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第二十五話 廃嫡の噂
第二十五話 廃嫡の噂
王都では、噂はいつだって人より先に走る。
正式な発表が出る前に広まり、当人が知る前に形を変え、やがて半分は嘘、半分は真実のような顔をして街を歩く。だからこそ、ただの噂なら放っておけば消えることもある。
だが今回の噂は違った。
消えない。
むしろ、日ごとに輪郭をはっきりさせながら広がっていく。
――王太子エドガー、廃嫡か。
最初にその言葉が囁かれた時、たいていの者は半信半疑だった。さすがにそこまではいかないだろう、と。いかに婚約破棄が浅はかだったとはいえ、王太子という立場は軽くない。父王が叱責し、しばらく表へ出さず、周囲が火消しに走れば、それで終わると考える者もまだ多かった。
けれど、火は消えなかった。
王宮の混乱は続く。
ヴァルモン公爵家は一切譲らない。
社交界はエドガーへ冷たくなり、王太子宮へ寄る者は減る。
そして何より、国王が息子に対してかなり厳しい態度を取っているらしいという話が、少しずつ現実味を帯びて流れ始めた。
それで十分だった。
人は、“ありえない話”よりも、“ありえるかもしれない話”を恐れる。
王太子廃嫡。
その言葉は、今や恐れと好奇心を抱かせるには十分すぎた。
王太子宮でも、さすがにその噂は無視できなくなっていた。
最初に耳にしたのは、セラフィナだった。
午後、廊下の角を曲がった先で、侍女が二人、ひどく小さな声で話していたのだ。
「……でも、本当に?」
「まだ噂よ。でも、陛下がかなりお怒りだとか」
「もしそうなったら、王太子宮は――」
その先で、侍女の一人がセラフィナに気づき、顔をこわばらせた。
「あ……セラフィナ様」
二人は慌てて礼を取る。
けれど、その一瞬でもう十分だった。
何を話していたのか、分からぬほど鈍くはない。
セラフィナは青ざめたまま、どうにか笑みを作った。
「気にしないで。通りかかっただけだから」
「申し訳ございません」
侍女たちは頭を下げる。
だがその目の奥にあったのは恐れだけではなかった。
様子を見ている目だ。
もし噂が本当になれば、この女はどうなるのか。
そんな冷たい計算が、もう王宮の下働きにさえある。
セラフィナは何も言えず、その場を離れた。
胸がざわざわする。
廃嫡。
そんな言葉、自分には関係ないと思っていた。エドガーは王太子で、自分はその隣に立つ女になるのだと信じてきた。多少の不都合や混乱があっても、最後に勝つのは王家だと、どこかで思い込んでいた。
なのに今、その王家の中心にいるはずの男自身が、危うい立場にあるかもしれない。
そう考えた瞬間、足元が抜けるような怖さがあった。
同じ頃、エドガーのもとにも、その噂は届いていた。
もっとも、“届いた”というより、耳を塞いでいたのに入り込んできた、という方が近い。
「殿下」
年配の侍従が慎重に声をかける。
「何だ」
「本日予定されていた伯爵家との会食でございますが、相手方より急な辞退が」
「またか」
エドガーは吐き捨てた。
このところ、こんな報告ばかりだ。延期、辞退、保留、確認待ち。人も物も、何もかもが以前のように動かない。その苛立ちだけで、もう十分に腹は煮えていた。
侍従は言葉を選ぶように続ける。
「その……伯爵家側の使者が、少し妙なことを口にしたようで」
「妙なこと?」
「“今はまだ、どなたにつくか決めるには早い”と」
沈黙が落ちた。
それはほとんど、噂を認めているようなものだった。
エドガーの顔が引きつる。
「どなたにつく、だと?」
「はい」
「まるで私以外に選択肢があるような言い方ではないか」
「……」
侍従は答えない。
答えられないからではない。答えが出ているからだ。
あるのだ。
少なくとも王都では、そう囁かれ始めている。
もしエドガーが王太子の座を失えば、次は誰か。あるいは王家はどう動くのか。そういう“次”の話がもう始まっている。
エドガーは机を叩いた。
「ふざけるな!」
書類が跳ね、インク壺が揺れる。
「誰がそんな馬鹿な話を流している!」
侍従は低く答える。
「出どころは定かではございません。ただ……王宮内でも、まことしやかに」
「黙れ!」
怒鳴りつけたが、怒鳴ったところで噂は消えない。
それが余計に腹立たしかった。
エドガーはその場で歩き回る。
「父上だ」
やがて、低く絞るような声で言った。
「父上が余計な顔を見せたからだ。あれほど冷たく当たれば、周囲が勘違いするに決まっている」
だがそれも違う。
国王が冷たかったからではない。
王太子自身が、それだけの失態を重ねたからだ。
なのにエドガーはそこを決して見ない。
「全部、あの女のせいだ」
今度はもっとはっきりと吐き捨てる。
「あの女が大げさに騒ぎ立て、家まで巻き込み、王宮を混乱させたから……」
その時、部屋の外から控えめな声がした。
「殿下。セラフィナ様がお見えです」
エドガーは一瞬だけ顔をしかめた。
だが追い返すのも面倒だったのか、荒く言う。
「入れ」
扉が開き、セラフィナが不安げな顔で姿を見せる。
彼女は一礼し、ひどく慎重に口を開いた。
「殿下……少し、お話が」
「何だ」
冷たい返事に、セラフィナの肩がわずかに揺れた。
それでも彼女は続ける。
「今、王宮で……その……よくない噂が流れていると聞いて……」
エドガーの目が険しくなる。
「お前までそれを言いに来たのか」
「ち、違います。わたくしはただ、ご不安ではないかと――」
「不安?」
エドガーは笑った。
だがその笑いは乾いていて、ひどく刺々しかった。
「私が? 馬鹿を言うな」
セラフィナは何か言おうとして、言葉を飲み込む。
彼が不安でないはずがないことくらい、今の顔を見れば分かるからだ。
だが、それを指摘できるほどの近さは、もう二人の間にはなかった。
エドガーは苛立たしげに言う。
「そもそも、こうなったのは全部お前たちが煩わしい騒ぎを持ち込んだからだ」
セラフィナの顔が白くなる。
「……お前たち?」
「聞こえなかったか」
その声音には、以前の甘さがひとかけらもなかった。
「お前と、お前の母親だ。泣きついてきて、可哀想な顔をして、あれこれと耳へ入れるから、こうなった」
その言葉は、セラフィナの胸をまっすぐに刺した。
何を言っているの、この人は。
そう叫びたかった。
自分を選んだのはあなたでしょう。
皆の前で婚約を壊したのもあなたでしょう。
今さら全部こちらへ押しつけるの。
けれど、声にはならない。
声にしてしまえば、もう終わると分かっていたからだ。
「わたくし……そんなつもりでは……」
「なら黙っていろ」
エドガーは吐き捨てる。
「今、私の前でその顔をするな。腹が立つ」
その一言で、セラフィナは完全に黙った。
腹が立つ。
ついこの前まで、自分の涙に酔っていた男が、今はその顔を見るだけで苛立つと言う。
本性が見えた、と思った。
いや、きっと前からこういう男だったのだ。自分を気持ちよくさせるうちは優しく、そうでなくなれば平気で切る。
セラフィナは震える唇を噛みしめた。
一方、イザベルのもとにも噂は届いていた。
公爵邸の奥で、彼女は侍女からそれを聞いた瞬間、思わず立ち上がった。
「廃嫡?」
「も、申し訳ございません。あくまで噂でございます」
「そんな噂が立つこと自体がおかしいのよ!」
怒声が響く。
侍女は身を縮めた。
だがイザベルの方こそ、顔色を失っていた。
王太子が婚約破棄し、セラフィナがその隣へ立つ。そこから先は、多少の軋みがあっても、最終的には娘が王太子妃へ近づく流れになるはずだった。
なのに今、王太子そのものの座が危ういかもしれない。
もし本当にそうなれば、自分たちが掴んだはずの未来そのものが消える。
「……ありえないわ」
イザベルは呟く。
だがその“ありえない”が、もうありえないほど弱い言葉になっていることを、自分でも感じていた。
王宮ではエドガーが周囲へ怒鳴り散らし、セラフィナは青ざめ、イザベルは屋敷で取り乱している。
それぞれが、同じ現実の前で違う形で崩れ始めていた。
そしてそのどれもが、王都の外から見ればひどく滑稽だった。
ヴァルモン公爵邸では、夜になってからグラハムが最新の報告を持ってきた。
「王太子廃嫡の噂、かなり広がっております」
エルシェナは驚かなかった。
暖炉の前で手紙を読んでいた指を止めることもなく、淡々と尋ねる。
「王宮内でも?」
「はい。かなり」
「殿下は?」
「非常にお怒りのようでございます」
その返答に、エルシェナはようやく目を上げた。
「怒っているだけ?」
「ええ」
「なるほど」
怒るだけなら、まだ理解していないということだ。
本当に恐れるべき時、人はそう簡単には怒れない。まず息を呑み、次に逃げ道を探し、それからようやく震える。エドガーはまだ、怒鳴ればどうにかなる範囲に自分がいると思っているのだろう。
だから余計に、今の噂は効く。
「王都は賢いわね」
エルシェナは静かに言った。
「皆さま、もう次を見始めているもの」
「左様でございます」
「王太子が王太子でなくなるかもしれない、と分かった途端に」
そこには侮蔑もあったが、感心も少し混じっていた。
人は残酷だ。
だがその残酷さは、使いようによってはよく働く。
エドガーにとっていちばん痛いのは、処罰そのものではないかもしれない。
自分がまだ王太子であるうちから、周囲が“その先”を見始めてしまうこと。
自分を中心にした未来を、誰も信じなくなること。
それは、誇り高いと思い込んでいる男には、何より堪えるはずだった。
エルシェナは手元の便箋を閉じた。
「グラハム」
「はい」
「噂は止めなくていいわ」
「承知いたしました」
「むしろ、放っておきましょう」
暖炉の火が静かに揺れる。
王太子廃嫡。
まだ正式な話ではない。だが、噂として広まるだけで十分な効果がある。
なぜなら、もう誰もそれを“ありえない冗談”とは笑えないところまで来ているからだ。
エルシェナは窓の外の闇を見た。
遠く王宮の方角には、いくつもの灯が浮かんでいる。
あの中で、エドガーは今ごろ喚いているのだろう。
セラフィナは泣きそうな顔で怯えているだろう。
イザベルもまた、未来が逃げていく音に焦っているだろう。
いい気味だとは、まだ言わない。
だが、確実に近づいているとは思った。
彼らが“自分たちはもう安全ではない”と理解する時が。
王都では、噂はいつだって人より先に走る。
正式な発表が出る前に広まり、当人が知る前に形を変え、やがて半分は嘘、半分は真実のような顔をして街を歩く。だからこそ、ただの噂なら放っておけば消えることもある。
だが今回の噂は違った。
消えない。
むしろ、日ごとに輪郭をはっきりさせながら広がっていく。
――王太子エドガー、廃嫡か。
最初にその言葉が囁かれた時、たいていの者は半信半疑だった。さすがにそこまではいかないだろう、と。いかに婚約破棄が浅はかだったとはいえ、王太子という立場は軽くない。父王が叱責し、しばらく表へ出さず、周囲が火消しに走れば、それで終わると考える者もまだ多かった。
けれど、火は消えなかった。
王宮の混乱は続く。
ヴァルモン公爵家は一切譲らない。
社交界はエドガーへ冷たくなり、王太子宮へ寄る者は減る。
そして何より、国王が息子に対してかなり厳しい態度を取っているらしいという話が、少しずつ現実味を帯びて流れ始めた。
それで十分だった。
人は、“ありえない話”よりも、“ありえるかもしれない話”を恐れる。
王太子廃嫡。
その言葉は、今や恐れと好奇心を抱かせるには十分すぎた。
王太子宮でも、さすがにその噂は無視できなくなっていた。
最初に耳にしたのは、セラフィナだった。
午後、廊下の角を曲がった先で、侍女が二人、ひどく小さな声で話していたのだ。
「……でも、本当に?」
「まだ噂よ。でも、陛下がかなりお怒りだとか」
「もしそうなったら、王太子宮は――」
その先で、侍女の一人がセラフィナに気づき、顔をこわばらせた。
「あ……セラフィナ様」
二人は慌てて礼を取る。
けれど、その一瞬でもう十分だった。
何を話していたのか、分からぬほど鈍くはない。
セラフィナは青ざめたまま、どうにか笑みを作った。
「気にしないで。通りかかっただけだから」
「申し訳ございません」
侍女たちは頭を下げる。
だがその目の奥にあったのは恐れだけではなかった。
様子を見ている目だ。
もし噂が本当になれば、この女はどうなるのか。
そんな冷たい計算が、もう王宮の下働きにさえある。
セラフィナは何も言えず、その場を離れた。
胸がざわざわする。
廃嫡。
そんな言葉、自分には関係ないと思っていた。エドガーは王太子で、自分はその隣に立つ女になるのだと信じてきた。多少の不都合や混乱があっても、最後に勝つのは王家だと、どこかで思い込んでいた。
なのに今、その王家の中心にいるはずの男自身が、危うい立場にあるかもしれない。
そう考えた瞬間、足元が抜けるような怖さがあった。
同じ頃、エドガーのもとにも、その噂は届いていた。
もっとも、“届いた”というより、耳を塞いでいたのに入り込んできた、という方が近い。
「殿下」
年配の侍従が慎重に声をかける。
「何だ」
「本日予定されていた伯爵家との会食でございますが、相手方より急な辞退が」
「またか」
エドガーは吐き捨てた。
このところ、こんな報告ばかりだ。延期、辞退、保留、確認待ち。人も物も、何もかもが以前のように動かない。その苛立ちだけで、もう十分に腹は煮えていた。
侍従は言葉を選ぶように続ける。
「その……伯爵家側の使者が、少し妙なことを口にしたようで」
「妙なこと?」
「“今はまだ、どなたにつくか決めるには早い”と」
沈黙が落ちた。
それはほとんど、噂を認めているようなものだった。
エドガーの顔が引きつる。
「どなたにつく、だと?」
「はい」
「まるで私以外に選択肢があるような言い方ではないか」
「……」
侍従は答えない。
答えられないからではない。答えが出ているからだ。
あるのだ。
少なくとも王都では、そう囁かれ始めている。
もしエドガーが王太子の座を失えば、次は誰か。あるいは王家はどう動くのか。そういう“次”の話がもう始まっている。
エドガーは机を叩いた。
「ふざけるな!」
書類が跳ね、インク壺が揺れる。
「誰がそんな馬鹿な話を流している!」
侍従は低く答える。
「出どころは定かではございません。ただ……王宮内でも、まことしやかに」
「黙れ!」
怒鳴りつけたが、怒鳴ったところで噂は消えない。
それが余計に腹立たしかった。
エドガーはその場で歩き回る。
「父上だ」
やがて、低く絞るような声で言った。
「父上が余計な顔を見せたからだ。あれほど冷たく当たれば、周囲が勘違いするに決まっている」
だがそれも違う。
国王が冷たかったからではない。
王太子自身が、それだけの失態を重ねたからだ。
なのにエドガーはそこを決して見ない。
「全部、あの女のせいだ」
今度はもっとはっきりと吐き捨てる。
「あの女が大げさに騒ぎ立て、家まで巻き込み、王宮を混乱させたから……」
その時、部屋の外から控えめな声がした。
「殿下。セラフィナ様がお見えです」
エドガーは一瞬だけ顔をしかめた。
だが追い返すのも面倒だったのか、荒く言う。
「入れ」
扉が開き、セラフィナが不安げな顔で姿を見せる。
彼女は一礼し、ひどく慎重に口を開いた。
「殿下……少し、お話が」
「何だ」
冷たい返事に、セラフィナの肩がわずかに揺れた。
それでも彼女は続ける。
「今、王宮で……その……よくない噂が流れていると聞いて……」
エドガーの目が険しくなる。
「お前までそれを言いに来たのか」
「ち、違います。わたくしはただ、ご不安ではないかと――」
「不安?」
エドガーは笑った。
だがその笑いは乾いていて、ひどく刺々しかった。
「私が? 馬鹿を言うな」
セラフィナは何か言おうとして、言葉を飲み込む。
彼が不安でないはずがないことくらい、今の顔を見れば分かるからだ。
だが、それを指摘できるほどの近さは、もう二人の間にはなかった。
エドガーは苛立たしげに言う。
「そもそも、こうなったのは全部お前たちが煩わしい騒ぎを持ち込んだからだ」
セラフィナの顔が白くなる。
「……お前たち?」
「聞こえなかったか」
その声音には、以前の甘さがひとかけらもなかった。
「お前と、お前の母親だ。泣きついてきて、可哀想な顔をして、あれこれと耳へ入れるから、こうなった」
その言葉は、セラフィナの胸をまっすぐに刺した。
何を言っているの、この人は。
そう叫びたかった。
自分を選んだのはあなたでしょう。
皆の前で婚約を壊したのもあなたでしょう。
今さら全部こちらへ押しつけるの。
けれど、声にはならない。
声にしてしまえば、もう終わると分かっていたからだ。
「わたくし……そんなつもりでは……」
「なら黙っていろ」
エドガーは吐き捨てる。
「今、私の前でその顔をするな。腹が立つ」
その一言で、セラフィナは完全に黙った。
腹が立つ。
ついこの前まで、自分の涙に酔っていた男が、今はその顔を見るだけで苛立つと言う。
本性が見えた、と思った。
いや、きっと前からこういう男だったのだ。自分を気持ちよくさせるうちは優しく、そうでなくなれば平気で切る。
セラフィナは震える唇を噛みしめた。
一方、イザベルのもとにも噂は届いていた。
公爵邸の奥で、彼女は侍女からそれを聞いた瞬間、思わず立ち上がった。
「廃嫡?」
「も、申し訳ございません。あくまで噂でございます」
「そんな噂が立つこと自体がおかしいのよ!」
怒声が響く。
侍女は身を縮めた。
だがイザベルの方こそ、顔色を失っていた。
王太子が婚約破棄し、セラフィナがその隣へ立つ。そこから先は、多少の軋みがあっても、最終的には娘が王太子妃へ近づく流れになるはずだった。
なのに今、王太子そのものの座が危ういかもしれない。
もし本当にそうなれば、自分たちが掴んだはずの未来そのものが消える。
「……ありえないわ」
イザベルは呟く。
だがその“ありえない”が、もうありえないほど弱い言葉になっていることを、自分でも感じていた。
王宮ではエドガーが周囲へ怒鳴り散らし、セラフィナは青ざめ、イザベルは屋敷で取り乱している。
それぞれが、同じ現実の前で違う形で崩れ始めていた。
そしてそのどれもが、王都の外から見ればひどく滑稽だった。
ヴァルモン公爵邸では、夜になってからグラハムが最新の報告を持ってきた。
「王太子廃嫡の噂、かなり広がっております」
エルシェナは驚かなかった。
暖炉の前で手紙を読んでいた指を止めることもなく、淡々と尋ねる。
「王宮内でも?」
「はい。かなり」
「殿下は?」
「非常にお怒りのようでございます」
その返答に、エルシェナはようやく目を上げた。
「怒っているだけ?」
「ええ」
「なるほど」
怒るだけなら、まだ理解していないということだ。
本当に恐れるべき時、人はそう簡単には怒れない。まず息を呑み、次に逃げ道を探し、それからようやく震える。エドガーはまだ、怒鳴ればどうにかなる範囲に自分がいると思っているのだろう。
だから余計に、今の噂は効く。
「王都は賢いわね」
エルシェナは静かに言った。
「皆さま、もう次を見始めているもの」
「左様でございます」
「王太子が王太子でなくなるかもしれない、と分かった途端に」
そこには侮蔑もあったが、感心も少し混じっていた。
人は残酷だ。
だがその残酷さは、使いようによってはよく働く。
エドガーにとっていちばん痛いのは、処罰そのものではないかもしれない。
自分がまだ王太子であるうちから、周囲が“その先”を見始めてしまうこと。
自分を中心にした未来を、誰も信じなくなること。
それは、誇り高いと思い込んでいる男には、何より堪えるはずだった。
エルシェナは手元の便箋を閉じた。
「グラハム」
「はい」
「噂は止めなくていいわ」
「承知いたしました」
「むしろ、放っておきましょう」
暖炉の火が静かに揺れる。
王太子廃嫡。
まだ正式な話ではない。だが、噂として広まるだけで十分な効果がある。
なぜなら、もう誰もそれを“ありえない冗談”とは笑えないところまで来ているからだ。
エルシェナは窓の外の闇を見た。
遠く王宮の方角には、いくつもの灯が浮かんでいる。
あの中で、エドガーは今ごろ喚いているのだろう。
セラフィナは泣きそうな顔で怯えているだろう。
イザベルもまた、未来が逃げていく音に焦っているだろう。
いい気味だとは、まだ言わない。
だが、確実に近づいているとは思った。
彼らが“自分たちはもう安全ではない”と理解する時が。
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(本作品は小説家になろう、カクヨムにも掲載中です)