インディア~親蜜の香り~その一章

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インディア~親蜜の香り~その二章 9

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 半年ほど、そんな生活を続けた後だったろうか。無知ゆえの頑なさでその仕事を放そうとしたがらなかった彼女だが、優しい夫の本心は分かっていた。彼は不服だという態度など一切見せず「こんな生活も悪くないんじゃないかな」と慰めてくれるが、嫌に決まっている。
  アーシャは一人で静かに悩んだ末、ずっとこうして働き続けるのは難しい、と悟ったらしい。その理由はこの生活が大変だからというだけではなく、隠していたリンゼイのことが他の人間の口に昇るようになり、リストラの危機が迫っていると直感してからだった。
  ニューデリー空港では、下層カーストの女性は結婚すると退職しなければならない旨が、職務規定に明記されている。彼女は結婚のことはおろか、英国人の異性の友人がいることもひた隠しにしてきた。しかし、いつまでも隠し通せるものではなく、アーシャの性的な行状が職場で噂に上がり始め、彼女を苦しめていた。実際に自分は結婚したわけだし、家族の心配も払拭されている。ここにいても追い出されるのは時間の問題だった。どうするか、考えねばならない。
  義理の従姉妹となった憧れの女医に強く薦められたこともあって――「貴女は頭が良いんだから、もっと勉強するべきよ。学位を納めれば英国の空港に就職することも夢じゃないわ」、ジュリーは他の誰よりもアーシャに好意的である。そもそもフェミニストの彼女は発展途上国の女性に対し、常に弱者と強者というグレーゾーンのない二元論で終始する。彼女はいつも弱者に対して人情に篤い――そしてヒンドゥー女は感化され、意を決して、
 「イギリスの大学で、英語教育とコンピュータについて学びたいので、しばらく休職したいのですが」
  と切り出した時、夫の反応は予想の範囲内だった。
  リンゼイもまた、実は諸手を挙げて賛成したかったが抑えて、こういったのも、消極的に見えた理由かも知れない。
 「賛成だ、お金のことは気にしないでいい。だが、もし君がずっとこの仕事を続けたいなら、今のままでもいいんだよ。一緒にいることだけが結婚じゃない……君が飛んで行ってしまわずに、僕の許に帰って来てくれるという証しがあればいい」
  アーシャはアジア女性にありがちな依存の面も持ち合わせていたので、教育費を夫から出してもらうつもりだった。その上、妻の教育に積極的になる白人夫の心理をまだ掌握していなかったので、かなりの覚悟を必要とした。
  しかしこれは、アーシャが思ったように金銭的負担を考えてのことでは、当然ない。未だ、リンゼイはまだ彼女に対し、俗にいう「いい格好」をしたいと望んでいる。寛容で優しいガーディアン、先進的で何でもできる騎士として振る舞いたい、と思う。姫の様に扱いたいのだ。駄々を捏ねるのは簡単だが、そうしたいなら他の女を選んでいただろう。
  リンゼイはアーシャを手に入れた時のままで、そっとして置いてやりたかった。神秘的で純粋で、泥臭いほど一途だった恋人を、先進の波に当てて汚したくない。あたかもヒンドゥーの教義が正しいと認め、屈服したが如く。
  しかし、それは自分の女に賢しくなって欲しくないという男の勝手な理論だけではなく、あの時点で容姿性格だけでなく行跡と境涯すべてにおいて完璧だった彼女を自分の影響で変な風に変形させたくないという敬いの気持ちも存在する。
  アーシャは首を振ったので、彼はホッとしながらいう。
 「死ぬまでこの仕事をしたいっていっていたから……」
 「憶えていてくれたの?」
  彼女は胸が一杯になり、夫を見つめてその胸にそっと凭れる。すぐに深く息をし始める短絡的な男を感じながら、目を瞑った。きっとリンゼイはこの話が終わった直後、自分を抱くだろう。
 「いいんです。勉強もずっとしたかったから……今まで無理させて、それに学校のお金も……ごめんなさい」
 「謝ることなんてないさ」
  今までだって無理をしてなど……いや、本当はこういった新婚生活を気に入っていなかったが、耐えただけの価値はある。リンゼイは先進的な男で、頼り甲斐があり、飛行機という大鷲の背に載ったミソサザイのように空を飛び回る彼女のほうから籠に入りたがるような主と成れた。
  契約が切れる三ヵ月後からは――家に帰ったら、彼女がいるのだ!

  こうしてアーシャはニューデリーのマンションを引き払い、少しの荷物を持ってリンゼイの家に住み始める。結婚して略一年が経る四月のことである。
  彼女の持ち物は少なく、寝室に置いても嵩張るようなことはなかったが、リンゼイは開かずの間を片付けて待っていた。部屋の三分の一はガラクタで埋まったままだったが、贈り物として化粧台を備えた上、彼女の衣裳部屋とするのには何の支障もない。女友達や従姉妹には半分やっかみを込めて「ラッキーな奥様ね」、兄や男どもには「可愛いからってあんまり甘やかすなよ」といわれたので、自分の待遇に問題はなかろう。
  彼女にとって贅沢であるかどうかはともかく、リンゼイ自身初々しい妻と家庭を手に入れて、初めて満たされきった瞬間を迎える。
  妻が生理の最中、恐れ戦いてガラクタ部屋に隠れようとして、悶着した以外は、何もかもが快適な生活だった。この時も、リンゼイが唖然としてこういったのだ。
 「どうして一緒に寝られないんだ? 嫌ならセックスしたりしないよ。タンポンか、夜用ナプキンを使えば汚れないんじゃないかな、別に君が気にならないなら汚れたっていいし……」
  彼は相手に血液感染の恐れさえなければ、愛する相手の子宮壁の味を味わったって別に構わないのだ。空気には雑菌がいるが、胎内の赤ん坊の為の寝床は体液のどれより綺麗なもので、これを嫌がるなら唾液の方がずっと汚い。
  肉体的に辛くなければ、セックスしても妊娠しないのだから悪いことではない。中出し出来るではないか。昔は欧州でも月のものは穢れだったというが、後進国はこれだからつまらない。
  その他、アーシャは思った以上に高尚で、家ではいつもいつも勉強していた。まるで渇き切ったスポンジが、幾らでも水を吸う様を見るようだった。彼女の境遇を思えば珍しいことではない。また彼女は物静かだが精力的に同胞と交際、水も飲めないインドを見限って移民、当地で成功したシュードラやアンタッチャブルと交遊を深め始めた。
  リンゼイが妻の知人に興味を示す英国人の夫として、どんな人間たちなのか、騙されてはいないか心配すると、アーシャはその集まり――成功した下層カースト従業員連盟の小さな会合に連れて行ってくれた。これらはロンドンでも大会を持ち、国際組織としても成長しようとしている、という。
  リンゼイも英国人がしばしば指摘される「外国人嫌い」を意識下に持ち合わせており、自国で大手を振って歩く異国民に怪訝な思いを禁じ得なかった。
  英国人は二種類に分けられる。島国根性丸出しで、家のリフォームしか興味がなく、自分が最も優秀な民族と文明国家の一員であるといったような、世界に対して背を向けた人間と、世界的視野を努めて広げ、自国が犯した植民地国の貧困にも責任を感じ、自国の時代遅れな面、貧富の差、ホームレスや環境の問題に憂慮するような熱心な人間と。リンゼイは愚かではなかったが、熱心でもない、大体真ん中くらいに位置した英国人といえた。
  黒鳥の中の一羽だけの白鳥の気分で、会うのも始めは気が進まなかったが、この付き合いは彼にも大きな変化を与えることになった。結婚生活とはそういうものかも知れない。
  英国のサウソールには、インド人が多くコミュニティを作って住んでいる。若いインド系の自殺は其処でも起きている。コミュニティにはインド雑誌、インド雑貨店、インドレストランが並び、何十年も英国に住みながら、英語を学ばず初歩的な英語の学習すら拒んでも生きていけるほどの、閉じられた社会を作り上げていた。
  しかし、彼女の紹介する移民のインド人、それも下層カーストのインド人たちはインドで見かけるような、強欲なシルクロード商人には見えなかった。依怙地に英語を学ばない移民とは違い、綺麗なキングズイングリッシュを話した。大言壮語するわけでもなく、祖国の人々に比べるととても遠慮がちで……そういえば、アーシャに何処となく似ている。
  彼らは献身的で祖国の同胞、虐げられるカーストの民に心を馳せる。そして他のインド人とは係わっていないらしい――コミュニティにも仕来たりがあって、カーストが支配しているので入って行くのは得策ではない、という。
  彼ら彼女らにとっても、アーシャと同じように自由平等と友愛という、先進国では歪曲され使い古された言葉が、生き抜く勇気を賦与する大切なもののようだった。
  彼らは二人の馴れ初めを聞くと、映画のようだといっては無邪気に喜んで手を叩いた。悪い気はしない。アーシャは革新的な同胞に、一番初めに何故リンゼイの「ナンパ」に応じたのかを明かした。
 「英国人はアウトカーストを差別しましたけれど、バラモンほどではなく、人権意識の高さで彼らの心を目覚めさせ、保護をくれたと聞いていたので、お話をしたかったし、聞いてみたかったのです……彼はその通りの人でした」
  リンゼイが彼女を振り返って、見つめる。
 「知らなかった、そうだったのか」
 「それでミスター、貴方が彼女を見初めたのですね」
  アンタッチャブル出身の衣装デザイナーがいう。彼はその道では知られた人物で、俳優、劇団員、テレビ関係者などが出入りするブティックも経営していた。これも少々忌ま忌ましいが、率直で腹黒い所がないので良しとしよう。リンゼイは視線を動かして、妻をじっと見た。
 「ええ、そういわれてみれば、そうだ。でも……妻は思っていた通りの人ではなかった」
  アーシャが心配そうにリンゼイを見る。彼は笑顔を浮かべ、堂々と告げた。
 「彼女は思っていた以上に、素晴らしい人でした」
  そうだ、アーシャと出会ったときから不思議に思っていたのだ。
  地位を成した自分の才能を、他者の為に生かそうとするには、どれだけの高潔さが必要だろう、と。
  自分たちの獲得したものを得られなかった、得られないでいる人々に共感し、励まそうとする心の動きは、後天的なものなのだろうか。金銭を得て消費するだけの、自慢げに嘯くアメリカや英国の成功者にはない何か。自分の見えなくなった世界を更に探ろうとする、見ようとする心の働きと深い想像力が、彼らにはある。高邁だが、気取った所はなく、話していて楽しい好漢ばかりではないか。
  しかし、彼ら彼女らの背後には想像もつかぬ屈従と忍耐の歴史が潜んでいる。
  彼はアーシャの殊勝と目的意識の高さに心酔し、彼女の好きなようにさせたい、と新鮮な気持ちで思う。いや、妻に元々指図する権利などないのだが、何処かしら自分の方が指導的役割を担うのではないかと、自惚れていた。
  だが、リンゼイが彼女を娶って選択の軸が彼女中心になっても、パイロットであり英国人であるように、アーシャもまた長い人生の中の一つでリンゼイと結婚しただけであり……完成された生き方の基軸を変えてはいない。アーシャの選択基準は今も昔も、実利的な社会的成功と貢献に占められている。
  リンゼイは人々が高い教育を得ることが何よりも重要だと思っていた。これらのことから、他のどの夫よりも、アーシャに感情移入しつつあった。それに今の英国は、外から眺めるよりもずっと悪くなっている。道徳や礼儀が過去のものとなり、政治にも関心を払わず、拝金主義に成り下がったが、まだこんなに意欲と希望の溢れる人間を包括できてもいる。真剣で熱意のある人間を見るのは、微かながらも輝きが感じられる貴重な瞬間でもあった。
  ともすれば、アーシャの方が、自分よりもずっと世界を覚醒して眺めている。ただ、ひけらかさないだけなのだ。崇美で一本気な妻は、奥床しい生の俗なる面をリンゼイにもう少し投げ与えてくれる気はないのだろうか――彼が求めるのはそれなのだが。
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