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#498 天国について
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「なあ、俺にとっての天国ってなんだと思う?」
朝の喫茶店で、唐突に松田が言った。俺と坂口はコーヒーを飲みかけたまま顔を見合わせた。
「いや、知らんけど」
「そういうのは自分で考えるもんじゃないの?」
松田は深刻な顔でうなずいた。
「そうだな。でも俺、自分が死んだ後に行く天国より、今の時点での俺にとっての天国を知りたいんだ」
「現世版天国? それって天国っていう?」と坂口が首をかしげた。
「細かいやつだな。要するにこの世で一番いい状態ってやつだ」
「うん、それはつまり、休日の朝にパンケーキが出てくる状態とかじゃないの?」
「違うな。パンケーキは地獄の始まりだ」
「お前、それどういう宗教?」
松田はコーヒーを一気に飲み干し、やたら真剣に続けた。
「天国ってのは、パンケーキが出ることじゃない。パンケーキが出る前の静寂なんだ」
「……哲学的っぽいけど意味がわからない」
「待て、聞こうじゃないか。パンケーキの前の静寂がなぜ天国なのか」と坂口が妙にノリ気だ。
「だってさ、パンケーキが出た瞬間、冷めるカウントダウンが始まるだろ? あの冷めるまでに食べきりたい、でもちゃんと味わいたいみたいなジレンマがある意味もう地獄なんだよ」
「なるほど……ラーメンに近いな。これ、わかるか?」
「いや、全然」
松田はがっくりとうなだれ、砂糖を三つ入れた。
「じゃあ坂口、お前にとっての天国は?」
「俺? そうだな……」
坂口はスプーンをくるくる回しながら言った。
「俺にとっての天国は、風呂の温度がちょうどいい温度の時だな」
「温度?」
「ああ。熱すぎず、ぬるすぎず、なんか『うわ、完璧だなこれ』って思える瞬間。あの一瞬だけ、神が俺に優しい気がする」
「いや、ただの風呂じゃん」
「でもさ、世の中にはちょうどいいがどれだけ貴重か知らない奴が多すぎるんだよ」
坂口の目がギラギラしてきた。
「熱すぎたら怒るだろ? ぬるくても怒る。でもちょうどいいと、怒らない。つまり怒らない状態が天国なんだ」
「つまりお前にとってのは天国は怒らないですむこと?」
「そうだな。俺の怒りを触発しない平安な風呂場」
「なんかやだな、その天国」
「じゃあお前はどうなんだよ、佐藤」
俺はしばらく考えてから言った。
「俺にとっての天国は……納豆を開けたときにタレの袋がすぐ見つかる状態かな」
「ニッチすぎるだろ!」
松田が机を叩く。
「パンケーキ前の静寂より怖いぞ」
「いや、あれ、意外とストレスなんだよ。タレの袋を探してる自分を俯瞰して、なんかもう自分が小さい人間に思えてくる」
「で?」
「それが一発で見つかった時、あ、生きててよかったって思う」
坂口はしみじみとうなずいた。
「……そういうのがあるんだな」
「あるだろ?」
「でもな、それは地獄の前段階でもある」
「は?」
「なぜならそのあと、タレを開封して、納豆にかけ、タレが均一になるように混ぜる作業が待っている。まず、タレを開封すると高確率で指にタレがつく。これは地獄の始まりだ」
松田が指を鳴らした。
「つまり結論として、天国は常に地獄の予兆ということだな」
「急にまとめるなよ」
そのとき、隣の席の老紳士がこちらを振り返った。
「君たち、面白い話をしているね」
突然の乱入に3人は驚いて黙り込んだ。
「わしの天国を教えてやろうか」
老紳士はゆっくり立ち上がり、両手を広げた。
「バッテリーがちょうど100%のスマホじゃ!」
「しかし、それだと100%から減る一方では?」
「そうじゃ。だがそれがすべての本質じゃ。生まれ落ちた瞬間からすでに老いは始まっておる。その瞬間こそが完璧、これが天国の正体なんじゃ」
「おじいちゃん、それ天国というか……」
「ああ、さらに難しい話になったな」
「だかな、天国とは充電できると信じている状態ともいえる。老いてもなお、今現在、この瞬間が一番若い。何度でもやり直せる。そう信じていられる状態は充電100%に近いじゃ」
一瞬、場が静まった。深い……ような気がする?
松田がふと呟いた。
「……じゃあ、俺たちは今、いったいどこにいるんだ?」
「ここ? 喫茶店だろ」
「そうじゃない。精神的な意味で」
坂口がカップを傾ける。
「たぶん地獄の中に作られた喫茶店」
「いや、そこまでじゃないだろ」
「じゃあ、このコーヒーは?」
「天国っぽい属性に感じるが」
老紳士がうなずいた。
「つまり君たちの会話は煮詰まった地獄。本当はこんなことは考えてはならないことかもしれない」
松田が言った。
「なあ、俺、思ったんだけど」
「何だ」
「結局、やっぱり天国って今ここなんじゃないか? 苦痛もなくて、居心地もいいし」
「お、いいじゃん。穏やかな結論」
「――だろ? でも問題がある」
「何?」
松田はポケットから小銭を出した。
「……財布、忘れた」
坂口がため息をつき、俺がレシートを見た。
「お前、天国から脱落だな。マスターに皿でも洗わせてもらえよ」
「はぁ?! ちょっとくらい貸してくれよ」
「借金なんてしたら地獄に落ちるぞ」
結局、天国の正体はよくわからないままだった。
朝の喫茶店で、唐突に松田が言った。俺と坂口はコーヒーを飲みかけたまま顔を見合わせた。
「いや、知らんけど」
「そういうのは自分で考えるもんじゃないの?」
松田は深刻な顔でうなずいた。
「そうだな。でも俺、自分が死んだ後に行く天国より、今の時点での俺にとっての天国を知りたいんだ」
「現世版天国? それって天国っていう?」と坂口が首をかしげた。
「細かいやつだな。要するにこの世で一番いい状態ってやつだ」
「うん、それはつまり、休日の朝にパンケーキが出てくる状態とかじゃないの?」
「違うな。パンケーキは地獄の始まりだ」
「お前、それどういう宗教?」
松田はコーヒーを一気に飲み干し、やたら真剣に続けた。
「天国ってのは、パンケーキが出ることじゃない。パンケーキが出る前の静寂なんだ」
「……哲学的っぽいけど意味がわからない」
「待て、聞こうじゃないか。パンケーキの前の静寂がなぜ天国なのか」と坂口が妙にノリ気だ。
「だってさ、パンケーキが出た瞬間、冷めるカウントダウンが始まるだろ? あの冷めるまでに食べきりたい、でもちゃんと味わいたいみたいなジレンマがある意味もう地獄なんだよ」
「なるほど……ラーメンに近いな。これ、わかるか?」
「いや、全然」
松田はがっくりとうなだれ、砂糖を三つ入れた。
「じゃあ坂口、お前にとっての天国は?」
「俺? そうだな……」
坂口はスプーンをくるくる回しながら言った。
「俺にとっての天国は、風呂の温度がちょうどいい温度の時だな」
「温度?」
「ああ。熱すぎず、ぬるすぎず、なんか『うわ、完璧だなこれ』って思える瞬間。あの一瞬だけ、神が俺に優しい気がする」
「いや、ただの風呂じゃん」
「でもさ、世の中にはちょうどいいがどれだけ貴重か知らない奴が多すぎるんだよ」
坂口の目がギラギラしてきた。
「熱すぎたら怒るだろ? ぬるくても怒る。でもちょうどいいと、怒らない。つまり怒らない状態が天国なんだ」
「つまりお前にとってのは天国は怒らないですむこと?」
「そうだな。俺の怒りを触発しない平安な風呂場」
「なんかやだな、その天国」
「じゃあお前はどうなんだよ、佐藤」
俺はしばらく考えてから言った。
「俺にとっての天国は……納豆を開けたときにタレの袋がすぐ見つかる状態かな」
「ニッチすぎるだろ!」
松田が机を叩く。
「パンケーキ前の静寂より怖いぞ」
「いや、あれ、意外とストレスなんだよ。タレの袋を探してる自分を俯瞰して、なんかもう自分が小さい人間に思えてくる」
「で?」
「それが一発で見つかった時、あ、生きててよかったって思う」
坂口はしみじみとうなずいた。
「……そういうのがあるんだな」
「あるだろ?」
「でもな、それは地獄の前段階でもある」
「は?」
「なぜならそのあと、タレを開封して、納豆にかけ、タレが均一になるように混ぜる作業が待っている。まず、タレを開封すると高確率で指にタレがつく。これは地獄の始まりだ」
松田が指を鳴らした。
「つまり結論として、天国は常に地獄の予兆ということだな」
「急にまとめるなよ」
そのとき、隣の席の老紳士がこちらを振り返った。
「君たち、面白い話をしているね」
突然の乱入に3人は驚いて黙り込んだ。
「わしの天国を教えてやろうか」
老紳士はゆっくり立ち上がり、両手を広げた。
「バッテリーがちょうど100%のスマホじゃ!」
「しかし、それだと100%から減る一方では?」
「そうじゃ。だがそれがすべての本質じゃ。生まれ落ちた瞬間からすでに老いは始まっておる。その瞬間こそが完璧、これが天国の正体なんじゃ」
「おじいちゃん、それ天国というか……」
「ああ、さらに難しい話になったな」
「だかな、天国とは充電できると信じている状態ともいえる。老いてもなお、今現在、この瞬間が一番若い。何度でもやり直せる。そう信じていられる状態は充電100%に近いじゃ」
一瞬、場が静まった。深い……ような気がする?
松田がふと呟いた。
「……じゃあ、俺たちは今、いったいどこにいるんだ?」
「ここ? 喫茶店だろ」
「そうじゃない。精神的な意味で」
坂口がカップを傾ける。
「たぶん地獄の中に作られた喫茶店」
「いや、そこまでじゃないだろ」
「じゃあ、このコーヒーは?」
「天国っぽい属性に感じるが」
老紳士がうなずいた。
「つまり君たちの会話は煮詰まった地獄。本当はこんなことは考えてはならないことかもしれない」
松田が言った。
「なあ、俺、思ったんだけど」
「何だ」
「結局、やっぱり天国って今ここなんじゃないか? 苦痛もなくて、居心地もいいし」
「お、いいじゃん。穏やかな結論」
「――だろ? でも問題がある」
「何?」
松田はポケットから小銭を出した。
「……財布、忘れた」
坂口がため息をつき、俺がレシートを見た。
「お前、天国から脱落だな。マスターに皿でも洗わせてもらえよ」
「はぁ?! ちょっとくらい貸してくれよ」
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