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#319 夜の行商人
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夜道を急いでいたら、「おひとついかが?」という声をかけられたんです。
振り返ると、そこには異様な雰囲気の行商人が立っていました。
月明かりの下で見るその姿は、年齢も性別もよく分からない。
影のように痩せ細った体を黒いマントで覆い、顔には深くフードが掛かっていて表情は見えない。
「……えっと、何を売っているんですか?」
逃げ出したい気持ちを抑えつつ尋ねると、行商人は静かに笑い、マントの下から小さな黒い箱を取り出した。
「あなたの運命を変える品ですよ」
私は一瞬息を飲んだ。しかし好奇心が恐怖を上回り、箱に目を奪われた。
「いくらです?」
「お代はいただきません。ただし、一度受け取ったら決して返品できませんよ」
その言葉が不気味だったけれど、好奇心に抗えず、私は震える手で箱を受け取ってしまった。
手の中の箱は驚くほど軽く、冷たい。
家に帰り、箱を開けてみると、中には古びた金属製の指輪が一つだけ入っていた。どこにでもありそうな、小さく地味な指輪。
「これが運命を変える指輪?」
私は半信半疑で指輪を指にはめてみたが、何も起こらない。
やっぱり、ただのイタズラだったかと安心したのも束の間――スマホが鳴った。
見知らぬ番号からの着信だった。
「もしもし?」
電話の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「久しぶりだな」
その声は数年前に絶交したかつての「友達以上、恋人未満」だったリョウのものだった。
彼とは些細なすれ違いで喧嘩別れして以来、一度も連絡を取っていない。
いや、突然連絡が取れなくなってしまったのだった。いくらなんでも着信を拒否するなんてあんまりだと、当時は大いに憤慨したものだったが……。
「今さら……なんで?」
戸惑う私に、リョウは静かに告げた。
「お前が今はめている指輪だ。いいか、よく聞け」
声の背後にザラザラと異音が混じる。
「それをつけた瞬間から……ザッザッ……の人生……ザザッ……違う道に……ッザー」
私は背筋がぞっとした。リョウが私に何かを警告しようとしていて、それを何者かが妨害している?
「待って。どうして指輪のことを知ってるの?」
リョウの声は近づいたり、遠ざかったりする。
「俺も買ったことがある……その指輪を。俺はその指輪で……ザザッ……君に出会った……幸せになれたと思った……ザッザッ……でも……ッザー……」
ブツリと電話が切れた。慌てて掛け直しても、つながらない。
翌日、私は出勤すると、奇妙なことが起こっていた。
なぜか同僚たちが私に妙に親切になり、上司は昇進の話を持ちかけてきた。
「運命が変わるって……こういうこと?」
リョウの警告のこともあり、私は違和感を覚えた。
日を追うごとに周囲の態度はますます好意的になり、不自然なほど全てがうまくいった。
だが、なぜか私は徐々に不安になってきたのだ。リョウと喧嘩別れしたとき、そういえば何かがおかしかった気がする。
ある夜、再びあの行商人が目の前に現れた。
「どうです? 運命が変わったでしょう?」
「確かに変わりました。でも、不安なんです。あまりにうまくいきすぎている。この指輪、なんなんですか?」
行商人はにやりと笑ったように感じられた。
「そう、それが代償です」
「代償?」
「その指輪はあなたに『完璧』を与える。しかし完璧とは人間が耐えられるものではない。やがてあなたは『完璧』を恐れ始めるでしょう」
その夜を境に、私は恐怖に襲われるようになった。
何をしてもうまくいき、周囲は私を絶賛するばかりで、批判も意見もなくなってしまった。
やがて私は孤独に苛まれ始めた。完璧な人間の側には、誰も居続けることはできないらしい。
私は指輪を外そうと試みたが、どうしても外れない。指輪はまるで皮膚に食い込んだようになり、強引に取ろうとすると激痛が走った。
ついに私の恐怖は限界を超えた。
「いい加減にして! 思ってもないこと言わないで!」
私の作ったマニュアルがわかりやすくて助かったと礼を言う後輩に声を荒げてしまった。
後輩は突然のことに目を白黒させている。
その瞬間、リョウとの喧嘩のことを思い出した。まったく同じだった。
私はリョウに好意を持っていて、洋服のセンスをほめたのだ。あわよくば一緒に洋服を買いに行けないだろうかと、そんな期待を抱いて――しかし、リョウは激昂した。
「お世辞ばっかりでうんざりするんだよ!」
このままではかつてのリョウと同じように親しい人たちの前から姿を消すしかなくなる。
耐えきれなくなり、私は再び夜道を探し回った。あの行商人に指輪を返さなければ、と思ったのだ。
数日間、夜の街をさまよい続け、ようやく再び行商人に出会った。
「お願い! この指輪を返させて!」
「残念ですが、それはできません」
行商人は静かに言った。
「なら、どうすればいいの!」
私は叫んだ。すると行商人は静かに言った。
「方法はただ一つ。その指輪を別の誰かに渡すことですよ。あなたは次の所有者を見つければ自由になります」
私は絶望した。
結局、自分が解放されるためには他人を犠牲にしなければならないのだ。
リョウはもしかして、他人を犠牲にするくらいならと姿を消したのではないだろうか。だとしたらなんて強いんだろう。
――私には無理だ。
私は夜道で誰かが通るのを待ち続けた。やがて、夜道を急ぐ人影が見える。
私は震える冷たい手で、ポケットにしまった黒い箱を取り出した。誰かが受け取ることを了承すれば、指に食い込んだ指輪が抜けるはず。
そうして、ゆっくりと声をかけた。
「おひとつ、いかがですか?」
振り返ると、そこには異様な雰囲気の行商人が立っていました。
月明かりの下で見るその姿は、年齢も性別もよく分からない。
影のように痩せ細った体を黒いマントで覆い、顔には深くフードが掛かっていて表情は見えない。
「……えっと、何を売っているんですか?」
逃げ出したい気持ちを抑えつつ尋ねると、行商人は静かに笑い、マントの下から小さな黒い箱を取り出した。
「あなたの運命を変える品ですよ」
私は一瞬息を飲んだ。しかし好奇心が恐怖を上回り、箱に目を奪われた。
「いくらです?」
「お代はいただきません。ただし、一度受け取ったら決して返品できませんよ」
その言葉が不気味だったけれど、好奇心に抗えず、私は震える手で箱を受け取ってしまった。
手の中の箱は驚くほど軽く、冷たい。
家に帰り、箱を開けてみると、中には古びた金属製の指輪が一つだけ入っていた。どこにでもありそうな、小さく地味な指輪。
「これが運命を変える指輪?」
私は半信半疑で指輪を指にはめてみたが、何も起こらない。
やっぱり、ただのイタズラだったかと安心したのも束の間――スマホが鳴った。
見知らぬ番号からの着信だった。
「もしもし?」
電話の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「久しぶりだな」
その声は数年前に絶交したかつての「友達以上、恋人未満」だったリョウのものだった。
彼とは些細なすれ違いで喧嘩別れして以来、一度も連絡を取っていない。
いや、突然連絡が取れなくなってしまったのだった。いくらなんでも着信を拒否するなんてあんまりだと、当時は大いに憤慨したものだったが……。
「今さら……なんで?」
戸惑う私に、リョウは静かに告げた。
「お前が今はめている指輪だ。いいか、よく聞け」
声の背後にザラザラと異音が混じる。
「それをつけた瞬間から……ザッザッ……の人生……ザザッ……違う道に……ッザー」
私は背筋がぞっとした。リョウが私に何かを警告しようとしていて、それを何者かが妨害している?
「待って。どうして指輪のことを知ってるの?」
リョウの声は近づいたり、遠ざかったりする。
「俺も買ったことがある……その指輪を。俺はその指輪で……ザザッ……君に出会った……幸せになれたと思った……ザッザッ……でも……ッザー……」
ブツリと電話が切れた。慌てて掛け直しても、つながらない。
翌日、私は出勤すると、奇妙なことが起こっていた。
なぜか同僚たちが私に妙に親切になり、上司は昇進の話を持ちかけてきた。
「運命が変わるって……こういうこと?」
リョウの警告のこともあり、私は違和感を覚えた。
日を追うごとに周囲の態度はますます好意的になり、不自然なほど全てがうまくいった。
だが、なぜか私は徐々に不安になってきたのだ。リョウと喧嘩別れしたとき、そういえば何かがおかしかった気がする。
ある夜、再びあの行商人が目の前に現れた。
「どうです? 運命が変わったでしょう?」
「確かに変わりました。でも、不安なんです。あまりにうまくいきすぎている。この指輪、なんなんですか?」
行商人はにやりと笑ったように感じられた。
「そう、それが代償です」
「代償?」
「その指輪はあなたに『完璧』を与える。しかし完璧とは人間が耐えられるものではない。やがてあなたは『完璧』を恐れ始めるでしょう」
その夜を境に、私は恐怖に襲われるようになった。
何をしてもうまくいき、周囲は私を絶賛するばかりで、批判も意見もなくなってしまった。
やがて私は孤独に苛まれ始めた。完璧な人間の側には、誰も居続けることはできないらしい。
私は指輪を外そうと試みたが、どうしても外れない。指輪はまるで皮膚に食い込んだようになり、強引に取ろうとすると激痛が走った。
ついに私の恐怖は限界を超えた。
「いい加減にして! 思ってもないこと言わないで!」
私の作ったマニュアルがわかりやすくて助かったと礼を言う後輩に声を荒げてしまった。
後輩は突然のことに目を白黒させている。
その瞬間、リョウとの喧嘩のことを思い出した。まったく同じだった。
私はリョウに好意を持っていて、洋服のセンスをほめたのだ。あわよくば一緒に洋服を買いに行けないだろうかと、そんな期待を抱いて――しかし、リョウは激昂した。
「お世辞ばっかりでうんざりするんだよ!」
このままではかつてのリョウと同じように親しい人たちの前から姿を消すしかなくなる。
耐えきれなくなり、私は再び夜道を探し回った。あの行商人に指輪を返さなければ、と思ったのだ。
数日間、夜の街をさまよい続け、ようやく再び行商人に出会った。
「お願い! この指輪を返させて!」
「残念ですが、それはできません」
行商人は静かに言った。
「なら、どうすればいいの!」
私は叫んだ。すると行商人は静かに言った。
「方法はただ一つ。その指輪を別の誰かに渡すことですよ。あなたは次の所有者を見つければ自由になります」
私は絶望した。
結局、自分が解放されるためには他人を犠牲にしなければならないのだ。
リョウはもしかして、他人を犠牲にするくらいならと姿を消したのではないだろうか。だとしたらなんて強いんだろう。
――私には無理だ。
私は夜道で誰かが通るのを待ち続けた。やがて、夜道を急ぐ人影が見える。
私は震える冷たい手で、ポケットにしまった黒い箱を取り出した。誰かが受け取ることを了承すれば、指に食い込んだ指輪が抜けるはず。
そうして、ゆっくりと声をかけた。
「おひとつ、いかがですか?」
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