インディア~親蜜の香り~その一章

サーガ

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インディア~親蜜の香り~その一章 10

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 答えは否、である。断られた男が激昂するかもしれないことくらい、彼女も本能的に知っている。だが、そうであってもいい、と思わせ足を戻らせたのは、今までの彼の優しさだった。裏切られるなら、それでも仕方がない。今までのミスターが偽りの姿だったなら、騙されても本望だ。
 あの青い不思議な双眸は、当初魔物のように見えて少し怖かった。白い肌も病人のようで何だか気味が悪かった。今は違う。彼は白人なので気付いていないのだが、動揺するとあの肌はすぐに赤くなり、何でもない振りを装う彼の気持ちを明白にしてしまう。リンゼイは、高慢に見える外見、洗練された立ち振る舞いに反して、とても可愛い人だ。
 アーシャはシャワーの音がしている別室へそろそろと近付く。点々と衣装が落ちていたので、辿るのには困らない。そして彼女は洗面台とトイレを通り過ぎ、奥の硝子張りの浴室を見て歩みを止める。
 硝子は曇らないようになっているのか、湯気の中でリンゼイがシャワーを浴びる姿態があった。金髪を泡だらけにし、その泡を身体にもつけて、水圧の下へ。長めの前髪が顔に掛かり、それを掻き揚げる。泡が一糸纏わぬ四肢へ流れていく。張った肩の筋肉や鎖骨に湯が跳ね、厚い胸板に水飛沫が立った。高い位置で引き絞られた腰と、目を逸らしてしまうほど締まった尻、長い脚……さぞ御自慢だろう。遠い昔、アーシャが一度だけ見たお金持の家の庭にあった、ダビデ像の如き肢体。
 本当にあんなに白いなんて、白いというより桃色だけれど。彼女は食い入る様に、その体躯を見ていた。あそこは石像よりもっとずっと大きい、尻の前の方で揺れる色の濃いモノは。
 リンゼイは泡の付いた手でそれも前後に擦って綺麗にしている。注意を引かれて暫しその部分に引き付けられていたが、唐突にそれを洗う手が止まった。彼女が視線を戻し、竦み上がる。リンゼイが此方を見ていたのだ。彼は微笑み、シャワーを止める。硝子戸を開けて隠さず、しかし少し顔を赤くしながら、彼女を見つめる。
「アーシャ、もう少し待っててくれたら出たのに……いや、一緒に浴びないか、僕が洗ってあげるよ」
 リンゼイが男の顔をして、彼女を見つめながら手を伸べた。窺うような無邪気な笑顔だが、その眼だけは鋭く、怖いほど真剣である。彼女は見ていられなくて顔を逸らし、退いた。そのまま後退り、俯いてしまった。
「か、帰ります」
 身を翻した背に、リンゼイが慌ててホテルのバスローブを羽織って追い縋った。
「どうしたんだ」
 ソファの傍で腕を掴んで引き止め、前に回り込む。
「帰りたいのです、私はこんなつもりじゃなかったんです」
 彼女は泣きそうになっていた。今まで少し訝しげに顰められるだけだったアーシャの柳眉が、これ以上ないくらいに顰められ、リンゼイから顔を背けている。彼が覗き込もうとしても、拒んで下を向くばかりである。
 どうして……インドの封権的なモラルに反するから?
「僕が怖いのか?」
「ごめんなさい」
「嫌なら何もしない、ただ君が魅力的だから……でも」
 リンゼイは彼女の腕を放し、しかし逃げられないよう用心深く、さり気なく二の腕に手を添えていた。
「こういうの、嫌いかな……?」
 そっと抱き寄せれば、凭れて来る。
 これはインド女性特有の駆け引きなのか? 彼女の額がリンゼイの胸に触れるか触れないかのところにある。こんなに近くにアーシャがいるのは初めてだ。抱き締めて、サリーを剥ぎ取り、体中にキスを落としたい。
 だが、決まった遣り方でキスしようとすると、顔を背けて身を離そうとする。
「悪魔の行いです、結婚していないのにこんな」
「悪魔だって?」
 何という大袈裟な! リンゼイは彼女の偏った古い考え方に触れ、不快で少々苛立ったが、一瞬のことだった。その言葉の意味するところを察して、重ねて訊く。
「待って、じゃ、まさか君は初めてなのか?」
 二十五歳にもなるのに?
 その身体で、その容姿で?
 不躾な問い掛けを如実に感じ取ったのだろう、初めてアーシャが顔を赤面する。今まで彼女が顔を赤らめなかったのは、リンゼイが一度も卑しい話をしなかったからだが、今度ばかりは質問を抑えられなかった。答えは思っていた通りのものである。
「当たり前です、結婚してないもの、穢れてるわ!」
 強いヒンディー訛りに、彼女の怒りが見える。しかし、こんな状況では処女膜の有無に一喜一憂するほど、冷静にはなれない。肝心なのは、即物的で直接的な答えでしかなかった。
「じゃあ、僕が相手では嫌、なのか?」
 もしくは、今だから嫌なのか、それともずっと嫌なのか。やらせてくれる気は、一切ないのか? 今まではずっと穢れない女の特権で、男の純情を友情と勘違いしてきたというのか? だが、最後の理性で彼は処女を相手にそれ以上の、男の欲を剥き出しにした質問を口走らずに澄んだ。
 眉が下がり、情けない顔になったリンゼイに、アーシャが首を振る。
「いいえ、でもそんな関係になりたくありません」
「そんな関係? 恋人のこと?」
 彼女の瞳に溜まっていた涙が溢れ出し、横顔が崩れていく。
「どうして、泣くんだ」
 優しく宥める声音は、彼女の心までは包容できなかったようだ。顔を背けたまま、リンゼイを見もせずアーシャが静かにいう。
「たくさんいるわ、いつ来るか分からない、お金持ちの白人の男を待つインド人の女。そんな風になりたくない、家族にも迷惑が掛かります」
 リンゼイはアーシャから手を放していた。今度は彼が横を向いて手を額に当てる。
「違う、僕はそんな男じゃない。君が好きなんだ、だから」
「好きなんて、嘘です」
「どうして」
「だっていわれていないもの、こんな時に男がいう言葉は嘘です」
 彼は虚を突かれ、しばらくそのまま黙った。言葉が見付からない。
「……すまない、今まではもう告白なんてしなかったから」
 一日おきに男から電話し続けていたなら、欧州の女なら誰でも、十二になったばかりの小娘でも、その男を征服していると感じるものだったから、彼はいう必要など欠片も感じなかった。
 だが、アーシャは違う……。
「君が好きだ、それだけじゃなく僕は君を愛し始めてる。証しを見せろといわれても難しいが、本当にそうなんだ」
 リンゼイは頑なに顔を背けた彼女を見て、出会ってからこのかた、出したことのない荒い声でいった。
「どうしたらいい、結婚証明書を取りに行けばいいのか? 何でもいってくれ!」
 こんな声――彼女相手に怒声を出さなかったという喩えではなく、恋をして、幸福だったから、普段なら人に当たってしまうような事態でも、リンゼイは寛容になっていた。不機嫌になったのは久し振りだ。
 しかし、アーシャは引かなかった。
「嘘をいわないで、お願いです。貴方はクシャトリナです、私と結婚する気なんてないのでしょう」
「何をいってるんだ、君がしたいっていうなら……」
「貴方はいったではありませんか、自分の祖先はノルマンが攻めて来た時、勇猛に戦い、功を成して騎士に任ぜられ、その後男爵になった、と……クシャトリナはシュードラの女と結婚したりしません」
 前に、彼はいった。
 家は貧乏だけど貴族の爵位があって、今は庭付きの一戸建てに住んでいる、両親共に健在で母親は専業主婦、父親は医者。子供の頃は宇宙飛行士になるのが夢だった。犬を飼いたかったので独身なのに一戸建てを借りたが、結局仕事の不規則性の為に諦めている。最終的な夢は「叶うかどうかは分からないけど」、南欧で邸と葡萄畑を買い、ワインを製造する権利を手に入れ、悠々自適に過ごすこと。
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