夜の夢を憶えているのは

あさかわゆめ

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言わない、消える、残る

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初めてキシの部屋に泊まった時、僕は朝早くに目を覚まし、みていた夢の終わりが悲しくて涙を堪えていた。窓の外から鳥の声が聞こえるが、日の出はまだだ。
寝ていたキシがふと腕を伸ばして、僕の顔に触り、
「えっ」
と寝ぼけた声を出した。
「どうした? 大丈夫?」
「ん」
「何だよ。どうしたの」
「夢みた。大丈夫」
キシは、うーんと唸りながら腕枕をしてくれた。僕はキシの胸に手を置いて、彼がまた眠るのを見ていた。
夢の悲しさは体じゅうに染み込んで、消え去るまでには時間がかかる。

四月の夜、キシはエレベーターの中で、突然僕の頬に手のひらを滑らせ、唇を重ねてきた。
すぐに扉が開いた。キシが先に降りた。
雑居ビルの一階で、小さなエレベーターホールの外には、たくさんの人が行き交っている。
「いやだった?」
と言いながら、キシが振り向く。
驚いたままで、声が出なかった。
「ごめん」
と続けてキシが言うので、慌てて、
「あっ、いやではない」
と言った。
「じゃ、うち来る?」
「えっ」
「来なくてもいいけど」
キシは壁にもたれかかり、エレベーターの上の階数画面に目をやった。振り向くと、今、七階から下り始めたところだった。

同期会が終わり、たまたま来たエレベーターに二人で先に乗り込んだので、他の皆を待たなくてはいけなかった。
「うち、A駅だから近いでしょ」
「そういう問題か?」
「まあ、いいじゃないですか。あまり深く考えず」
僕はキシをまじまじ見た。
「いやなら、来なくていい」
いやではない、とまた言いそうになったが、代わりに、
「どうして?」
と聞いた。エレベーターの扉が開いて、他の人たちが降りてきた。

「お待たせー」
「これで全員?」
「安田さんとか、トイレ行ってる」
「井口もまだ来てない」
キシは同期の男どもと話し始めた。女子が話しかけてきたので、僕は彼女たちと会社の話をしながら、駅まで歩いた。
キシと僕は同じ方向に帰るので、同じ地下鉄に乗り込み、他に同じ方向の人がいないので、二人きりだった。結局あまり話さないで、キシの部屋に行くことになった。

座って、と言われ、小さなテーブルの前の椅子に座る。キシは上着を脱いで二つに折りたたみ、向かいの椅子の背に掛けて、
「何か飲む?」 
と言った。さっきのエレベーターの時から、ずっと心臓がどきどきして喉のあたりが変だったが、キシは普段オフィスにいる時と同じように見えた。
「コーヒーとか飲む?」
「いや、いいけど」
「シャワー浴びる?」
「浴びるけど。キシさんて、彼女がいるんじゃなかったっけ」
キシは、テーブルの向こうに立ったまま、ふふ、と唇の端で笑った。
「なんで、その顔」
「浴びるけど、彼女がいるんじゃなかったっけ、なのね」
「んー」
「それは、昔いた話が、今付き合ってるという話になった」
「昔いたんだ」

昔ってどれぐらい昔、と聞く前に、
「上野は、誰かいるの」
と聞かれた。何と答えようか迷う。
「あ、いるんだ」
キシの声は、むしろ楽しげに聞こえた。
「なんていうか、んー。いないんだけど」
キシは近づいてきて、僕の腕に手を添えて椅子から立たせた。鼓動がさらに激しく、自分の耳に響く。
「なんていうか」
まだ言いかけていると、両手でそっと抱き寄せられた。キシは背が高く、僕は彼の肩にもたれかかって、目を閉じる。キシの手が、僕の頭をゆっくりと何回か撫でた。
「ま、深く考えなくていいよ」
キシは低い声で呟いた。
「上野くん、かわいいので」
心臓の鼓動が、合わせた胸を通じて伝わってしまうだろう。
「今日そんなつもりなかったんだけど、つい。かわいいので」
彼は僕の肩に手を置いて体を離し、目が合うと微笑んだ。
「なんか、俺のこと見てるし」
「あ、バレてた?」
「バレるよ。しょっちゅう目が合うじゃん」

さっきと同じように、唇が触れるだけのキスから、キシは優しく包み込むように僕の唇を味わい、そのうち口の中をゆっくりと愛撫するようなキスをし始めた。
霧がかかったように頭がぼんやりしてきて、キシのシャツの背中を両手で掴むと、キシは僕を支えるようにさらに強く抱きしめた。

時々会っている相手がいた。大学時代の先輩で、初めて付き合った男性だった。一年前に別れたはずなのに、たまに会って寝るだけの関係になっていた。
早くキシに言っておいた方が公平だと思った。キシは僕の質問に答えたんだから(どうして?と聞いた答えが、かわいいので、だと思った)。そして、キシは僕が見ていることに、気づいていたんだから。

でも、キシが深く考えるなと二度言ったのが地味に効いて、その夜、僕は言わなかった。
遊びなら、公平、不公平とか要らないわけだし。

キスの後、僕の頭をぽんぽんと軽く叩いて、キシは両手で眼鏡を外して、背後のテーブルに置いた。
「シャワー浴びてきて」
「うん。眼鏡外したの初めて見た」
「おお」
じっと見ていると、キシはさっきと同じように唇の端で笑った。
「なんでそんな見るかな。面白い?」
キシさんの顔が好きなんだよ、と喉元まで出かかったが、それも言わなかった。好きという言葉は穏当ではない。面倒だと思われるのも、こりごりだ。

「シャワー、一緒に浴びよか」
と僕は言った。キシはちょっと体を引いて僕の顔を眺め、
「狭いから、無理だと思うよ」
と言いながら、僕の脇を通って玄関の横にあるスイッチを押し、白いドアを開けた。
「狭いでしょ」
「うん」
「先にどうぞ。真ん中の引き出しにタオル入ってる」
「うん」
「お前、いやなら無理しなくていいよ、わかってるだろうけど」
キシは真剣な声で言う。
「いやじゃない。したい」
言ってから、顔が赤くなるのがわかった。僕は慌ててバスルームの中に入り、後ろ手にドアを閉めた。

言わないことは嘘ではないが。言っていたらどうなっていたか。
朝早くキシの胸に手を置いていた時、キシはいなくなるという予感が何の前触れもなく僕の中に生まれて、夢の余韻が少しずつ消えていっても、悲しさは消えなかった。

もうずっと後になって、この夜のことを思い出すと、その悲しさだけが僕の中に残っていることになる。
少しずつ明るくなっていくカーテンの向こうの光を頼りに見つめていたキシの寝顔を、僕は忘れてしまうのだ。
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