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#285 その花はなぜ名を呼ぶのか
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「人間の名前を呼ぶんだってよ、その花」
古びた山小屋でそう言ったのは、古くから馴染みのある植物学者の楠木だった。
彼は湯気の立つマグカップを手に、どこか遠くを見るような目をしていた。
「咲いたら最後、呼ばれる」
場所は、東北の山奥にある無名の谷。地図にも名前がないほどの奥地だ。
最近、その谷で見つかった新種の植物が話題になっていた。
正式名称はまだ未定だが、研究チーム内では「コール・フラワー」と呼ばれていた。
理由は、その花が「呼ぶ」からだった。
記録によると、花は白く、透明に近い。開花は夜明け前のほんの数分。咲くと同時に、かすかな、人間の声に異なる音波を発する。
解析結果、その音波には「人名」に酷似したパターンが含まれていた。
名が呼ばれる前に逃れた調査員の一人が録音した音声データを再生すると、確かに人の名前が聞こえる。
「…たかはし まこと…」
「…えんどう さち…」
呼ばれた名は、その場にいた人間の名前と一致していた。
花は、誰の命令もなく、誰が来るかも知らず、しかし、なぜか目の前の人間の名を知っているのだ。
不思議なのは、それだけではなかった。
名を呼ばれた人間は、その後――消える。記録のあるだけでも、これまで6人が呼ばれ、消えたらしい。
衛星通信の記録は残されていたが、彼らがそこにいた痕跡はほぼ消えていた。もちろん遺体なども見つかっていない。
ただ、花の前にはなぜか「靴」だけが並べられていたという。まるで自ら命を断ったかのように――
僕は在野ながら一定の評価を得ている植物研究者だ。この花について興味を持つのは必然だった。噂を聞いてすぐにツテで報告書を入手、その日のうちに調査チームに連絡を取っていた。どうしても自分の目でその花を確かめたい。
もし本当に植物が人の名を知っているなら――それは知能なのか、あるいは別の意志なのか。
山へ調査に入ったのは、10月の終わりだった。メンバーは危険だととめたが、僕はどうしても早くその花を見てみたかった。
人が消えたという報告をあまり深刻に受け止めていなかったのもある。
花が開いて様子がおかしくなったということは、香りに幻覚誘発作用があるのかもしれない。花がそこまで強い物質を放出するというのは信じがたいが、「名前を呼ぶ」よりは現実感がある気がする。もっというと、谷そのものに何らかのガスが充満しているのかもしれない。
夜明け前、まだ暗い中で、慎重に谷に降りる。空気は静かで、湿り気を帯びていた。
薄暗い草地の中央に、白い花の蕾がすっと背を伸ばしていた。間違いない調査対象のコールフラワーだ。
形は単純。目を引くような特異な形状ではない。五弁の花弁がきゅっと結ばれ、風にかすかに揺れていた。
カメラ、そして録音機のスイッチを入れる。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
そして――花が、開いた。
その瞬間、耳の奥で声がした。
「…ゆいが みつあき…」
僕の名前だった。
確かに、はっきりと。知らない声だ。
ふらりと一歩、踏み出しそうになった。だが僕は、寸前で止まった。
いや……違う。「ゆいが みつあき」は僕の名前だが、それは通称で、本名は唯我光明「ゆいが こうめい」だ。
響きが諸葛亮孔明を連想させて恥ずかしいうえに、ほとんどの人が「みつあき」と読むので、訂正するのも面倒くさい。
両親には申し訳ないが、ずっと「みつあき」と名乗っていた。論文の署名も始めからずっと「Mitsuaki Yuiga」だ。
谷にさっと朝日が差して来る。
はっとして周囲を見た。すでにあの花の花弁は閉じていた。
――僕は、踏みとどまったのだ。
戻ってきた僕に、楠木は言った。
「無事戻ったのか」
「ああ。でも……呼ばれた」
「呼ばれて、それでも戻れたのか」
楠木は少し驚いたように目を見張った。どうやら彼は、あの花が人を呼んで消すことを疑っていないようだ。
彼は愛用のマグカップをテーブルに置いて口を開いた。
「――花が名を呼ぶのは、識別じゃない。あれは招待なんだ……と、僕は思うよ」
「招待……というと、どこへ?」
「植物の世界さ。言葉じゃ説明できない。でもたぶん、人間にとっては死に近い感覚だと思う」
「花が人を死なせるというのか?」
楠木は首を振った。
「厳密には違うと思う。ただ、取り込むんだよ。あの花にとって、人間は情報で、情報は養分なんだ。思考、記憶、感情――それを吸収するために呼んでる」
「それは………共生か、寄生か」
「いや、捕食に近いんじゃないかな。花にとっては、ただの摂理だ」
帰りの電車で、窓の外を見ながら考えていた。
植物にとって、人間の名前とは何なのだろう。どうして名を知る? どうして名を呼ぶ?
僕の中に、静かに浮かび上がる仮説があった。
あの花は、確かに名を呼んだ。
実際に見るまで懐疑的だったが、映像も音声も残っている。何らかのガスを吸って、幻聴を聞いたわけではない。
あれはあのような奥地で人知れず、新たな進化を遂げた植物ではないだろうか。人間の心を読み取り、名を知る。そのメカニズムはわからないが、人間の脳波を感知している可能性がある。
名前とは、個体を指す記号ではなく、魂の波長なのかもしれない。
僕は長く「みつあき」と名乗り、呼ばれて来た。魂にその名が染み付くまでに。だが、本当の名が僕をこちらに呼び戻してくれた。
あの白い花は、次も誰かの名を呼ぶだろう。そしてその人は、きっと応じてしまう。
僕は呼ばれたときの、なんとも言えない感覚を思い出して身震いをする。
――確かにあの花は危険だ。
古びた山小屋でそう言ったのは、古くから馴染みのある植物学者の楠木だった。
彼は湯気の立つマグカップを手に、どこか遠くを見るような目をしていた。
「咲いたら最後、呼ばれる」
場所は、東北の山奥にある無名の谷。地図にも名前がないほどの奥地だ。
最近、その谷で見つかった新種の植物が話題になっていた。
正式名称はまだ未定だが、研究チーム内では「コール・フラワー」と呼ばれていた。
理由は、その花が「呼ぶ」からだった。
記録によると、花は白く、透明に近い。開花は夜明け前のほんの数分。咲くと同時に、かすかな、人間の声に異なる音波を発する。
解析結果、その音波には「人名」に酷似したパターンが含まれていた。
名が呼ばれる前に逃れた調査員の一人が録音した音声データを再生すると、確かに人の名前が聞こえる。
「…たかはし まこと…」
「…えんどう さち…」
呼ばれた名は、その場にいた人間の名前と一致していた。
花は、誰の命令もなく、誰が来るかも知らず、しかし、なぜか目の前の人間の名を知っているのだ。
不思議なのは、それだけではなかった。
名を呼ばれた人間は、その後――消える。記録のあるだけでも、これまで6人が呼ばれ、消えたらしい。
衛星通信の記録は残されていたが、彼らがそこにいた痕跡はほぼ消えていた。もちろん遺体なども見つかっていない。
ただ、花の前にはなぜか「靴」だけが並べられていたという。まるで自ら命を断ったかのように――
僕は在野ながら一定の評価を得ている植物研究者だ。この花について興味を持つのは必然だった。噂を聞いてすぐにツテで報告書を入手、その日のうちに調査チームに連絡を取っていた。どうしても自分の目でその花を確かめたい。
もし本当に植物が人の名を知っているなら――それは知能なのか、あるいは別の意志なのか。
山へ調査に入ったのは、10月の終わりだった。メンバーは危険だととめたが、僕はどうしても早くその花を見てみたかった。
人が消えたという報告をあまり深刻に受け止めていなかったのもある。
花が開いて様子がおかしくなったということは、香りに幻覚誘発作用があるのかもしれない。花がそこまで強い物質を放出するというのは信じがたいが、「名前を呼ぶ」よりは現実感がある気がする。もっというと、谷そのものに何らかのガスが充満しているのかもしれない。
夜明け前、まだ暗い中で、慎重に谷に降りる。空気は静かで、湿り気を帯びていた。
薄暗い草地の中央に、白い花の蕾がすっと背を伸ばしていた。間違いない調査対象のコールフラワーだ。
形は単純。目を引くような特異な形状ではない。五弁の花弁がきゅっと結ばれ、風にかすかに揺れていた。
カメラ、そして録音機のスイッチを入れる。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
そして――花が、開いた。
その瞬間、耳の奥で声がした。
「…ゆいが みつあき…」
僕の名前だった。
確かに、はっきりと。知らない声だ。
ふらりと一歩、踏み出しそうになった。だが僕は、寸前で止まった。
いや……違う。「ゆいが みつあき」は僕の名前だが、それは通称で、本名は唯我光明「ゆいが こうめい」だ。
響きが諸葛亮孔明を連想させて恥ずかしいうえに、ほとんどの人が「みつあき」と読むので、訂正するのも面倒くさい。
両親には申し訳ないが、ずっと「みつあき」と名乗っていた。論文の署名も始めからずっと「Mitsuaki Yuiga」だ。
谷にさっと朝日が差して来る。
はっとして周囲を見た。すでにあの花の花弁は閉じていた。
――僕は、踏みとどまったのだ。
戻ってきた僕に、楠木は言った。
「無事戻ったのか」
「ああ。でも……呼ばれた」
「呼ばれて、それでも戻れたのか」
楠木は少し驚いたように目を見張った。どうやら彼は、あの花が人を呼んで消すことを疑っていないようだ。
彼は愛用のマグカップをテーブルに置いて口を開いた。
「――花が名を呼ぶのは、識別じゃない。あれは招待なんだ……と、僕は思うよ」
「招待……というと、どこへ?」
「植物の世界さ。言葉じゃ説明できない。でもたぶん、人間にとっては死に近い感覚だと思う」
「花が人を死なせるというのか?」
楠木は首を振った。
「厳密には違うと思う。ただ、取り込むんだよ。あの花にとって、人間は情報で、情報は養分なんだ。思考、記憶、感情――それを吸収するために呼んでる」
「それは………共生か、寄生か」
「いや、捕食に近いんじゃないかな。花にとっては、ただの摂理だ」
帰りの電車で、窓の外を見ながら考えていた。
植物にとって、人間の名前とは何なのだろう。どうして名を知る? どうして名を呼ぶ?
僕の中に、静かに浮かび上がる仮説があった。
あの花は、確かに名を呼んだ。
実際に見るまで懐疑的だったが、映像も音声も残っている。何らかのガスを吸って、幻聴を聞いたわけではない。
あれはあのような奥地で人知れず、新たな進化を遂げた植物ではないだろうか。人間の心を読み取り、名を知る。そのメカニズムはわからないが、人間の脳波を感知している可能性がある。
名前とは、個体を指す記号ではなく、魂の波長なのかもしれない。
僕は長く「みつあき」と名乗り、呼ばれて来た。魂にその名が染み付くまでに。だが、本当の名が僕をこちらに呼び戻してくれた。
あの白い花は、次も誰かの名を呼ぶだろう。そしてその人は、きっと応じてしまう。
僕は呼ばれたときの、なんとも言えない感覚を思い出して身震いをする。
――確かにあの花は危険だ。
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