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第17章 イクリプス
Badlands
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ヤニ臭い部屋だった。カビ臭い布団に振りかける消毒薬はなかった。
男をベッドに投げるように横たわらせ、その上に跨った。
まるで吸血鬼が噛みつくかのように、男のうなじをあさっていく。
ない。
ない。
ない。
”穴”は、存在しない。
あるのはただの肉だ、金属ではない。
ドロシーは喜びに叫びたくなるのを押さえ、彼に優しく呪文を振りかけていく。
金粉の粉が舞い、彼の頬に薄く積もる。
彼女の開発した『金の鱗粉』は、体力やケガではなく、精神を癒す術だ。
空虚なる精神に水を注ぎ、斧の突き立てられた大樹の幹にコーキング材を流し込むのだ。
ドロシーは先ほどまでと打って変わり、優しく彼を癒した。細心の注意を払い、優しく。
男のまどろみはゆっくりと薄れていき、やがて目を覚ます。
彼の目に最初に入ってきたのは、自身に馬乗りになる妖艶な美女。肉感的なふくらみは重力に抗う気はないようで、彼の胸にずしりとした感触を与えていた。
君は誰だ、と彼は聞きたかった。が、思考の中で単語がつながることはなかった。
彼が自分を取り戻すまでには、まだいくばくかの時間が必要だった。
それでも、
沈黙のあと、たっぷりと見つめあったあとで、彼は目の前の女の名前を発した。
「ど、ろ、しぃ」
ドロシーは、優しく微笑んだ。
「いらっしゃい、イングウェイ。ようこそ、このクソったれな地へ」
イングウェイがドロシーの名を知っていたのは、記憶の混濁のせいだった。
ドロシーが彼の記憶を、脳内を覗き見たときに、彼の脳内に彼女の記憶も移ったからだ。
かといって、イングウェイが彼女の苦しみを、この世界の成り立ちや社会の仕組みをそれだけで知れるほど、交錯は長くはなかった。
「きみは、 だれ、だ」
息も絶え絶えの老人のような声で、イングウェイは尋ねた。
ドロシーは言う。
「魔術師よ、あなたと同じ」
ドロシーとイングウェイの故郷はまるで別の世界だったが、魔術があるという一点において、共通していた。
彼は彼女に強い共感を抱いたし、彼女は彼を必要としていた。
何から話すか――当然ドロシーは決めていた。何度も何度も頭の中で繰り返した手順だ。
「よく聞いて。”穴”は開けてはいけない。ダイヴシステムは、あなたの力を失わせる」
ジャックとは。ダイヴとは。それらの説明なく、ドロシーは述べた。それが一番大切なところだからだ。
「現実を見据えなさい。あなたは、この世界の異物なの」
「……酒を、くれ」
イングウェイは言った。
鉛のように重たい体は、いまだ見知らぬ女に組み伏せられたままだった。
渇き。そうだ、まずは喉を湿らせる。それからだ。
カラカラに干からびた喉、埃っぽい空気はイングウェイを咳きこませる。
女は唾がかかるのを気にもしていないようで、じっとイングウェイの瞳から目を離さなかった。瞬きの一瞬すら惜しいと言わんばかりに、瞳の奥にある脳髄を透かしてみようとするように。
ドロシーは、冷たく言い放った。
「この世界に、酒は存在しないわ」
その言葉は理解に時間がかかる。比喩か? 何の比喩だ。聞き間違いか、それとも彼女の勘違いか。
そして彼女はもう一度、言い直した。
「いい? 私は、ここ数年、酒を飲んでいない。酒がないから、飲むことができない」
「誰が飲み干したんだ?」
ようやくイングウェイから、まともな返答がやってくる。
「ちがうわ。生存競争に負けたのよ。世の中の大抵の娯楽は、ダイヴマシンに駆逐されたのよ」
「セックスもか?」
「したいの? 別にいいわよ。ただ、穴だけは開けさせないわ」
イングウェイは彼女の柔らかな体を優しく押しのけると、ベッドの上で座り込んだ。
頭をふるが、思考の靄は消える気配はない。
「俺は、どうした? 死んだんじゃなかったのか」
「あなたは転生したのよ。転生術、聞いたことは? オクローヌの魔導書は読んだ? 生命波動を利用した魔術の使用経験は? あなたの世界の魔術構築法がわからないけれど、話してくれたら、理解できるかも。私も魔術には自信があるの」
「うるさい、一気に喋らないでくれ。頭が割れそうなんだ」
「あ、……ごめんなさい、私、夢中で」
「話してみろ、この世界のことを。いや、まずは水だな。喉が渇いて仕方ない。水くらいはあるんだろ?」
泣きそうになっていたドロシーの顔が、少しだけ明るくなった。
この男は希望だ。だが、希望を生み出すための単なる苗床ではない。はっきりとした意志があるのだ。
そのことがわかり、安心した。
「ありがとう。素敵ね、あなた」
「別に、なんてことはないさ。昔から厄介ごとを持ってこられるのには慣れてるんでね」
男をベッドに投げるように横たわらせ、その上に跨った。
まるで吸血鬼が噛みつくかのように、男のうなじをあさっていく。
ない。
ない。
ない。
”穴”は、存在しない。
あるのはただの肉だ、金属ではない。
ドロシーは喜びに叫びたくなるのを押さえ、彼に優しく呪文を振りかけていく。
金粉の粉が舞い、彼の頬に薄く積もる。
彼女の開発した『金の鱗粉』は、体力やケガではなく、精神を癒す術だ。
空虚なる精神に水を注ぎ、斧の突き立てられた大樹の幹にコーキング材を流し込むのだ。
ドロシーは先ほどまでと打って変わり、優しく彼を癒した。細心の注意を払い、優しく。
男のまどろみはゆっくりと薄れていき、やがて目を覚ます。
彼の目に最初に入ってきたのは、自身に馬乗りになる妖艶な美女。肉感的なふくらみは重力に抗う気はないようで、彼の胸にずしりとした感触を与えていた。
君は誰だ、と彼は聞きたかった。が、思考の中で単語がつながることはなかった。
彼が自分を取り戻すまでには、まだいくばくかの時間が必要だった。
それでも、
沈黙のあと、たっぷりと見つめあったあとで、彼は目の前の女の名前を発した。
「ど、ろ、しぃ」
ドロシーは、優しく微笑んだ。
「いらっしゃい、イングウェイ。ようこそ、このクソったれな地へ」
イングウェイがドロシーの名を知っていたのは、記憶の混濁のせいだった。
ドロシーが彼の記憶を、脳内を覗き見たときに、彼の脳内に彼女の記憶も移ったからだ。
かといって、イングウェイが彼女の苦しみを、この世界の成り立ちや社会の仕組みをそれだけで知れるほど、交錯は長くはなかった。
「きみは、 だれ、だ」
息も絶え絶えの老人のような声で、イングウェイは尋ねた。
ドロシーは言う。
「魔術師よ、あなたと同じ」
ドロシーとイングウェイの故郷はまるで別の世界だったが、魔術があるという一点において、共通していた。
彼は彼女に強い共感を抱いたし、彼女は彼を必要としていた。
何から話すか――当然ドロシーは決めていた。何度も何度も頭の中で繰り返した手順だ。
「よく聞いて。”穴”は開けてはいけない。ダイヴシステムは、あなたの力を失わせる」
ジャックとは。ダイヴとは。それらの説明なく、ドロシーは述べた。それが一番大切なところだからだ。
「現実を見据えなさい。あなたは、この世界の異物なの」
「……酒を、くれ」
イングウェイは言った。
鉛のように重たい体は、いまだ見知らぬ女に組み伏せられたままだった。
渇き。そうだ、まずは喉を湿らせる。それからだ。
カラカラに干からびた喉、埃っぽい空気はイングウェイを咳きこませる。
女は唾がかかるのを気にもしていないようで、じっとイングウェイの瞳から目を離さなかった。瞬きの一瞬すら惜しいと言わんばかりに、瞳の奥にある脳髄を透かしてみようとするように。
ドロシーは、冷たく言い放った。
「この世界に、酒は存在しないわ」
その言葉は理解に時間がかかる。比喩か? 何の比喩だ。聞き間違いか、それとも彼女の勘違いか。
そして彼女はもう一度、言い直した。
「いい? 私は、ここ数年、酒を飲んでいない。酒がないから、飲むことができない」
「誰が飲み干したんだ?」
ようやくイングウェイから、まともな返答がやってくる。
「ちがうわ。生存競争に負けたのよ。世の中の大抵の娯楽は、ダイヴマシンに駆逐されたのよ」
「セックスもか?」
「したいの? 別にいいわよ。ただ、穴だけは開けさせないわ」
イングウェイは彼女の柔らかな体を優しく押しのけると、ベッドの上で座り込んだ。
頭をふるが、思考の靄は消える気配はない。
「俺は、どうした? 死んだんじゃなかったのか」
「あなたは転生したのよ。転生術、聞いたことは? オクローヌの魔導書は読んだ? 生命波動を利用した魔術の使用経験は? あなたの世界の魔術構築法がわからないけれど、話してくれたら、理解できるかも。私も魔術には自信があるの」
「うるさい、一気に喋らないでくれ。頭が割れそうなんだ」
「あ、……ごめんなさい、私、夢中で」
「話してみろ、この世界のことを。いや、まずは水だな。喉が渇いて仕方ない。水くらいはあるんだろ?」
泣きそうになっていたドロシーの顔が、少しだけ明るくなった。
この男は希望だ。だが、希望を生み出すための単なる苗床ではない。はっきりとした意志があるのだ。
そのことがわかり、安心した。
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