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鰐と涙
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部屋に静寂が戻ったとき、時計の砂が全て落ちきっていた。香織は僕から目をそらして窓辺を見た。僕たちは服を脱ぎ散らかしたまま、温泉宿の畳の上で絡み合っていた。彼女が砂時計をひっくり返した瞬間から始まり、一時間で砂が全て落ちるまで続いた。終わった今、彼女の息がまだ少し荒く、僕の体は汗でじっとりと湿っている。
彼女が言うには、あの窓辺の砂時計は亡くなった祖母の形見だ。祖母は田舎町の裁縫師で、布を一針一針縫うたびに時間を計っていた。砂時計は仕事机に置かれていたものだ。祖母は時間を大切にしていた人で、それを香織にも伝えたかった。窓から差し込む春の光が彼女の汗ばんだ肌を照らす。窓辺には、昨日彼女が買った木彫りの鰐の置物が置かれ、砂時計を見つめていた。まるで時間の番をしているように。
二人の最後の思い出として、この温泉街に来た。香織が「温泉って癒されるよね。一緒に行こう」って笑いながら提案してきたとき、
「いいね」と僕は答えた。
彼女が来月からパリでファッションデザイナーとして旅立つと聞いて、少し胸がざわついたけど、ポケットの中で萌絵から届いた「春は輸出が忙しくて残業だよ」のメッセージを見ると、妙に現実に戻った。
車内で香織が「春のパリって素敵だろうね」って話すのを聞きながら、僕は萌絵がオフィスで書類と格闘してる姿を思い浮かべていた。外の花粉に気づいたのはその時で、目が痒くなり始めた。
道すがら、宿の近くの土産物屋に立ち寄ったのが昨日のことだ。香織が棚の隅にあった木彫りの鰐の置物を手に取って、「これ、かっこいいね!デザイン的に面白いよ」って目を輝かせた。
僕が「鰐って強そうだよな」って鼻をすすりながら言うと、
彼女は「でも、どこか寂しそうじゃない?」って呟いた。目が痒くてよく見えなかったけど、確かに悲しげだった気がする。彼女が「ワニの涙って偽物なんだって。知ってた?」と笑うと、僕はくしゃみで誤魔化した。香織がそれを気に入って買い、今、窓辺に置かれている。
香織が窓辺を見たまま、「時間って、こうやって少しずつ進むんだね」と言う。彼女が砂時計をひっくり返し、砂が落ち始めて、一時間後に止まる。「おばあちゃんがくれたから、旅立つ前に潤と一緒にこれを見たかったの。おばあちゃん、裁縫しながら時間が一度しか流れなくて戻らないから大事に使えってよく言ってた。一時間で砂が落ちて、やりたいことを後回しにしないようにって」と彼女が呟く。彼女の目は、少し遠くを見てるようだった。
さっきの一時間は、彼女にとって僕との最後の時間を測るためだったんだ。
祖母が針に込めた時間への思いを、香織はデザインに変えて、パリで夢を追いかける。
僕は目をこすりながら彼女の横顔を見つめた。花粉のせいで目が痒くて涙が溢れてくる。鰐が砂時計を見つめている。
ワニの偽りの涙——crocodile tears——か。僕も似たようなものだ。香織に「好きだよ」って言えばいいんだろうけど、萌絵と仕事終わりにコンビニ弁当を食べる気楽さが頭をよぎる。彼女がパリに行けば、萌絵と残業後に会う時間が増える。
香織が立ち上がり、砂時計をひっくり返して、「ちょっと外の空気吸ってくるね。春の風ってインスピレーションになるんだ」と言った。
彼女が部屋を出ていくと、僕は鼻をかみながら鰐を見つめた。
目が潤んで、涙が頬を伝う。花粉のせいだ。でも、香織が去っても悲しくない自分に気づいて笑えてきた。萌絵が「残業終わりに会おう」って言ってたし、彼女が旅立てば気楽になる。涙を拭って、萌絵に「花粉やばいよ」と愚痴を送った。偽物の涙って、こんな感じか。花粉症のせいで泣いてるだけなのに、まるで彼女を惜しんでるみたいだ。
香織は一時間を一針一針のように大事に生きているのに、僕はこんな気分でいいのかな、なんて一瞬思ったけど、すぐ忘れた。
夜、温泉から戻った僕たちはまた砂時計の前に座った。香織が窓辺をちらりと見て、「時間ってあっという間だね。一時間でもすぐ終わる。パリでも砂時計持っていこうかな」と呟く。
目が痒くて仕方ないけど、僕は鼻をすすりながら言った。「香織、僕、ずっと言えなかったけど……好きだよ。パリに行っても、待ってるから」嘘だ。萌絵と週末会う約束をしている。
彼女は一瞬驚いて、「ありがとう。でも、花粉大変だね」と笑った。砂時計の砂は既に落ちきっていて、静かにそこにあった。彼女の目は、僕の偽りを少し見抜いてたかもしれない。
翌朝、僕たちは鰐の置物を手に笑い合いながら宿を後にした。花粉で目が腫れてる僕を見て、香織が「大変だったね」って笑った。彼女が置物を手に「パリに持っていくよ」と言うのを聞きながら、僕は萌絵との残業後の時間を心待ちにしてた。
偽りの涙は、花粉と一緒に春の風に消えた。砂時計は、窓辺で鰐に見守られながら、彼女の新たな一時間を刻むのだろう。祖母の教えを胸に、彼女は一針一針のつもりで前を向いてる。
彼女が言うには、あの窓辺の砂時計は亡くなった祖母の形見だ。祖母は田舎町の裁縫師で、布を一針一針縫うたびに時間を計っていた。砂時計は仕事机に置かれていたものだ。祖母は時間を大切にしていた人で、それを香織にも伝えたかった。窓から差し込む春の光が彼女の汗ばんだ肌を照らす。窓辺には、昨日彼女が買った木彫りの鰐の置物が置かれ、砂時計を見つめていた。まるで時間の番をしているように。
二人の最後の思い出として、この温泉街に来た。香織が「温泉って癒されるよね。一緒に行こう」って笑いながら提案してきたとき、
「いいね」と僕は答えた。
彼女が来月からパリでファッションデザイナーとして旅立つと聞いて、少し胸がざわついたけど、ポケットの中で萌絵から届いた「春は輸出が忙しくて残業だよ」のメッセージを見ると、妙に現実に戻った。
車内で香織が「春のパリって素敵だろうね」って話すのを聞きながら、僕は萌絵がオフィスで書類と格闘してる姿を思い浮かべていた。外の花粉に気づいたのはその時で、目が痒くなり始めた。
道すがら、宿の近くの土産物屋に立ち寄ったのが昨日のことだ。香織が棚の隅にあった木彫りの鰐の置物を手に取って、「これ、かっこいいね!デザイン的に面白いよ」って目を輝かせた。
僕が「鰐って強そうだよな」って鼻をすすりながら言うと、
彼女は「でも、どこか寂しそうじゃない?」って呟いた。目が痒くてよく見えなかったけど、確かに悲しげだった気がする。彼女が「ワニの涙って偽物なんだって。知ってた?」と笑うと、僕はくしゃみで誤魔化した。香織がそれを気に入って買い、今、窓辺に置かれている。
香織が窓辺を見たまま、「時間って、こうやって少しずつ進むんだね」と言う。彼女が砂時計をひっくり返し、砂が落ち始めて、一時間後に止まる。「おばあちゃんがくれたから、旅立つ前に潤と一緒にこれを見たかったの。おばあちゃん、裁縫しながら時間が一度しか流れなくて戻らないから大事に使えってよく言ってた。一時間で砂が落ちて、やりたいことを後回しにしないようにって」と彼女が呟く。彼女の目は、少し遠くを見てるようだった。
さっきの一時間は、彼女にとって僕との最後の時間を測るためだったんだ。
祖母が針に込めた時間への思いを、香織はデザインに変えて、パリで夢を追いかける。
僕は目をこすりながら彼女の横顔を見つめた。花粉のせいで目が痒くて涙が溢れてくる。鰐が砂時計を見つめている。
ワニの偽りの涙——crocodile tears——か。僕も似たようなものだ。香織に「好きだよ」って言えばいいんだろうけど、萌絵と仕事終わりにコンビニ弁当を食べる気楽さが頭をよぎる。彼女がパリに行けば、萌絵と残業後に会う時間が増える。
香織が立ち上がり、砂時計をひっくり返して、「ちょっと外の空気吸ってくるね。春の風ってインスピレーションになるんだ」と言った。
彼女が部屋を出ていくと、僕は鼻をかみながら鰐を見つめた。
目が潤んで、涙が頬を伝う。花粉のせいだ。でも、香織が去っても悲しくない自分に気づいて笑えてきた。萌絵が「残業終わりに会おう」って言ってたし、彼女が旅立てば気楽になる。涙を拭って、萌絵に「花粉やばいよ」と愚痴を送った。偽物の涙って、こんな感じか。花粉症のせいで泣いてるだけなのに、まるで彼女を惜しんでるみたいだ。
香織は一時間を一針一針のように大事に生きているのに、僕はこんな気分でいいのかな、なんて一瞬思ったけど、すぐ忘れた。
夜、温泉から戻った僕たちはまた砂時計の前に座った。香織が窓辺をちらりと見て、「時間ってあっという間だね。一時間でもすぐ終わる。パリでも砂時計持っていこうかな」と呟く。
目が痒くて仕方ないけど、僕は鼻をすすりながら言った。「香織、僕、ずっと言えなかったけど……好きだよ。パリに行っても、待ってるから」嘘だ。萌絵と週末会う約束をしている。
彼女は一瞬驚いて、「ありがとう。でも、花粉大変だね」と笑った。砂時計の砂は既に落ちきっていて、静かにそこにあった。彼女の目は、僕の偽りを少し見抜いてたかもしれない。
翌朝、僕たちは鰐の置物を手に笑い合いながら宿を後にした。花粉で目が腫れてる僕を見て、香織が「大変だったね」って笑った。彼女が置物を手に「パリに持っていくよ」と言うのを聞きながら、僕は萌絵との残業後の時間を心待ちにしてた。
偽りの涙は、花粉と一緒に春の風に消えた。砂時計は、窓辺で鰐に見守られながら、彼女の新たな一時間を刻むのだろう。祖母の教えを胸に、彼女は一針一針のつもりで前を向いてる。
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