雪山惨歌

瑠俱院 阿修羅

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前編 救助犬との出会い

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 目が覚めた時、俺は何もかもがいつもと違うことに気づいた。布団がない。机がない。朝日が射し込む窓がない。これは俺が飽き飽きしていた日常とは違う。だいいち、ここは俺の部屋じゃない。
そして、思い出した。そうだ。ここは雪山。俺は一人で雪山登山していて吹雪に遭い、道に迷って下山できずに夜を明かしたんだ。

 寒い。腹が減った。俺はこんなところで死ぬのか。登山なんかするんじゃなかった。思えば一人暮らしの大学生。3、4日姿を消しても誰も気づいてくれない。
昨日から助けを呼ぼうと何度もトライしているが、スマホはあい変らず圏外のまま。就活が思うようにいかないとさんざんSNSでぼやいていたオレが死んだら、絶対将来を悲観した自殺だと思われるだろう。いや、もうどう思われようとどうでもいい。どうせ死ぬんだ。

 どうせ死ぬなら、せめて、眠るようにやすらかに死にたいものだ。というか、眠ってるうちに死ねれば苦しくない。なぜ、一旦目が覚めたんだ。そのまま死ねれば手間がなかったのに。
とにかく、もう一度眠らないと。
眠るのに最も効果的な方法は何だ?そうだ。昔、母さんがしてくれたみたいに、寝る前のお話を自分に話して聞かせるのはどうだろう。

「昔むかし、あるところに…」
「ワン」
犬の吠える声が聞こえた。でも、まさか。こんなところに犬がいるわけがない。ここは雪山。明らかに空耳だ。
「ワン」
え?

 空耳のボリュームが上がった。
空耳も、一度は本物の音声と間違えてもらえないとプライドが傷ついて自己主張をするものなのだろうか。
「わん」
今度は心もち、聞こえ方がひらがな寄りに変わった。反応がないとバリエーションを変えるのか。
とりあえず、空耳の聞こえた方に顔を向けてみる。
犬がいた。セントバーナード犬が近づいてくる。これが救助犬か。やったぞ。俺は助かる。
「ようし、ワン公。こっちだ。おや、それは何だ?」
犬は首に小さな樽を提げていた。話に聞く気付けのブランデーというヤツだな。俺は樽に手をのばした。
「どれどれ」
「がるるるる」
「なぜだ。俺は遭難者だぞ。生死の境を彷徨う遭難者が気付けのブランデーを飲むのは当然の権利だろう。命令系統はどうなってるんだ。責任者、呼んでこい」

 犬は方向転換してすたすた歩きだした。
「じょ…冗談だよ。遭難者をほったらかして行くヤツがあるか。戻ってこい」
犬は何ともふてぶてしい表情で戻ってきた。
「言葉がわかるんだな。よし、俺は遭難者だ。早いとこ、救助してくれ」
「無計画な登山しといて遭難者、遭難者といばるな。冗談なんか言えるうちはまだ大丈夫。もう少し衰弱してからでも遅くない。もっと緊急を要する遭難者がいるかもしれないから、ちょっと、そこらへんを見回ってくる」

「そ…そんな殺生な。食料も底をついてるんだ。後生だから助けてくれ」
「だったら、あの態度は何だ。俺はご主人様に呼ばれて来たリムジンの運転手じゃない」
「つい、安心して。おま…いや、あんたはなんで人間の言葉が喋れるんだ?」
「驚くにはもう遅い。なんて鈍いヤツだ」
鈍いわけではなく、自己防衛本能だ。
今、腰まで抜かしたら死んでしまう。

「助ける価値があるとも思えないが、死を想定できる状況下に人間を置き去りにすることは俺の職業上のポリシーに反する」
聞きながらいつしか俺は指を組み合わせ、お犬様にすがる信者のポーズになっていた。
「それから、俺が首に提げてるこれ。見た目は単なるミニチュアの樽だが、中身はブランデーじゃない。地元の遭難対策本部が東京の偉い科学者に頼んで特別に開発してもらったイヌヒト・コミュニケーション・マシーンだ」
「『カールじいさんの空飛ぶ家』に出てきた犬語翻訳機みたいなものか?」 
顔色は分らないが、目の表情が変わった。
「子供向けのアニメと一緒にするな!」
「すみません。それはそうと、助けていただけるんですよね。お犬様」

 露骨に犬の機嫌が悪くなった。
「急に丁寧になるな。もちろん、助ける。それが仕事だ。俺の名は茂作。さ、おぶされ」
俺は慌てて犬の背におぶさった。
「眠るなよ。眠ったら崖っぷちを歩くぞ」
こんなことを言うからには、〈イヌヒト・コミュニケーション・マシーン〉には録音機能はついていないのだろう。
「ところで、どうして一人で山登りなんかしたんだ?」
 運転手に世間話はつきものだ。
「彼女にフラれて、就活も思うようにいかなくて、ライバルたちがみんな僕より優秀に思えて、毎日がいやになったんだ」
「寂しいのはおまえだけじゃない」
「無責任な気休めはよしてくれ」
「わかった。寂しいのはおまえだけだ」
 なんか、むかつく。

「なんか言ったか?」
「天地神明に誓って何も申しておりません」
犬は答えず、突然立ち止まった。
「どうした。急にフリーズして。道がわからないのか?」
「遭難者がよけいなことを言うな。言っておくがな、方角もわからず衰弱した今のおまえを生かすも殺すも、俺次第なんだぞ。おまえなんか見つけなかったことにして、麓の対策本部に『異常なし』と報告してもいいんだ」

「助けるのが仕事だと言ったじゃないか」
 もはや俺の声は、恐怖に裏返っていた。
「助ける。しかし、見渡すかぎり雪しか見えない山の中、延々と重い荷物を運ぶ俺の身にもなってみてくれ。単調な肉体労働を少しでも心楽しいものにしてくれたら、若干早く麓にたどり着くかもしれん。さっき、おまえが一人でやってたことがあっただろう」
 覚悟を決めて、眠るように死ぬための―。
「思い出した。そうか。お話だな」
「そう、それ。退屈しのぎにはちょうどいい。麓まで最速で運んでやるよ」
「お話か。それぐらい、おやすい御用だ」
俺が子供の頃に読んで聞かせてもらった物語をあれこれ思い出していると、茂作がぼそっと、すごみの利いた声で言った。
「何でもいいわけじゃないぞ。面白い話をしろよ」

「仮に…だ。仮にお話がつまらなかったら」
「その場に置き去りだ」
「ネタの切れ目が命の切れ目!?『千夜一夜物語』じゃあるまいし」
「違うのはおまえにとって、これが遠い国の昔話じゃなく現実だってことだな」
「な…何かのジョークだろ」
 声が震えた。
「じゃあ、出発だ。話を始めてもらおうか」
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