワーのよく見える公園の駐車場に車を停めると、二人はフロントガラスの真正面に華やかに輝くイルミネーションを黙って見つめた。


「…………
 少しも、楽しそうな顔をしてくれないのね」

 外の光だけが仄かに入り込む車内の闇と静けさの中、結衣がぽつりとそう呟いた。


「————」

「…………私では、だめ?
 あなたには、私は気の強いバカな女にしか見えない?」

「————そんなことは」

 吉野は、結衣の言葉を遮るようにそれだけ答える。

 ざわざわと混乱する気持ちを抑え込むのに精一杯で、結衣のどこか寂しげな瞳を見つめ返すことができない。


「——来週の金曜ね……私の誕生日なの。
 また、会えるかしら?」


「——————」


「……ねえ。
 こっちを見て。

 ……私のことは、嫌い?」

 結衣は、感情の動きを押し殺した吉野の瞳をじっと覗き込む。

「————」

「——あなたを、必ず幸せにする。
 だから——私を見て」

 そのまま、結衣の潤った瞳が近づき——
 しなやかな腕が、吉野の首にするりと回る。

 抵抗する間もなく——結衣の艶やかな唇が、吉野の唇に重なった。


 柔らかな唇の感触。
 滑らかに温かい、白い肌の匂い。
 その波打つ髪からだろうか——溢れるような花の香り。

 若く美しい女の甘く濃い香りが、吉野の肺に一気に流れ込む。


 結衣の唇は、そうする間にも一層熱を帯び——
 華奢な腰とふくよかな胸の感触が、吉野の身体に凭れかかるように密着する。

 その柔らかい重みに——
 それまで頑なに触れまいとしていた吉野の手が、結衣の肩を静かに捉えた。


 そして——

 その指にぐっと力が籠り、強く結衣の身体を引き離した。


「…………なっ……」

「————ああ。
 あなたのおかげで……はっきりわかった」

 吉野は、うわごとのように呟く。


「……俺が欲しいのは、これじゃない。
 あなたでは、だめなんだ——やっぱり。

 俺が欲しいものは——
 たったひとつだ。
 他には、何もいらない。

 それに……
 俺にこんなことしていいのはな……

 ————
 まあ、あいつは間違ってもこんなことしないがな」


 凛々しい眉をぐっと寄せ、呆然とする結衣を強い視線で見つめると、吉野は艶やかな微笑を浮かべた。


「……ちょっ……
 なに、これ…………信じらんない…………」

「——今度こそ、はっきり言います。
 あなたの気持ちに、俺は応えることができません。
 申し訳ありません……どうかご無礼をお許しください。

 これ以上、この件を無駄に引き延ばしたりは、どうかしないでください。
 今日、お帰りになったら……お父様にも、その旨をはっきりお伝えください。
 ペナルティがあるならば、何でもお受けします」

 一連のショックから我に返った結衣は、美しい唇を引きつらせ、怒りの爆発する寸前の不穏な空気をぶわりと逆立てて静かに呟く。

「…………へえ。
 思ったより無能ね、あなたって。

 この私を、ここまでバカにするなんて——
 こんな無神経な男、掴まなくて正解だわ。

 ——早く離れて!!!
 さっさと行ってよっ!!ムカついて死にそう!!!」

「……そうします。
 では。結衣さん、失礼します」

 吉野は静かに車を降り、結衣に向かって丁寧に礼をする。
 そんな吉野に砂でもかけるように、結衣の車は乱暴な音を残して遠ざかっていった。


 しばらく、夜の冷えた闇の中にそのまま佇んでから——吉野はゆっくりと夜空を見上げた。


 …………あー。

 恐らく——これでアウトだ。


 よくわからないが……多分、相当いろいろなことが、アウトだ。


 だが——
 なぜか、気分は沈まない。


 今の自分の行動は——
 隠すことなどできない、自分の本心だった。

 だから。
 どういう結果になっても、一切後悔はない。

 あいつへの気持ちを殺し続けた今までに比べたら、今の自分は、遥かに幸せだ。

 これでいい。


 必死に押さえつけていた心の中の自分が、やっと深く呼吸をしてそう呟く。


 ——ただ……


 ……あいつに会いたい。——今。

 どうしようもなく。


 叶うはずもない思いが、激しい波のようにうねりながら押し寄せる。

 その波を鎮める術もないまま——
 耐え難く痛む胸を抱え、吉野は青い月の光を見つめていた。



✳︎



 翌朝。
 朝一番で、吉野のデスクの内線が鳴った。

『吉野さん。小山田専務が執務室に来るようにとのことです』

 秘書の事務的な声が、地獄からの呼び声のように耳に響く。


「——わかりました。今行きます」


 ……落ち着け、俺。

 腹を括れ。


 ガクガクと震えそうになる膝を何とか立て直し、吉野は執務室へと向かった。


「失礼します」

 肩幅の広い大きな背が、明るい日差しの射す部屋の窓から外を見下ろしている。

「ああ、吉野くん……おはよう」

 小山田専務は、吉野を振り返ると穏やかに微笑んだ。


「————おはようございます」

 吉野はやっとそう言うと、深く頭を下げる。


「——娘から聞いたよ。昨夜の話をね」

 下げた頭に、低く響くその声が降ってくる。


「——この度は、大変申し訳ありませんでした」

 吉野は、そのまま顔を上げることもできず、一層深々と頭を下げた。


「……いや。
 悪いのは、こちらの方だよ。
 ——今回は、本当に申し訳なかった」


「————は?」

 吉野は、驚いたように顔を上げ、小山田を見た。

 小山田は、困ったような微笑を浮かべ、吉野に言葉を続ける。


「——結衣の振る舞いは、きっと随分君を困らせただろう。
 こんなふうに親の力を使ってでも、君に近づきたかったようでね。
 こんなことは初めてだったから……私も驚いていたんだ。

 ……まあ、とりあえず座りなさい」

「あ……し、失礼します」

 まだ青ざめた顔の吉野に、小山田は穏やかにソファを勧め、自分も向かい側に座る。


「私も妻も、どうやらひとり娘を甘やかして育て過ぎたらしい。あの子の我儘を、どうにも抑えることができなくてね。
 それに——
 君のような活きのいい男が娘とうまくいってくれたら……なんて、私自身もどこかでそんな期待をしてしまった。

 君が、娘にきっぱりとした態度を取ってくれて、私としてはむしろ有り難いんだ。
 ——どうか、許してほしい」

 小山田は、穏やかな声でそう言うと、吉野に深く頭を下げた。


 吉野は、その空気にやっと緊張を緩め、深く一つ息をついてから返事をする。

「……いえ……
 昨夜は私も、結衣さんに随分乱暴な言動を取ってしまったと……反省しています。
 ——どうかご無礼をお許しください」


 そんな吉野に、小山田はふっと浅く微笑んだ。

「そうらしいね。娘も完全にキレてたよ。
 これほど真剣にアピールしたのに、逆に別の人への想いを見せつけられた……こんな悔しい思いをしたのは初めてだって、泣き出しそうな顔で言っていた。
 さすが、社内に名高い吉野くんだな。
 ……あの子も、君には相当本気だったみたいだ。

 それよりも——君には、それほど深く想いを寄せる人がいたんだね。
 君に特定の相手がいない、という結衣の言葉を、私はすっかり鵜呑みにしてしまった。
 ……その人との仲に、影響はなかったかい?」

 そう言いつつ、小山田は再び済まなそうな顔をする。


「————いえ。……大丈夫です」


「そうか。それならいいのだが。
 それほどに深く想える相手がいる……とても幸せなことだ。
 ——その人を、大切にしなさい」


「…………
 ありがとうございます」


 大事に至ることなく、執務室を後にしてからも——
 吉野の胸の中には、行き場のない思いが冷たく覆い被さったままだった。


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