南と吉村さん（仮）

世界に二人だけの時に

起きた時、吉村さんは隣にいなかった。彼がいた側に伸ばした腕にカーテンの隙間から入る光が一条当たって、そこだけ暖かい。
伸ばした腕の先にある箪笥にも光が当たっている。そこに立つ女を見た夜以来、吉村さんは箪笥がある側で寝てくれる。

海に行く夢だった。夏にみた夢の中と同じ階段を下りて波打ち際へ向かい、砂に足を取られて思うように進めなかった。
靴が沈んで軋む音を立てる感覚がまだ体の周囲に漂っている。雲ひとつない青空は見たのに、海を見る前に目が覚めた。

リビングの食卓で新聞を広げていた彼は俺の顔を見て立ち上がり、台所に入っていった。
結露した掃き出し窓に近づくと、ガラス越しでもひんやりとした外気を感じたが、陽光に照らされた冬の木々が輝いて、暖かそうな朝だった。
吉村さんは湯気の立つマグカップを持って戻り、食卓に置いた。
「何か食うなら用意してあるよ」
「おはようございます。いつも起きるの遅くてすみません」
「眠れるうちに寝とけばいい。年食うと眠りが浅くなる」
「いや、そんなに年齢変わりませんて」
向かいに座って、大振りのカップからコーヒーを飲んだ。重いティーポットと同じ花が色違いで描かれたカップは燻されたような色で、元からなのか茶渋なのかいつも気になった。

「吉村さん」
「うん」
「海は、ここから遠いですか」
彼は眉をひそめ、広げた新聞に手を置いて天井を仰いだ。
「駅までバスで行ってから歩く。まあ一時間はかからない、が、ほぼ一時間か」
「思ったより遠い」
「最近いつも道が混んでるから、全行程歩いても同じくらいかな。どうした？」
「また海の夢をみたので」
吉村さんは、新聞を畳んで脇に押しやり、コーヒーを飲んだ。花柄のティーセットは来客用らしく、彼は純白の軽そうなカップを使っている。
「またって、俺その話聞いたっけ」
「夏にあの部屋で寝た時、海に行く夢みたんです。今朝また同じ海が出てきて」
夏の夢の中で、吉村さんは涙を流していた。今日の夢にはいなかった。俺はぼんやりと夢の景色を思い返した。
「海、行ってみようか」
驚いて顔を上げると、彼はにこりと笑った。
「吉村さん、仕事は」
「今日はいいや」




紺色のダウンジャケットを着た彼は、玄関で先に靴を履いた俺をじろじろと眺めた。
「靴はまあよさそうだけど、薄着に見えるな。海は風が寒い」
「これ、一応あったかいです。出先で脱ぎ着するから、もこもこしたのは着ないだけで」
「マフラーかなんか持ってこよう」
それで、グレーのマフラーを借りた。門を出た時、吉村さんは石段を見上げて、
「あの上も、後で登る？」
と言った。
「いや別に、いいです」
並んで坂道を下り始めてから、
「何で昨日登ろうとした」
と聞かれたが、答えられなかった。

バスは使わず、宮田圭悟が来ていた日に一人で駅から歩いた道を逆に辿った。途中で知らない道になり、歩道が狭くて、吉村さんの背中を見て歩いた。
すれ違う人の数がだんだんと増え、彼との距離が開く。
道沿いに寺や小さなお堂がいくつもあって、いくつめかの山門の前のスペースで、彼は立ち止まって待っていてくれた。
「すみません。すげー混んでますね」
「あそこからは人少なくなる」
先にある信号を指差す。
「海までは、まだ少し歩くけど」
その言葉が、シャボン玉のように俺と吉村さんの間に浮かび上がり、あっ、と声を上げた。
「海まではまだ、って、あの歌じゃん」
海まではまだ少し歩く、と続けて俺は歌った。吉村さんと宮田圭悟の歌の一節だったのだ。
目をきらめかせて短く息を吐いた吉村さんは、何も言わなかった。

信号のある角は右に曲がれば駅に続く道で、そこを過ぎると確かに人の数は減った。
吉村さんに追いついて、横に並ぶ。
「いい歌です」
彼は前髪を払う仕草をしたが、短くなっているので空振りだ。
「でもさっきまで、これを海に行く歌と思ってなかったです。気づいてなかった」
彼は相槌とも何ともつかないほどかすかに頷いた。
「吉村さん、歌詞も書いた？」
「……歌詞だけ、俺が書いた。あとは全部圭悟」
「でも、吉村さんも歌ってた」
彼は口を歪めて、
「下手なの、無理やりな」
と笑った。
吉村さんの歌声は細くて高くて硬質で、宮田圭悟の伸びやかな声質と混ざり合うせいか、この人の醸し出す雰囲気のせいか、神秘的と言われているのを何度か読んだ。
「それは、ド下手って意味」
「え、そんなことないと思うけど。じゃ、ミュージシャンを目指してたとかじゃないんですか？」
「全然、目指してない」
「俺、サークルのポスター見てたから、音楽の人って印象が強いのかな」

車一台が通れる程度の狭い道に入り、急に静かになった。
頭の中で、例の歌を二倍速ぐらいで再生してみる。あらためて歌詞を追うと、好きな人と二人で海に向かって歩く間の心の動きの歌なのだが、二番以降はあやふやだった。
「だめだ、歌詞全部は思い出せないです」
「思い出さなくていい、やめてくれ」
そう言いながら、眩しさを堪えるような顔つきで、また前髪を払うために手を額に持っていく。
白い長い指が空を掻き、その手を掴んで止めたい衝動を抑えて、俺は両手を握り込んだ。
「あのサークル入ったってことは、音楽は好きだった？」
「音楽は好きだよ」
吉村さんが口にする「音楽」という言葉に宮田圭悟の存在が滲み出すようで、胸に痛みが走った。
だが、どれだけ痛かろうが、俺はこの人と一緒にいたい。




砂浜に続く階段は、当然だが夢の中とは違って、黒ずんだコンクリートで横幅が狭かった。下りた先でも、砂に足が埋まるようなことはない。
吉村さんは大きく息を吐いて立ち止まり、俺も隣でしばらく海を眺めた。波は穏やかそうだ。
左手にトンネルが見え、反対側には緩やかに湾曲する浜辺が広がっている。向こうの浜辺は波打ち際を歩く人が多く、三角形の赤や黒のカイトがいくつか見えた。

「初めて来た？」
と聞かれて、少し考える。
「遠足で江ノ島とか行った気がします」
「ああ。江ノ島はあっち、ここからは見えないけど」
彼は右手の岬を指差してから、波打ち際へ歩き始めた。俺も遅れてついていく。
冷たい風が吹き、マフラーを手繰り寄せると、あの家の匂いがした。
「吉村さんは、よく来るんですか」
声を張って背中に呼びかける。
「海は、圭悟とよく来た」
吉村さんの声は風に乗ってはっきり届いた。早足で追いつき、後ろから肩を抱いた。嫌がるかと思ったが、彼は何も言わない。俺は腕に力を込めて、彼の足を止めた。
「吉村さん、お願いがある」
「なに」
「俺だけにして。男は俺だけって、約束してほしい」
唇が触れそうなほど近くで彼は俺の目を見た。その頬から目元にかけて、みるみる熱が上がるのがわかった。
「急に何を」
「俺は、あなただけです。こんなに誰かを好きになったことはなくて」
不意に涙が込み上げ、俺は彼から離れて、海の方へ踏み出した。

しばらくして吉村さんが隣に立って、南、と小さく呼んだが、声が震えそうで返事ができなかった。
心臓の鼓動が強く打ちつける胸を片手で押さえたところで、もう一度、吉村さんが俺の名前を呼ぶ。
「南」
「はい」
「俺がお前のこと好きでも、また会いに来る？」
彼はひどくゆっくりと、例のスローモーションのような瞬きをした。右目だけがうっすら赤く充血していた。
「もちろん。当たり前」
慌てて答えると、吉村さんはかすかに微笑み、俺の右腕に全身でもたれかかったが、すぐに離れた。
「あっちに歩いていこう」

黙ったまま、しばらく海沿いに歩いた。
俺は近くに人がいないのを確かめ、コートのポケットに手を入れてから彼の顔を覗き込んでキスした。手を出したままだと抱きしめてしまいそうだから。
吉村さんは立ち止まり、呆れたようにため息をついて、また歩き始めた。
「誰も見てなかった」
「そういう問題じゃない」
「約束してくれる？」
普通に言えると思ったのに、声がかすれた。
「お前だけだろ、ずっと」
吉村さんは俺を見ずに、つぶやいた。
「お前がかわいそうだから言わなかっただけ」
「俺がかわいそう」
「お前がいくら嫌がっても、圭悟のことはなかったことにはできないから」
老夫婦に見える二人が、大きな犬を連れて俺たちの前を横切った。
黄色のリードを付けて舌を出した犬は、吉村さんを興味深げに見つめながら、通り過ぎていく。吉村さんはじっと目を合わせていて、犬が前を向いてしまうと、ふふふ、と楽しそうな笑い声を漏らした。

門なんか閉めないで一目散にあの坂を下って、この人がドアに八つ当たりするのに気づかず帰っていたら、終わりにできただろうか。
昨晩、眠れないままに考えた。
俺が謝ったとして、この人は受け入れてくれたか。あの成り行きでは、失っていたかもしれない。

吉村さんは犬が尻尾を振り立てて遠ざかっていくのを見送りながら、
「お前は圭悟とは違う。比べたことはないよ」
と言う。
さっき彼が笑ったのと同じような調子で、俺は笑った。
「吉村さんが比べるのを気にしたわけじゃないです。あいつセックス下手だし」
吉村さんは、変な声を上げた。
「お前なあ。時々突拍子もないこと言うの、やめろよ」
「そう言われてもさ。下手は下手としか言えない。俺と寝たらわかったでしょ」

吉村さんは立ち止まり、海に背を向けて俺に向き直った。しばらく俺の顔を見た後で、口を開いた。
「南だけって約束する。だから、お前も約束しろ」
「吉村さんだけです」
「そうじゃない。俺を一人にするな」
また前髪を払うために手をかざして、彼は目をそらした。
「もう、一人になるのは嫌なんだよ」

玄関で泣きながら言っていたのは、そういうことだったのか。
俺はコートのポケットから右手を出して、深く項垂れた彼の肩に置いた。彼はそのうちゆっくりと顔を上げた。
「今度から、出て行けって言われても居座りますんで。安心してください」
笑った拍子にこぼれ落ちた涙を、吉村さんは手の甲で乱暴に拭った。
「一人にしません。約束する」
「うん」
「俺が約束守るのを、吉村さん、ちゃんと見てて」

逃げていくのを怖がって奪おうとしなかった。あるいは、この人の望むように、という言い訳をして、追い詰めなかった。
強くなれ、と自分に言い聞かせた。一人にしないで、とこの人に二度と言わせたくない。

目に見えない存在に何かを託したことはなかったが、涙を流す吉村さんの後ろに海と青空が広がって、それは夏にみた夢と同じ光景だったから、俺は祈った。
強くなること。この人を守れるくらいに。この人とずっと一緒にいられるように。

そして、心に浮かんだのはあの妙な想像だ。
この人の胸の中の不思議な仕掛けに自分を繋ぎ止めて、決して離れない。
その力をくださいと俺は祈り、祈りながら夢の中と同じ穏やかな風に吹かれて、しばらくそのまま立ちつくしていた。