ずぶ濡れ子犬とだめおっさんの2週間

雪葵

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子犬を拾う

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 彼女と別れた。

 愛していた——はずだった。お互いに。

 一週間前、突然別れを切り出された。
 新しい相手は、営業部の係長だそうだ。
 俺の同期。すごい熱血ぶりでスピード昇進を果たした、エース的存在だ。
 日々黙々と画面に向き合うシステム開発部の俺とはまさに180度カラーの違う眩しい太陽。
 熱いのはいいが、俺には彼のどこがいいのかわからない。

「へえ。将来有望株だな」

「——そういうとこが、嫌なの」
 彼女——志帆しほは、感情のこもらない声でそれだけ答えた。

 何と言えばいいのか。
 おめでとう、幸せになれよ……そうやって祝えとでもいうのか。


 煩わしい感情の縺れなどに、向き合いたくない。
 渦の中へ力任せに顔や手足を突っ込んで変な生傷を抱えるのは苦手だ。

 昔から多少そういう傾向はあったが……段々と、渦の外へ逃げる安らかさに身を委ねることが増えた。もうすぐ30だ。アラサーなんて普通だいたいそんなもんだろ。


 そうして……いつも週末なんとなく一緒に過ごしていた相手の気配が、ふっと消える。
 これも、もう何度か経験した。
 上着を脱いだように——
 肩が軽くなったような。
 すうすうと風が通り、何か物足りないような。


 恋人は——
 自分にとって、着ても着なくてもいい上着のようなものなのか?

 そんな疑問が時々脳をかすめるが……
 必死に答えを探すのもどこか怠くて、いつも心の中にそのまま放り出した。




 十月の下旬。
 秋が深まり、肌寒い日も増えた。

 雨が降ると、空は憂鬱に暗く、無表情な灰色の雲が頭上に垂れ込める。
 細かに肌を濡らすその冷たさは、気づけば身体の芯にまで染み込むようだ。

 朝は微かに射していた日差しも再び閉ざされ、執拗な雨が降りしきる金曜の夜。
 改札を抜け、傘を広げながらバラバラと人の散っていく波に乗って歩き出す。
 傘を忘れた日、カラフルな自分の傘をひょいとさしかけてくれた志帆の温かな微笑みを、不意に思い出した。

 ——今更。
 ふっと、乾いた自嘲が漏れる。


 部屋へ帰る通りを歩いていると、少し前を傘をささずに歩く人影に気付いた。
 結構な雨足の中、重そうなリュックを肩にかけた後ろ姿は、どう見てもずぶ濡れだ。

 上背のある俺よりは少し低いだろうか。立ち並ぶ店の明かりに浮かぶパーカーとジーンズは、若者らしい服装だ。
 それでも……俯き気味に歩く華奢なその背は、いつ崩れてもおかしくないほどに心細く見えた。


 思わず近づき、傘をさしかけた。


 ——ん?
 そうしつつ、なんとなく思う。
 いつもの自分なら、そんな面倒臭い状況は率先して気づかぬふりをするところだ。

 ……まあ、たまには人助けもいいだろう。


 不意に雨が遮られたことに気づき、彼はゆっくりと俺を振り返る。

 街灯の明かりに照らされたそれは——
 透けるほどに白い肌と、端正な顔立ちをした、美しい青年だった。


「……濡れますよ」
 予想しなかった容貌にうまく言葉が見つからないまま、そう話しかける。

「——もう、とっくに濡れてます。
 それに……こんなふうに濡れたい時、ないですか?」

 僅かの間俺を見つめてから、そんな返事がさらりと返ってくる。
 寒そうなその口元を淡く綻ばせ、彼は少し可笑しそうに微笑んだ。

 思っていたのとはだいぶ違う返答に、一層焦りつつ言葉を探す。

「……どうぞ。
 この傘、使ってください。俺はもうすぐそこだから」
「傘はいりません。それにあなたが濡れます」
「でも。そんな荷物持ってわざわざ雨の中歩くことないでしょう」


「——そうだ。
 じゃあ……あなたの部屋まで、俺が一緒に行けばいい。
 これなら、俺もあなたも濡れずに済む。……どうですか?」

 彼は、当たり前のようにそう言うと、美しく微笑んだ。


「…………」

 言葉を失った。
 
 何を言っているのか。会ってまだ5分も経たない相手に。


 でも——

 それも、いいかもしれない。
 不意に、そんな奇妙なことを思った。


 こんなに薄ら寒い、暗い日に。
 ずぶ濡れで歩く彼と、一人になった俺と。
 何となく——どこか似ている。


『こんなふうに濡れたい時、ないですか?』
 彼は今、確かにそう呟いた。

 この青年も、何か悲しみを抱えているのだろうか。

 何かを投げ出してしまいたいような……その一方で、小さな明かりを引き寄せたいような。
 うまく説明のできないそんな思いを、この青年となら、分け合えるのかもしれない。

 意味不明な思考に、ぐっと引っ張られた。


「……なら、そうしますか」

 気づけば俺は、彼にそう答えていた。





「そこのドアがシャワールームです。バスタオルとかはその棚の使っていいので」
「ありがとうございます」

 びしょ濡れの彼に、まずシャワーを貸した。
 リュックの中までは水分は浸透しておらず、彼は自分の荷物から着替えを取り出すと、急に寒さを思い出したように浴室へ駆け込んだ。

 温かな空気とともにリビングに戻ってきた彼に、タオルを渡す。
 栗色の柔らかな髪の水分をそのタオルで拭き取る彼に、冷蔵庫から取り出した缶ビールをとりあえず渡した。

「あ……君、未成年じゃないよね?」
「はい、この前21になったんで。ありがとうございます」

 照明の下で、微笑みつつ缶を受け取るその姿を再確認する。
 濁りのない白い肌と、彫りの深い顔立ち……そしてさっきは気づかなかったが、瞳の色も。
 明るい茶色にグレーの煙を吹き込んだような——不思議な色だ。
 僅かに異国の血が混じっているのだろうか。

「じゃ、いただきます」

 プシッと躊躇いなくタブを開け、ごくごくと缶を呷る屈託ない振る舞いは、その端麗な容姿とはどこか不釣り合いだ。
 思わずふっと笑いが漏れた。

「……なんですか?」
「いや。見ず知らずの人間の部屋で、ずいぶん寛ぐなあと思って。……なんだか、人懐こい迷子の子犬でも拾ったみたいで」

「……
 まあ……外れてはないです」

「え?」
「逃げ出してきましたから。付き合ってた彼から」

「……」

 すんなりとは理解に結びつかない彼の言葉に、俺は思わずぐっと黙った。


「俺、今大学3年です。
 バーで出会った男性と、付き合うようになって……1年くらい経つのかな。

 大きな会社に勤めてて——仕事ができて、かっこよくて優しくて。
 本当に、夢を見ているようでした。

 その彼に、この前言われました。
『見合い相手との話が進みそうだ』って」


「——……」

「バーってのは、ゲイバーです。
 自分の性的指向がどうやらそんなだし、俺、今まで恋人って、いたことがなくて。——そういう場所がどんな所なのか知りたくて、こっそり行ってみたんです。
 その時に、たまたま近くの席で飲んでたその人と、すごく気が合って。
 運命だとか、思ったりして。——ちょろくてバカですよね。

 見合いのことを打ち明けられた時……もしその人と結婚しても俺とは別れたくないと、彼に言われました。
 ——彼が何を考えているのか、急に分からなくなった。
 俺はつまり、彼にとって単なるそういうレベルの遊び相手だったのか、と」


「…………」

 初めて恋をした男から、そんな話を。
 彼にかける言葉を、見つけることができない。

 ローテーブルに静かに置いた缶をじっと見つめるように、彼は言葉を続ける。

「彼からの電話もメッセージも、それ以来ずっと無視してました。
 そしたら、『今夜部屋に行く』って、今朝メッセージが来て。
 どうしたらいいかわからなかった。——こんな話、誰にも相談なんてできないし。
 とりあえず必要最低限の荷物だけ突っ込んで、部屋を出てきました。
 大学の講義終えて、フラフラしてたら雨降ってきて……傘もないし」


「——相談できない、っていうのは……ゲイであることは、誰にも言ってない、ということ?」
「そうですよ。
 誰にも。……親にも。
 全くの他人のあなたになら、話してしまってもいい気がして……ぶっちゃけ全部喋っちゃいましたけど。
 ——引いたでしょ?」

「……いや。
 友達にもいるし。特に抵抗はないよ。
 それより——今後もう関わるべきじゃない、そんな男」

 なんでこんなこと言ってるんだ、俺は。

 しかし……世間をまだ知らないこの青年が、タチの悪い男の餌になるのを、黙って見てるのか?

 豊富な恋愛経験を想像させる顔立ちとは裏腹に、恋などには全く不慣れで純粋な内面が、こうして少し話すだけでもありありと伝わってくる。
 まるで子犬のように真っ直ぐな男の子を、本当の迷子にしていいのか?

「あなたこそ、よく知りもしない相手にはっきり言いますね」
 彼はそう言うと、面白そうに笑う。
 冷ややかにさえ見える端正な顔が、突然子供のように幼くなった。

「まあ、どっちにしても間もなくおいとましますんで。突然お邪魔して変な話まで聞いてもらって。すみませんでした。
 ——雨、そろそろ止みそうだし」

 彼は立ち上がって窓を少し透かし、外を見る。
 このしなやかで心細い背中は、またひとりで夜の闇へ紛れていこうとしている。


「——行く場所はあるの?」
「まあ、なんとか探します。とりあえずネットカフェか……あんまり友達も多くないし、手間取りそうだけど。
 あの部屋は彼に知られてるから……新しい部屋を探そうかな」


「なら……ここにいれば? とりあえず」

 有り得ない言葉が、口を衝いて出た。


「————」
 彼は、驚いたように俺を見た。


「……でも……」
「ああ、もちろん君が嫌じゃなければ、ね。……そういえば、なんだかんだで一人にしちゃ広い物件借りちゃってるし。
 友達のとこを当たって居候を頼み込むより好都合だろ?
 あ、ちなみに怪しい者じゃないぞ。見ての通り、ただのしがないサラリーマンだ」
 俺も、自分の発したとんでもない提案をフォローするのに必死だ。


 それにしても——今日の俺は、恐ろしく鷹揚だ。
 普段ならこだわるあれこれと小さなことも、何だかどうでもいい気がした。

 俺も彼も、今それぞれに寂しさを抱えている。
 こうして寒さを少しでも凌ぎ合えるなら、シンプルにwin-winだ。
 それにずっと一緒にいるわけじゃないんだし。……まあ、数日とか、長くとも数週間とか、そんな感じだろう。

 しかも、今聞いた限りでは、こういう状況下でこの子がしっかりと頼れるような場所は、どこにもない。


 もしかしたら——
 彼は、自分の苦しみを吐き出す場所が欲しかったんじゃないだろうか。
 無意識に、誰かに縋りたくて。
 だからあれほど唐突に、傘を差しかけた男の部屋まで来るなんて言い出したのかもしれない。


 ならば、尚更。


 彼は、最初こそ怪訝そうな顔で俺をしばらく見つめたが、ふっとその険しさを柔らかく緩めた。

「……そうですね。どこから見ても善良な草食系リーマンって感じですね」
「えーと……褒めてるのかな?」
「すみません」
 ふっと小さく笑い、彼は続ける。
「あの……言っておきますが……俺、料理とか掃除とかマジ苦手ですよ。その辺何かを期待されても困るんですが」
 どこか的外れな彼の言葉が何だか可笑しくて、俺は思わず大きく笑った。
「ははっ……! 
 何も期待なんかしてないよ。
 こうして、気楽に誰かと喋っていたい……たまたまそんな気分なだけだ」
 ぞんざいとも言える俺の言葉に、彼もなんとなく曖昧に首を傾げた。

「……なら、いい……のかな。
 じゃ、少しの間お世話になります。なるべく早くなんとかするんで。
 江澤えざわ そうと言います」

浅倉あさくら 海斗かいとです。よろしく。

 それから……別に急いで何とかしなくてもいいから。
 その男とのあれこれがとりあえず解決するまでは、ここにいたら?
 ひとりきりで抱えて苦しむより……まあ俺みたいなやつにでも、全部吐き出せば少しは楽になるだろ」


 俺の付け足した言葉に、彼は一緒泣き出しそうに眉を歪め——やがて、雲間から日差しが射すような美しい笑顔を見せた。


 何だろう。
 俺自身全く知らなかった俺が、ここにいる気がする。


 江澤奏くんとの不思議な同居生活は、こうして何とも唐突に始まった。


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