まともがわからない

Justification

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まともがわからない

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「ビンタをしてくれませんか?」僕はSM嬢に頼んだ。この店に来るのは、はじめてだった。「片道?それとも往復?」SM嬢は言った。どんな職業であれ顧客のニーズを最大限に満たさんとするそのSM嬢の姿勢はまさにプロフェッショナルだと僕は思った。

「もちろん往復で」僕がそう言うと、平手が頬を打つ小気味いい音が二回、妖しげなピンク色の照明が灯る個室の中に響いた。その後、ひととおり縛り上げられたり、蝋燭で熱しられたり、とにかく二万五千円を払って一時間半、痛い思いをした。

おそらくまともな人間は僕のことを頭がおかしいんじゃないかと思うはず。まともな家庭で育ち、まともな教育を受けて、まともな人生を送っている人間は二十九の誕生日にSMクラブに行き、二万五千円を払ってわざわざ鞭で打ってもらおうとは思わない。

ましてや「軽く内出血するくらいの強さでお願いします」とSM嬢にややこしい注文をつけたりもしない。

「まとも」とは何だろうか。「まともな人間」とは何だろうか。SM嬢におそらく十五回以上は蹴りあげられたであろう自分の尻を労るようにさすりながら、帰り道そんな事を考えていた。そしてコンビニに寄ってシップを買い、尻に貼ってから眠った。

次の日から僕はいつも通り「まとも」な人間に戻った。まともに出社し、まともに挨拶を交わし、まともに外回りをし、まともに自分の職務に取り組んだ。仕事だからだ。間違っても事務の子に「ちょっとそのボールペンで太ももを刺してくれない」とか「その電卓の角で頭を全力でひっぱたいてくれない」などとは言っていない。さすがの僕も仕事中にそんなことを言ったりはしない。

しかし、親しい取引先の男と話しているとき、ふと僕は昨日の帰り道で考えていたことが頭をよぎった。彼は僕と同年代の愛想がよく物腰の柔らかい男だった。顔立ちも背丈もいたって平均的なのだか、短く整えられ、ワックスでセットされた髪型には清潔感があり、程よく日焼けした肌は健康的で活力を感じさせた。笑った時に見える歯は白く、歯並びもよい。そして、よく通る低い声で落ち着いて喋った。

要するに彼は明らかに「まとも」な人間だった。僕のように「まとも」なふりをしている人間とはぜんぜん違うのだ。でも、しかし、僕は彼の何を知っているのだろう。彼について知っていることより、知らないことのほうがずっと多いし、親しいとは言ってもそれはもちろん友人のような関係性を持っているわけではない。あくまでお互いに一社会人同士という限定的な枠組みの中で、比較的親しいというだけである。

だから、ひょっとしたら彼も「まとも」なふりをしているだけなのかもしれない。僕が知らないだけで実は週六で赤ちゃんプレイ専門店に通っているのかもしれない。饒舌に近年の日本の経済動向について語っている彼がいま履いているのは真っ赤なTバックかもしれない。可能性として、それは決してゼロではないのだ。

その日の仕事帰り、帰宅ラッシュの満員電車の中でこの車両のなかに、「まとも」な人間はいったい何人いるのだろうかと考えていた。

そして「まともじゃない何か」を抱えつつも「まとも」なふりをしている人間はいったい何人いるのだろうか。最低でも一人はここにいるのだけれど、そればかりはわからない。みんなもしかしたら何かを抱えつつ、そしてそれを隠しつつ、なんとか生きているのかもしれない。

週末、あの店に行った。そのことをあのプロフェッショナルなSM嬢に話してみた。「あなたが変態なのは間違いない。」そう言うとプロフェッショナルなSM嬢はプロフェッショナルなビンタを僕の頬にくらわせた。

確かに間違いない。
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